書評|コロナ禍のレンズでみる生物兵器の最前線|”Biological War: A Scenario” by Annie Jacobsen

COVID-19を経験した読者にとって、生物戦は抽象的な軍事上の脅威ではありません。感染症の流行によって人の移動が制限され、職場の運営が変わり、供給網が滞り、社会の分断が深まる過程を、すでに現実として経験したからです。Annie Jacobsenの『Biological War: A Scenario』が描く混乱も、日常生活の延長として具体的に想像できます。

核攻撃なら、爆発によって攻撃の開始が明らかになります。生物攻撃には、そのような目に見える合図がありません。微小で発見しにくい病原体は、放出されたことに気づかれないまま感染を広げる可能性があります。何が起きているのか分からない状態が長く続くほど、感染への恐怖も強まります。

COVID-19の流行が収まった後も、科学者や公衆衛生当局への不信は残っています。十分な情報がなく、専門家を信頼できない人が多ければ、社会として対策を進めにくくなります。こうした経験があるため、本書で描かれる生物戦は、Jacobsenの前作『Nuclear War: A Scenario』で扱った核戦争よりも身近で恐ろしく感じられます。ただし、私が本書で価値を感じたのは、仮想シナリオが描く恐怖よりも、現実の研究を扱った部分でした。

仮想シナリオは新鮮味に欠ける

本書が仮想シナリオを採ったのは、調査資料の不足を補うためではありません。著者は、未来に起こり得る事態を読者に疑似体験させるため、国防総省のウォーゲームや公衆衛生当局のパンデミック計画に基づく形式を選びました。生物兵器の歴史や専門家への取材内容を6日間の物語に織り込み、読者は感染の拡大、行政の対応、社会の崩壊を時間順にたどります。

ただし、この形式が読み物として成功しているとは思いません。仮想の病原体は、致死率と感染力が高く、治療も難しいと設定されています。封じ込めにも行政の対応にも失敗し、被害を抑えられる可能性はほとんど示されません。失敗以外の可能性がほとんど描かれないため、恐怖は強まっても現実味は薄れます。

感染の拡大に続いて行政や社会が機能しなくなる過程を、読者に疑似体験させようとした意図は明確です。それでも、『ホット・ゾーン』をすでに読んだ人には、先の展開を想像しやすい場面が多く、新鮮味がありません。仮想シナリオよりも、その合間に紹介される生物兵器の歴史、政府の計画、研究施設に興味を引かれました。私には、仮想シナリオが蛇足に感じられました。

本書の価値は各国の研究と生物兵器史にある

本書で最も読み応えがあるのは、ソ連の生物兵器計画、米国政府の対応、現代生物学、各国の研究施設を扱うノンフィクション部分です。仮想の災厄を追うことよりも、実在した開発計画や、政府が検討してきた対応策を知る方が、生物戦を現実の問題として考える材料になります。

本書は、ソ連による攻撃目的の兵器開発、亡命者の証言、米国の生物防衛政策、政府の計画、専門家への取材を通じて、生物兵器を規制しても開発や事故を防ぎきれない現状を説明しています。遺伝子工学が進み、危険な病原体を扱う施設が各国にある現在、国家による攻撃だけでなく、研究施設で起きる事故も無視できません。こうした歴史と現状について、さらに詳しく読みたかったという思いが残ります。

防御研究と攻撃目的の開発の境界は、目的の説明だけでは見極められない

著者が本書の仮想シナリオをロシアのVector研究所から始めたことには、歴史的な理由があります。ソ連は生物兵器禁止条約への加盟後も、大規模な攻撃目的の兵器開発計画を進めていました。米国務省も2024年、ロシアがソ連の計画を引き継ぎ、条約で禁じられた活動を終えていないと評価しています。ただし、これは公開情報が限られ、ロシア側が十分な情報を公開していないことに基づく米国政府の判断です。

危険性の高い病原体を扱う研究は、ロシアだけが行っているわけではありません。BSL-4は、重篤な感染症を起こす病原体を扱う作業に用いられる、最高度の封じ込め水準です。どの水準が必要かは、病原体と作業内容を踏まえたリスク評価で決まります。米国では国防総省、保健当局、大学などがBSL-4施設を運用し、感染症の予防法、診断法、治療法を研究しています。

安全対策を講じても、事故は起こります。米国では国防総省の施設が、生きた炭疽菌を不活化処理済みだと誤認し、2004年から2015年にかけて、194か所の研究所や委託先へ計575回にわたって発送していました。これはBSL-4施設の事故ではありませんが、攻撃用の兵器を開発していない施設でも、不活化処理や監督に不備があれば、危険な病原体を多数の施設へ発送してしまう事故が起こることを示しています。

日本にもBSL-4施設があります。国立健康危機管理研究機構に属する国立感染症研究所の村山庁舎は東京都武蔵村山市にあり、主にエボラ出血熱などの一類感染症を診断する施設です。長崎大学の施設は、2025年に特定一種病原体等所持施設として指定されました。ただし、大学の公式説明によれば、現時点では特定一種病原体等を所持しておらず、BSL-3以下の病原体を使った準備研究の段階です。本格稼働後には、治療薬やワクチンの研究と人材育成を行う計画です。BSL-4という施設区分だけでは、現在扱っている病原体や研究目的までは分かりません。したがって、BSL-4施設があるだけでは、攻撃目的の生物兵器を開発している証拠にはなりません。

生物兵器禁止条約は、生物兵器の開発、製造、取得、移転、備蓄、使用を禁じています。条約は、病原体や毒素の種類と数量が、予防、防御その他の平和目的で正当化できるかを基準にしています。研究者や国家が掲げる目的だけで適法性が決まるわけではありません。

防御研究で使う設備、病原体、技術、知識には、攻撃目的の開発と重なる部分があります。各国が研究の目的、規模、成果をどこまで公開するかによって、外部から確かめられる範囲も変わります。さらに、生物兵器禁止条約には正式な遵守検証制度や定例査察制度がなく、年次の信頼醸成措置が透明性を確保する主な手段です。防御研究と攻撃目的の開発を同一視することはできませんが、平和目的だという説明だけで両者を見分けることもできません。この問題はロシアに限らず、危険な病原体を研究する各国に共通します。

『ホット・ゾーン』の既読者ほど、仮想シナリオに既視感を覚える

本書の仮想シナリオで思い出したのが、Richard Prestonの『ホット・ゾーン: エボラ・ウイルス制圧に命を懸けた人々』です。どちらにも研究施設、防護装備、隔離、除染が登場し、病原体の拡散を止めるために一刻を争う展開が続きます。英国版を刊行するTorvaも、本書を『ホット・ゾーン』の読者向けの作品として紹介しています。

ただし、『ホット・ゾーン』が扱うのは実際に起きた感染事例です。Prestonは関係者への取材をもとに、感染と封じ込めの経緯をスリラーとして再構成しました。一方、Jacobsenは生物兵器の歴史や専門家への取材をもとに、実際には起きていない最悪の事態を組み立てています。

『ホット・ゾーン』が好きな人には読みやすいでしょう。ただし、同書をすでに読んだ人には、共通する舞台と展開が目につき、新鮮さを感じにくいでしょう。

読後に残るのは、研究目的を確かめられない現実である

防御研究と攻撃目的の開発には、設備や病原体、技術、知識の面で重なる部分があります。条約の基準があっても、外部から実際の目的を確かめるのは容易ではありません。

問うべきなのは、ロシアに危険な病原体を扱う研究施設があるかどうかだけではありません。日本を含む各国が、研究の目的や規模、成果をどこまで公開し、説明できるかです。これは特定の国だけの問題ではありません。

本書を読み終えて強く印象に残ったのは、仮想シナリオで描かれる最悪の事態ではなく、現実に行われている研究の目的を外部から確かめにくいという問題です。もっと詳しく読みたかったのは、最悪の展開を追う6日間の物語ではありません。各国の研究施設、生物兵器の歴史、実際に起きた事故、専門家への取材を扱うノンフィクション部分です。

参考リンク

  • https://www.penguinrandomhouse.com/books/783250/biological-war-by-annie-jacobsen/9798217046034/
  • https://www.pbs.org/wnet/amanpour-and-company/video/the-threat-that-could-end-modern-civilization-in-less-than-a-week-smwmri/
  • https://video.wfyi.org/video/annie-jacobsen-joins-geoff-bennett-on-settle-in-1785884586/
  • https://observer.co.uk/culture/books/article/could-the-world-survive-biological-war
  • https://www.newyorker.com/culture/the-weekend-essay/the-rise-of-the-scenario-a-trendy-way-of-forecasting-our-dystopian-future
  • https://disarmament.unoda.org/en/our-work/weapons-mass-destruction/biological-weapons/biological-weapons-convention
  • https://files.gao.gov/reports/GAO-26-107338/index.html
  • https://www.gao.gov/products/gao-18-422
  • https://2021-2025.state.gov/wp-content/uploads/2024/04/2024-Arms-Control-Treaty-Compliance-Report.pdf
  • https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000093493.html
  • https://www.ccpid.nagasaki-u.ac.jp/about/bsl-4_qa/
  • https://wp.penguin.co.uk/wp-content/uploads/2025/11/Torva-Catalogue-2025-2.pdf