書評|「みんな知っている」だけでは人は動けないのでは?|”When Everyone Knows That Everyone Knows . . .” by Steven Pinker

右側通行は、なぜ怖くないのか

アメリカでは車は右側を走ります。自分が右側通行の決まりを知っているだけでは、普通の速度は出せません。対向車の運転手はその決まりを知らずに正面から突っ込んでくるかもしれない、と考えるからです。相手も知っていると分かって初めて、速度が出せます。そして相手のほうも、こちらが知っていると分かって初めて速度が出せます。両方が知っているだけでは足りません。

「そんなことは、みんな知っている」と私たちは言います。英語の common knowledge も、普段はその意味で使われます。「このあたりでは警察に金を渡せば話が通るのは周知の事実だ」といった使い方です。公然の秘密や、集団の中の通念を指します。

"When Everyone Knows That Everyone Knows . . ." by Steven Pinker

哲学、ゲーム理論、経済学では、同じ語がまったく別の状態を指します。これをコモン・ナレッジ(共有知識)と呼びます。ハーバード大学心理学部教授のスティーブン・ピンカーが2025年に出した『When Everyone Knows That Everyone Knows . . . : Common Knowledge and the Mysteries of Money, Power, and Everyday Life』(Scribner)は、この共有知識だけを一冊かけて論じた本です。

なぜ、そこまで重ねる必要があるのでしょうか。

自分がそれを知っている。相手も知っている。相手が知っていると自分が知っている。これが際限なく続く状態です。

紙幣も同じ重ね方で支えられています。一枚の紙と品物を交換できるのは、他の人もその紙を受け取って同じ値打ちの品物を渡すと知っているからです。その人がそうするのは、さらに別の人が受け取ると知っているからです。紙幣の価値は、この見込みだけで成り立っています。ハイパーインフレが起きれば、その見込みは崩れます。

権威も同じです。政府は屋根という屋根に狙撃手を置くことも、部屋という部屋を四六時中見張ることもできません。誰が上司かは、共有知識として保たれています。自分が上司に従うのは、ほかの部下も従うと知っているからで、上司が命じることができるのは、部下が従うと知っているからです。だから、大勢が公然と集まって、互いに相手も反対だと見て取れば、その権威は消えることがあります。

ここで、心理学者のピンカーは疑問を持ちます。際限なく続くこの繰り返しを、人は数え上げられません。自分が知っていると相手が知っている、というところまでは追えます。その先を二つ三つ重ねると、もう追えなくなります。

ピンカーは、そこまで数え上げなくてよいと答えます。その場の全員に見える、目立つできごとが一つ起きれば足ります。二人が同じものを見ていて、相手が見ていることを互いに見て取れれば、その場で共有知識ができたのと同じことになります。これがピンカーの見立てです。目を合わせることがその代表です。相手を見ている自分の目を、その相手が見ている。それだけで、繰り返しを一つずつ確かめる手間が要らなくなります。

ピンカーはこの本を『裸の王様』から説き起こしています。行列を見ていた群衆は、王様が裸だと全員知っていました。見れば分かるのですから当然です。ただしそれは、各自が胸に納めたままの知識でした。服が見えない者は、自分の職にふさわしくないか、よほど愚かなのだとされていて、誰も口にしなかったからです。

子どもが「王様は裸だ」と叫んだとき、この子は、誰も知らないことを言ったのではありません。全員が知っていることを、全員に聞こえるように口に出しただけです。その瞬間、全員が知っていると全員が知りました。そして群衆は、王様をあざけり始めます。知られたことは、何も増えていません。

共有知識は、こうして人を動かします。ただし動かせる範囲は、思ったより手前で止まります。

だから人は、わざと分からせないように話す

はっきり言葉にすれば、共有知識ができます。内容が相手に伝わるだけでなく、伝わったことが互いに分かってしまいます。ところが、そうなっては困る場面があります。だから人は、遠回しに言います。ピンカーがこの主題を扱うようになったのも、言葉の研究者として、遠回しな言い方に疑問を持ったからでした。

社内の調整で「それは難しいですね」と言う。取引先に「前向きに検討します」と返す。上司に思うところを直接は言わない。いずれも、内容を伝えないためではありません。内容は伝わっています。相手も大人ですから、「難しい」が断りであり、「前向きに検討します」もたいていは断りだと知っています。伝わらないようにするためではなく、伝わったことにしないために、そう言います。

なぜ、伝わったことにしないのでしょうか。ピンカーは、人と人の関係そのものが共有知識で成り立っているからだと説明します。友人であるとは、双方が友人だと思っていて、相手もそう思っていると互いに知っている状態です。だから、友達になろう、と口に出して確かめ合うことはしません。子どもはしますが、大人はしません。条件を言葉で交渉した途端、それは友情とは別の関係になるからです。恋人も同じで、交際の初めに取り決めを詰めれば、恋愛らしさは消えます。

『Gourmet』誌が食のライターに出した課題があります。マンハッタンで最も予約の取りにくい店を何軒か、土曜の夜に飛び込みで回り、給仕長に50ドル札を渡して席が取れるか試して、その顛末を書け、というものでした。

ライターは、店に向かうタクシーの中で、憤慨した給仕長にどう言い返されるかを何度も想像した、と記事の冒頭に書いています。賄賂の罪で連行されるわけではありません。それでも、断られたときの気まずさは相当なものです。給仕長はその場では権威のある側で、客席をどう割り振るかは給仕長の裁量です。金で動く人間として扱えば、相手を低く見たことになります。

ライターは、こう振る舞いました。50ドル札は手に持ったまま、一度も目をやりません。給仕長と目を合わせて、キャンセルは出ていませんか、待ち時間を短くする方法はありませんか、今夜は自分にとって大事な夜なんです、と言いました。金と席を交換したいとは、一度も口にしませんでした。結果は、毎回成功でした。

断られたとしても、この言い方なら関係は壊れません。給仕長のほうは、あの客は、こちらが意図を分かっていないと思っているのかもしれない、と考えることができます。客のほうも、給仕長は、こちらが鈍くて断られたことに気づいていないと思っているのかもしれない、と考えることができます。意図そのものは双方に伝わっています。伝わっていないことにできる余地だけが残されていて、それで足ります。

同じ話し方が、大統領の弾劾裁判の争点になったこともあります。トランプ大統領の1回目の弾劾です。トランプはウクライナのゼレンスキー大統領に、バイデン親子に不利な材料を掘り起こすよう求め、その一方でジャベリン・ミサイルの供与を保留する構えを見せました。問われたのは、これが見返りを条件にした取引だったかどうかです。トランプはそうだとは明言していませんでした。

明言を避けるのは、個人どうしの話に限りません。ピンカーは、誰も困らせないための建前と呼べる例を一つ挙げています。経済学者ロビン・ハンソンから借りた例です。

公園のベンチで、紙袋に入れた瓶から酒を飲む男がいます。袋に包んだところで、中身が酒だと誰にでも分かります。それでも警察は、この男を公共の場で酒を飲んでいる者として逮捕せずに済みます。条文どおりに取り締まれば警察国家のようになりますし、人手の無駄でもあります。かといって、公然と飲む者を見逃せば、法は守らなくてよいものになってしまいます。紙袋があるおかげで、法はなお生きていることになります。

同じ立場の人のことなら、分かる

誰も行きたくない夕食会に、全員が出席することがあります。あとで一人ずつに聞けば、みんな気が進まなかったと言います。それでも当日は全員が来ています。

これは多元的無知と呼ばれます。全員が反対なのに、全員が「賛成しているのは自分以外だ」と思い込んでいます。行きたくないという気持ちは全員が持っています。足りないのは、それを全員が持っていると全員が知っていることです。

同じことが、社会の規模でも起きます。体制が腐っていることも、まともに動いていないことも、一人ひとりは知っています。それでも誰も最初に立ち上がりません。先に声を上げれば、その人だけが狙い撃ちにされます。だからみな黙ったまま、不満を抱えているのは自分だけかもしれないと思っています。

これを変えるのが、公然としたできごとです。広場に人が集まれば、その全員が、ほかの全員も不満を持っていると見て取ります。そのうえ、自分がそう見て取ったことも、周りから見られています。

ピンカーは旧ソ連の小話を引いています。赤の広場でビラを配っていた男が逮捕され、連行先で当局がそれを調べると、どれも白紙でした。これは何のつもりだと問い詰められて、男はこう答えます。「書くことなどありますか。あまりに明らかでしょう」。

作り話のままでは終わりませんでした。プーチン政権の警察は、白紙のプラカードを掲げた人を実際に逮捕しています。紙が白くても、周りの人にはそれが何を指しているか分かります。そして、周囲に分かるということも、その場にいる全員に分かってしまいます。白紙のプラカードが取り締まりの対象になったのは、そのためだと思います。

では、SNSはどうでしょうか。ピンカーは、SNSでは共有知識はできないと答えます。届く内容が一人ひとり違うからです。アルゴリズムの選んだ投稿が並ぶ画面は、隣の人のものと同じではありません。全員が同じものを見ている場所ではないので、全員が見たと全員が分かる状態にはなりません。

ところがSNSは、共有知識を作っているように見えてしまいます。投稿は拡散し、短い時間で、どこまで広がったのか分からないほど遠くまで届きます。画面には「トレンド」が出ていて、いま何が読まれているかが示されます。大手の報道機関が投稿をそのまま記事にすることもあります。自分が見ているものを、ほかの大勢も見ています。その感触だけは残ります。

アメリカには、国民の多くが同じニュース番組を同じ時間に見ていた時期がありました。ピンカーは、そこで国じゅうに共有知識ができていたと述べています。今は、一方の陣営はある局を見て、もう一方の陣営は別の局を見ています。SNSの画面に至っては一人ずつ違います。共通の情報源がなくなったあとも、共有知識そのものが消えたわけではない、とピンカーは述べます。集団ごとに、別々のものができたという見方です。

この集団を、リベラルと保守に置き換えてみます。ピンカーによれば、同じ立場の人が集まった場所では、共有知識は何の苦もなく成り立ちます。何が正しいか、誰が敵か、ひとつずつ確かめる必要がありません。相手も同じように思っていると分かりますし、相手のほうも、こちらがそう察していると分かっています。だから、話を途中から始められます。

ピンカーは、それが失われた例を挙げています。ハーバードの学生です。食事は用意され、催しは絶えず、同年代の仲間に囲まれている。それでも学生たちは孤独だと言います。ピンカーの見方では、世界中どこでも人を結びつけるもの、つまりうわさ話や際どい冗談や政治的に正しくない皮肉を、彼らが口にできないからです。同級生の誰が匿名の通報窓口に報告するか分かりません。相手も同じように思っていると確かめられなくなれば、話を途中から始めることはできなくなります。

それでも、別の立場の人のことは分からない

最初に確かめた定義に戻ります。共有知識とは、全員が知っていることではなく、全員が知っていることを全員が知っていて、それが際限なく続いていることでした。では、同じ立場の人どうしで話が早く進むのは、そこまで達しているからでしょうか。

私は、手がかりが揃っているだけだと思います。何を読み、誰を支持し、どの話題で腹を立てるか。そこまで分かっている相手なら、口に出していないことまで見当がつきます。その見当を、相手の考えを知ったことと取り違えているのではないでしょうか。立場の違う相手には、その手がかりがありません。

ピンカー自身も、思い込みの危うさに触れています。知識の呪いと呼ばれるものです。自分が知っていることは、相手も知っていると思ってしまうことです。いったん知ってしまうと、知らない状態がどんなものかを想像しにくくなるからです。ピンカーは文章術の本でも、読みにくさの主な原因としてこれを挙げていました。専門家が読者を煙に巻こうとしているのではなく、どこまで説明すればよいか分からなくなっている、という見立てです。

ピンカーは、この分断を乗り越えられると考えています。分かれてしまった今の状態から共通の理解に戻れると思うか、と問われたときは、予測はできないと断りました。そのうえで、悲観するほどではないと答えています。そして、フィリップ・K・ディックの言葉を引きます。「現実とは、信じるのをやめても消えないもののことだ」。思い込みが現実と食い違っていれば、いずれ手ひどい目に遭います。だから、間違った思い込みはそのままでは済みません。そこに望みがある、という答えでした。

ピンカーは楽観的に過ぎるのではないでしょうか。人が何を思っているかは、なかなか分かりません。同じ立場の人のことが分かるのは、その人の思っていることを読めたからではなく、読まずに済んでいるからだと思います。読まずに済む相手としか分かり合えないのなら、それを分かり合えたと呼んでよいのか、迷います。

Science 誌に、Jeremy Goodman と Chaz Firestone による書評が載りました(2025年10月16日)。協調が成り立つのは共有知識があるからだ、という本書の柱になっている主張は立証されていない、という指摘です。私が腑に落ちなかったのも、同じ点でした。

以前、ピンカーの『21世紀の啓蒙』についても書評を書きました。ピンカーの楽観は、今回が初めてではありません。読み終えて残ったのは、「自分が誰のことなら分かっていて、誰のことは分かっていないのか」という問いでした。

参考リンク

  • https://catapultsuplex.com/entry/enlightenment-now/
  • https://www.science.org/doi/10.1126/science.aeb1081
  • https://www.youtube.com/watch?v=7KY4J1Tpw58
  • https://www.youtube.com/watch?v=a3Gk-xOJm_c
  • https://www.youtube.com/watch?v=t2Ltc0mCBws