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  • 映画『ドラマなふたり』|愛する人を疑い始めたら止まらない

    映画『ドラマなふたり』|愛する人を疑い始めたら止まらない

    2026年公開の『ドラマなふたり』(The Drama)は、結婚式を一週間後に控えた男女が、一つの告白をきっかけに疑心暗鬼へ陥っていくブラックコメディです。監督・脚本・編集は、『シック・オブ・マイセルフ』『ドリーム・シナリオ』のクリストファー・ボルグリ。主演はゼンデイヤとロバート・パティンソンです。

    エマは学校で銃乱射事件を起こそうとした過去を告白します。計画を立て、父親の銃を学校へ持ち込みました。しかし、結局は実行せず、誰も撃っていません。

    だから、私は観ながら思いました。実際には何もしていないじゃないか、と。

    ところが、婚約者のチャーリーも、一緒に話を聞いた親友夫婦も、まるで事件が本当に起きたかのようにエマを見るようになります。これまで愛していた相手が、告白を境に別人に見えてしまう。いちど疑い始めると、過去の言葉も現在の表情も、すべてが怪しくなっていきます。

    その反応は私には過剰に見えました。しかし同時に、学校銃撃を身近な脅威として受け止めてきた人にとっては、計画だけでも切実な恐怖なのだろうと思います。「結局は何もしなかった」という結果より、「そこまで考え、準備した」という事実のほうが重く感じられるのかもしれません。

    この受け止め方のずれが、『ドラマなふたり』を単なる破局コメディでは終わらせません。エマを気の毒に思うのか。チャーリーの動揺を理解するのか。観客自身も、映画の中の告白ゲームへ参加させられます。

    ネタバレについて

    この記事は、エマの告白、結婚式で起こる出来事、最終場面まで扱います。映画を未鑑賞の方はご注意ください。

    あらすじ|一つの告白が結婚式を壊していく

    ボストンのカフェで出会ったエマとチャーリーは、結婚式まであと一週間に迫っていました。二人は仕事にも恵まれ、美しい部屋で暮らし、婚約写真や披露宴のダンスを準備しています。誰が見ても幸福なカップルです。

    ある夜、二人は付添人を務める親友夫婦と食事をします。そこで始まったのが、「これまでにした最悪のこと」を順番に告白するゲームでした。最初は、少し恥ずかしい失敗を笑い合う程度の遊びです。しかし、エマが15歳の頃の秘密を話したことで、食卓の空気が変わります。

    孤独だったエマは、学校で銃を乱射する計画を立てていました。父親の銃を持ち出し、学校へ運んだものの、銃撃には及びませんでした。誰も傷つかず、その後のエマは当時の自分とは違う人生を歩んでいます。

    それでも親友の一人は、エマを許せないと激しく非難します。チャーリーは彼女をかばおうとしますが、頭から告白を追い出せません。現在のエマを見ながら、15歳の彼女が銃を構える姿を想像してしまう。愛する人の過去を知ったのではなく、知らない人と暮らしていたような恐怖に捕まります。

    問題は、結婚式の準備が止まらないことです。二人の関係は揺らいでいるのに、写真撮影もダンスの練習も予定どおり進みます。幸福ではない二人が、幸福な婚約者を演じなければならない。その無理が積み重なり、結婚式当日の修羅場へつながっていきます。

    テーマ|何もしていない人を、過去の意図だけで裁けるのか

    「何もしていない」は本当に通用しないのか

    エマは無関係な空想を話したわけではありません。学校へ銃を持ち込むところまで進んでいます。その事実は軽くありません。ただし、彼女は引き金を引かず、誰も傷つけませんでした。映画が難しいのは、準備した事実と、銃撃を実行せず誰も傷つけなかった事実を、どちらも消せないからです。

    私は結果を重く見ます。被害者がいない以上、現在のエマまで銃撃犯のように扱うのはおかしい。しかも彼女は、自分から秘密を打ち明けています。隠し通すこともできた過去を話した誠実さが、逆に彼女を追いつめます。エマにとっては、とんだ災難です。

    一方で、この設定にはコロンバイン高校銃乱射事件の被害者遺族から懸念が示されました。学校銃撃をブラックコメディの仕掛けとして使うことや、実行を思いとどまった人物を人気俳優が演じることへの懸念です。The Guardianの報道

    この受け止め方の違いを、どちらか一方だけが正しいという話にする必要はありません。日本で暮らす私にとって、学校での銃乱射はニュースの向こう側にある事件です。一方、実際の被害者や遺族、学校銃撃を身近な脅威として受け止めてきた人にとっては、過去の出来事で終わらない恐怖です。同じ「実行しなかった計画」でも、置かれた環境や経験によって重さが変わるのでしょう。

    『ドラマなふたり』は、その距離を説明してくれる映画ではありません。むしろ、観客の中にある距離を露出させます。私はエマに「何もしていない」と言いたくなる。別の観客は、銃を学校へ持ち込んだ時点で到底受け入れられないと感じる。映画を観終えた後に意見が割れることまで含めて、この作品の仕掛けです。

    疑いは真実を見つけるのではなく、現実を変えてしまう

    チャーリーは告白後、エマについて新しい事実を次々と発見するわけではありません。変わるのは、彼の見方です。

    以前なら愛おしく見えた表情に裏の顔を探し、沈黙には隠し事があると考える。幸福だった思い出にも、危険な少女の姿が入り込む。事実が増えていないのに、意味だけが悪い方向へ変わっていきます。

    この感覚は、とてもリアルです。恋人に限らず、友人や仕事仲間でも、一度「この人は信用できないかもしれない」と思うと、何気ない言葉まで疑わしく聞こえます。連絡が遅ければ避けられていると思い、短い返事には怒りを読み取る。相手が変わったのではなく、こちらの解釈が変わっています。

    さらに怖いのは、疑いが頭の中だけでは終わらないことです。チャーリーはエマを恐れ、対話を避け、職場の同僚へ逃げます。そして、自分が恐れていた破局を、自分の行動で現実に近づけてしまう。疑心暗鬼は真実を暴く能力ではありません。疑う人自身を変え、恐れていた結末を作る力です。

    すべてを知れば愛は深まるのか

    「これまでにした最悪のこと」を話すゲームは、互いをよく知るための遊びに見えます。しかし、知ることと理解することは同じではありません。

    チャーリーはエマの過去を知りますが、その瞬間から現在の彼女を理解できなくなります。一つの強烈な情報が、それまで一緒に過ごした時間より大きくなってしまう。人間を知るために得た情報が、人間を一つの過去へ縮めています。

    映画は、恋人のすべてを知りたいという願いの危うさを描きます。秘密がない関係は理想に見えます。しかし、秘密を一つ知っただけで相手の全体を理解したつもりになるなら、それは親密さではありません。相手を自分の判断しやすい物語へ押し込めているだけです。

    キャラクター造形|疑いが相手と自分を別人に変える

    ゼンデイヤが演じる、現在を見てもらえないエマ

    ゼンデイヤの演技で印象的なのは、エマが恐ろしい人物へ変わらないことです。告白後も、目の前にいるのは結婚式を控え、不安になり、傷ついている一人の女性です。それなのに周囲の視線だけが変わります。

    エマは自分の過去を弁護しようとしますが、うまく言葉にできません。強く否定すれば責任から逃げているように見え、黙れば何かを隠しているように見える。いったん疑われた人には、正解の反応がなくなります。ゼンデイヤは、その逃げ道のなさを、説明的な台詞よりも表情と沈黙で見せています。

    少女時代の自分と現在の自分は違う、といくら言っても、チャーリーの頭には銃を持った姿が浮かぶ。現在のエマが、過去の少女に押しのけられていく。その困惑が伝わるからこそ、私は彼女を気の毒に感じました。

    ロバート・パティンソンが演じる、信じたいのに疑ってしまうチャーリー

    チャーリーは、告白を聞いてすぐにエマを捨てる悪人ではありません。彼女をかばい、結婚式を続けようとします。それでも、身体は恐怖を隠せない。言葉では信じると言いながら、視線が泳ぎ、会話の間が伸び、エマへ触れる動きがぎこちなくなります。

    ロバート・パティンソンは、愛情と嫌悪、同情と恐怖という相反する感情が同時に揺れる状態を見事に演じています。チャーリーは正しい答えを探しているつもりですが、実際には、自分が安心できる答えを探している。その違いに本人だけが気づきません。

    冒頭の出会いにも、彼の性格は表れています。チャーリーは、エマが読んでいる本をスマートフォンで調べ、自分も好きな本であるかのように話しかけます。恋を始めるための、かわいらしい小さな嘘です。しかし、彼自身が相手に見せていた姿も完全な真実ではありません。

    エマの秘密だけが二人の関係へ突然入ってきたわけではない。二人は最初から、相手に好かれる自分を演じていました。エマの告白が極端だから、チャーリーの小さな嘘は見過ごされます。しかし、他人の過去へ完全な透明性を求める本人も、演出された自分から恋を始めています。

    親友夫婦は、観客の中にある二つの反応を代弁する

    親友夫婦の反応は、観客が感じる迷いを外へ出します。一人はエマを許せないと断罪し、もう一人は衝撃を受けながらも、その場を壊さないように振る舞います。

    断罪する側は、銃による被害を身近な問題として受け止めています。その怒りまで過剰反応として笑うことはできません。しかし、結婚式でのスピーチは、正義の表明から個人攻撃へ変わっていきます。エマの過去を批判することと、現在の彼女を皆の前で辱めることが混ざります。

    理由のある怒りも、相手を一人の人間として見ることをやめた瞬間、別の暴力になり得ます。親友の役割は、エマを裁くことだけではありません。観客が「自分ならどう反応するか」と考えたとき、その反応にも危うさがあると示すことです。

    主演二人を想定せずに生まれたカップル

    ボルグリ監督は、脚本を書いた時点でゼンデイヤとパティンソンを想定していませんでした。脚本が二人へ届き、双方が興味を示したことで出演が決まったと話しています。また二人は、撮影前の1〜2週間を一緒に過ごし、脚本について話し合い、劇中の結婚式に向けたダンスも練習しました。Trois Couleursの監督インタビュー

    この準備が効いているのは、幸福な場面です。映画は二人が壊れるまでを描きますが、最初から関係が冷えていたのでは意味がありません。本当に似合っている二人に見え、観客が結婚を応援できるからこそ、告白後の小さな距離が痛く見えます。

    映画技法|幸福な恋愛映画が疑心暗鬼へ染まっていく

    黄金色の思い出に、不吉な映像が入り込む

    映画の冒頭は、幸福な恋愛映画そのものです。カフェでの出会い、初めての会話、親密になっていく時間が、柔らかな光の中で描かれます。ボルグリ監督は、恋愛の始まりにある温かさ、高揚、興奮をまず観客へ感じてもらい、登場人物と同じ道を進ませたかったと説明しています。Trois Couleursの監督インタビュー

    そのため、告白後の変化は画面全体へ及びます。幸福な回想の中に、銃を持った少女の姿が入り込む。エマ本人の記憶なのか、チャーリーの想像なのか、映画は境界をはっきり示しません。

    この曖昧さは、疑心暗鬼の表現として効果的です。現在のエマと、映像として形作られた少女像を区別できなくなる感覚を、観客も共有します。一方で、少女時代のエマを映す場面が、チャーリーの恐怖として受け取れる表現に偏り、彼女自身の苦しみが十分に描かれないという弱点にもなっています。映画が見せる過去を、客観的な事実だと決めつけないほうがよいでしょう。

    完璧な結婚式が、壊れた関係を隠す

    本作は全編を実在の場所で撮影しています。二人の住まいには1800年代に建てられたボストンの建物が使われ、架空の出版社の本や展覧会の案内など、二人が一緒に暮らしてきた痕跡が置かれました。Livingetcの美術監督インタビュー

    部屋が魅力的であるほど、そこで築いた関係が本物に見えます。同時に、整った家具や美術品は、二人が「趣味の合う理想的なカップル」として作ってきた自己像でもあります。趣味が合い、美しい部屋で暮らしていても、相手の過去まで理解しているとは限りません。

    結婚式場も、古いニューイングランドの優雅さと現代的な装飾を組み合わせ、美しく整えられています。しかも会場は週末になると本物の結婚式に使われるため、撮影チームは装飾を毎週撤去し、月曜日に同じ状態へ作り直していました。Interior Designの美術監督インタビュー

    何度でも元どおりにできる会場と、元どおりにならない人間関係。この対比が皮肉です。花もテーブルも配置し直せますが、口にした秘密は戻せません。それでも二人は、完璧な式の中で幸福を演じ続けます。

    一枚のポラロイドが、知った後の見え方を変える

    二人の部屋に置かれた序盤のポラロイド写真には、エマの秘密をほのめかす身振りが写っています。美術監督のゾシア・マッケンジーが明かした仕掛けです。Livingetcの美術監督インタビュー

    初めて見たときは、恋人同士のふざけた写真にしか見えません。秘密を知ってから見ると、不吉な意味があるように感じます。写真そのものは変わっていないのに、観客の見方が変わる。これは、チャーリーがエマを見る過程と同じです。

    伏線として巧いだけではありません。本作の主題を一枚で表しています。意味は物の中に固定されているのではなく、見る側が持つ情報によって変わる。疑心暗鬼とは、何も変わっていない写真や人間の中に、恐ろしい意味を見つけてしまうことです。

    幸福を演じるほど、二人の距離が見えてくる

    ボルグリ監督は、気持ちが離れている人間に、カメラの前で幸福を演じさせる状況へ関心があると話しています。婚約写真の撮影は、その狙いが最もよく表れた場面です。

    二人は寄り添い、笑顔を作り、結婚を喜ぶ恋人としてポーズを取ります。写真だけを見れば、告白の前と何も変わらないでしょう。しかし映画は、ポーズを取るまでのためらい、触れた身体の硬さ、笑顔が消える瞬間も映します。

    結婚式のダンスも同じです。決められた動きを覚え、同じタイミングで身体を動かす必要があります。しかし、疑い始めた二人の呼吸は合いません。形式上は同じ方向へ進みながら、感情は別の場所へ向かっています。

    結婚式では、その無理が限界へ達します。スピーチによって隠していたことが表へ出て、整った式次第は崩れます。ところが、そこで二人はようやく同じ場所に立ちます。互いに秘密を抱え、互いに相手を傷つけた、不完全な人間同士として向き合うからです。

    まとめ|疑うことで恐れていた結末を自分で作る

    『ドラマなふたり』を観て、私はエマに同情しました。学校へ銃を持ち込んだ過去は軽くありません。それでも彼女は銃撃を実行せず、誰も傷つけていない。現在の彼女まで、起きなかった事件の犯人のように扱われるのは、やはりとんだ災難です。

    同時に、チャーリーの恐怖が理解できないわけでもありません。愛する人に、自分の想像を超える過去があった。しかも、その過去はアメリカ社会が繰り返し経験してきた学校銃撃と結びついている。簡単に気にするなとは言えません。

    だからこそ重要なのは、最初に何を感じたかではなく、その後にどう行動したかです。チャーリーは恐怖を抱いたあと、現在のエマと話し続ける代わりに、自分の想像の中のエマを見ます。疑いを消すために取った行動が、関係をさらに壊します。

    最終場面で、傷だらけになった二人は、思い出のダイナーで再会します。そこで繰り返されるのが、出会いのときの「最初からやり直してもいい?」という遊びです。

    これは、すべてを水に流す幸福な結末ではありません。過去は消えず、互いにしたことも戻せない。それでも、相手を過去の一場面だけで決めず、目の前にいる人をもう一度見ようとする。その小さな選択です。

    疑心暗鬼は、相手の正体を見抜くことではありません。相手を疑い続けるうちに、自分まで別人になってしまうことです。『ドラマなふたり』は、学校銃撃という極端な秘密を使いながら、日常の人間関係でも起こる疑いの連鎖を描いています。普通にあり得る感情だからこそ、笑って観ていたはずの修羅場が、最後にはかなり怖く感じられました。

    参考資料

  • 映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』|大人になったピーターが戻る原点

    映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』|大人になったピーターが戻る原点

    2026年公開の『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』(Spider-Man: Brand New Day)を観ました。トム・ホランドがピーター・パーカーを演じるシリーズとしては4作目にあたります。監督はデスティン・ダニエル・クレットン。日本では2026年7月31日に、米国と同日公開されました。前3作を監督したジョン・ワッツから監督が代わり、脚本にはクリス・マッケナとエリック・ソマーズが引き続き参加しています。

    観る前は不安がありました。前作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』があまりに良かったからです。あれで一区切りついた物語を、どう続けるのか。しかも今度は、誰もピーターのことを覚えていないところから始まります。仲間のいない物語になるのだろうと思っていました。

    その不安は杞憂でした。孤立したピーターが一人前のヒーローになっていく話かと思って観ていたら、描かれていたのは、彼がもう一度、人とのつながりを取り戻していく過程でした。シリーズが最初から描いてきた、仲間との関係に戻っていきます。

    クレットンは、この映画が始まる地点をこう説明しています。

    ピーターはニューヨークの真ん中で、何百万人もの人に囲まれている。それなのに、完全に切り離されて孤独を感じている。

    Screen Rant

    孤独から始まる映画ですが、孤独のまま終わる映画ではありませんでした。この記事では、ピーターが孤独から抜け出していく過程が、どのように描かれているのかを書きます。

    ネタバレについて

    以下では、ピーターが一人で街を守る前半から、彼が人に近づこうとする中盤までを扱います。終盤の展開と結末には触れません。セイディー・シンクが演じる人物の役どころも、公開前から伏せられていたため書きません。

    あらすじ|世界からピーターの記憶が消えて4年、誰も自分を知らない街で戦っている

    前作の終わりで、ドクター・ストレンジの魔術によって、世界中の人々からピーター・パーカーの記憶が消えました。本作は、その4年後から始まります。ピーターは自分を知る者のいないニューヨークで一人暮らしをし、スパイダーマンとして街を守ることに、ほとんどすべての時間を使っています。

    MJ(ゼンデイヤ)もネッド・リーズ(ジェイコブ・バタロン)も、彼を覚えていません。同じ街にいて、会おうと思えば会えるのに、ピーターのほうから近づこうとしません。守る相手はいても、話す相手はいない状態です。

    そこへ、一人で犯罪者を狩り続けているフランク・キャッスル/パニッシャー(ジョン・バーンサル)、政府側で実験に関わるメッツガー(トラメル・ティルマン)、ブルース・バナー/ハルク(マーク・ラファロ)が加わります。

    テーマ|孤独から始まり、人とのつながりを取り戻す

    最大の敵は、ピーター自身の内側にある

    この映画でいちばん手強い相手は、街に現れる敵ではありません。クレットンは、はっきりそう語っています。

    この映画の内なる敵は、ピーターの頭の中で起きているものでもある。自分は他者とつながる資格があるのかという、内側の葛藤だ。

    The AU Review

    つまりピーターは、記憶を消されたことで孤立しているだけではありません。自分には誰かとつながる資格があるのかと疑い、自ら人との距離を保ち続けてもいます。

    この設定によって、物語の中心はピーター自身の選択になります。記憶が消えたことだけが問題なら、解決策は魔術の側にあります。しかし、ピーター自身が人に近づこうとしないため、物語を動かすのは、彼がその距離を縮めようとするかどうかです。

    観ていて苦しいのは、誰かに拒まれる場面ではありません。近づくことができるのに、自ら距離を置く場面のほうです。相手は何も知らないまま日常を送っていて、彼だけがその外側に立っています。記憶を消したのはドクター・ストレンジですが、その後も距離を保っているのはピーター自身です。

    大人になることは、誰にも頼らないことではない

    ヒーローが大人になる物語では、一人ですべてを背負えるようになることが成長として描かれがちです。助けを借りずに立ち、痛みを黙って引き受ける。それができれば一人前、という筋書きです。私も本作をそういう映画だと思って観はじめました。

    ところが、本作は違いました。ピーターが一人で耐えている時間は、成長ではなく行き詰まりとして描かれます。強くなっても、彼の暮らしは前作の終わりから変わりません。増えていくのは、スパイダーマンとしての仕事だけです。

    彼が仕事を増やし続けるのは、責任感だけが理由ではないように見えました。仕事は逃げ場にもなっています。働いている限り、誰とも深く関わらずに済み、自分に人とつながる資格があるのかを考えずにいられるからです。

    私がこの映画から受け取ったのは、大人になることと、一人になることは違うということです。責任を引き受けるのは大人の仕事ですが、誰にも頼らないことが責任の取り方とは限りません。

    前作までのシリーズは、仲間との関係を軸にしてきました。4作目ではそこから離れるのかと思っていましたが、実際には逆でした。ピーターがもう一度、人とのつながりを取り戻していく映画でした。

    キャラクター造形|周囲の人物が、ピーターの別の可能性を映し出す

    クレットンは、この映画の人物配置を一つの原則で説明しています。

    この物語に出てくる人物は全員、ピーター・パーカーの旅を映し返す存在だ。彼が一方の道を進んだらどうなるかを、それぞれが見せている。

    我々の敵役は、誰でもありうる人物であり、ピーター・パーカーと彼の内側で起きている問題に鏡を突きつける存在だ。

    The AU Review

    クレットンは敵役を、単純な強さで考えていません。ピーターが別の道を選んでいたら、そうなっていたかもしれない人物として配置しています。都市全体を脅かすような事件ではなく、ピーター個人の問題に焦点を当てているのも、この考え方によるものです。

    ピーター・パーカー/スパイダーマン(トム・ホランド)

    物語のなかで最も大きく変化するのはピーターです。孤立を選び続けるのか、それとも人に近づこうとするのか。その選択によって物語が動きます。

    ホランドは、疲れ切ったピーターを自然に演じていました。以前より強くなっているのに、表情は晴れません。戦いの合間に一人になったときの沈黙や表情に、アクションの場面以上に彼の疲弊が表れていました。

    以前のシリーズのピーターには、失敗しても支えてくれる仲間がいました。本作の彼には、それがありません。同じように軽口を叩いても、返してくれる相手がいなければ、受ける印象は変わります。その違いを、ホランドは台詞だけでなく、沈黙や表情の余韻で見せていました。

    MJ(ゼンデイヤ)とネッド・リーズ(ジェイコブ・バタロン)

    二人はピーターを覚えていません。残酷なのは、二人には何の落ち度もなく、ただ彼を知らないだけだということです。

    二人自身には大きな変化がないため、かえってピーターがどれだけ変わったのかが分かります。近づくかどうかを決めるのは、常にピーターの側です。

    フランク・キャッスル/パニッシャー(ジョン・バーンサル)

    一人で戦い続けることを選んだ人物です。ピーターがこのまま孤立を続けた先に何があるのかを、目の前で示す役だと思いました。誰にも頼らずに生きてきた人間の疲れが、バーンサルの姿勢や歩き方に表れています。

    クレットンが語る「すべての人物がピーターを映し返す」という考え方が、最も分かりやすく表れているのがこの人物です。

    映画技法|アクションの多くを、CGに頼らず実写で撮っている

    ワイヤーや実物の特殊効果を使って撮影している

    アクションは、できるだけ実際に演じたものを撮影する方針で作られています。ウェブで移動する場面ではクレーンに吊ったワイヤーとハーネスを使い、爆発も実際に現場で起こしたものを撮影しています。

    そのため、動きには実際の身体の重さが感じられます。人が本当に振り回されているときの、体が慣性で遅れてついてくるような動きが残っています。

    批評家のジェームズ・プレストン・プールも、ウェブで移動する場面を「アドレナリンを一発打たれるようだ」と書き、CGに頼らずに演じたアクションと、格闘の振付を高く評価しています(DiscussingFilm)。

    内面の葛藤を扱う物語だからこそ、外側の戦いにこれだけ実感のある身体性を持たせたことが、私は効果的だったと思います。

    145分は長いが、物語の軸は最後までぶれない

    上映時間は145分あり、登場人物も多くいます。プールは、人物が多すぎて一人ひとりを描き切れておらず、ピーター自身の物語が脇へ追いやられていると書いています。

    私は、そこまで気になりませんでした。人物が増えても、ピーターが人に近づけるかどうかという軸は最後までぶれません。

    とはいえ、一人ひとりに割ける時間が減っているのは確かです。上映時間を絞れば、ピーターの内面にもっと深く寄れたはずだという指摘には納得できます。

    登場人物が全員ピーターを映し返すという構成は、人数が増えるほど成立させるのが難しくなります。一人ひとりがピーターの何を映しているのかが、分かりにくくなるからです。

    本作では、まだそれぞれの役割が分かりましたが、もし次作があるなら、登場人物はもう少し絞ってもよいと感じました。

    まとめ|仲間との関係という原点に戻った

    観る前の不安は、前作が良すぎたことから来ていました。あれだけの終わり方をした物語の続きが、前作に並ぶ作品になるのかどうか。

    観終わってみると、その不安とは別のところに、この映画の良さがありました。

    一人になったピーターが、さらに強くなっていく物語ではありませんでした。強くなっても、一人では行き詰まる。その状態から彼がどう抜け出すのかが、本作の中心です。

    その答えが、もう一度人とつながることだったのは、シリーズを追ってきた者としてうれしく感じました。

    大人になることと、一人になることは違う。当たり前のことですが、ヒーロー映画でこれを正面から描く作品は、それほど多くありません。

    4作目で新しい出発をしながら、仲間との関係というシリーズの原点へ戻ってきた作品でした。

    参考資料