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  • 映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』|嘘つきの夢を35mmフィルムで焼き付ける

    2025年公開の『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』(Marty Supreme)を観終わったとき、頭に残った感想は二つでした。

    ティモシー・シャラメの熱演がすごい。そして、サフディ兄弟らしいギラギラした演出がよかった。

    映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』

    ところが、この感想を記事にしようと調べ始めて、すぐに手が止まりました。本作は、サフディ兄弟の共同監督作ではありません。兄のジョシュ・サフディが単独で監督した長編で、単独作としては2008年の『The Pleasure of Being Robbed』以来、17年ぶりの2本目です。

    弟のベニー・サフディとは、2024年初頭に別々の道を歩むことが報じられました。ベニーも同じ2025年に、『スマッシング・マシーン』を単独で監督しています(Wikipedia)。

    それでも、私の目には本作が確かに「サフディ兄弟の映画」に見えました。

    だとすれば、私が感じた「サフディ兄弟らしさ」の正体は何だったのでしょうか。

    この記事では、シャラメの熱演と、ギラギラした演出という二つの第一印象を出発点に、その正体を作り手たちの発言から確かめていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の中盤、主人公が日本行きを目指すようになるあたりまでの展開に触れます。

    結末と、そこに至る終盤の展開には触れません。

    あらすじ|靴屋で働く23歳が、卓球で「何者か」になろうとする

    舞台は1952年のニューヨーク。

    23歳のマーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)は、いとこの靴屋で働きながら、卓球の世界チャンピオンになる夢を追っています(映画.com)。

    当時のアメリカでは、どれだけ卓球が強くても、それだけで生活することはできません。世界選手権への遠征費さえ自分で用意する必要があります。

    つまり、夢を追っても一円にもならないという条件が、物語の最初から示されているのです。

    マーティは、嘘と口八丁で金と味方をかき集め、世界選手権に乗り込みます。しかし、ロンドンで日本人選手のエンドウに敗北。この敗戦をきっかけに、日本で開催される大会でエンドウを倒すことが、新たな目標になります。

    ところが、引退した映画女優ケイ・ストーン(グウィネス・パルトロウ)との不倫や、卓球協会とのトラブルが重なり、マーティは選手資格も金も失いかけます。

    それでも彼は、日本への渡航費を集めるために奔走し続けます(日本公式サイト)。

    公式サイトのキャッチコピーは、次のようなものです。

    女たらしで嘘つきで自己中。だけど卓球の腕前だけはピカ一。

    その言葉どおり、本作は簡単には応援できない主人公を、149分にわたって追いかける映画です。

    テーマ|夢は孤独な者のためのもの

    世界一になっても、実際には何も起こらない

    監督のジョシュ・サフディは、Dazedのインタビューで、本作の核心をはっきりと言葉にしています。

    卓球世界一になっても、実際には何ももたらさない。自分が特別だと感じられる、偉大さの感覚だけだ。

    さらに、こうも語っています。

    夢は孤独な者のためのものだ。残りの人生をひとりで生きたいのか、と自問しなければならない。

    本作は、夢を追うスポーツ映画の形をしています。しかし、実際に描いているのは、夢が与えてくれる「自分は特別だ」という感覚と、そのために失われていく人間関係です。

    世界一になった先に、富や安定した生活があるわけではありません。残るのは、自分が特別な人間だと信じられる瞬間だけです。

    そのために何を犠牲にするのか。それでも夢を追うのか。

    これは、監督自身が作品の土台に据えた問いです。

    自分を売り込み、神話を作る

    サフディは、マーティが絶えずハッタリを重ねる理由を、戦後アメリカの生き方と結びつけて説明しています。

    夢のためには、自分を売り込まなければならない。人を味方につける一瞬一瞬が生死を分ける。

    さらに、マーティのように成功を目指す者は「神話を作らなければならない」とも語っています(前掲Dazed)。

    この「神話を作る」という言葉は、映画の成り立ちそのものにも重なります。

    本作の着想源は、実在の卓球選手マーティ・ライズマンが1974年に発表した回顧録『The Money Player』です。ただし、実際の出来事を忠実に再現した伝記映画ではなく、その人生に「緩やかに基づく」作品とされています(Wikipedia)。

    実在の選手を素材にしながら、事実そのものを再現するのではなく、一人の男の神話を作り上げる。

    映画の作り方自体が、マーティの自己神話化と重なっているのです。

    また、Aishのインタビューでサフディは、ユダヤ系であるマーティの過剰な野心の背景に、ホロコースト後のユダヤ系アメリカ人の意識を置いたと語っています。

    「あの水準の不安が、マーティの人生の岩盤にある」という言い方で、彼の焦りを個人の性格だけではなく、世代が抱えた経験から説明しているのです。

    日本の観客に向けられた、戦後の視線

    日本の観客として見逃せないのは、マーティが最終的に目指す場所が日本であることです。

    サフディは前掲のDazedで、アメリカ占領軍が日本国憲法の草案作成に関わった戦後の経緯に触れ、当時のアメリカの影響力を「より穏やかな形の植民地主義」と表現しています。

    マーティが日本人選手エンドウを追う物語の背後には、対等ではなかった戦後の日米関係が意識的に置かれているということです。

    1952年のアメリカ人が、日本を目指す。

    その物語を、2020年代の日本人が観る。

    この構図は、本作を日本で観るからこそ生まれる面白さだと思います。

    キャラクター造形|全員がマーティの夢を測る物差しになる

    マーティ・マウザー|後ろ盾のない個人主義

    サフディは、マーティについて次のように語っています。

    マーティには誰もいない。後ろ盾はレイチェルひとり。これは、アメリカ的個人主義の何と声高な表現だろう。

    (前掲Dazed)

    孤立こそが、この主人公の設計図です。

    ティモシー・シャラメを起用した理由も具体的です。サフディは、初めてシャラメが話す姿を見たとき、「彼はじっとしていられなかった」と語っています。

    役に合わせて俳優を変えるというより、シャラメ本人がもともと持っていた、落ち着きのない過剰なエネルギーを見込んだキャスティングでした。

    その熱演には、長い準備期間の裏づけもあります。

    シャラメは撮影の約6年前から、卓球コーチの指導を断続的に受けていました。「見栄えがよく、正確に見える水準まで引き上げてもらった」と、本人が語っています

    本作に批判的な批評でも、シャラメが卓球の習得に注いだ努力や、競技場面の説得力については評価されています。

    意見が分かれるのは、熱演しているかどうかではありません。その熱演によって描かれたマーティを、観客がどう受け止めるかです。

    ケイ・ストーン|「偉大さ」のその後を生きる人

    グウィネス・パルトロウが演じるケイ・ストーンは、引退した映画女優であり、マーティの不倫相手です(ABC News)。

    ケイは、かつて「偉大さ」の側にいた人物です。しかし、いまはその場所から降りています。

    自分が特別な存在であるという感覚を追い続けるマーティの隣に置かれると、彼女はマーティにありうる未来のひとつに見えます。

    夢の絶頂を過ぎた人間は、その後をどう生きるのか。

    ケイという人物は、その問いをマーティのすぐそばに置いています。

    レイチェル・ミズラー|唯一の味方という試金石

    オデッサ・アザイオンが演じるレイチェルは、サフディ自身が「後ろ盾はレイチェルひとり」と呼ぶ、マーティの唯一の支え手です。

    「夢は孤独な者のためのもの」という監督の言葉が本当かどうかは、結局、このたったひとりの味方との関係によって測られます。

    彼女は、本作の感情面を支える重要な人物です。その関係がどこへ向かうのかは結末に関わるため、ここでは触れません。

    一方、脇役の描き方については批判もあります。

    In Review Onlineは、初期のサフディ作品に見られた脇役への親密な視線が、本作では薄くなっていると指摘しています(In Review Online)。

    人物の厚みをマーティ一人に集中させた構成は、本作への評価が分かれる理由のひとつです。

    映画技法|「ギラギラ」の設計図

    撮影|顔の真ん前に居座るカメラ

    私が「ギラギラした演出」と感じたものの正体は、スタッフの発言からかなり具体的に確認できます。

    撮影監督は、『セブン』や『アンカット・ダイヤモンド』を手がけたダリウス・コンジです。

    コンジは、The Film Stageのインタビューで、「物語は顔によって語られる」と明言しています。

    そのために、遠くから被写体を大きく写す望遠レンズと、横長の画面を作る古いアナモフィックレンズを組み合わせ、「文字どおり顔の真ん前にいる」ような画面を作ったと語っています。

    卓球の試合さえ、コンジにとっては顔を描くための「乗り物」にすぎません。

    シャラメの熱演が強く印象に残るのは、映画そのものが、主演の顔にすべてを賭けているからです。

    フィルムの選択も徹底しています。

    Kodakの公式ブログによると、本作は全編をKODAK VISION3 500T 5219という35mmフィルムで撮影しています。

    さらに、現像時に感度を上げて粒子を強く見せる増感現像を行い、画面のざらつきを際立たせました。

    博物館から借り出したシネマスコープ用カメラや、360ミリの超望遠レンズまで使用したとされています。

    1950年代の古典的な画面と、現代的な過剰さが同居する。

    私が感じた「ギラつき」の映像面での正体は、この作り方にあります。

    音楽|1952年の物語に流れる1980年代の音

    本作では、1952年を舞台にした物語に、1980年代の音楽が意図的に重ねられています。

    サフディは、この時代錯誤を、マーティが時代の先を行っていたことの表現だと説明しています。

    さらに、映画全体が、60歳になったマーティの視点から語られる回想であるという仕掛けも明かしています(前掲Dazed)。

    コンジも、監督とともに「音楽と音響は1980年代的、あるいは現代的にし、撮影はヴィンテージにする」という対比を設計したと語っています(前掲The Film Stage)。

    画面は1950年代。音は、その数十年先。

    この時代のずれた組み合わせが、観客を落ち着かせない高揚感を生んでいます。

    音楽を手がけたのは、サフディ作品の常連であるダニエル・ロパティン、別名Oneohtrix Point Neverです。

    本作のギラつきは、画面だけではなく、音によっても作られていました。

    演出|偶発性が起きるように仕込む

    サフディは、「台本にないことが、いつでも起こりうる」状態を現場に作るため、キャスティングと撮影のタイミングに徹底的にこだわったと語っています(前掲Dazed)。

    コンジも、サフディについて「切迫感と執着が特別だ」と評し、納得できない場面を決して手放さない姿勢を証言しています(前掲The Film Stage)。

    画面のどこで何が起こるか分からない緊張感は、偶然生まれたものではありません。

    撮影、音楽、演出の三方向から意図的に組み立てられています。

    反対意見|同じ「ギラギラ」を欠点と見る読み

    私は本作の過剰さを美点として受け取りました。

    しかし、同じものを欠点と見る評価もあります。

    The Arts Fuseのスティーヴ・エリクソンは、本作を「没入体験ではあっても、自己陶酔的なアンチヒーローの分析にはなっていない」と批判しています(The Arts Fuse)。

    シャラメの魅力が、マーティの反社会的な行動を見やすいものにしてしまい、彼のナルシシズムを批評するのではなく、結果として肯定しているという読みです。

    同じ過剰さを、私は映画的な快楽として受け取り、エリクソンは倫理的な欠点として受け取ったことになります。

    どちらの評価に傾くかは、観客がマーティという人物と、どの程度の距離を保てるかにも左右されるのでしょう。

    まとめ|「サフディ兄弟らしさ」の正体

    冒頭の問いに戻ります。

    ジョシュ・サフディの単独監督作であるにもかかわらず、なぜ私は「サフディ兄弟らしい」と感じたのでしょうか。

    答えの少なくとも半分は、スタッフリストにありました。

    共同脚本と編集のロナルド・ブロンスタイン、音楽のダニエル・ロパティン、撮影のダリウス・コンジ、キャスティングのジェニファー・ヴェンディッティ。

    『アンカット・ダイヤモンド』の中核を担ったスタッフの多くが、本作にも参加しています(Wikipedia)。

    私が「兄弟らしさ」と呼んでいたもののかなりの部分は、実際には、この制作チームが生み出してきたものだったわけです。

    一方で、変化もあります。

    In Review Onlineは、初めて時代物に取り組み、大きな予算を使ったことで、カメラが従来よりも引き気味になり、初期作品にあった焦燥感は薄くなったと指摘しています(前掲In Review Online)。

    これまでの「らしさ」が、そのまま保存されているわけではありません。作品の規模が大きくなった代わりに、失われたものもあるという見方です。

    それでも、顔に密着するカメラ、時代錯誤の音楽、偶発性が起きるように設計された現場。その組み合わせは、私が「サフディ兄弟らしい」と呼びたくなるギラギラした感触を、確かに画面に残しています。

    その中心で燃えているのが、6年をかけて卓球を身につけたシャラメの、じっとしていられないエネルギーです。

    「サフディ兄弟らしい」という私の第一印象は、監督名だけを見れば不正確でした。

    しかし、あの過剰な映画を作ってきたチームの続投作という意味では、まったく外れていたわけでもありません。

    いまは、そう考えています。

    嘘つきの男が作った神話が、どこへたどり着くのか。

    ぜひご自身の目で、このギラつきに巻き込まれながら確かめてください。

    参考資料

  • 映画『スマッシング・マシーン』|最強の男が、負け方を覚えるまで

    正直に書きます。

    私はこの映画を、肉体では無敵のプロレスラーが、家族とともに病と闘う物語だと思っていました。予告編を観て、勝手にそう思い込んでいたのです。

    ところが、まったく違いました。

    2025年公開の『スマッシング・マシーン』(The Smashing Machine)が描くのは、マーク・ケアーという実在の総合格闘家です。格闘技ファンの間ではよく知られた人物だそうですが、私は格闘技をまったく知りません。ケアーの名前も、本作で初めて知りました。

    映画『スマッシング・マシーン』

    そこで、いつもの三つの切り口から観ることにしました。テーマ、キャラクター造形、映画技法です。

    この記事では、格闘技の知識がゼロの視点から本作を読み解きます。あわせて、「予備知識なしで観ても楽しめる映画なのか」という疑問にも答えます。

    先に結論を書くと、まったく問題ありません。むしろ本作は、格闘技を知らない観客も入っていけるように作られています。

    監督・脚本・編集はベニー・サフディ。『グッド・タイム』や『アンカット・ダイヤモンド』を兄ジョシュと共同監督してきた人物です。2024年に兄弟が別々の道を歩み始め、本作がベニーにとって初の単独長編監督作となりました(ジョシュ・サフディは2025年『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』を監督)。その作品で、ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)を受賞しています。

    製作はA24。日本では2026年5月15日に、ハピネットファントムの配給で公開されました(日本公式サイト)。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心まで扱います。

    結末だけでなく、エンドクレジット前のエピローグにも触れます。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|無敗の王者が、敗北を受け入れるまで

    物語は1997年に始まります。

    マーク・ケアー(ドウェイン・ジョンソン)は、アメリカの総合格闘技団体UFCで無敗を誇る王者です。やがて主戦場を、日本の総合格闘技イベントPRIDEへと移していきます。

    恋人のドーン(エミリー・ブラント)と暮らすケアーは、穏やかで物腰の柔らかい男です。

    しかし、戦い続ける身体は限界に近づいていました。ケアーは鎮痛剤への依存を深め、1999年、敗北を喫した翌朝に薬物の過剰摂取で倒れます(英語版Wikipedia)。

    リハビリ施設に入ったケアーは、復帰に向けて再起します。一方、ドーンとの関係は、支え合いと衝突の間で揺れ続けます。やがて二人は別れ、ドーンは自殺未遂に至ります。

    動揺を抱えたまま日本での試合に臨んだケアーは、惨敗します。

    そして2000年、PRIDEのグランプリ大会。優勝するのはケアーではなく、彼が励まし続けた盟友マーク・コールマンです。

    ケアーは敗者としてシャワー室に立ち、笑みを浮かべながら、その結果を受け入れます。

    エピローグには、現在のマーク・ケアー本人が登場します。映画で描かれた敗北の10日後、彼がドーンと結婚したことも字幕で明かされます。

    テーマ|勝利のカタルシスを、最初から捨てている

    敗北を受け入れる物語

    あらすじを読んで、気づいた方もいると思います。

    この映画には、スポーツ映画の定番である「最後の勝利」がありません。

    主人公は最後の大会で優勝しません。優勝するのは友人のほうです。主人公は負けたまま、それでも笑って物語を終えます。

    日本版のキャッチコピーは、「“最強の男”が敗北の果てに踏み出す魂の一歩」です(日本公式サイト)。

    宣伝の段階から、本作は勝つ物語ではなく、敗北を受け入れる物語だと告げていたことになります。

    サフディ監督は、観客に持ち帰ってほしいものを次のように語っています。

    人生は大丈夫だ、ということ。楽観でも共感でもいい。それを自分の毎日に持ち出してほしい。

    Forbes

    「病気との闘いに勝つ話」を予想していた私の思い込みは、二重に外れていました。

    ケアーが向き合うのは、私が想像したような病気ではなく、鎮痛剤への依存や、自分自身の弱さです。そしてこの映画は、そもそも「勝つこと」を最終的な目標にしていません。

    負けても人生は続く。その事実を受け入れることが、本作における勝利なのです。

    無敵の身体と、壊れやすい内面

    監督がケアーという人物に惹かれた理由は、はっきり語られています。

    あれほど傷つきやすく、物腰の柔らかい人間が、同時に、リングに入れば5秒で相手を破壊できるマシンでもある。

    Forbes

    この矛盾は、主演俳優にも重ねられています。

    サフディはジョンソンについて、一見すると無敵の大男に見えるが、内側はとても壊れやすい人物だと語っています(同記事)。

    「ザ・ロック」ことドウェイン・ジョンソンは、元プロレスラーの映画スターです。振り返ってみると、私が予告編から「無敵のプロレスラーの物語」を連想したのは、ケアーではなく、ジョンソンのイメージに引っ張られていたからでしょう。

    本作は、その思い込みごと崩していきます。

    最強に見える男の内側を開くこと。それはケアーの物語であると同時に、ドウェイン・ジョンソンという俳優のイメージを解体する試みでもありました。

    格闘技を知らない観客も想定されている

    私のような観客は、この映画にとって想定外ではないようです。

    サフディ監督は、試合場面の位置づけを次のように説明しています。

    リングの中の彼らを見る前に、人としての彼らに観客をつなげたかった。そうすれば、実際に試合を見るときに、まったく違う視点で見ることになる。

    ABCニュース

    つまり本作は、試合の再現よりも、試合の前後にある生活や感情を優先しています。

    格闘技の予備知識は、この映画を観るための条件ではありません。テーマとキャラクターと技法から観るという私の方法は、結果的に、監督が用意した入り口から作品に入っただけでした。

    キャラクター造形|負ける男、支える人、勝つ友人

    マーク・ケアー|5秒で人を破壊できる、優しい男

    本作のケアーは、強さではなく、優しさを芯に持つ人物として描かれています。

    米国の批評サイトMashableのレビューは、ケアーが子どもに自分の仕事を説明する場面における「優しい身体性」を、ジョンソンの演技の白眉として挙げています(Mashable)。

    巨大な身体を小さく折り畳むようにして、穏やかに語りかける男。その同じ身体が、リングに上がれば相手を打ち倒します。

    強さと優しさを一つの身体に共存させた人物造形が、「無敵の身体と壊れやすい内面」という本作のテーマを、そのまま背負っています。

    ドーン・ステイプルス|支えであり、傷つけ合う相手でもある

    エミリー・ブラントが演じるドーンは、ケアーの恋人です。

    二人の関係は、単純な「選手を支える家族」としては描かれません。

    互いに支え合いながら、同時に傷つけ合う。ドーンはケアーの依存と回復に深く関わりながら、彼女自身もまた追い詰められていきます。

    サフディはブラントの起用について、『オッペンハイマー』で仕事をした経験に加え、ジョンソンとの間にすでに友情があったことを理由に挙げています。この二人を演じるためには、「深い愛と友情」が必要だったと説明しています(Forbes)。

    一方、Mashableはドーンを「報われない役」と評し、人物像が類型的だと批判しています。

    ケアーの内面が丁寧に描かれる一方で、ドーンがなぜそこまで追い詰められたのかは、十分に掘り下げられていません。彼女が一人の人物というより、ケアーの不安定さを映す存在にとどまっているように見える点は、本作の弱さでしょう。

    マーク・コールマンとバス・ルッテン|敵であり、友でもある人たち

    本作で、恋人との関係と同じくらい印象に残るのが、格闘家同士の友情です。

    盟友マーク・コールマンは、ケアーのライバルであり、依存からの回復を促す友人でもあります。

    最後の大会で優勝するのはコールマンです。敗者となったケアーが、勝者となった友人を祝福する。その構図が、この映画の結論になっています。

    サフディ監督は、リングでは戦う者同士が、その外では深い友情を保っているという矛盾に惹かれたと語っています(Forbes)。

    配役にも、興味深い仕掛けがあります。

    ケアーを指導するコーチ、バス・ルッテンを演じているのは、バス・ルッテン本人です。当時実際にケアーを指導していた人物が、四半世紀後の映画で自分自身を演じています(DiscussingFilm)。

    映画技法|本物を混ぜて、信じさせる

    別人になるための顔と、その代償

    ジョンソンは本作で、特殊メイクによって別人の顔になっています。

    担当したのは、特殊メイクアップアーティストのカズ・ヒロ。23個の顔面パーツを、毎日4時間かけて装着したそうです(Screen Daily)。

    ジョンソン本人は、この変身を次のように振り返っています。

    キャリアを通じて「お前は絶対に別人には見えない」と言われてきた。今は、誰かの皮膚の中にいるということの意味が分かる。

    Screen Daily

    ただし、このメイクには批判もあります。

    Mashableは、メイクによって眉の上に影が生まれ、ジョンソンの目が隠れてしまうと指摘しました。繊細な感情表現を見せる映画でありながら、肝心の目が見えにくい場面がある、という批判です(Mashable)。

    変身の完成度と、感情表現を妨げる危険性。同じメイクが正反対の評価を受けているのは、この映画の性格をよく表しています。

    本作は、派手なスペクタクルではなく、男の顔に浮かぶ感情を見せようとする映画です。だからこそ、顔を変える特殊メイクの効果と限界が、大きな論点になります。

    対戦相手は、本物の格闘家

    試合場面の説得力は、配役によって支えられています。

    コールマン役は、元Bellator王者のライアン・ベイダー。対戦相手のイーゴリ・ボブチャンチン役は、ボクシングの統一世界ヘビー級王者オレクサンドル・ウシクです。日本からは石井慧も出演しています。

    サフディ監督は、この起用方針を次のように語っています。

    彼らは非俳優ではない。初めての俳優なだけだ。

    DiscussingFilm

    同じインタビューで監督は、試合と人間関係の両方を誠実に描くためには、本物の経験者が必要だったとも説明しています。

    格闘技を知らない私にも、リング上の身体の重さは画面から伝わってきました。

    俳優に格闘家らしい動きを覚えさせるのではなく、実際に戦ってきた身体を撮る。その選択が、観客に不足している予備知識を、映像そのもので補っています。

    記録映像のような画面

    本作は主に16mmフィルムで撮影され、一部に70mmとVHSの映像が混ぜられています(英語版Wikipedia)。

    原案となったのが2002年のHBOドキュメンタリーであることを考えると、粒子の粗い画面は、当時の記録映像の質感を引き継ぐための選択に見えます。

    この点について、監督本人による明確な説明は確認できませんでした。ここは私自身の解釈です。

    なお、編集もサフディ監督自身が担当しています。兄ジョシュとの共同制作で担っていた役割を、本作では一人で引き受けたことになります。

    まとめ|期待と違ったことが、この映画の証明だった

    冒頭の思い込みに戻ります。

    「無敵のプロレスラーが病気と闘う感動作」という私の予想は、外れました。

    実際に描かれていたのは、鎮痛剤への依存、壊れていく恋人との関係、そして敗北を受け入れようとする男の姿です。

    本作は批評面で高く評価されました。ヴェネチア国際映画祭では監督賞を受賞し、ジョンソンはキャリア初のゴールデングローブ賞ノミネートを果たしています。

    一方、興行では大きく苦戦しました。製作費5,000万ドルに対し、世界興行収入は2,110万ドル。公開週末の成績は、ジョンソン主演作として最低だったと報じられています(英語版Wikipedia)。

    興行不振の理由を、作品と観客の期待のずれだけで説明することはできません。

    ただし、「ザ・ロックの映画」から連想される派手な娯楽作と、実際の静かで内省的な作品との間に、距離があった可能性はあります。少なくとも、予告編からまったく違う映画を想像した私は、その距離を実感した観客の一人です。

    それでも、格闘技の予備知識がない私が置き去りにされることはありませんでした。

    本作には、敗北を受け入れるというテーマ、強さと優しさを同居させたキャラクター造形、本物の格闘家や記録映像の質感を取り入れた映画技法という、三つの入り口があります。

    監督自身が、リング上の選手を見せる前に、まず一人の人間として観客とつなげようとしているからです。

    最強の男が見せてくれるのは、勝ち方ではありません。

    負けても立ち上がり、人生を続ける方法です。

    予告編から抱いた思い込みを裏切られたことは、結果的に、この映画が狙いどおりに作られていることの証明でした。

    参考資料