映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』|嘘つきの夢を35mmフィルムで焼き付ける

2025年公開の『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』(Marty Supreme)を観終わったとき、頭に残った感想は二つでした。

ティモシー・シャラメの熱演がすごい。そして、サフディ兄弟らしいギラギラした演出がよかった。

映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』

ところが、この感想を記事にしようと調べ始めて、すぐに手が止まりました。本作は、サフディ兄弟の共同監督作ではありません。兄のジョシュ・サフディが単独で監督した長編で、単独作としては2008年の『The Pleasure of Being Robbed』以来、17年ぶりの2本目です。

弟のベニー・サフディとは、2024年初頭に別々の道を歩むことが報じられました。ベニーも同じ2025年に、『スマッシング・マシーン』を単独で監督しています(Wikipedia)。

それでも、私の目には本作が確かに「サフディ兄弟の映画」に見えました。

だとすれば、私が感じた「サフディ兄弟らしさ」の正体は何だったのでしょうか。

この記事では、シャラメの熱演と、ギラギラした演出という二つの第一印象を出発点に、その正体を作り手たちの発言から確かめていきます。

ネタバレについて

この記事では、物語の中盤、主人公が日本行きを目指すようになるあたりまでの展開に触れます。

結末と、そこに至る終盤の展開には触れません。

あらすじ|靴屋で働く23歳が、卓球で「何者か」になろうとする

舞台は1952年のニューヨーク。

23歳のマーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)は、いとこの靴屋で働きながら、卓球の世界チャンピオンになる夢を追っています(映画.com)。

当時のアメリカでは、どれだけ卓球が強くても、それだけで生活することはできません。世界選手権への遠征費さえ自分で用意する必要があります。

つまり、夢を追っても一円にもならないという条件が、物語の最初から示されているのです。

マーティは、嘘と口八丁で金と味方をかき集め、世界選手権に乗り込みます。しかし、ロンドンで日本人選手のエンドウに敗北。この敗戦をきっかけに、日本で開催される大会でエンドウを倒すことが、新たな目標になります。

ところが、引退した映画女優ケイ・ストーン(グウィネス・パルトロウ)との不倫や、卓球協会とのトラブルが重なり、マーティは選手資格も金も失いかけます。

それでも彼は、日本への渡航費を集めるために奔走し続けます(日本公式サイト)。

公式サイトのキャッチコピーは、次のようなものです。

女たらしで嘘つきで自己中。だけど卓球の腕前だけはピカ一。

その言葉どおり、本作は簡単には応援できない主人公を、149分にわたって追いかける映画です。

テーマ|夢は孤独な者のためのもの

世界一になっても、実際には何も起こらない

監督のジョシュ・サフディは、Dazedのインタビューで、本作の核心をはっきりと言葉にしています。

卓球世界一になっても、実際には何ももたらさない。自分が特別だと感じられる、偉大さの感覚だけだ。

さらに、こうも語っています。

夢は孤独な者のためのものだ。残りの人生をひとりで生きたいのか、と自問しなければならない。

本作は、夢を追うスポーツ映画の形をしています。しかし、実際に描いているのは、夢が与えてくれる「自分は特別だ」という感覚と、そのために失われていく人間関係です。

世界一になった先に、富や安定した生活があるわけではありません。残るのは、自分が特別な人間だと信じられる瞬間だけです。

そのために何を犠牲にするのか。それでも夢を追うのか。

これは、監督自身が作品の土台に据えた問いです。

自分を売り込み、神話を作る

サフディは、マーティが絶えずハッタリを重ねる理由を、戦後アメリカの生き方と結びつけて説明しています。

夢のためには、自分を売り込まなければならない。人を味方につける一瞬一瞬が生死を分ける。

さらに、マーティのように成功を目指す者は「神話を作らなければならない」とも語っています(前掲Dazed)。

この「神話を作る」という言葉は、映画の成り立ちそのものにも重なります。

本作の着想源は、実在の卓球選手マーティ・ライズマンが1974年に発表した回顧録『The Money Player』です。ただし、実際の出来事を忠実に再現した伝記映画ではなく、その人生に「緩やかに基づく」作品とされています(Wikipedia)。

実在の選手を素材にしながら、事実そのものを再現するのではなく、一人の男の神話を作り上げる。

映画の作り方自体が、マーティの自己神話化と重なっているのです。

また、Aishのインタビューでサフディは、ユダヤ系であるマーティの過剰な野心の背景に、ホロコースト後のユダヤ系アメリカ人の意識を置いたと語っています。

「あの水準の不安が、マーティの人生の岩盤にある」という言い方で、彼の焦りを個人の性格だけではなく、世代が抱えた経験から説明しているのです。

日本の観客に向けられた、戦後の視線

日本の観客として見逃せないのは、マーティが最終的に目指す場所が日本であることです。

サフディは前掲のDazedで、アメリカ占領軍が日本国憲法の草案作成に関わった戦後の経緯に触れ、当時のアメリカの影響力を「より穏やかな形の植民地主義」と表現しています。

マーティが日本人選手エンドウを追う物語の背後には、対等ではなかった戦後の日米関係が意識的に置かれているということです。

1952年のアメリカ人が、日本を目指す。

その物語を、2020年代の日本人が観る。

この構図は、本作を日本で観るからこそ生まれる面白さだと思います。

キャラクター造形|全員がマーティの夢を測る物差しになる

マーティ・マウザー|後ろ盾のない個人主義

サフディは、マーティについて次のように語っています。

マーティには誰もいない。後ろ盾はレイチェルひとり。これは、アメリカ的個人主義の何と声高な表現だろう。

(前掲Dazed)

孤立こそが、この主人公の設計図です。

ティモシー・シャラメを起用した理由も具体的です。サフディは、初めてシャラメが話す姿を見たとき、「彼はじっとしていられなかった」と語っています。

役に合わせて俳優を変えるというより、シャラメ本人がもともと持っていた、落ち着きのない過剰なエネルギーを見込んだキャスティングでした。

その熱演には、長い準備期間の裏づけもあります。

シャラメは撮影の約6年前から、卓球コーチの指導を断続的に受けていました。「見栄えがよく、正確に見える水準まで引き上げてもらった」と、本人が語っています

本作に批判的な批評でも、シャラメが卓球の習得に注いだ努力や、競技場面の説得力については評価されています。

意見が分かれるのは、熱演しているかどうかではありません。その熱演によって描かれたマーティを、観客がどう受け止めるかです。

ケイ・ストーン|「偉大さ」のその後を生きる人

グウィネス・パルトロウが演じるケイ・ストーンは、引退した映画女優であり、マーティの不倫相手です(ABC News)。

ケイは、かつて「偉大さ」の側にいた人物です。しかし、いまはその場所から降りています。

自分が特別な存在であるという感覚を追い続けるマーティの隣に置かれると、彼女はマーティにありうる未来のひとつに見えます。

夢の絶頂を過ぎた人間は、その後をどう生きるのか。

ケイという人物は、その問いをマーティのすぐそばに置いています。

レイチェル・ミズラー|唯一の味方という試金石

オデッサ・アザイオンが演じるレイチェルは、サフディ自身が「後ろ盾はレイチェルひとり」と呼ぶ、マーティの唯一の支え手です。

「夢は孤独な者のためのもの」という監督の言葉が本当かどうかは、結局、このたったひとりの味方との関係によって測られます。

彼女は、本作の感情面を支える重要な人物です。その関係がどこへ向かうのかは結末に関わるため、ここでは触れません。

一方、脇役の描き方については批判もあります。

In Review Onlineは、初期のサフディ作品に見られた脇役への親密な視線が、本作では薄くなっていると指摘しています(In Review Online)。

人物の厚みをマーティ一人に集中させた構成は、本作への評価が分かれる理由のひとつです。

映画技法|「ギラギラ」の設計図

撮影|顔の真ん前に居座るカメラ

私が「ギラギラした演出」と感じたものの正体は、スタッフの発言からかなり具体的に確認できます。

撮影監督は、『セブン』や『アンカット・ダイヤモンド』を手がけたダリウス・コンジです。

コンジは、The Film Stageのインタビューで、「物語は顔によって語られる」と明言しています。

そのために、遠くから被写体を大きく写す望遠レンズと、横長の画面を作る古いアナモフィックレンズを組み合わせ、「文字どおり顔の真ん前にいる」ような画面を作ったと語っています。

卓球の試合さえ、コンジにとっては顔を描くための「乗り物」にすぎません。

シャラメの熱演が強く印象に残るのは、映画そのものが、主演の顔にすべてを賭けているからです。

フィルムの選択も徹底しています。

Kodakの公式ブログによると、本作は全編をKODAK VISION3 500T 5219という35mmフィルムで撮影しています。

さらに、現像時に感度を上げて粒子を強く見せる増感現像を行い、画面のざらつきを際立たせました。

博物館から借り出したシネマスコープ用カメラや、360ミリの超望遠レンズまで使用したとされています。

1950年代の古典的な画面と、現代的な過剰さが同居する。

私が感じた「ギラつき」の映像面での正体は、この作り方にあります。

音楽|1952年の物語に流れる1980年代の音

本作では、1952年を舞台にした物語に、1980年代の音楽が意図的に重ねられています。

サフディは、この時代錯誤を、マーティが時代の先を行っていたことの表現だと説明しています。

さらに、映画全体が、60歳になったマーティの視点から語られる回想であるという仕掛けも明かしています(前掲Dazed)。

コンジも、監督とともに「音楽と音響は1980年代的、あるいは現代的にし、撮影はヴィンテージにする」という対比を設計したと語っています(前掲The Film Stage)。

画面は1950年代。音は、その数十年先。

この時代のずれた組み合わせが、観客を落ち着かせない高揚感を生んでいます。

音楽を手がけたのは、サフディ作品の常連であるダニエル・ロパティン、別名Oneohtrix Point Neverです。

本作のギラつきは、画面だけではなく、音によっても作られていました。

演出|偶発性が起きるように仕込む

サフディは、「台本にないことが、いつでも起こりうる」状態を現場に作るため、キャスティングと撮影のタイミングに徹底的にこだわったと語っています(前掲Dazed)。

コンジも、サフディについて「切迫感と執着が特別だ」と評し、納得できない場面を決して手放さない姿勢を証言しています(前掲The Film Stage)。

画面のどこで何が起こるか分からない緊張感は、偶然生まれたものではありません。

撮影、音楽、演出の三方向から意図的に組み立てられています。

反対意見|同じ「ギラギラ」を欠点と見る読み

私は本作の過剰さを美点として受け取りました。

しかし、同じものを欠点と見る評価もあります。

The Arts Fuseのスティーヴ・エリクソンは、本作を「没入体験ではあっても、自己陶酔的なアンチヒーローの分析にはなっていない」と批判しています(The Arts Fuse)。

シャラメの魅力が、マーティの反社会的な行動を見やすいものにしてしまい、彼のナルシシズムを批評するのではなく、結果として肯定しているという読みです。

同じ過剰さを、私は映画的な快楽として受け取り、エリクソンは倫理的な欠点として受け取ったことになります。

どちらの評価に傾くかは、観客がマーティという人物と、どの程度の距離を保てるかにも左右されるのでしょう。

まとめ|「サフディ兄弟らしさ」の正体

冒頭の問いに戻ります。

ジョシュ・サフディの単独監督作であるにもかかわらず、なぜ私は「サフディ兄弟らしい」と感じたのでしょうか。

答えの少なくとも半分は、スタッフリストにありました。

共同脚本と編集のロナルド・ブロンスタイン、音楽のダニエル・ロパティン、撮影のダリウス・コンジ、キャスティングのジェニファー・ヴェンディッティ。

『アンカット・ダイヤモンド』の中核を担ったスタッフの多くが、本作にも参加しています(Wikipedia)。

私が「兄弟らしさ」と呼んでいたもののかなりの部分は、実際には、この制作チームが生み出してきたものだったわけです。

一方で、変化もあります。

In Review Onlineは、初めて時代物に取り組み、大きな予算を使ったことで、カメラが従来よりも引き気味になり、初期作品にあった焦燥感は薄くなったと指摘しています(前掲In Review Online)。

これまでの「らしさ」が、そのまま保存されているわけではありません。作品の規模が大きくなった代わりに、失われたものもあるという見方です。

それでも、顔に密着するカメラ、時代錯誤の音楽、偶発性が起きるように設計された現場。その組み合わせは、私が「サフディ兄弟らしい」と呼びたくなるギラギラした感触を、確かに画面に残しています。

その中心で燃えているのが、6年をかけて卓球を身につけたシャラメの、じっとしていられないエネルギーです。

「サフディ兄弟らしい」という私の第一印象は、監督名だけを見れば不正確でした。

しかし、あの過剰な映画を作ってきたチームの続投作という意味では、まったく外れていたわけでもありません。

いまは、そう考えています。

嘘つきの男が作った神話が、どこへたどり着くのか。

ぜひご自身の目で、このギラつきに巻き込まれながら確かめてください。

参考資料