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  • 書評|「みんな知っている」だけでは人は動けないのでは?|”When Everyone Knows That Everyone Knows . . .” by Steven Pinker

    書評|「みんな知っている」だけでは人は動けないのでは?|”When Everyone Knows That Everyone Knows . . .” by Steven Pinker

    右側通行は、なぜ怖くないのか

    アメリカでは車は右側を走ります。自分が右側通行の決まりを知っているだけでは、普通の速度は出せません。対向車の運転手はその決まりを知らずに正面から突っ込んでくるかもしれない、と考えるからです。相手も知っていると分かって初めて、速度が出せます。そして相手のほうも、こちらが知っていると分かって初めて速度が出せます。両方が知っているだけでは足りません。

    「そんなことは、みんな知っている」と私たちは言います。英語の common knowledge も、普段はその意味で使われます。「このあたりでは警察に金を渡せば話が通るのは周知の事実だ」といった使い方です。公然の秘密や、集団の中の通念を指します。

    "When Everyone Knows That Everyone Knows . . ." by Steven Pinker

    哲学、ゲーム理論、経済学では、同じ語がまったく別の状態を指します。これをコモン・ナレッジ(共有知識)と呼びます。ハーバード大学心理学部教授のスティーブン・ピンカーが2025年に出した『When Everyone Knows That Everyone Knows . . . : Common Knowledge and the Mysteries of Money, Power, and Everyday Life』(Scribner)は、この共有知識だけを一冊かけて論じた本です。

    なぜ、そこまで重ねる必要があるのでしょうか。

    自分がそれを知っている。相手も知っている。相手が知っていると自分が知っている。これが際限なく続く状態です。

    紙幣も同じ重ね方で支えられています。一枚の紙と品物を交換できるのは、他の人もその紙を受け取って同じ値打ちの品物を渡すと知っているからです。その人がそうするのは、さらに別の人が受け取ると知っているからです。紙幣の価値は、この見込みだけで成り立っています。ハイパーインフレが起きれば、その見込みは崩れます。

    権威も同じです。政府は屋根という屋根に狙撃手を置くことも、部屋という部屋を四六時中見張ることもできません。誰が上司かは、共有知識として保たれています。自分が上司に従うのは、ほかの部下も従うと知っているからで、上司が命じることができるのは、部下が従うと知っているからです。だから、大勢が公然と集まって、互いに相手も反対だと見て取れば、その権威は消えることがあります。

    ここで、心理学者のピンカーは疑問を持ちます。際限なく続くこの繰り返しを、人は数え上げられません。自分が知っていると相手が知っている、というところまでは追えます。その先を二つ三つ重ねると、もう追えなくなります。

    ピンカーは、そこまで数え上げなくてよいと答えます。その場の全員に見える、目立つできごとが一つ起きれば足ります。二人が同じものを見ていて、相手が見ていることを互いに見て取れれば、その場で共有知識ができたのと同じことになります。これがピンカーの見立てです。目を合わせることがその代表です。相手を見ている自分の目を、その相手が見ている。それだけで、繰り返しを一つずつ確かめる手間が要らなくなります。

    ピンカーはこの本を『裸の王様』から説き起こしています。行列を見ていた群衆は、王様が裸だと全員知っていました。見れば分かるのですから当然です。ただしそれは、各自が胸に納めたままの知識でした。服が見えない者は、自分の職にふさわしくないか、よほど愚かなのだとされていて、誰も口にしなかったからです。

    子どもが「王様は裸だ」と叫んだとき、この子は、誰も知らないことを言ったのではありません。全員が知っていることを、全員に聞こえるように口に出しただけです。その瞬間、全員が知っていると全員が知りました。そして群衆は、王様をあざけり始めます。知られたことは、何も増えていません。

    共有知識は、こうして人を動かします。ただし動かせる範囲は、思ったより手前で止まります。

    だから人は、わざと分からせないように話す

    はっきり言葉にすれば、共有知識ができます。内容が相手に伝わるだけでなく、伝わったことが互いに分かってしまいます。ところが、そうなっては困る場面があります。だから人は、遠回しに言います。ピンカーがこの主題を扱うようになったのも、言葉の研究者として、遠回しな言い方に疑問を持ったからでした。

    社内の調整で「それは難しいですね」と言う。取引先に「前向きに検討します」と返す。上司に思うところを直接は言わない。いずれも、内容を伝えないためではありません。内容は伝わっています。相手も大人ですから、「難しい」が断りであり、「前向きに検討します」もたいていは断りだと知っています。伝わらないようにするためではなく、伝わったことにしないために、そう言います。

    なぜ、伝わったことにしないのでしょうか。ピンカーは、人と人の関係そのものが共有知識で成り立っているからだと説明します。友人であるとは、双方が友人だと思っていて、相手もそう思っていると互いに知っている状態です。だから、友達になろう、と口に出して確かめ合うことはしません。子どもはしますが、大人はしません。条件を言葉で交渉した途端、それは友情とは別の関係になるからです。恋人も同じで、交際の初めに取り決めを詰めれば、恋愛らしさは消えます。

    『Gourmet』誌が食のライターに出した課題があります。マンハッタンで最も予約の取りにくい店を何軒か、土曜の夜に飛び込みで回り、給仕長に50ドル札を渡して席が取れるか試して、その顛末を書け、というものでした。

    ライターは、店に向かうタクシーの中で、憤慨した給仕長にどう言い返されるかを何度も想像した、と記事の冒頭に書いています。賄賂の罪で連行されるわけではありません。それでも、断られたときの気まずさは相当なものです。給仕長はその場では権威のある側で、客席をどう割り振るかは給仕長の裁量です。金で動く人間として扱えば、相手を低く見たことになります。

    ライターは、こう振る舞いました。50ドル札は手に持ったまま、一度も目をやりません。給仕長と目を合わせて、キャンセルは出ていませんか、待ち時間を短くする方法はありませんか、今夜は自分にとって大事な夜なんです、と言いました。金と席を交換したいとは、一度も口にしませんでした。結果は、毎回成功でした。

    断られたとしても、この言い方なら関係は壊れません。給仕長のほうは、あの客は、こちらが意図を分かっていないと思っているのかもしれない、と考えることができます。客のほうも、給仕長は、こちらが鈍くて断られたことに気づいていないと思っているのかもしれない、と考えることができます。意図そのものは双方に伝わっています。伝わっていないことにできる余地だけが残されていて、それで足ります。

    同じ話し方が、大統領の弾劾裁判の争点になったこともあります。トランプ大統領の1回目の弾劾です。トランプはウクライナのゼレンスキー大統領に、バイデン親子に不利な材料を掘り起こすよう求め、その一方でジャベリン・ミサイルの供与を保留する構えを見せました。問われたのは、これが見返りを条件にした取引だったかどうかです。トランプはそうだとは明言していませんでした。

    明言を避けるのは、個人どうしの話に限りません。ピンカーは、誰も困らせないための建前と呼べる例を一つ挙げています。経済学者ロビン・ハンソンから借りた例です。

    公園のベンチで、紙袋に入れた瓶から酒を飲む男がいます。袋に包んだところで、中身が酒だと誰にでも分かります。それでも警察は、この男を公共の場で酒を飲んでいる者として逮捕せずに済みます。条文どおりに取り締まれば警察国家のようになりますし、人手の無駄でもあります。かといって、公然と飲む者を見逃せば、法は守らなくてよいものになってしまいます。紙袋があるおかげで、法はなお生きていることになります。

    同じ立場の人のことなら、分かる

    誰も行きたくない夕食会に、全員が出席することがあります。あとで一人ずつに聞けば、みんな気が進まなかったと言います。それでも当日は全員が来ています。

    これは多元的無知と呼ばれます。全員が反対なのに、全員が「賛成しているのは自分以外だ」と思い込んでいます。行きたくないという気持ちは全員が持っています。足りないのは、それを全員が持っていると全員が知っていることです。

    同じことが、社会の規模でも起きます。体制が腐っていることも、まともに動いていないことも、一人ひとりは知っています。それでも誰も最初に立ち上がりません。先に声を上げれば、その人だけが狙い撃ちにされます。だからみな黙ったまま、不満を抱えているのは自分だけかもしれないと思っています。

    これを変えるのが、公然としたできごとです。広場に人が集まれば、その全員が、ほかの全員も不満を持っていると見て取ります。そのうえ、自分がそう見て取ったことも、周りから見られています。

    ピンカーは旧ソ連の小話を引いています。赤の広場でビラを配っていた男が逮捕され、連行先で当局がそれを調べると、どれも白紙でした。これは何のつもりだと問い詰められて、男はこう答えます。「書くことなどありますか。あまりに明らかでしょう」。

    作り話のままでは終わりませんでした。プーチン政権の警察は、白紙のプラカードを掲げた人を実際に逮捕しています。紙が白くても、周りの人にはそれが何を指しているか分かります。そして、周囲に分かるということも、その場にいる全員に分かってしまいます。白紙のプラカードが取り締まりの対象になったのは、そのためだと思います。

    では、SNSはどうでしょうか。ピンカーは、SNSでは共有知識はできないと答えます。届く内容が一人ひとり違うからです。アルゴリズムの選んだ投稿が並ぶ画面は、隣の人のものと同じではありません。全員が同じものを見ている場所ではないので、全員が見たと全員が分かる状態にはなりません。

    ところがSNSは、共有知識を作っているように見えてしまいます。投稿は拡散し、短い時間で、どこまで広がったのか分からないほど遠くまで届きます。画面には「トレンド」が出ていて、いま何が読まれているかが示されます。大手の報道機関が投稿をそのまま記事にすることもあります。自分が見ているものを、ほかの大勢も見ています。その感触だけは残ります。

    アメリカには、国民の多くが同じニュース番組を同じ時間に見ていた時期がありました。ピンカーは、そこで国じゅうに共有知識ができていたと述べています。今は、一方の陣営はある局を見て、もう一方の陣営は別の局を見ています。SNSの画面に至っては一人ずつ違います。共通の情報源がなくなったあとも、共有知識そのものが消えたわけではない、とピンカーは述べます。集団ごとに、別々のものができたという見方です。

    この集団を、リベラルと保守に置き換えてみます。ピンカーによれば、同じ立場の人が集まった場所では、共有知識は何の苦もなく成り立ちます。何が正しいか、誰が敵か、ひとつずつ確かめる必要がありません。相手も同じように思っていると分かりますし、相手のほうも、こちらがそう察していると分かっています。だから、話を途中から始められます。

    ピンカーは、それが失われた例を挙げています。ハーバードの学生です。食事は用意され、催しは絶えず、同年代の仲間に囲まれている。それでも学生たちは孤独だと言います。ピンカーの見方では、世界中どこでも人を結びつけるもの、つまりうわさ話や際どい冗談や政治的に正しくない皮肉を、彼らが口にできないからです。同級生の誰が匿名の通報窓口に報告するか分かりません。相手も同じように思っていると確かめられなくなれば、話を途中から始めることはできなくなります。

    それでも、別の立場の人のことは分からない

    最初に確かめた定義に戻ります。共有知識とは、全員が知っていることではなく、全員が知っていることを全員が知っていて、それが際限なく続いていることでした。では、同じ立場の人どうしで話が早く進むのは、そこまで達しているからでしょうか。

    私は、手がかりが揃っているだけだと思います。何を読み、誰を支持し、どの話題で腹を立てるか。そこまで分かっている相手なら、口に出していないことまで見当がつきます。その見当を、相手の考えを知ったことと取り違えているのではないでしょうか。立場の違う相手には、その手がかりがありません。

    ピンカー自身も、思い込みの危うさに触れています。知識の呪いと呼ばれるものです。自分が知っていることは、相手も知っていると思ってしまうことです。いったん知ってしまうと、知らない状態がどんなものかを想像しにくくなるからです。ピンカーは文章術の本でも、読みにくさの主な原因としてこれを挙げていました。専門家が読者を煙に巻こうとしているのではなく、どこまで説明すればよいか分からなくなっている、という見立てです。

    ピンカーは、この分断を乗り越えられると考えています。分かれてしまった今の状態から共通の理解に戻れると思うか、と問われたときは、予測はできないと断りました。そのうえで、悲観するほどではないと答えています。そして、フィリップ・K・ディックの言葉を引きます。「現実とは、信じるのをやめても消えないもののことだ」。思い込みが現実と食い違っていれば、いずれ手ひどい目に遭います。だから、間違った思い込みはそのままでは済みません。そこに望みがある、という答えでした。

    ピンカーは楽観的に過ぎるのではないでしょうか。人が何を思っているかは、なかなか分かりません。同じ立場の人のことが分かるのは、その人の思っていることを読めたからではなく、読まずに済んでいるからだと思います。読まずに済む相手としか分かり合えないのなら、それを分かり合えたと呼んでよいのか、迷います。

    Science 誌に、Jeremy Goodman と Chaz Firestone による書評が載りました(2025年10月16日)。協調が成り立つのは共有知識があるからだ、という本書の柱になっている主張は立証されていない、という指摘です。私が腑に落ちなかったのも、同じ点でした。

    以前、ピンカーの『21世紀の啓蒙』についても書評を書きました。ピンカーの楽観は、今回が初めてではありません。読み終えて残ったのは、「自分が誰のことなら分かっていて、誰のことは分かっていないのか」という問いでした。

    参考リンク

    • https://catapultsuplex.com/entry/enlightenment-now/
    • https://www.science.org/doi/10.1126/science.aeb1081
    • https://www.youtube.com/watch?v=7KY4J1Tpw58
    • https://www.youtube.com/watch?v=a3Gk-xOJm_c
    • https://www.youtube.com/watch?v=t2Ltc0mCBws

  • 書評|アップルは中国という沼にはまったのか、ほかに道はなかったのか|”Apple in China” by Patrick McGee

    書評|アップルは中国という沼にはまったのか、ほかに道はなかったのか|”Apple in China” by Patrick McGee

    iPhone はどこで作られているか

    世界で売れるスマートフォンのうち、アップル製は5台に1台です。ところが、スマートフォン産業全体の営業利益のうち、8割前後をアップルが得ています。

    この利益の割合は調査会社の推計で、年によって上下します。ただし、台数の割合と利益の割合がかけ離れていることは変わりません。

    この差を生んできたのが、中国にある生産設備です。iPhone の組み立ての9割は中国で行われています。この数字は、本書が刊行された2025年5月の時点で広く使われていた推計です。

    なぜ9割が中国なのか。人件費が安いから、というのがよく聞く答えです。パトリック・マクギーの『Apple in China』(Scribner、2025年5月)は、冒頭でその答えを否定します。

    Apple in China

    著者は Financial Times の記者で、2019年から2023年までアップルを担当しました。本書は200件を超える取材にもとづいています。取材相手は、アップルの役員と技術者です。現職の人も、退職した人もいます。経営陣の回顧録ではなく、現場の側から書かれた記録です。

    中国が製造能力をどう身につけたかを論じた本に、ダン・ワンの『Breakneck』があります。マクギーの本は同じ過程を、1社の内側から見たものです。

    アップルが中国に置いたもの

    アップルは中国に注文を出したのではありません。設備を据え、人を送り込みました。注文は納品で終わりますが、据えた設備と送った人は現地に残ります。

    2012年、アップルの中国での売上は、小売だけで200億ドルを超えていました。それでも中国政府の見方は厳しいものでした。中国企業との合弁が一件もなかったからです。同じ時期、サムスンは35件の合弁を持っていました。

    そこでアップルは、中国政府の言い分をひっくり返す説明を用意しました。合弁はない。しかし数百の工場に人を送って現地の工員を鍛え、自社の水準まで品質を引き上げ、世界最大の生産規模まで押し上げたのは自分たちだ——そう主張したのです。

    この説明を裏づける材料を作るために、8人の幹部が中国に送られました。本人たちは冗談で「八人組」と呼び合っていました。

    アップルが中国で事業を始めたのは1993年です。それから20年以上、中国に住む幹部は一人もいませんでした。

    この8人が自社の生産網の規模を調べました。算出されたのが、年間550億ドルという額です。2015年ごろの集計で、もともとは中国政府に見せるために作られたものでした。

    問題は、この550億ドルに何が含まれているかです。著者はアジア・ソサエティーの対談で内訳を説明しています。

    一つ目はアップルストアの建設費で、金額としてはわずかです。二つ目は他社の生産ラインに据える機械で、これが最も大きい費目です。三つ目は人件費です。

    三つ目には説明が要ります。アップルの生産網では、受託先に雇われた300万人が働いています。なかには8週から16週で辞めていく人もいます。そうした短期の働き手の賃金まで訓練費に計上している、と著者は言います。

    そして、入っていないものがあります。部材の代金です。著者はこう明言しています。——チップもアルミも数えていない。iPhone に組み込む部品の購入額は1ドルも入っていない。

    二つ目の費目である機械を見ると、この550億ドルの中身が分かります。その代表が CNC 工作機械です。コンピュータが刃物の動きを制御して、金属のかたまりを削り、部品の形にする装置です。板金を曲げたり、溶かした金属を型に流し込んだりする方法に比べ、はるかに高い精度で加工できます。2008年の MacBook Air は、アルミのかたまりから主要な部材を削り出す構造でした。この機械なしには作れない製品です。

    この機械は1台100万ドルを超えます。アップルは1万台を買い、中国の工場に据えました。著者によれば、1万台で止まったのは、それ以上は市場になかったからです。アップルは作られる分をほぼ買い占め、数年にわたってこの機械が他社に渡らない状態を作りました。

    ただし、その工場はアップルのものではありません。代金を払ったのはアップルですが、据えた先は他社の生産ラインでした。動かす工員も他社の社員です。アップルはそこへ技術者を数千人送り込み、自社の求める精度が出せるようになるまで教えました。

    ですから、この額は安い労働力を買った金額ではありません。賃金の安い国なら、当時もほかにありました。中身は、1台100万ドルの機械の代金と、それを扱えるようになるまで人を訓練する費用です。工賃として払われたのではなく、現地に製造の技術を根づかせるために使われました。550億ドルは、こうした支出の1年分です。アップルはこれを毎年重ねてきました。

    沼にはまるとはどういうことか

    著者が副題の capture で言っているのは、中国がアップルを捕らえた、ということです。本稿の見出しでは、その状態を「沼にはまる」と言い換えました。

    では、捕らえられたとはどういう状態でしょうか。ポッドキャストの Summation で、著者は自分の本の主張を短くまとめています。——アップルは中国に依存しすぎている。副題の「捕獲」はその意味だ。中国の外では iPhone を作れない。

    これは程度の話ではありません。著者はサンフランシスコのコモンウェルス・クラブで、さらに踏み込んで語っています。——アップルには代替案がない。中国が輸出許可を取り消したらどうなるのか。報道がどう伝えていようと、インドで iPhone を作れる見込みはない。

    インドでの組み立ては伸びています。2024年は約3600万台、2025年は約5500万台です。2025年の台数は、iPhone 全体の4分の1にあたります。著者はそれを承知のうえで、見込みはないと言い切ります。台数の話ではないからです。

    別の対談で、聞き手はこう言っています。——インド製と表示された iPhone も中身のほとんどは中国製で、最後の数本のネジをインドで締めているだけではないか。著者はそのとおりだと答えています。インドの生産網はまだ層が薄く、幅も狭いからです。

    中国政府の締め付けも強まりました。政府は、取引先に中国企業を増やすよう求めました。中国国内では iPhone で使える機能に制限をかけ、利用者のデータは国有のデータセンターに置くよう義務づけました。

    売り先としての中国も無視できません。アップルは中国市場で、現地の IT 大手を上回る利益を上げています。作る場所としても売る場所としても、アップルは中国を手放せなくなっています。

    そして当のアップルが、この関係をさらに深める約束をしています。2016年5月、ティム・クックは共産党権力の中枢である中南海へ向かいました。そこで結ばれた覚書は、5年間で総額2750億ドル超を中国に投じるという内容でした。当時の年間550億ドルの水準を、5年続ける規模です。

    ただし、この2750億ドルは覚書に明記された数字ではありません。報じた The Information が、内容から積み上げた推計です。

    この覚書が結ばれたのは、ドナルド・トランプがアメリカ第一を掲げて選挙戦を戦い、アップル製品の不買を呼びかけていた時期です。この約束を記者会見で発表していれば、アップルは致命傷を負っただろう、と著者は言います。

    設備を据え、人を送り、市場を広げる。その一つ一つが、中国から離れられない理由を増やしていきました。本書が描くのは、その20年です。

    ほかに道はあったのか

    本書の見立てを疑う声は、刊行直後から出ています。それも細部への異議ではなく、アップルが中国の製造業を育てたという見立て自体に向けられたものです。反論は大きく二つあります。

    一つ目は、そもそも捕らえられてなどいない、という見方です。

    米ジョージア工科大学でインターネット政策を研究するミルトン・ミューラーは、本書に正面から反論しています。——本書が並べた事実からは、アップルが中国国家に捕らえられたという結論は出てこない。アップルも中国の電子機器メーカーも、どちらも利益を得た。技術が移ったことで独占ではなく新しい競争が生まれ、中国の労働者の賃金も上がった。

    ミューラーは、原因の所在についても別の見方をとります。貿易を混乱させたのは米国政府の政策だ、というのです。経済を安全保障の問題として扱うようになったのは政府であって、企業を責めるのは筋が通らない、と言います。

    この指摘が突いているのは、結論ではなく前提です。捕らえられていないのなら、「ほかに道はあったのか」という問い自体が立ちません。本稿の見出しも、その上に立っています。

    それでも問います。崩れうる前提だと承知のうえで問えば、本書の見立てのどこが強く、どこが弱いのかが見えてくるからです。

    550億ドルという数字を、ミューラーは逆の意味に取ります。政府の産業政策より民間企業の投資のほうが良い結果を出した証拠だと読みます。同じ事実から正反対の結論が出てきます。

    二つ目は、その数字は本当にアップルのものか、という見方です。

    陳静は中国科学技術大学の研究者で、専門は科学技術コミュニケーションです。本書に対しては、具体的な反論を書いています。——アップルの取引先は、8割超が中国に工場を持っている。550億ドルも、2008年以降にのべ2800万人を訓練したという数字も、生産網全体を合算したものだ。アップル単独の功績ではない。それをアップルの投資額として示すのは過大な計上である。

    陳静は、「アメリカが中国を作った」という見立て自体も、西側に偏ったものとして退けます。そのうえで、アップルも中国も、この関係から得るものがあったと述べます。

    著者はこの批判に直接は答えていません。刊行から5か月後、アジア・ソサエティーの対談で550億ドルの中身を自分から説明しました。先に見た、建設費・機械・人件費の三つです。

    著者が明かしたのは550億ドルの費目であって、その支出を誰が行ったかではありません。三つ目の人件費は、受託先に雇われた300万人に支払われた賃金です。雇っているのも払っているのも、アップルではありません。

    つまり内訳の開示は、陳静への反論になっていません。むしろ、陳静の言う合算がどこで起きているのかを具体的に示しています。著者の側から読めば、部材費すら入れずにこれだけ投じた、という証拠になります。批判者の側から読めば、他社が払った人件費がアップルの投資額に繰り入れられている、という証拠になります。

    陳静はこうも書いています。アップルにインドで同じことができるものなら、やらせてみればいい、と。この一言は、インドでは作れないという著者の断言と真っ向から対立します。

    争われているのは、550億ドルが誰の支出なのかという点です。決着していないのは、アップルにほかの道があったのかという問いです。本書にも書評にも、その答えはありません。答えられる材料がないからです。

    分かっているのは順序だけです。1996年、アップルは倒産寸前でした。1998年の iMac は韓国でもウェールズでも作られていました。中国に製造を移したのは2003年です。そのころの中国は、ほかの多くの会社がすでに生産を委託していた場所でした。

    つまり、中国が唯一の道だったわけではありません。分かれ目は、中国へ行ったかどうかではなく、一国にどこまで深く依存したかです。争点は、同じ事実を捕獲と見るか、互いに利のあった取引と見るかにあります。

    依存はどう生まれるか

    本書がもっとも克明に描くのは、依存が生まれていく過程です。アップルは規模と速さを得るために、設備を据え、技術者を送って作り方を教えました。教えられた側が作れるようになると、その周りに下請けが集まります。

    設備は移せますし、機械は買えます。移すことも買うこともできないのは、部品業者や工員が一帯に集まっている状態と、その人たちが身につけた技能です。作れる場所が一つしか残らなくなったところで、その国の政府が条件を出してきます。

    この技能には名前があります。プロセス・ナレッジです。手順書には書き出せず、現場で人から人へしか受け渡せない知識を指します。

    倒産寸前の会社が製造を外に出しました。MacBook Air を作るために、CNC 工作機械を1万台買って中国の工場に据えました。中国で売り続けるために、現地の取引先を増やしました。どの段階でも、そのときの判断は正しいものでした。にもかかわらず、20年たってみると、アップルは中国の外で iPhone を作れなくなっていました。

    これはアップルだけの話ではありません。同じことは、工場を持たない会社にも起きます。ある業務を長く外に出していると、発注側はいつのまにか、その仕事の中身が分からなくなります。分からなければ、価格も納期も相手の言うとおりになります。誰も間違った判断をしていないのに、交渉の材料だけがなくなっています。

    自社に置き換えて、いくつか問いを立ててみます。いま、ある仕事を外に出すとして、任せられる相手は何社あるでしょうか。1社しかないのなら、それはいつ1社になったのでしょうか。

    止めた工程はないでしょうか。止めたときは、効率化として説明されたはずです。いま同じことを、もう一度始められるでしょうか。

    外に出した仕事について、相手の見積もりが妥当かどうかを自社で判断できるでしょうか。その仕事を長く担ってきた人が辞めたとき、引き継ぎ書に書けなかったものは何だったでしょうか。

    引き継ぎ書に書けなかったもの、それがプロセス・ナレッジです。どこにも記録が残らないので、失っても気づきません。

    答えは書きません。会社によって違いますし、私が知っているのは本書に書かれたことだけです。

    この本を勧めるかどうか。勧めます。設備がどう運ばれ、技術者が何を教え、工場の側が何を身につけたのか。そこまで具体的に書いた記録は、ほかにありません。

    現場をどう描いたかについては、本書の見立てに批判的な評者も正確さを認めています。米国では、経済報道を対象とした書籍賞を受けました。

    同じ主題を国の側から扱ったダン・ワンの『Breakneck』は、別の記事で取り上げました。

    「なぜそうなったか」の説明は、先に見たとおりまだ議論の途中です。それでも、自社に「これがないと回らない」ものがあると感じているなら、読む価値があります。

    なお、本稿執筆時点で邦訳は出ていません。英語版は米国の Scribner 刊、448ページです。

    参考リンク