濱口竜介監督には、勝手な先入観を持っていました。
『ハッピーアワー』の印象から、やたらと長い映画を作る人。『ドライブ・マイ・カー』の印象から、難しい文芸作品を撮る人。
その先入観を破ってくれたのが、『偶然と想像』です。
2021年に公開された、3本の中編からなる121分の短編集。第71回ベルリン国際映画祭では銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しました。

1話あたり約40分。登場人物は、それぞれ2人から3人。大きな事件や派手な映像はなく、物語の大半を会話が占めています。
それでも、どの話にも先の読めない展開があり、思わず笑ってしまう瞬間があり、観終えたあとまで残る感情があります。
会話だけの映画が、なぜこれほど軽やかに転がっていくのか。
この記事では、その理由を考えます。
目次
ネタバレについて
この記事では、3話すべての結末まで扱います。未見の方はご注意ください。
あらすじ|偶然から始まる三つの話
第1話「魔法(よりもっと不確か)」。
モデルの芽衣子(古川琴音)は、親友のつぐみ(玄理)が夢中で語る新しい恋の相手が、自分の元恋人・和明(中島歩)だと気づきます。
第2話「扉は開けたままで」。
単位を落とされた学生・佐々木(甲斐翔真)は、芥川賞作家でもある教授・瀬川(渋川清彦)への報復として、既婚の学生・奈緒(森郁月)に瀬川を誘惑するよう持ちかけます。
第3話「もう一度」。
高校の同窓会に参加するため仙台へ来た夏子(占部房子)は、駅のエスカレーターですれ違った女性・あや(河井青葉)と再会を喜び合います。
ところが、二人は互いに別の人物と勘違いしていました。
三つの物語をつないでいるのが、タイトルにある「偶然」と「想像」です。
テーマ|偶然が、別の人生を想像させる
「存在に食い入る無」
濱口監督はインタビューで、哲学者・九鬼周造の『偶然性の問題』を参照し、偶然を「存在に食い入る無」という言葉で説明しています。
本来なら起きなかったはずの出来事が、何の前触れもなく現実へ入り込んでくる。
親友が好きになった相手が元恋人だった。宛先を一文字間違えたメールが、送るつもりのなかった相手へ届いた。20年ぶりに再会したと思った女性が、まったくの別人だった。
偶然そのものには、意味も目的もありません。
しかし、一度起きてしまえば、それまでの現実は同じ形ではいられなくなります。同時に、「もし起きていなかったら」という別の可能性も浮かび上がります。
本作の登場人物たちは、偶然によって、自分が選ばなかった人生や、言えなかった言葉と向き合うことになります。
想像は、現実から逃げるためではない
3話に共通しているのは、登場人物たちが「ありえたかもしれない別の展開」を想像し、その一部を実際に演じてみることです。
第1話の芽衣子は元恋人のもとを訪れ、二人がもう一度やり直す可能性を試そうとします。
第2話の奈緒は、小説の朗読という虚構を通じて、誘惑する側とされる側という役割から外れ、瀬川本人と話し始めます。
第3話の夏子とあやは、人違いだと分かったあとも別れず、互いが本当に会いたかった人物を演じます。
想像はここで、現実から逃げるためのものではありません。
現実にはもう存在しない関係や、過去には言えなかった言葉を、短い時間だけ現実の中へ呼び戻す方法です。
下敷きには哲学がありますが、登場人物が難しい理屈を語るわけではありません。
恋の自慢話、教授への単位の相談、同窓会の帰り道。どれも私たちが知っている日常の会話です。
「難しい濱口竜介」という私の先入観が崩れたのは、思想を説明するのではなく、身近な会話として見せる、この平明さがあったからです。
第3話が示す「想像」の使い方
3話の中で、タイトルの意味が最も鮮明になるのが「もう一度」です。
夏子とあやは、人違いをしています。
普通なら、間違いに気づいた時点で謝って別れるでしょう。しかし二人は、その気まずさをきっかけに、それぞれが会いたかった人について話し始めます。
そして相手に、その人を演じてもらいます。
二人が交わす言葉は、事実に基づいた会話ではありません。相手も本当に伝えたかった本人ではありません。
それでも、その演技を通じてしか口にできなかった本心があります。
嘘だから無意味なのではなく、嘘という形を借りたからこそ、現実には言えなかったことを言える。
第3話まで観ると、「偶然」と「想像」がタイトルの中で並んでいる理由が見えてきます。
偶然が過去を呼び戻し、想像がその過去との向き合い方を作るのです。
キャラクター造形|三つの話、三つの選択
第1話・芽衣子|偶然を放っておけない人
第1話は、深夜のタクシーでつぐみが新しい恋について語り続ける場面から始まります。
最初、芽衣子は親友の幸せな話を楽しそうに聞いています。
しかし、話が進むにつれて相槌がわずかに硬くなり、表情から笑顔が消えていく。
観客が、つぐみの相手と芽衣子の過去につながりがあると気づくのは、説明台詞ではなく、古川琴音の表情の変化からです。
その後、芽衣子は和明のオフィスへ向かいます。
二人の会話は、未練なのか、嫉妬なのか、相手を試しているのか、本人たちにも判然としません。
好きだった気持ちと、傷つけられた記憶と、親友への思いが、一つの会話の中で何度も入れ替わります。
終盤の喫茶店では、芽衣子が思い描いた展開と、彼女が実際に選んだ行動が続けて示されます。
最初の展開では、芽衣子は二人の前で自分と和明の過去を明かし、三角関係を決定的に壊します。
しかし、それは彼女の想像でした。
現実の芽衣子は、二人の前から静かに身を引きます。
やり直す可能性を最後まで考えたうえで、友人と元恋人にその先を委ねる。二度目の選択は、芽衣子なりの誠実さだったように見えます。
第2話・奈緒と瀬川|企みから始まった本当の会話
第2話は、佐々木の悪意から始まります。
単位を認めなかった瀬川を失脚させるため、奈緒を研究室へ送り込み、誘惑の証拠を録音しようとします。
ところが、瀬川は簡単には罠にかかりません。
研究室の扉を開けたままにし、奈緒の話を聞き続けます。
奈緒が瀬川の小説にある官能的な文章を朗読する場面は、色仕掛けのはずでした。
しかし、朗読が続くうちに、二人の関係は誘惑する女性と標的の男性ではなくなります。
奈緒は、文章を声にしたときに自分の身体に起きたことを語る。瀬川は、作家としてその言葉を受け止める。
他人の悪意によって始まった時間が、二人にとって思いがけず誠実な対話へ変わっていきます。
しかし、その時間は宛先を一文字間違えたメールによって壊されます。
意図して仕掛けた誘惑は失敗したのに、意図しなかった誤送信が瀬川の人生を変えてしまう。
この残酷な逆転が、3話の中で最も苦い後味を残します。
第3話・夏子とあや|人違いだから言えること
第3話では、出会いそのものが間違いです。
夏子とあやは、互いを昔の同級生だと思い込み、再会を喜びます。
しかし、話しているうちに記憶がかみ合わなくなり、二人は別人だと気づきます。
それでも、二人はすぐには別れません。
夏子は、あやを昔の恋人に見立て、長年言えなかった気持ちを伝えます。今度はあやが、夏子をかつての友人に見立て、自分の言えなかった言葉を託します。
一方が相手を救うだけではありません。
役割を交代しながら、それぞれが相手の想像に付き合います。
だからこの話は、親切な他人が傷ついた人を慰める話ではなく、二人が対等に助け合う話になっています。
3話の中で最も静かな物語ですが、最も遠い場所まで観客を連れていく一編です。
映画技法|会話だけで転がすための準備
本読みが作る会話の弾力
濱口演出の特徴として知られるのが、俳優が感情をつけずに台詞を読む、本読みのリハーサルです。
監督はインタビューで、本読みを重ねることによって俳優の演技体力が落ちにくくなり、テキストの読み方にも多くの可能性が生まれると説明しています。
台詞へ早い段階で感情を固定しないからこそ、本番では俳優の身体や相手との呼吸に応じて、別の感情が立ち上がります。
『偶然と想像』の会話には、言葉の意味を一つに決められない場面が多くあります。
冗談なのか、本気なのか。誘惑なのか、告白なのか。怒っているのか、未練があるのか。
長い会話が単調にならず、同じ言葉の中に複数の感情が漂うのは、この準備があるからでしょう。
演出とは、偶然を待てる状態を作ること
濱口監督は別のインタビューで、演出を「偶然をどう配置するのか」と表現しています。
俳優の身体と、脚本に書かれた言葉は、本来は別のものです。
その二つが撮影中に思いがけない形で重なり、書かれた台詞が、その俳優本人から生まれた言葉のように聞こえる瞬間がある。
濱口監督が捉えようとしているのは、派手な偶然ではなく、そうした小さな瞬間です。
偶然は物語の題材であるだけでなく、撮影現場で監督が待っているものでもあります。
主題と撮り方が同じ方向を向いているからこそ、物語には大胆な仕掛けがありながら、人物の会話は作り物めいて見えないのでしょう。
小さな撮影体制が生む集中
公式サイトでは、本作について、小さな撮影体制でリハーサルと撮影の時間を十分に確保し、俳優の繊細な表現を丁寧に映したと説明されています。
画面に登場するのは、主に2人か3人。
場所も、車内、オフィス、研究室、住宅、駅などに限られています。
カメラの動きや編集を目立たせるのではなく、人物の顔と言葉の間に意識を集中させます。
第2話では、研究室の扉を開けたままにすることで、廊下を通る人の気配が常に画面へ入り込みます。
奈緒は誘惑を仕掛けているのに、誰かがいつ入ってきてもおかしくない。
ドア一枚が、瀬川の倫理を示すと同時に、場面の緊張を作っています。
大掛かりな仕掛けがなくても退屈しないのは、少ない要素をどこへ置くかが細かく考えられているからです。
まとめ|身軽な形で見える濱口竜介
観る前の私にとって、濱口竜介は「長くて難しい」監督でした。
観終えたいま、その先入観は半分だけ正しかったと思っています。
本作は短く、笑える場面も多く、親しみやすい映画です。
しかし、感情を固定しない本読みも、会話を通じて人物を変化させる方法も、偶然が起きる瞬間を待つ演出も、長編作品と変わりません。
濱口監督が別の作風を試した映画ではなく、普段の方法を、最も身軽な形で見せた作品です。
長編では何時間もかけて描かれる、人と人との距離の変化が、約40分の中に凝縮されています。
その意味では、濱口作品への入口として、これほど向いている一本はありません。
なお、監督は2021年のインタビューで、『偶然と想像』を当初から全7話のシリーズとして構想しており、残る4話を今後の実験の場にしたいと語っていました。
その後、残り4話の制作や公開はまだ発表されていません。
いつ実現するかは分かりませんが、会話だけで映画が転がっていく、あの軽やかさにもう一度出会える日を、一人の観客として待ちたいと思います。
追記|その後、濱口作品を二本観ました
この記事を書いたあと、私は濱口監督の別の作品を二本観ました。
『悪は存在しない』と、『急に具合が悪くなる』です。
結論から書くと、本作で消えたはずの先入観は、半分だけ戻ってきました。
『悪は存在しない』は、やっぱり難しかった。
『急に具合が悪くなる』は、やっぱり長かった。
ただし、戻ってきたのは先入観そのものではありません。
なぜ難しいのか、なぜ長いのかを、自分の言葉で説明できるようになった状態で戻ってきました。
その中身は、それぞれの記事に書いています。
濱口作品を一本だけ観るなら、入口として本作をおすすめします。
そのうえで、難しさや長さの正体を確かめたくなったら、残りの二本へ進んでください。