映画『悪は存在しない』|難解な文芸作品のほうの濱口竜介

濱口竜介監督には、長いあいだ勝手な先入観を持っていました。

やたらと長い映画を作る人。難しい文芸作品を撮る人。

その先入観を破ってくれたのが『偶然と想像』でした。会話だけで転がっていく121分を観て、長くも難しくもないじゃないか、と思ったのを覚えています。

ところが、そのあとに観た二本で、先入観は半分ずつ戻ってきました。

『急に具合が悪くなる』はやっぱり長かった。そして、今回の『悪は存在しない』は、やっぱり難しかったのです。

ただし、この映画の難しさには、はっきりした出所があります。

そもそも本作は、映画として企画されたものではありません。出発点は、音楽家・石橋英子から濱口監督への依頼でした。

石橋は共同インタビューでこう証言しています。

私のほうから濱口さんに、ライブ演奏に添える映像を作ってくれないかと持ちかけた。

Academy A.frame

つまり、音楽が先にあります。映画のほうが、音楽に添える映像として始まっている。

企画のクレジットにも、濱口と並んで石橋の名前があります(公式サイト)。

難解と言う前に、この映画はまず順序が逆です。

この記事では、私が観ながら思った三つのこと——前半は音楽が主役に聴こえること、グランピング場の説明会で温度が変わること、そして最後がカオスであること——を手がかりに、その難しさの中身を追いかけます。

ネタバレについて

この記事は、結末で何が起きるかに触れます。

終盤の暴力と、その直後に画面がどう終わるかまで書きます。監督が編集について語った内容も引用します。

未見の方は、鑑賞後にお読みください。

あらすじ|水挽町に来たグランピング場の計画

長野県の架空の町、水挽町(みずびきちょう)。

巧は、薪を割り、湧水を汲み、地域の何でも屋として働いています。娘の花と二人暮らしです。

そこへ東京の芸能事務所が、グランピング場——テントに設備を整えた野外の宿泊施設——の建設計画を持ち込みます。コロナ禍で打撃を受けた会社が、政府の補助金を使って新事業に乗り出す、という筋書きです(公式サイトBunkamura ル・シネマ)。

やがて住民説明会が開かれます。

会社から来たのは、高橋と黛の二人。計画には、浄化槽の容量も水質への影響も、詰められていない部分が残っています。

あらすじとして必要なのは、ここまでです。

なお本作は2023年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞し、日本では2024年4月26日に公開されました。上映時間は106分です(映画.com)。

テーマ|悪の在り処を探す視線が、途中で効かなくなる

「これは本当に我々の話」——外側に原因を置かない

タイトルは強い言葉です。悪は存在しない。

しかし濱口は、この映画が誰かを告発する話ではないと明言しています。

これは本当に我々の話だと思います。何かよそに「悪の原因」があるっていうような話ではない。

CINRA

同じインタビューでは、本作でやったことを「『どっちとも言えない』という視座を丁寧に構築していくということだった」と要約しています。

つまり、悪が消えるのではありません。悪の在り処を名指しできる立ち位置のほうが、途中でなくなっていきます。

善悪が濁るのは、目的ではなく結果

方法についての発言もあります。

その行動原理に嘘がないように創っていくと、自然と善だ悪だというのは濁ってくる

BRUTUS

順序に注意したいところです。

善悪を濁らせようと先に決めて人物を配置したのではなく、それぞれの人物が嘘をつかずに動いた結果として濁った、と言っています。

これは「メッセージのある映画」という読み方を、作り手自身が押し返している言い方だと思います。

だから本作には、告発の相手がいません。いないのに、被害はきちんと発生します。

水は低い所へ流れる

説明会で、地元の区長が言います。水は低い所へ流れる、上流でやったことは必ず下に影響する、と。

水系の物理の話であり、同時に意思決定の話でもあります。

映画評論家の松崎健夫は、この台詞を軸に本作の悪を灰色のものとして論じました。誰もが加害者にも被害者にもなり得るし、誰もが悪の側にも善の側にもなり得る、と(映画.com 批評)。

決めているのは、いつも上流にいる誰かです。そして上流にいる人ほど、下流で何が起きるかを見ずに済みます。

ここで効いてくるのが、高橋と黛の立ち位置です。

二人は上流ではありません。彼らの上には、東京からオンライン会議で計画を押してくる人たちがいます。

補助金の締め切りに合わせて数字を作る論理は、その画面の向こう側にあります。

悪の在り処を探す視線は、上流をたどっていくうちに対象を失う。私にはそういう構造に見えました。

キャラクター造形|誰も悪役の位置に留まらない

巧|誰とも対立しない主人公

主人公は、物語を動かしながら、最後まで誰とも対立しません。

濱口自身がこの構造を指摘しています。

わかりやすい対立構造みたいなものがあって話が進むなか、主人公はずっと誰とも対立する立場にはいないんです。

Yahoo!ニュース エキスパート

説明会でも、巧は会社を糾弾しません。

彼が出すのは、あそこは鹿の通り道だ、そのとき鹿はどこへ行くのか、という問いです(Tokyo Art Beat)。

告発ではなく、生き物の側の事情として置かれます。

演じる大美賀均の顔は、感情の方向をほとんど示しません。何を考えているのかが読めない時間が長く続きます。

この読めなさと非対立の姿勢が、終盤の行動との落差を最大にします。

花|境界を無防備に行き来する子ども

花は8歳。学童保育から一人で歩いて帰り、森の道も木の名前も知っています。

大人たちが会議室で議論している共存を、花はただ実践してしまいます。

巧が迎えを忘れる描写が何度か置かれ、それが終盤の失踪へつながります。

言い換えると、この子は境界の内と外を最も無防備に往復する人物です。

その往復がやがて取り返しのつかない結果を招くところに、本作の残酷さがあります。

高橋|最も大きく変わる人物

本作で最も変わるのは、開発側の高橋です。

説明会の場面で、二人は住民と噛み合いません。

4Columnsのレオ・ゴールドスミスは、急ごしらえで生煮えの計画が示されて場がたちまち気まずくなると書き、会社側が業界の言い回しと空疎な決まり文句で住民を遠ざけていると評しています(4Columns)。

ところが、その高橋が本社の方針に押し切られて水挽町へ戻ってきます。

そして巧の仕事を手伝います。薪を割る場面には、この映画でいちばん良い時間が流れています。

彼は悪役の位置から降りていきます。

そして、降りたその場所で、最後の暴力を受けます。

黛と住民たち|どちらの側も理想化しない

黛は高橋の同僚です。会社側として振る舞いながら、計画の無理を早い段階で見抜いています。

車で移動しながらの二人の会話が、開発側にも迷いと人格があることを担保しています。

一方の住民も、素朴な自然の守り手としては描かれません。

Sight and Soundのニコラス・ラポルドは、本作が開発側の担当者を人間として描く一方で、村の暮らしを美しい絵として描くことも拒んでいる、と評価しています(Sight and Sound)。

住民の多くは移住者です。反対の理由も感情論ではなく、浄化槽の容量、水質、山火事のリスクといった具体的な指摘として出てきます。

つまり、どちらの側にも寄りかかれる正しさが用意されていません。

映画技法|音楽・場面の配置・編集点

音楽が主役だという体感は、正しい

観ながら最初に思ったのは、音楽が主役だということでした。

冬枯れの梢を下から見上げたまま進んでいく長いショットに、弦とピアノの反復が長くかぶさります。クラシックの語法を土台にしながら、反復や電子音を混ぜていく現代の器楽曲——ポスト・クラシカルと呼ばれる音楽に近い響きです。

薪を割る。水を汲む。作業の時間が省略されずに映ります。

物語はまだ始まっていないのに、音楽だけが先に進んでいる感じがしました。

この体感は、たぶん錯覚ではありません。

すでに書いたとおり、この映画は音楽の依頼から始まっています。音楽に添える映像として撮られた区間が、実際に存在するわけです。

順序が逆であることは、頭で知る豆知識ではなく、前半の体感としてそのまま出ています。

そして映画は、その音楽を断ち切る

面白いのは、音楽が主役の状態が続かないことです。

濱口は編集についてこう述べています。

編集時に、時に唐突に、あるいは暴力的に音楽を断ち切ることを選んだ。

Academy A.frame

断ち切ることを「選んだ」と言っています。

裏を返せば、放っておけば音楽が映画を主導していたということでもあります。

批評もこの特徴を揃って指摘します。ラポルドは、音楽がドラマの展開とは別に映画へ堅固な構造を与えているとし、同時に不穏な効果とともに唐突に途切れることもあると書いています。ゴールドスミスは、突然音楽が断たれることで、その情緒がいっそう判読しにくくなると評しました。

石橋の側にも、音楽が観客の感情をコントロールしてしまう危険性への警戒があります(ぴあ映画)。

作曲した本人が、自分の音楽の力を警戒している。

断ち切りは、その危険への処方箋のように見えます。ただしこれは私の読みで、濱口がそう説明した記録は見つけられませんでした。

いずれにせよ、前半で音楽が主役に聴こえるのは、後半でそれを奪うための準備だったと思います。

観客の身体は、断たれた瞬間にそれを知ります。

説明会|温度が変わる場所

説明会の場面で、映画の温度が変わります。

変わるのは、話し方です。

住民は数字と地形で話します。浄化槽の容量、水の量、火の始末。

会社側は、段取りと決まり文句で話します。

温度差の正体は敵意ではなく、使っている言葉の種類の違いだと思います。同じ日本語なのに、噛み合っていない。

そして、この場面の置かれ方が変則的です。

ラポルドは、同種の住民集会の場面を持つ他の映画と比べて、濱口がそれをより早い位置に置いていると指摘します。対立が物語を支配するのではなく、緊張が共同体全体に染みていく過程を追える構成になっている、と(Sight and Sound)。

実際、説明会のあと、映画は対立を激化させません。

むしろ高橋を村へ引き寄せていきます。

温度は一度上がってから、妙に下がる。この二段構えが、私の感じた温度変化の内訳でした。

そして、下がったところで最後が来ます。

鹿を見せないこと

鹿はほとんど画面に出てきません。

足跡、糞、骨、そして遠くの銃声。痕跡だけがあります。

濱口はこの扱いを意識的なものとして語っています。

見つからないが故に人を惹き付けて、何か探させてしまうものとして機能していると思います。

Fan’s Voice

また、水が流れ、わさびが育ち、鹿が樹皮を食べ、鹿が人間の領域に入ってくるから猟が起き、猟師に殺される——という循環についても述べています(BRUTUS)。

人間と鹿が、同じ循環の中に置かれている。この視座は監督本人のものです。

作中には、鹿は普通なら人を襲わないが、手負いの個体や仔を連れた個体は別だ、という趣旨の説明も出てきます。

終盤で花が向き合うのは、まさにその条件を満たした鹿です。

条件が結末の直前に置かれていること自体が、準備だと思います。

結末|どこで切るかで、生死が決まる

そして最後の数分が来ます。

霧の中で、巧が高橋を襲います。

ゴールドスミスはこの終盤を、文字どおりの霧であり比喩としての霧でもあると書き、記述も予想も裏切る極端な身振りだと評しました(4Columns)。

私も、観た直後は単純にカオスだと思いました。

ただ、自分が何に混乱したのかを、濱口の言葉が正確に言い当てていました。

何が起きたかについては、映像と音からかなり明確だと思います。しかし私たちは、なぜそれが起きたのかという問いを残されます。

The Film Stage

たしかに、画面で起きたこと自体は見えています。分からないのは理由のほうです。

同じインタビューで濱口は、結末がある程度あいまいであることは認めつつ、多くの人が言うほど象徴的でも非現実的でもない、とも述べています。

つまり、比喩として読み替えられることには距離を置いている。

そのうえで、いちばん効くのが編集についての発言です。

彼が起き上がる前に切れば彼はそのまま死んだことになったろうし、彼が起き上がって歩いているところで切れば生きている。

Fan’s Voice

高橋が生きているか死んでいるかは、演技でも脚本でもなく、どこでフィルムを切るかで決まった。

完成作は、高橋が咳き込みながら起き上がるところを含んでいます。そのうえで、霧と闇に沈んで終わります。

どちらとも決めないことを、決めている。

私が最後に感じたカオスの正体は、無秩序ではありませんでした。統御されたうえで、答えの一歩手前で切られた画面です。

巧は鹿なのか|監督に同じ問いを向けた人がいる

観ながら私が考えたのは、巧と花のほうこそ追い詰められた鹿だったのではないか、という読みでした。

手負いの鹿の条件が直前に置かれている以上、その読みは作品の中に用意されていると思います。

同じことを、インタビューで濱口に直接ぶつけた人がいます。

濱口の答えはこうでした。

正直に言えば、この考えは私には浮かんでいませんでした。しかし考えてみると、巧はある意味で、人間よりも自然の領域に近い人物なのかもしれません。彼が人間より自然の領域に近いという解釈について考えれば考えるほど、そこには何かがあると思うようになりました。

TheWrap

意図として仕込んだものではない。しかし、示されると否定もしない。

この距離のとり方が、本作の観客の置かれ方をそのまま表していると思います。

実際、濱口は結末について「ただ単にそれが起きた、ということが第一です。それを受け止めていただきたい」とも述べています(Yahoo!ニュース エキスパート)。

巧の行動についても、彼が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然が交差した結果ではないか、という言い方をしています。象徴ではなく、蓄積と偶然として語られています。

ですから、巧イコール鹿という等式にしてしまうと、監督が最も避けたがっている場所に着地します。

読みは用意されているが、答えとしては配られていない。

そういう置かれ方をした結末です。

賛否|この結末の評価は、はっきり割れている

この結末をどう受け取るかは、批評家のあいだでも割れました。

まず全体としての評価は高い作品です。Rotten Tomatoesでは164件のレビューで91%、Metacriticでは40件の批評で83点。否定的な評価は1件のみと集計されています。英Sight and Sound誌の「2024年ベスト50」では12位に入りました。

そのうえで、結末に対する態度は分かれています。

擁護側で最も踏み込んでいるのは、The New Yorkerのジャスティン・チャンです。

チャンは終盤を暴力的な均衡への回帰と呼び、自然界に悪は存在しない、手負いの鹿が逆上して人を襲っても責められないのと同じだ、と書いています(The New Yorker)。

私が観ながら考えた読みと、ほとんど同じ場所に立っています。

一方、Slantのチャック・ボウエンは厳しい評価です。

ボウエンは結末を物語の落とし戸だと呼び、濱口はこれらの筋を無残に捨てるために導入している、と批判しました(Slant)。

In Review Onlineのローレンス・ガルシアも、観客を疎外する実験だと評しています(In Review Online)。

The Observerのウェンディ・アイドは、否定まではしないものの、ぎくしゃくした結末が映画のバランスを崩していると書きました(The Observer)。

つまり、私が難しいと感じたのは私の理解力の問題ではなく、プロの批評家でも扱いに困っている場所だったことになります。

そして、賛否のどちらの側も、結末が意図的に置かれたものであることは認めています。争われているのは、その意図に付き合う価値があるかどうかです。

まとめ|難しさの正体は、決めないという決定だった

『偶然と想像』で、濱口竜介は長くも難しくもないと思いました。

『急に具合が悪くなる』はやっぱり長く、『悪は存在しない』はやっぱり難しかった。

ただ、時間が経ってみると、難しさの中身は見えてきます。

この映画が難しいのは、謎かけをしているからではありません。

音楽が先にあり、映像があとから付いた区間があること。説明会のあと、対立劇の型を外して高橋を村へ引き寄せてしまうこと。そして結末を、生死のどちらとも取れる位置で切っていること。

三つとも、通常の映画が観客に与える手すりを外す方向に働いています。

しかも濱口は、それを時代への態度として語っています。

この20年、映画において曖昧さが少しずつ壊されてきていると感じます。芸術に対して非常に瞬間的で素早い反応が価値を持つ状況では、曖昧さを保つのは難しい。この映画とその曖昧さは、私が今日の潮流に抵抗するひとつの方法です。

RogerEbert.com

観てすぐ良し悪しを言えないこと自体が、この映画の狙いだったわけです。

そう考えると、悪は存在しない、という題も居場所が変わります。

濱口は、物語と題名が人間社会における道徳の存在について考えさせるかもしれない、しかしその後、結末がそれを崩壊させる、と述べています(Film Comment)。

題は主張ではなく、壊されるために置かれた前提だった。

好きな映画かと聞かれると、答えに詰まります。気持ちの良い映画ではないし、すぐもう一度観たいとも思いません。

それでも、観た日から何日も残りました。『偶然と想像』が軽やかに転がって残るとすれば、こちらは重い石が沈むように残ります。

同じ監督が、その両方を撮っている。

先入観は結局戻ってきたわけですが、中身は入れ替わりました。難しさは、この監督の欠点ではなく、扱っている材料の性質でした。

参考資料