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  • 映画『スマッシング・マシーン』|最強の男が、負け方を覚えるまで

    正直に書きます。

    私はこの映画を、肉体では無敵のプロレスラーが、家族とともに病と闘う物語だと思っていました。予告編を観て、勝手にそう思い込んでいたのです。

    ところが、まったく違いました。

    2025年公開の『スマッシング・マシーン』(The Smashing Machine)が描くのは、マーク・ケアーという実在の総合格闘家です。格闘技ファンの間ではよく知られた人物だそうですが、私は格闘技をまったく知りません。ケアーの名前も、本作で初めて知りました。

    映画『スマッシング・マシーン』

    そこで、いつもの三つの切り口から観ることにしました。テーマ、キャラクター造形、映画技法です。

    この記事では、格闘技の知識がゼロの視点から本作を読み解きます。あわせて、「予備知識なしで観ても楽しめる映画なのか」という疑問にも答えます。

    先に結論を書くと、まったく問題ありません。むしろ本作は、格闘技を知らない観客も入っていけるように作られています。

    監督・脚本・編集はベニー・サフディ。『グッド・タイム』や『アンカット・ダイヤモンド』を兄ジョシュと共同監督してきた人物です。2024年に兄弟が別々の道を歩み始め、本作がベニーにとって初の単独長編監督作となりました(ジョシュ・サフディは2025年『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』を監督)。その作品で、ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)を受賞しています。

    製作はA24。日本では2026年5月15日に、ハピネットファントムの配給で公開されました(日本公式サイト)。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心まで扱います。

    結末だけでなく、エンドクレジット前のエピローグにも触れます。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|無敗の王者が、敗北を受け入れるまで

    物語は1997年に始まります。

    マーク・ケアー(ドウェイン・ジョンソン)は、アメリカの総合格闘技団体UFCで無敗を誇る王者です。やがて主戦場を、日本の総合格闘技イベントPRIDEへと移していきます。

    恋人のドーン(エミリー・ブラント)と暮らすケアーは、穏やかで物腰の柔らかい男です。

    しかし、戦い続ける身体は限界に近づいていました。ケアーは鎮痛剤への依存を深め、1999年、敗北を喫した翌朝に薬物の過剰摂取で倒れます(英語版Wikipedia)。

    リハビリ施設に入ったケアーは、復帰に向けて再起します。一方、ドーンとの関係は、支え合いと衝突の間で揺れ続けます。やがて二人は別れ、ドーンは自殺未遂に至ります。

    動揺を抱えたまま日本での試合に臨んだケアーは、惨敗します。

    そして2000年、PRIDEのグランプリ大会。優勝するのはケアーではなく、彼が励まし続けた盟友マーク・コールマンです。

    ケアーは敗者としてシャワー室に立ち、笑みを浮かべながら、その結果を受け入れます。

    エピローグには、現在のマーク・ケアー本人が登場します。映画で描かれた敗北の10日後、彼がドーンと結婚したことも字幕で明かされます。

    テーマ|勝利のカタルシスを、最初から捨てている

    敗北を受け入れる物語

    あらすじを読んで、気づいた方もいると思います。

    この映画には、スポーツ映画の定番である「最後の勝利」がありません。

    主人公は最後の大会で優勝しません。優勝するのは友人のほうです。主人公は負けたまま、それでも笑って物語を終えます。

    日本版のキャッチコピーは、「“最強の男”が敗北の果てに踏み出す魂の一歩」です(日本公式サイト)。

    宣伝の段階から、本作は勝つ物語ではなく、敗北を受け入れる物語だと告げていたことになります。

    サフディ監督は、観客に持ち帰ってほしいものを次のように語っています。

    人生は大丈夫だ、ということ。楽観でも共感でもいい。それを自分の毎日に持ち出してほしい。

    Forbes

    「病気との闘いに勝つ話」を予想していた私の思い込みは、二重に外れていました。

    ケアーが向き合うのは、私が想像したような病気ではなく、鎮痛剤への依存や、自分自身の弱さです。そしてこの映画は、そもそも「勝つこと」を最終的な目標にしていません。

    負けても人生は続く。その事実を受け入れることが、本作における勝利なのです。

    無敵の身体と、壊れやすい内面

    監督がケアーという人物に惹かれた理由は、はっきり語られています。

    あれほど傷つきやすく、物腰の柔らかい人間が、同時に、リングに入れば5秒で相手を破壊できるマシンでもある。

    Forbes

    この矛盾は、主演俳優にも重ねられています。

    サフディはジョンソンについて、一見すると無敵の大男に見えるが、内側はとても壊れやすい人物だと語っています(同記事)。

    「ザ・ロック」ことドウェイン・ジョンソンは、元プロレスラーの映画スターです。振り返ってみると、私が予告編から「無敵のプロレスラーの物語」を連想したのは、ケアーではなく、ジョンソンのイメージに引っ張られていたからでしょう。

    本作は、その思い込みごと崩していきます。

    最強に見える男の内側を開くこと。それはケアーの物語であると同時に、ドウェイン・ジョンソンという俳優のイメージを解体する試みでもありました。

    格闘技を知らない観客も想定されている

    私のような観客は、この映画にとって想定外ではないようです。

    サフディ監督は、試合場面の位置づけを次のように説明しています。

    リングの中の彼らを見る前に、人としての彼らに観客をつなげたかった。そうすれば、実際に試合を見るときに、まったく違う視点で見ることになる。

    ABCニュース

    つまり本作は、試合の再現よりも、試合の前後にある生活や感情を優先しています。

    格闘技の予備知識は、この映画を観るための条件ではありません。テーマとキャラクターと技法から観るという私の方法は、結果的に、監督が用意した入り口から作品に入っただけでした。

    キャラクター造形|負ける男、支える人、勝つ友人

    マーク・ケアー|5秒で人を破壊できる、優しい男

    本作のケアーは、強さではなく、優しさを芯に持つ人物として描かれています。

    米国の批評サイトMashableのレビューは、ケアーが子どもに自分の仕事を説明する場面における「優しい身体性」を、ジョンソンの演技の白眉として挙げています(Mashable)。

    巨大な身体を小さく折り畳むようにして、穏やかに語りかける男。その同じ身体が、リングに上がれば相手を打ち倒します。

    強さと優しさを一つの身体に共存させた人物造形が、「無敵の身体と壊れやすい内面」という本作のテーマを、そのまま背負っています。

    ドーン・ステイプルス|支えであり、傷つけ合う相手でもある

    エミリー・ブラントが演じるドーンは、ケアーの恋人です。

    二人の関係は、単純な「選手を支える家族」としては描かれません。

    互いに支え合いながら、同時に傷つけ合う。ドーンはケアーの依存と回復に深く関わりながら、彼女自身もまた追い詰められていきます。

    サフディはブラントの起用について、『オッペンハイマー』で仕事をした経験に加え、ジョンソンとの間にすでに友情があったことを理由に挙げています。この二人を演じるためには、「深い愛と友情」が必要だったと説明しています(Forbes)。

    一方、Mashableはドーンを「報われない役」と評し、人物像が類型的だと批判しています。

    ケアーの内面が丁寧に描かれる一方で、ドーンがなぜそこまで追い詰められたのかは、十分に掘り下げられていません。彼女が一人の人物というより、ケアーの不安定さを映す存在にとどまっているように見える点は、本作の弱さでしょう。

    マーク・コールマンとバス・ルッテン|敵であり、友でもある人たち

    本作で、恋人との関係と同じくらい印象に残るのが、格闘家同士の友情です。

    盟友マーク・コールマンは、ケアーのライバルであり、依存からの回復を促す友人でもあります。

    最後の大会で優勝するのはコールマンです。敗者となったケアーが、勝者となった友人を祝福する。その構図が、この映画の結論になっています。

    サフディ監督は、リングでは戦う者同士が、その外では深い友情を保っているという矛盾に惹かれたと語っています(Forbes)。

    配役にも、興味深い仕掛けがあります。

    ケアーを指導するコーチ、バス・ルッテンを演じているのは、バス・ルッテン本人です。当時実際にケアーを指導していた人物が、四半世紀後の映画で自分自身を演じています(DiscussingFilm)。

    映画技法|本物を混ぜて、信じさせる

    別人になるための顔と、その代償

    ジョンソンは本作で、特殊メイクによって別人の顔になっています。

    担当したのは、特殊メイクアップアーティストのカズ・ヒロ。23個の顔面パーツを、毎日4時間かけて装着したそうです(Screen Daily)。

    ジョンソン本人は、この変身を次のように振り返っています。

    キャリアを通じて「お前は絶対に別人には見えない」と言われてきた。今は、誰かの皮膚の中にいるということの意味が分かる。

    Screen Daily

    ただし、このメイクには批判もあります。

    Mashableは、メイクによって眉の上に影が生まれ、ジョンソンの目が隠れてしまうと指摘しました。繊細な感情表現を見せる映画でありながら、肝心の目が見えにくい場面がある、という批判です(Mashable)。

    変身の完成度と、感情表現を妨げる危険性。同じメイクが正反対の評価を受けているのは、この映画の性格をよく表しています。

    本作は、派手なスペクタクルではなく、男の顔に浮かぶ感情を見せようとする映画です。だからこそ、顔を変える特殊メイクの効果と限界が、大きな論点になります。

    対戦相手は、本物の格闘家

    試合場面の説得力は、配役によって支えられています。

    コールマン役は、元Bellator王者のライアン・ベイダー。対戦相手のイーゴリ・ボブチャンチン役は、ボクシングの統一世界ヘビー級王者オレクサンドル・ウシクです。日本からは石井慧も出演しています。

    サフディ監督は、この起用方針を次のように語っています。

    彼らは非俳優ではない。初めての俳優なだけだ。

    DiscussingFilm

    同じインタビューで監督は、試合と人間関係の両方を誠実に描くためには、本物の経験者が必要だったとも説明しています。

    格闘技を知らない私にも、リング上の身体の重さは画面から伝わってきました。

    俳優に格闘家らしい動きを覚えさせるのではなく、実際に戦ってきた身体を撮る。その選択が、観客に不足している予備知識を、映像そのもので補っています。

    記録映像のような画面

    本作は主に16mmフィルムで撮影され、一部に70mmとVHSの映像が混ぜられています(英語版Wikipedia)。

    原案となったのが2002年のHBOドキュメンタリーであることを考えると、粒子の粗い画面は、当時の記録映像の質感を引き継ぐための選択に見えます。

    この点について、監督本人による明確な説明は確認できませんでした。ここは私自身の解釈です。

    なお、編集もサフディ監督自身が担当しています。兄ジョシュとの共同制作で担っていた役割を、本作では一人で引き受けたことになります。

    まとめ|期待と違ったことが、この映画の証明だった

    冒頭の思い込みに戻ります。

    「無敵のプロレスラーが病気と闘う感動作」という私の予想は、外れました。

    実際に描かれていたのは、鎮痛剤への依存、壊れていく恋人との関係、そして敗北を受け入れようとする男の姿です。

    本作は批評面で高く評価されました。ヴェネチア国際映画祭では監督賞を受賞し、ジョンソンはキャリア初のゴールデングローブ賞ノミネートを果たしています。

    一方、興行では大きく苦戦しました。製作費5,000万ドルに対し、世界興行収入は2,110万ドル。公開週末の成績は、ジョンソン主演作として最低だったと報じられています(英語版Wikipedia)。

    興行不振の理由を、作品と観客の期待のずれだけで説明することはできません。

    ただし、「ザ・ロックの映画」から連想される派手な娯楽作と、実際の静かで内省的な作品との間に、距離があった可能性はあります。少なくとも、予告編からまったく違う映画を想像した私は、その距離を実感した観客の一人です。

    それでも、格闘技の予備知識がない私が置き去りにされることはありませんでした。

    本作には、敗北を受け入れるというテーマ、強さと優しさを同居させたキャラクター造形、本物の格闘家や記録映像の質感を取り入れた映画技法という、三つの入り口があります。

    監督自身が、リング上の選手を見せる前に、まず一人の人間として観客とつなげようとしているからです。

    最強の男が見せてくれるのは、勝ち方ではありません。

    負けても立ち上がり、人生を続ける方法です。

    予告編から抱いた思い込みを裏切られたことは、結果的に、この映画が狙いどおりに作られていることの証明でした。

    参考資料

  • 映画『プラダを着た悪魔2』|変わらないミランダが、変わった時代を映す

    2026年公開の『プラダを着た悪魔2』(The Devil Wears Prada 2)は、2006年の前作から20年ぶりの続編です。

    デヴィッド・フランケル監督と脚本のアライン・ブロッシュ・マッケンナが復帰し、メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチの主要キャストが再集結しました。全世界の興行収入は約6億9,000万ドルに達し、20年越しの続編として大きな成功を収めています。

    映画『プラダを着た悪魔2』

    観終えての率直な感想は、メリル・ストリープが驚くほど変わっていない、ということでした。声のトーンも、間の取り方も、周囲を凍らせる視線も、20年前のミランダ・プリーストリーそのものです。

    一方で、彼女を取り巻く世界は大きく変わっています。紙の雑誌は力を失い、トレンドはアルゴリズムに左右され、ファッション誌も広告主の意向から逃れられません。

    この記事では、この「変わらない」という驚きが、実は映画の仕掛けの中心にあることを、テーマ、人物、映像表現の順にたどります。

    ネタバレについて

    この記事は、物語中盤の『Runway』の経営危機と、アンディの復帰をめぐる駆け引きまでを前提に書いています。終盤の展開と結末には触れません。

    あらすじ|女王は健在、しかし城が傾いている

    ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)は、いまも『Runway』の編集長です。

    その美意識も、囁くような話し方も、周囲を緊張させる威厳も、20年前のままです。変わったのは、彼女を取り巻く世界のほうでした。

    紙の『Runway』はかつての勢いを失い、ウェブサイトは短い動画や刺激的な見出しの記事で読者をつなぎ留めています。雑誌の文化的な影響力は残っているものの、経営は厳しく、ミランダの権威と会社の財政の間には、かつてなかった溝が生まれています。

    一方、アンディ・サックス(アン・ハサウェイ)は記者として実績を積んでいましたが、授賞式の最中にテキストメッセージ一本で解雇を告げられます。

    その後、『Runway』の経営側は誌面の信頼回復を図るため、ミランダの同意を得ないまま、アンディを特集編集長として呼び戻します。

    さらに、かつて第一アシスタントだったエミリー(エミリー・ブラント)は、いまや高級ブランドグループの幹部です。『Runway』の生命線となる広告予算を握る側に立っています。

    テーマ|「変わらない」が武器にも悲劇にもなる

    変わらない人が、変わった時代の物差しになる

    観ていて最も驚いたのは、ミランダという人物の再現度です。

    声のトーン、言葉を置く間、相手を見る目。どれも前作の記憶とほとんど変わらないように感じられます。

    そして映画を振り返るほど、この「不変」こそが作品の設計の中心にあると思えてきます。

    ミランダが変わらないからこそ、周囲の変化が際立ちます。

    読まれなくなった紙の雑誌。アルゴリズムが決めるトレンド。数字だけを見る経営陣。コンテンツの質よりも、短時間でどれだけ反応を集めたかが評価される世界。

    変わらない人物がいることで、変わった時代の姿が正確に見えてきます。

    20年ぶりの続編という条件を、この映画は最大限に生かしています。

    影響力はあるのに、お金がない

    「インターネットの時代になっても、ファッション誌が影響力を持っている」という設定は、一歩間違えば懐古的なご都合主義になります。

    しかし本作は、『Runway』が保っている文化的な影響力と、雑誌としての収益力を分けて描きます。

    ミランダの一言には、いまもデザイナーやブランドを動かす力があります。

    しかし、その権威だけでは広告収入を取り戻せません。

    何が価値ある服なのかを決める力と、事業を継続させる力は別のものです。

    この線引きがあるからこそ、ミランダと『Runway』がいまも影響力を持っているという設定に説得力が生まれています。

    頭を下げる側が入れ替わる

    権力の中心が美意識から資本へ移ったことを、映画は人間関係の逆転によって見せます。

    かつてミランダに振り回されていたエミリーが、いまは広告予算を握る側として、完璧なビジネスの笑顔で彼女と向き合います。

    ミランダは、かつて自分が支配していた種類の部屋で、相手の判断を待つ側に立たされます。

    この逆転は、単純な復讐劇としては描かれません。

    エミリーの中には、過去へのわだかまりと、ミランダから学んだことへの敬意が同居しています。ミランダもまた、かつての部下を軽く扱うことができません。

    だからこそ、20年という時間の重さと、立場が変わっても消えない二人の因縁が、静かな緊張として画面に残ります。

    キャラクター造形|変わらない一人と、変わった二人

    ミランダ|不変という選択

    前作で確立された、怒鳴らずに囁くことで場を支配するミランダの話し方は、本作でもそのままです。

    ただし、置かれた状況は大きく異なります。

    絶対的な支配者だった前作に対し、本作のミランダは、自分の基準を守るために経営側や広告主と戦わなければなりません。

    それでも、彼女は基準を下げません。

    周囲がコスト、効率、再生回数の言葉で話すなか、一人だけ美しさと品質の言葉で話し続けます。

    その姿は優雅であると同時に、どこか痛切です。

    「変わらない」ことが、本作では強さであると同時に、孤立の表現にもなっています。

    アンディ|追い出された記者、呼び戻された編集者

    アンディの20年間は、単純な出世物語ではありません。

    前作のあと、彼女は真面目に報道の仕事を積み上げてきました。しかし、そのキャリアの先で待っていたのは、授賞式の最中に届く解雇通知でした。

    その皮肉な導入が、彼女の『Runway』復帰に苦い現実味を与えています。

    しかも復帰は、ミランダの頭越しに決められたものです。

    かつての助手と上司が、今度は互いに望んでいない同僚として再会します。

    前作の師弟関係を繰り返すのではなく、異なる経験を積んだ二人のプロフェッショナルとして対峙させる。この設定によって、二人の関係に大人の緊張感が生まれています。

    エミリー|かつての助手が、財布を握る

    エミリー・ブラント演じるエミリーは、本作で最も鮮やかに変わった人物です。

    前作では、システムに忠実であるがゆえに、そのシステムに振り回され続ける人物でした。

    本作の彼女は、その仕組みの上位へ自力で登り、感情ではなく数字で話す側にいます。

    ミランダに認められるために働いていた女性が、いまではミランダの雑誌を存続させるかどうかを判断できる。

    彼女の存在が、本作の問いを体現しています。

    ファッションを動かすのは、美意識なのか。それとも資本なのか。

    エミリーはその問いを、ミランダの目の前へ突きつけます。

    映画技法|本物で組み立てる伝統は続く

    セルリアンのセーターが帰ってくる

    衣装は、前作のパトリシア・フィールドからモリー・ロジャーズへ引き継がれました。

    ロジャーズはインタビューで、前作の「セルリアンブルーのセーター」がどうしても必要だったと語っています。

    前作でミランダがファッション産業の影響力を説明した、あの場面でアンディが着ていた青いセーターです。

    今回は単に同じ服を再登場させるのではありません。

    衣装フィッティングの際、アン・ハサウェイが保管されていたオリジナルのセーターを現代的なベストへ作り替えることを提案し、採用されたと伝えられています。

    かつてファッションについて教えられる側だったアンディが、その象徴を自分の手で作り替える。

    20年間の変化を、台詞ではなく一着の服が語ります。

    ミラノが「出演」する

    本作の舞台はニューヨークにとどまらず、ミラノへ広がります。

    衣装デザイナーのロジャーズは、ミラノを単なる背景ではなく、衣装と同じように物語を語る存在として扱ったと説明しています。

    歴史ある建物、整然とした街並み、現代的なショールーム。

    ニューヨークが編集とビジネスの街だとすれば、ミラノは服そのものの歴史と権威を担う街として映ります。

    象徴的なのが、『最後の晩餐』を所蔵する施設を再現したセットでの場面です。

    ここでストリープとハサウェイは、ともにジョルジオ・アルマーニのオートクチュールライン「アルマーニ プリヴェ」を着ています。

    ロジャーズは、この衣装を撮影中に亡くなったアルマーニへの敬意として位置づけています。

    服、街、現実のファッション史が、画面の中で地続きになっています。

    本人たちが、本人役で出てくる

    前作から続く楽しみの一つが、カメオ出演を見つけることです。

    本作には、ドナテラ・ヴェルサーチ、マーク・ジェイコブス、ナオミ・キャンベル、ハイディ・クルム、スタイリストのロー・ローチなど、ファッションや芸能界の実在の人物が本人役で登場します。

    その数は30人を超えると報じられています。

    レディー・ガガは、単に会場の背景へ映り込むだけでなく、ミランダと因縁のある「本人」として物語にも関わります。

    ここで前作を振り返ると、違いがよく分かります。

    2006年当時は、アナ・ウィンターとの関係を警戒し、映画への出演に慎重だったデザイナーが少なくありませんでした。本人役で登場した代表的なデザイナーは、ヴァレンティノでした。

    20年後の続編には、業界の顔ぶれが揃って出演しています。

    この変化自体が、『プラダを着た悪魔』がファッション業界にとって、警戒すべき風刺から、業界全体が共有する物語へ変わったことを示しています。

    まとめ|変わらないものを確かめるための続編

    前作から20年の経過を感じさせない。

    観終えた直後の印象は、振り返るほどに二つの意味を持ち始めました。

    一つは、メリル・ストリープが再現したミランダの精度です。

    もう一つは、その不変を意図的な軸として、時代の変化を測らせる映画の設計です。

    変わらないミランダがいるからこそ、紙媒体の衰退も、広告主への権力移動も、数字に支配されるメディアの姿も、くっきり見えます。

    本物の服と本物の業界人によって画面を組み立てる、前作の伝統も受け継がれていました。

    前作で「本物の服」が果たした役割を、本作では「本物の人々」が果たしています。

    続編は前作を超えられない、という言葉があります。

    この映画が前作を超えたかどうかは、意見が分かれるでしょう。

    それでも、20年待った観客に「あの世界は変わっていない。変わったのは、世界を見る私たちの側だ」と感じさせた時点で、この続編には存在する理由が十分にあったと私は思います。

    参考資料

  • 映画『プラダを着た悪魔』|本物の服が、映画を本物にした

    2006年公開の『プラダを着た悪魔』(The Devil Wears Prada)は、デヴィッド・フランケル監督、メリル・ストリープとアン・ハサウェイ主演の職場コメディです。

    製作費約3,500万〜4,100万ドルに対し、世界興行収入は約3億2,700万ドル。女性を主人公にした職場映画として、大きな成功を収めました。

    2026年5月1日には、主要キャストが再集結した『プラダを着た悪魔2』も全米公開されています。

    映画『プラダを着た悪魔』

    1作目を観直して、改めて感じたことがあります。

    この映画の大きな功績は、ファッション業界の内側にある論理や価値観を、業界の外にいる観客にも楽しめるエンターテインメントとして見せたことです。

    ラグジュアリーブランドの服や、ファッション誌で働く人々の世界は、それまで多くの観客にとって遠いものでした。本作は、その世界をアンディという部外者の目を通して案内します。

    しかも、画面に映っている服や装飾は、よくできた模造品ではありません。実際のブランドから集められた、本物の服です。

    この記事では、本作がファッションの世界を説得力のある娯楽へ変えた仕組みを、テーマ、人物、映像表現の順にたどります。

    ネタバレについて

    この記事は、物語中盤のアンディの変身と、彼女が仕事にのめり込んでいくあたりまでを前提に書いています。終盤の展開と結末には触れません。

    あらすじ|「何百万人もの女子が憧れる仕事」

    ジャーナリスト志望のアンドレア・サックス、通称アンディ(アン・ハサウェイ)は、就職活動の末、一流ファッション誌『Runway』編集部で編集長の第二アシスタントとして働くことになります。

    編集長はミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)。ファッション業界の頂点に立つ絶対的な存在で、その要求に妥協はありません。

    「何百万人もの女子が憧れる仕事」と言われながらも、ファッションにまったく興味のないアンディは、次々と降りかかる無理難題に消耗していきます。

    しかし、アートディレクターのナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の手を借りて装いを一変させたことから、アンディは仕事の要領をつかみ始めます。

    服装が変わると、職場での扱われ方も変わる。仕事ができるようになるほど、ファッション業界の見え方も変わっていきます。

    同時に、第一アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)や、仕事の外にいる恋人や友人との関係にも変化が生まれます。

    テーマ|ファッションは「個人の好み」では終わらない

    セルリアンブルーの授業

    本作の姿勢を最もよく表しているのが、有名な「セルリアンブルー」の場面です。

    衣装の選定作業中、アンディは、よく似た2本のベルトを見比べている編集部員たちを見て笑います。

    自分には違いが分からない。だからファッションは大げさで、取るに足らないものだと考えたのでしょう。

    その態度に対し、ミランダはアンディが着ている青いセーターについて語り始めます。

    その色は、アンディが適当に選んだように見えて、実際には数年前に一流デザイナーたちが選んだセルリアンブルーが、コレクションから百貨店へ、さらに量販店へと広がった結果だというのです。

    アンディは自分をファッションの外側にいる人間だと思っていました。

    しかし、彼女が何気なく選んだ服も、巨大な産業が作った流れの末端にあります。ファッションへの無関心さえ、ファッション産業から完全に自由ではありません。

    この数分の会話によって、本作はファッションを「服が好きな人の趣味」から、経済や労働、文化を動かす産業へと見せ方を変えます。

    ファッションに興味のない観客も、アンディと一緒にその見方を学びます。

    本物の服だけが持つ説得力

    その説得力を、画面の側から支えたのが衣装デザイナーのパトリシア・フィールドです。

    フィールドに与えられた衣装予算は、約10万ドルだったとされています。しかし、彼女はファッション業界で築いてきた人脈を使い、ブランドから大量の衣装やアクセサリーを借り受けました。

    その結果、画面に登場するワードローブの価値は、本人の見積もりで約100万ドルに達しました。

    重要なのは、100万ドルを衣装費として使ったわけではないことです。

    限られた予算で、100万ドル相当の本物を画面へ持ち込んだ。その差額を埋めたのが、フィールドの人脈と交渉力でした。

    ミランダには、流行をそのまま追うのではなく、ドナ・キャランなどのアーカイブを使った、時代に左右されにくい服を選ぶ。

    一方のアンディには、シャネルを中心とした若々しく輪郭のはっきりしたスタイルを与える。

    有名ブランドを並べることが目的ではありません。誰が何を着るのかによって、人物の立場や変化を見せています。

    撮影当時、アナ・ウィンターとの関係を警戒し、映画への参加に慎重だったデザイナーも少なくなかったと、制作陣は振り返っています。

    そうしたなか、ヴァレンティノ・ガラヴァーニは本人役で出演しました。フィールドも、ヴァレンティノの出演を喜びとともに振り返っています。

    業界そのものを風刺する映画に、実際のブランドとデザイナーを参加させる。

    私が感じた「ファッションが好きな人ほど楽しめる」という印象の正体は、この調達力と人物ごとの衣装設計にあります。

    悪魔か、プロフェッショナルか

    タイトルは『プラダを着た悪魔』ですが、映画はミランダを単純な悪役としては描きません。

    彼女の要求は理不尽で、部下への態度も冷酷です。しかし、その多くは、世界の頂点にある雑誌の品質を落とさないという一点に向かっています。

    セルリアンブルーの説明からも分かるとおり、ミランダは服を表面的な飾りとして見ていません。

    一枚の服の背後に、デザイナー、編集者、バイヤー、百貨店、量販店までがつながる巨大な産業を見ています。

    映画は彼女の働き方を肯定しているわけではありません。それでも、その厳しさを「性格の悪い女性上司」という一言で片づけることも拒んでいます。

    同じ振る舞いを男性の上司がすれば、「妥協を許さないリーダー」と評価されたのではないか。

    そう考えると、「悪魔」という呼び方そのものが、権力を持つ女性へ向けられる視線を映しているようにも見えます。

    キャラクター造形|業界の外から来た一人と、中にいる三人

    アンディ|観客の目線で業界に入る

    アンディは、観客をファッション業界へ案内する人物です。

    物語の冒頭では、彼女はファッションを軽薄な世界だと決めつけています。

    自分は文章を書く側の人間であり、服に夢中になる人々とは違う。そんな小さな優越感を持っています。

    しかし、『Runway』で働くうちに、ファッションにも専門知識と技術があり、多くの人が真剣に仕事をしていることを知ります。

    服装が変わる場面は、単なる変身ではありません。

    業界の言葉を理解し、その場で働くための方法を身につけたことが、衣装として表れています。

    ただし、映画はその変化を単純な成功として描きません。

    仕事ができるようになるほど、アンディは仕事の外にいた人々から遠ざかっていく。自分が何を得て、何を失いつつあるのかを、彼女自身が考える必要が生まれます。

    ミランダ|怒鳴らない権力

    メリル・ストリープが作り上げたミランダは、アナ・ウィンターをそのまま真似た人物ではありません。

    外見についてストリープが参考にしたのは、白髪を象徴的なスタイルとしていたモデルのカルメン・デロリフィチェと、クリスティーヌ・ラガルドの揺るぎない優雅さと権威でした。

    声の使い方では、クリント・イーストウッドから着想を得たと語っています。

    怒鳴る代わりに、ほとんど囁くように話す。

    相手に近づいて大声で威圧するのではなく、自分の声を聞くために周囲の人間を静かにさせます。

    声が小さいほど、部下は一言も聞き漏らすまいと緊張する。

    権力を音量ではなく、静けさとして表現したことが、ミランダをありふれた「怖い上司」とは違う存在にしています。

    白髪、低い声、ゆっくりとした動作、感情をほとんど見せない表情。

    そのすべてが、怒鳴る必要すらないほど確立された権力を表しています。

    エミリーとナイジェル|システムの中で生きる二人

    第一アシスタントのエミリーは、ファッション業界の規律を完全に受け入れている人物です。

    彼女にとって『Runway』で働くことは、ただの仕事ではありません。厳しい競争を勝ち抜き、自分が価値ある世界に所属していることの証明でもあります。

    その誇りの裏には、体調や私生活を犠牲にしてでも期待に応えなければならない緊張があります。

    ナイジェルは、アンディにファッションの価値を教える案内役です。

    彼にとってファッションは、軽薄な虚飾ではありません。自分の人生を支え、才能を注いできた仕事であり、芸術です。

    アンディが軽い気持ちで職場を見下したとき、ナイジェルが厳しく反応するのは、自分たちが積み重ねてきた仕事まで否定されたように感じるからでしょう。

    エミリーとナイジェルがいることで、ファッション業界の内側にも、それぞれ異なる誇り、野心、犠牲があることが分かります。

    映画技法|服と空間が語る

    衣装がキャラクターの軌跡を描く

    物語の冒頭で、アンディは体の線を曖昧にするニットや、無難で実用的な服を着ています。

    色も形も目立たず、職場の空間から浮いています。

    変身後の彼女は、シャネルのジャケットやロングブーツを軸にした、輪郭のはっきりした服装へ変わります。

    有名ブランドを着たから美しくなった、というだけではありません。

    服の形がはっきりするのと同時に、職場での彼女の動きや態度にも迷いがなくなります。

    衣装が、仕事への習熟と自信の変化を語っています。

    ミランダの衣装は、それとは対照的です。

    彼女は流行を追いかける必要がありません。毛皮、高級ジュエリー、構築的なシルエットによって、すでに流行を決める側にいる人物として映ります。

    アンディの服は変化を語り、ミランダの服は揺るがない地位を語る。

    衣装が台詞とは別の方法で、人物の物語を進めています。

    ファッション誌の空気を作ったオフィス

    プロダクションデザイナーのジェス・ゴンチョーは、ファッション誌の編集部を調査し、『Runway』のオフィスを作り上げました。

    光沢のある床、整然と並ぶデスク、白を基調とした壁、額装された写真や雑誌の表紙。

    空間そのものが、乱れを許さない職場の規律を伝えています。

    なかでも印象的なのが、ミランダの出社場面です。

    彼女が建物に到着したという知らせが入ると、編集部員たちは一斉に動き始めます。

    履きやすい靴からヒールへ替える。食べ物を隠す。化粧を直す。机の上を整える。

    ミランダはまだ画面に現れていません。

    それでも、彼女が近づいているという情報だけで職場全体が変わります。

    権力を持つ本人ではなく、その人を待つ周囲の反応によって権力を描く。数十秒の動きだけで、ミランダがどのような存在なのかを観客に理解させています。

    音楽が刻む「別世界」との距離

    冒頭では、ニューヨークの女性たちが服を選び、化粧をし、完璧な装いを仕上げる様子と、アンディの簡素な支度が交互に映されます。

    そこに流れるのが、KTタンストールの「Suddenly I See」です。

    アンディとファッション業界の女性たちは、同じ街で同じ朝を迎えながら、まったく違う世界に住んでいるように見えます。

    その後、変身したアンディが日替わりの装いで街を歩く場面には、マドンナの「Vogue」が使われます。

    音楽そのものが、ファッション文化への目配せです。

    冒頭ではファッションの世界を外側から見ていたアンディが、やがてその映像の中心を歩くようになる。

    彼女と業界の距離が縮まる過程を、衣装だけでなく音楽も伝えています。

    まとめ|本物の服が、映画を本物にした

    『プラダを着た悪魔』の画面を支えているのは、豪華さを装った小道具ではありません。

    約10万ドルの予算から集められた、約100万ドル相当のワードローブ。ファッション業界の人脈を使って借り出された服やアクセサリー。本人役で出演したヴァレンティノ。そして、ファッション誌の空気まで再現したオフィス。

    この映画の華やかさは、現実のファッション業界から持ち込まれた本物によって作られています。

    だからこそ、セルリアンブルーの場面に説得力が生まれます。

    画面に映る服が実際の産業とつながっているから、「ファッションは社会を動かす仕事だ」というミランダの言葉が、絵空事に聞こえません。

    ファッションが好きな人には、衣装や小物の隅々まで楽しめる映画です。

    興味がない人にとっては、自分には関係がないと思っていた世界が、実は日常の服にまでつながっていると気づかされる映画です。

    映画はハイファッションを初めて娯楽にしたわけではありません。

    しかし、ファッション業界の専門性、残酷さ、華やかさを、誰もが理解できる職場映画として成立させました。

    本物の服を並べただけではなく、本物の服が動く産業の論理まで物語にした。

    公開から20年たっても新しい観客を獲得し続けている理由は、そこにあると私は思います。

    参考資料