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  • 映画『急に具合が悪くなる』|長い、とにかく長い

    濱口竜介の映画は長くて、難しい。

    そういう先入観を、私はけっこう長いこと持っていました。

    それが消えたのが『偶然と想像』です。121分の三話オムニバスで、一話あたり約40分。区切りがあるぶん軽く入れて、話も追いやすい。これなら怖くないと思いました。

    ところが、そのあとに観た二本で、先入観は半分ずつ戻ってきます。

    『悪は存在しない』は、やっぱり難しかった。

    そして2026年公開の『急に具合が悪くなる』(Soudain)は、やっぱり長かった。196分。3時間16分です。

    本作は濱口にとって初のフランス語作品で、フランス・日本・ドイツ・ベルギーの4か国合作。2026年5月の第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でお披露目され、ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が女優賞を共同受賞しました。日本公開は同年6月19日、配給はビターズ・エンドです。

    観終えたあと、私の頭に残ったのは二つでした。長い、ということ。そしてもう一つ、濱口監督の政治的なスタンスがこの映画ではずいぶん前に出ている、ということ。

    この記事で書きたいのは、その二つは別々の感想ではなく、同じ一つのことの表と裏なのではないか、という疑いです。

    ネタバレについて

    結末まで書きます。

    森崎真理が亡くなること、その死がどう撮られているか、彼女の最後のショットがどう仕上げられているかまで触れます。

    未見の方はここで引き返してください。

    あらすじ|パリ郊外の介護施設と、日本から来た演出家

    舞台はパリ郊外の高齢者介護施設「自由の庭」。

    施設長のマリー=ルー・フォンテーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)は、ユマニチュードというケアの技法を施設に根づかせようとしています。

    そこへ日本人の舞台演出家・森崎真理(岡本多緒)が現れます。ステージIVのがん患者で、いつ「急に具合が悪くなる」かわからない身体を抱えたまま、パリで新作の演劇を立ち上げようとしている。

    二人は偶然に出会い、名前の響きの近さに引っ張られるように話しはじめます。

    物語は日付の字幕を挟みながら日誌のように進みます。後半には日本(京都・山中)のパートが入ります。

    まず、長い|これは体感ではなく数字の話

    「やっぱり長い」という感想は、数字で裏が取れます。

    濱口の劇映画のなかで196分は、『ハッピーアワー』(317分)、『親密さ』(255分)に次ぐ3番目。商業長編としては2番目の長さです。

    『ドライブ・マイ・カー』(179分)を17分、そして『偶然と想像』(121分)を75分上回ります。

    75分。短編映画が丸ごと一本入る差です。

    『偶然と想像』を入口にして「濱口監督は怖くない」と思った人間が本作で長さに面食らったのは、気分の問題ではありませんでした。カンヌのコンペティション部門に並んだ22作のなかでも、本作が最長だったと報じられています。

    何がそんなに長いのか|事件ではなく、会話で進む

    長さの中身にも特徴があります。

    上映時間のおよそ半分が、二人が出会ってからの最初の数日に使われます。中盤にはパリを歩きながらの、一晩がかりの長い対話が置かれる。

    事件が起きて物語が動くのではなく、会話が積み重なって関係が動く。だから時間が要ります。

    この体感は私だけのものではなさそうです。

    英語圏では、AnOtherが本作を「極端に饒舌」と評し、長い室内場面の多さが濱口の映画的な眼を狭めていると書きました。IONCINEMAは「ドラマティックな緊張はほとんどない」として評価を抑えています。

    フランスのL’Info Tout Courtにいたっては10点満点で4.5点。作中に「Humanitude」という単語が15回ほど出てくると数え上げ、長いビラのようだと切り捨てました。

    つまり、長いと感じること自体は特異な反応ではない。

    ところが、監督本人はまったくそう思っていません。

    「脚本の時点で4時間近くになるだろうという感じがあったので、随分短くしたなと個人的には思っています」

    anan Web

    随分短くした。

    3時間16分を座って観た側としては、ちょっと待ってくれと言いたくなる発言です。

    でも、この落差がこの映画を考える入口になりました。監督にとって196分は削った結果であって、盛った結果ではない。だとすれば、削っても残さなければならなかったものは何なのか、という問いが立ちます。

    原作|邦題は偶然ではない、しかし忠実な映画化でもない

    先に事実を一つ押さえます。

    本作は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡集『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)の映画化です。邦題は原作の題をそのまま使っています。原題のSoudainはフランス語で「突然」を意味し、原作の「急に」に対応しています。

    宮野は本の刊行の2か月前、2019年7月に42歳で亡くなっています。書簡が交わされたのは同年4月から7月。書名のとおりのことが、書き手自身の身に起きた本です。

    ただし、映画は原作を忠実になぞってはいません。

    濱口自身が、原作の言葉そのものを使っている部分は非常に少ないと述べています。舞台は日本からパリ郊外の介護施設へ移り、手紙という時間差のあるやりとりは、対面の会話へ置き換えられました。

    原作者の磯野は、濱口が既存の言葉を「花束」として切り取るのではなく「土壌のエッセンス」を引き継いだと評しています。

    日本パートに出演する長塚京三のコメントが端的です。

    「あの原作がこのホン? あまりに自由な想像力の奔流に圧倒され、しまいには感動していました」

    CINRA

    なので、原作を読んでから観ると別物に見えるはずですし、観てから読んでも同じはずです。同じ題名の、別の作品として扱うのが正しい。

    批評家の若林良は題名についてこう指摘しています。「急に具合が悪くなる」という日本語では、「具合が悪くなる」よりも「急に」のほうに重心がある、と。

    この読みは映画にもそのまま効きます。本作が扱っているのは病そのものよりも、いつ来るかわからないという時間のほうだからです。

    テーマ|ケアは資本主義のなかで可能か

    ユマニチュードは、手間を惜しまないことを技術にした

    物語の骨格になっているのが、フランス発祥のケア技法ユマニチュードです。

    「見る・話す・触れる・立つ」の四つを柱にします。目線の高さを合わせる。声をかける。触れる。立つのを助ける。書き出すと当たり前のことばかりですが、これを心構えではなく技術として定式化したところに要点があります。濱口も「単なる精神論ではなく、技術である点が重要と感じました」と語っています。

    その当たり前のことには、時間がかかります。

    マリー=ルーはこの技法を施設に入れようとして、収益を優先する出資者や経営側の抵抗に遭います。研修には金がかかる。人手は足りない。足りないから一部の職員に負荷が寄る。

    ここで映画は、ケアの話を静かに経済の話へつなげていきます。

    濱口は理論的な参照を持っている

    この政治性は思いつきではありません。

    濱口は脚本を書くときに政治哲学者のナンシー・フレイザーを参照したと明言しています。

    「資本主義というのは、まず社会の中のケアを食い潰していくシステムだと指摘しています。つまりその部分に賃金を払わない、ということですね」

    GQ JAPAN

    同じ取材で、こうも言っています。

    「現代の社会で最も欠乏している資源は、実のところ『関心』であるという実感を持っています」

    関心が資源だという言い方は、この映画の全体を貫いています。誰かに目を向け、その人のために時間を割くこと。それがコストとして計上され、削られていく。

    別の取材では、介護と自分の仕事を同じ土俵に並べています。

    「これはケアの業界に限ったことではなく、自分のいる映像業界でも同じと思いました。ケア業界も映画業界も同じ社会の同じ構造、つまり資本主義的なシステムの中で生きている」

    Branc

    さらに踏み込んだ言い方も残っています。

    「われわれは今『効率』や『生産性』の依存症状態になっているように思えます」

    ヒルズライフ

    依存症、という語を選んでいるのが強い。効率を求めるのはもはや判断ではなく、やめられない癖になっている、という含みです。

    ホワイトボードの場面をどう受け取るか

    作中、真理はホワイトボードを使って、資本主義や戦争を含む社会の構造を図解しはじめます。

    正直に言うと、ここは身構えました。登場人物が世界の仕組みを黒板で説明しだす映画は、たいてい説教になるからです。

    批評もはっきり割れています。教条的だという批判がある一方で、リアルサウンドの小野寺系は、濱口は思想を説いているのではなく、極限状態の人間がホワイトボードを使ってまで世界を理解しようとする瞬間を客観的に撮っているのだと読みました。

    私は後者に近い受け取り方をしました。あの場面で目を引くのは図の内容よりも、図を描き続ける人の切迫のほうだったからです。もう時間がない人間が、それでも世界の仕組みを知ろうとしている。

    濱口の側にも留保があります。ユマニチュードの宣伝映画を作るつもりは全くなかった、と公式資料で明言しています。夜の場面を多用したのも、昼間の明るい画で資本主義の話をしたら講義に見えただろうから、という説明をしています。

    政治的になったと指摘されたときの返答も効いています。

    「私が政治的になったのではなく、むしろ私たちの社会のほうが政治的になったのだと思う」

    franceinfo

    同じ取材で、ユマニチュードのやり方は映画産業にも適用すべきだし、社会全体にまで広げるべきだ、とも語っています。

    介護の現場を描きながら、その要求を自分の業界にそのまま向けている。ここは筋が通っていると思いました。

    テーマ|長さと政治は、同じ一つのことだったのではないか

    ここからは私の解釈です。監督がそう述べた記録はないので、そのつもりで読んでください。

    効率と生産性への依存を批判する映画が、観客に3時間16分を要求している。

    これは、たぶん偶然ではない。

    ユマニチュードとは要するに、手間を惜しまないことを技術として定式化したものです。目を合わせる時間、声をかける時間、立たせるまで待つ時間。効率の側から見れば、すべて削れる工程です。それを削らないと決めることが、この技法の中身になっている。

    同じことを、この映画は観客に対してやっています。

    二人が親しくなるまでの数日に、上映時間の半分を使う。一晩の対話をまるごと通す。要約すれば10分で済む関係の変化を、要約しない。

    観客は、上映時間そのものによって「効率を放棄する経験」に付き合わされます。

    フランスの批評誌AOCが「3時間超の映画が瞬間を讃える」という逆説を指摘し、本作を「私たちをケアする映画」と呼んだのは、この構図に重なります。Metal Magazineが本作の主題を資本主義的な時間の暴力に見て、ケアを別の時間の提示として読んだのも近い。

    そう考えると、「長い」という不満の位置が変わります。

    長さは、作品が観客に負わせようとした負荷なのではないか。だとすれば、長さに文句を言うことは、この映画が最初から想定していた反応の一つということになります。

    濱口自身は、長さの理由をもっと素朴に説明しています。物語のほとんどの時間、二人はまだ互いをよく知らない。にもかかわらず終盤、マリー=ルーは日本にいる真理に「一緒にフランスに帰ろう」と言う。あの一言が自然に見えるためには、観客が二人と同じだけの時間を過ごしている必要があった、と。

    つまり長さは、あの一言のための投資だった、という説明です。

    この説明と、先ほどの解釈は矛盾しません。関係が育つのに時間がかかるという事実を省略しないこと。それ自体が、効率への抵抗だからです。

    なので、私の結論はこうです。「やっぱり長い」と「政治的なスタンスが出ている」は、観たあとに別々に浮かんだ二つの感想でしたが、映画の側では一つのことだった。

    そう考えたとき、196分に対する座り心地の悪さは、ようやく落ち着きました。

    キャラクター造形|三人が担っているもの

    マリー=ルー・フォンテーヌ|制度の内側で理念を通そうとする人

    エフィラが演じるマリー=ルーは、この映画で「制度の側」を引き受けています。

    正しいと思う方法を、予算と人員という現実のなかで実装しようとする立場です。だから彼女は理念を語るだけでは済まず、交渉し、押し切り、摩擦を受ける。

    面白いのは、彼女が単純な善人として造形されていないことです。Screen Dailyは、エフィラがマリー=ルーの傲慢さを、たゆまぬ献身と並べて演じていると評価しました。

    理念を掲げる人特有の押しつけがましさが、ちゃんと画面に残っている。

    彼女は変わる人物でもあります。真理と出会って、ケアを与える側から、誰かと時間を分け合う側へ移っていきます。

    森崎真理|考えることをやめない人

    岡本が演じる真理は「思考の側」を担います。

    制度の外側から、世界の構造そのものを理解しようとする人物です。ホワイトボードの場面はその極まった形と言えます。

    彼女の台詞に「不可能なものは不可能。可能になるまでは」というものがあります。小野寺系はこれを、人を正常と異常に分けて管理しようとする仕組みへの反逆と読み、パンク精神の宣言と呼びました。

    真理が演出する劇のタイトルが『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』であることを思えば、この読みに無理はありません。

    マリー=ルーが変わる人物だとすれば、真理は変わらない人物です。

    変わるのは身体のほうで、考えることのほうは最後まで止まらない。この対比が、二人を並べる意味を作っています。

    二人の関係|名前をつけない

    批評の一致点は、この関係が友情と恋愛の中間にあることです。IONCINEMAは二人の相性をどんな恋愛関係にも劣らないと評し、Tokyo Weekenderは性的なものを含まないロマンスと呼びました。

    濱口は二人の関係の性質を規定しなかったようです。エフィラがこれは何なのかと尋ねると、「君にとってそうなら、そうだ」と返したとTROISCOULEURSで語られています。

    関係に名前を与えないことも、この映画の態度の一つでしょう。名前をつけた瞬間、関係は要約されてしまうからです。

    施設の入居者たち|ケアは一方通行ではない

    入居者同士が互いの足をマッサージし合う場面があります。

    ケアが施設からサービスとして提供されるものではなく、人のあいだで往復しうるものだと示す場面です。エフィラはこの場面を「資本主義への応答としての足マッサージの詩情」と表現しています。

    この映画で音楽が使われる数少ない場面の一つでもあります。

    映画技法|長さを支えるための選択

    顔に寄らない

    撮影監督のアラン・ギシャウアによれば、本作の画面比は1.5:1。35ミリの写真フィルムと同じ横長の比率です。人物の頭上には、大きく空間が残されています。

    人物を撮る大きさも特徴的で、全身や膝から上あたりが中心。顔に大きく寄るショットはほんの一握りしかありません。

    エフィラは濱口を、演技を見せつける方向へ一切進まない「アンチ・パフォーマンスの映画作家」だとNuméroで評しています。

    顔に寄って「この演技を見てください」と差し出すことを絶対にしない。俳優をフレームに収めようとするのではなく、その人を見ようとする。彼女はそう言っています。

    3時間16分の会話劇でありながら、映画が観客の感情を誘導しにこない。この距離の取り方が、長さの体感をかなり左右しています。

    光が、関係と一緒に変わっていく

    ギシャウアの説明で驚いたのが、光の扱いです。

    冒頭は施設の天井照明に倣った上からの光。進むにつれて窓からの光が増え、日光が室内を浸していく。マリー=ルーと真理の関係の深まりに、明るさを伴走させたのだといいます。

    さらに、二人が出会う最初の夜を境に色調そのものが切り替わり、以後は青の鮮やかさが上がります。青は真理に結びつけた色だそうです。

    撮影も時系列の順に進められ、進行につれて濱口はカメラのブレーキを緩めていったといいます。冒頭の抑えた固定画面から、移動やパンへ。

    この映画は3時間16分かけてゆっくり明るくなり、ゆっくり動きはじめる。短くしたら成り立たない作りです。

    意図を抜いて読む

    濱口の演出方法として知られる「本読み」は、フランス語圏では「平板な読み」「意図なしに」と呼ばれたそうです。

    濱口の説明はこうです。

    「本読みは無感情にやってもらうので、その段階では2人は淡々と話すだけ」

    WWD JAPAN

    撮影に入ると、話している人よりも聞いている人のほうを強く演出する。まず聞き手を撮る。これはエフィラが複数の取材で独立に証言しています。

    会話劇なのに、映画が見ているのは喋っている人ではない。

    これも長さと関係しています。聞く時間を省略しない映画だから、会話が実際にかかる時間だけ、画面にも時間がかかる。

    最後のショット

    第3時間は真理の死に充てられます。

    ここが感傷を排して撮られているのが、この映画のいちばん強いところだと思いました。涙の別れも、失われた時間の埋め合わせもない。日常の細部が続いていく。

    真理は最終的に、人生は良いもので世界は素晴らしいと語ります。その理由として挙げられるのが、小さな瞬間の積み重ねであることです。

    彼女の最後のショットは、露出を上げてほとんど消えゆくような画に仕上げられています。

    3時間16分をかけて明るくしてきた光が、最後に人物を飲み込む。長い時間をかけて積んできたものが、ここで一本につながります。

    『偶然と想像』と『悪は存在しない』|九鬼周造という共通の水脈

    最後に、私が本作をいちばん面白がった一点を書きます。

    原作者の宮野真生子は、哲学者・九鬼周造の研究者でした。著書に『出逢いのあわい——九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』があります。

    そして濱口は『偶然と想像』の時期に九鬼の『偶然性の問題』を読み、偶然を「独立なる二元(二者)の邂逅」だと紹介していました。因果関係のない二つの独立した事象が出会うこと。それが偶然だ、という理解です。

    本作でも濱口は、偶然を引き受けること、逃さないこと、そこから発展していく関係性が重要だと語っています。九鬼は非常に難しい本だが、宮野が平易な言葉で語ってくれたおかげで腑に落ちた、とも。

    マリー=ルーと真理は偶然に出会い、名前の響きの近さに導かれて関係を作ります。因果のない二人の邂逅です。

    ただし、濱口が「宮野が九鬼研究者だから原作に惹かれた」と述べた記録はありません。順序を断定するつもりはない。

    それでも、『偶然と想像』で参照された哲学者と、本作の原作者が生涯をかけて研究した対象が同じ書物に発している、という事実は残ります。三本を並べて観ている側としては、これはかなり効く発見でした。

    そしてもう一つ。濱口は短くて不可解な映画と、長くて饒舌な映画を交互に作っているように見えます。

    106分で説明を欠き、結末の解釈を観客に投げる『悪は存在しない』。196分で登場人物が世界の構造を言語化しつくす本作。

    「やっぱり難しかった」と「やっぱり長かった」は、この二本の性格の違いをそのまま踏んだ感想だったわけです。

    なお、リアルサウンドの渡邉大輔は本作を飛躍ではなく、過去10年のモチーフの集大成と位置づけ、資本主義という主題も『悪は存在しない』からの連続と見ています。新しいのは主題ではなく、それが登場人物の口から語られるようになったことのほうかもしれません。

    まとめ|長い、とにかく長い。それでも

    長い、とにかく長い。

    これは観終えた直後の私の正直な感想で、いま書いても取り消す気はありません。3時間16分は長いです。

    ただ、その長さが何だったのかは、観終えてからのほうがよくわかりました。

    効率を批判する映画が、観客から3時間16分を取り上げる。手間を惜しまないことを技術として描く映画が、自分でも手間を惜しまない。これを主張と形式の一致と読むのは私の解釈で、監督の明言があるわけではありません。それでも、この読みを通すと196分が急に納得のいく数字になります。

    日本での受け止めも悪くありません。オープニング3日間の興行は『ドライブ・マイ・カー』を上回り、上映館も公開後に増えました。196分の会話劇としては、かなり異例でしょう。

    『偶然と想像』で濱口監督への先入観が消えて、『悪は存在しない』で「難しい」が戻ってきて、本作で「長い」が戻ってきた。

    でも、戻ってきた「長い」は、最初に持っていた「長い」とは中身が違っていました。観る前の「長い」はただの警戒でしたが、観たあとの「長い」には理由がある。

    それがわかったぶんだけ、私にとっては次の一本が観やすくなりました。

    参考資料

  • 映画『悪は存在しない』|難解な文芸作品のほうの濱口竜介

    濱口竜介監督には、長いあいだ勝手な先入観を持っていました。

    やたらと長い映画を作る人。難しい文芸作品を撮る人。

    その先入観を破ってくれたのが『偶然と想像』でした。会話だけで転がっていく121分を観て、長くも難しくもないじゃないか、と思ったのを覚えています。

    ところが、そのあとに観た二本で、先入観は半分ずつ戻ってきました。

    『急に具合が悪くなる』はやっぱり長かった。そして、今回の『悪は存在しない』は、やっぱり難しかったのです。

    ただし、この映画の難しさには、はっきりした出所があります。

    そもそも本作は、映画として企画されたものではありません。出発点は、音楽家・石橋英子から濱口監督への依頼でした。

    石橋は共同インタビューでこう証言しています。

    私のほうから濱口さんに、ライブ演奏に添える映像を作ってくれないかと持ちかけた。

    Academy A.frame

    つまり、音楽が先にあります。映画のほうが、音楽に添える映像として始まっている。

    企画のクレジットにも、濱口と並んで石橋の名前があります(公式サイト)。

    難解と言う前に、この映画はまず順序が逆です。

    この記事では、私が観ながら思った三つのこと——前半は音楽が主役に聴こえること、グランピング場の説明会で温度が変わること、そして最後がカオスであること——を手がかりに、その難しさの中身を追いかけます。

    ネタバレについて

    この記事は、結末で何が起きるかに触れます。

    終盤の暴力と、その直後に画面がどう終わるかまで書きます。監督が編集について語った内容も引用します。

    未見の方は、鑑賞後にお読みください。

    あらすじ|水挽町に来たグランピング場の計画

    長野県の架空の町、水挽町(みずびきちょう)。

    巧は、薪を割り、湧水を汲み、地域の何でも屋として働いています。娘の花と二人暮らしです。

    そこへ東京の芸能事務所が、グランピング場——テントに設備を整えた野外の宿泊施設——の建設計画を持ち込みます。コロナ禍で打撃を受けた会社が、政府の補助金を使って新事業に乗り出す、という筋書きです(公式サイトBunkamura ル・シネマ)。

    やがて住民説明会が開かれます。

    会社から来たのは、高橋と黛の二人。計画には、浄化槽の容量も水質への影響も、詰められていない部分が残っています。

    あらすじとして必要なのは、ここまでです。

    なお本作は2023年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞し、日本では2024年4月26日に公開されました。上映時間は106分です(映画.com)。

    テーマ|悪の在り処を探す視線が、途中で効かなくなる

    「これは本当に我々の話」——外側に原因を置かない

    タイトルは強い言葉です。悪は存在しない。

    しかし濱口は、この映画が誰かを告発する話ではないと明言しています。

    これは本当に我々の話だと思います。何かよそに「悪の原因」があるっていうような話ではない。

    CINRA

    同じインタビューでは、本作でやったことを「『どっちとも言えない』という視座を丁寧に構築していくということだった」と要約しています。

    つまり、悪が消えるのではありません。悪の在り処を名指しできる立ち位置のほうが、途中でなくなっていきます。

    善悪が濁るのは、目的ではなく結果

    方法についての発言もあります。

    その行動原理に嘘がないように創っていくと、自然と善だ悪だというのは濁ってくる

    BRUTUS

    順序に注意したいところです。

    善悪を濁らせようと先に決めて人物を配置したのではなく、それぞれの人物が嘘をつかずに動いた結果として濁った、と言っています。

    これは「メッセージのある映画」という読み方を、作り手自身が押し返している言い方だと思います。

    だから本作には、告発の相手がいません。いないのに、被害はきちんと発生します。

    水は低い所へ流れる

    説明会で、地元の区長が言います。水は低い所へ流れる、上流でやったことは必ず下に影響する、と。

    水系の物理の話であり、同時に意思決定の話でもあります。

    映画評論家の松崎健夫は、この台詞を軸に本作の悪を灰色のものとして論じました。誰もが加害者にも被害者にもなり得るし、誰もが悪の側にも善の側にもなり得る、と(映画.com 批評)。

    決めているのは、いつも上流にいる誰かです。そして上流にいる人ほど、下流で何が起きるかを見ずに済みます。

    ここで効いてくるのが、高橋と黛の立ち位置です。

    二人は上流ではありません。彼らの上には、東京からオンライン会議で計画を押してくる人たちがいます。

    補助金の締め切りに合わせて数字を作る論理は、その画面の向こう側にあります。

    悪の在り処を探す視線は、上流をたどっていくうちに対象を失う。私にはそういう構造に見えました。

    キャラクター造形|誰も悪役の位置に留まらない

    巧|誰とも対立しない主人公

    主人公は、物語を動かしながら、最後まで誰とも対立しません。

    濱口自身がこの構造を指摘しています。

    わかりやすい対立構造みたいなものがあって話が進むなか、主人公はずっと誰とも対立する立場にはいないんです。

    Yahoo!ニュース エキスパート

    説明会でも、巧は会社を糾弾しません。

    彼が出すのは、あそこは鹿の通り道だ、そのとき鹿はどこへ行くのか、という問いです(Tokyo Art Beat)。

    告発ではなく、生き物の側の事情として置かれます。

    演じる大美賀均の顔は、感情の方向をほとんど示しません。何を考えているのかが読めない時間が長く続きます。

    この読めなさと非対立の姿勢が、終盤の行動との落差を最大にします。

    花|境界を無防備に行き来する子ども

    花は8歳。学童保育から一人で歩いて帰り、森の道も木の名前も知っています。

    大人たちが会議室で議論している共存を、花はただ実践してしまいます。

    巧が迎えを忘れる描写が何度か置かれ、それが終盤の失踪へつながります。

    言い換えると、この子は境界の内と外を最も無防備に往復する人物です。

    その往復がやがて取り返しのつかない結果を招くところに、本作の残酷さがあります。

    高橋|最も大きく変わる人物

    本作で最も変わるのは、開発側の高橋です。

    説明会の場面で、二人は住民と噛み合いません。

    4Columnsのレオ・ゴールドスミスは、急ごしらえで生煮えの計画が示されて場がたちまち気まずくなると書き、会社側が業界の言い回しと空疎な決まり文句で住民を遠ざけていると評しています(4Columns)。

    ところが、その高橋が本社の方針に押し切られて水挽町へ戻ってきます。

    そして巧の仕事を手伝います。薪を割る場面には、この映画でいちばん良い時間が流れています。

    彼は悪役の位置から降りていきます。

    そして、降りたその場所で、最後の暴力を受けます。

    黛と住民たち|どちらの側も理想化しない

    黛は高橋の同僚です。会社側として振る舞いながら、計画の無理を早い段階で見抜いています。

    車で移動しながらの二人の会話が、開発側にも迷いと人格があることを担保しています。

    一方の住民も、素朴な自然の守り手としては描かれません。

    Sight and Soundのニコラス・ラポルドは、本作が開発側の担当者を人間として描く一方で、村の暮らしを美しい絵として描くことも拒んでいる、と評価しています(Sight and Sound)。

    住民の多くは移住者です。反対の理由も感情論ではなく、浄化槽の容量、水質、山火事のリスクといった具体的な指摘として出てきます。

    つまり、どちらの側にも寄りかかれる正しさが用意されていません。

    映画技法|音楽・場面の配置・編集点

    音楽が主役だという体感は、正しい

    観ながら最初に思ったのは、音楽が主役だということでした。

    冬枯れの梢を下から見上げたまま進んでいく長いショットに、弦とピアノの反復が長くかぶさります。クラシックの語法を土台にしながら、反復や電子音を混ぜていく現代の器楽曲——ポスト・クラシカルと呼ばれる音楽に近い響きです。

    薪を割る。水を汲む。作業の時間が省略されずに映ります。

    物語はまだ始まっていないのに、音楽だけが先に進んでいる感じがしました。

    この体感は、たぶん錯覚ではありません。

    すでに書いたとおり、この映画は音楽の依頼から始まっています。音楽に添える映像として撮られた区間が、実際に存在するわけです。

    順序が逆であることは、頭で知る豆知識ではなく、前半の体感としてそのまま出ています。

    そして映画は、その音楽を断ち切る

    面白いのは、音楽が主役の状態が続かないことです。

    濱口は編集についてこう述べています。

    編集時に、時に唐突に、あるいは暴力的に音楽を断ち切ることを選んだ。

    Academy A.frame

    断ち切ることを「選んだ」と言っています。

    裏を返せば、放っておけば音楽が映画を主導していたということでもあります。

    批評もこの特徴を揃って指摘します。ラポルドは、音楽がドラマの展開とは別に映画へ堅固な構造を与えているとし、同時に不穏な効果とともに唐突に途切れることもあると書いています。ゴールドスミスは、突然音楽が断たれることで、その情緒がいっそう判読しにくくなると評しました。

    石橋の側にも、音楽が観客の感情をコントロールしてしまう危険性への警戒があります(ぴあ映画)。

    作曲した本人が、自分の音楽の力を警戒している。

    断ち切りは、その危険への処方箋のように見えます。ただしこれは私の読みで、濱口がそう説明した記録は見つけられませんでした。

    いずれにせよ、前半で音楽が主役に聴こえるのは、後半でそれを奪うための準備だったと思います。

    観客の身体は、断たれた瞬間にそれを知ります。

    説明会|温度が変わる場所

    説明会の場面で、映画の温度が変わります。

    変わるのは、話し方です。

    住民は数字と地形で話します。浄化槽の容量、水の量、火の始末。

    会社側は、段取りと決まり文句で話します。

    温度差の正体は敵意ではなく、使っている言葉の種類の違いだと思います。同じ日本語なのに、噛み合っていない。

    そして、この場面の置かれ方が変則的です。

    ラポルドは、同種の住民集会の場面を持つ他の映画と比べて、濱口がそれをより早い位置に置いていると指摘します。対立が物語を支配するのではなく、緊張が共同体全体に染みていく過程を追える構成になっている、と(Sight and Sound)。

    実際、説明会のあと、映画は対立を激化させません。

    むしろ高橋を村へ引き寄せていきます。

    温度は一度上がってから、妙に下がる。この二段構えが、私の感じた温度変化の内訳でした。

    そして、下がったところで最後が来ます。

    鹿を見せないこと

    鹿はほとんど画面に出てきません。

    足跡、糞、骨、そして遠くの銃声。痕跡だけがあります。

    濱口はこの扱いを意識的なものとして語っています。

    見つからないが故に人を惹き付けて、何か探させてしまうものとして機能していると思います。

    Fan’s Voice

    また、水が流れ、わさびが育ち、鹿が樹皮を食べ、鹿が人間の領域に入ってくるから猟が起き、猟師に殺される——という循環についても述べています(BRUTUS)。

    人間と鹿が、同じ循環の中に置かれている。この視座は監督本人のものです。

    作中には、鹿は普通なら人を襲わないが、手負いの個体や仔を連れた個体は別だ、という趣旨の説明も出てきます。

    終盤で花が向き合うのは、まさにその条件を満たした鹿です。

    条件が結末の直前に置かれていること自体が、準備だと思います。

    結末|どこで切るかで、生死が決まる

    そして最後の数分が来ます。

    霧の中で、巧が高橋を襲います。

    ゴールドスミスはこの終盤を、文字どおりの霧であり比喩としての霧でもあると書き、記述も予想も裏切る極端な身振りだと評しました(4Columns)。

    私も、観た直後は単純にカオスだと思いました。

    ただ、自分が何に混乱したのかを、濱口の言葉が正確に言い当てていました。

    何が起きたかについては、映像と音からかなり明確だと思います。しかし私たちは、なぜそれが起きたのかという問いを残されます。

    The Film Stage

    たしかに、画面で起きたこと自体は見えています。分からないのは理由のほうです。

    同じインタビューで濱口は、結末がある程度あいまいであることは認めつつ、多くの人が言うほど象徴的でも非現実的でもない、とも述べています。

    つまり、比喩として読み替えられることには距離を置いている。

    そのうえで、いちばん効くのが編集についての発言です。

    彼が起き上がる前に切れば彼はそのまま死んだことになったろうし、彼が起き上がって歩いているところで切れば生きている。

    Fan’s Voice

    高橋が生きているか死んでいるかは、演技でも脚本でもなく、どこでフィルムを切るかで決まった。

    完成作は、高橋が咳き込みながら起き上がるところを含んでいます。そのうえで、霧と闇に沈んで終わります。

    どちらとも決めないことを、決めている。

    私が最後に感じたカオスの正体は、無秩序ではありませんでした。統御されたうえで、答えの一歩手前で切られた画面です。

    巧は鹿なのか|監督に同じ問いを向けた人がいる

    観ながら私が考えたのは、巧と花のほうこそ追い詰められた鹿だったのではないか、という読みでした。

    手負いの鹿の条件が直前に置かれている以上、その読みは作品の中に用意されていると思います。

    同じことを、インタビューで濱口に直接ぶつけた人がいます。

    濱口の答えはこうでした。

    正直に言えば、この考えは私には浮かんでいませんでした。しかし考えてみると、巧はある意味で、人間よりも自然の領域に近い人物なのかもしれません。彼が人間より自然の領域に近いという解釈について考えれば考えるほど、そこには何かがあると思うようになりました。

    TheWrap

    意図として仕込んだものではない。しかし、示されると否定もしない。

    この距離のとり方が、本作の観客の置かれ方をそのまま表していると思います。

    実際、濱口は結末について「ただ単にそれが起きた、ということが第一です。それを受け止めていただきたい」とも述べています(Yahoo!ニュース エキスパート)。

    巧の行動についても、彼が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然が交差した結果ではないか、という言い方をしています。象徴ではなく、蓄積と偶然として語られています。

    ですから、巧イコール鹿という等式にしてしまうと、監督が最も避けたがっている場所に着地します。

    読みは用意されているが、答えとしては配られていない。

    そういう置かれ方をした結末です。

    賛否|この結末の評価は、はっきり割れている

    この結末をどう受け取るかは、批評家のあいだでも割れました。

    まず全体としての評価は高い作品です。Rotten Tomatoesでは164件のレビューで91%、Metacriticでは40件の批評で83点。否定的な評価は1件のみと集計されています。英Sight and Sound誌の「2024年ベスト50」では12位に入りました。

    そのうえで、結末に対する態度は分かれています。

    擁護側で最も踏み込んでいるのは、The New Yorkerのジャスティン・チャンです。

    チャンは終盤を暴力的な均衡への回帰と呼び、自然界に悪は存在しない、手負いの鹿が逆上して人を襲っても責められないのと同じだ、と書いています(The New Yorker)。

    私が観ながら考えた読みと、ほとんど同じ場所に立っています。

    一方、Slantのチャック・ボウエンは厳しい評価です。

    ボウエンは結末を物語の落とし戸だと呼び、濱口はこれらの筋を無残に捨てるために導入している、と批判しました(Slant)。

    In Review Onlineのローレンス・ガルシアも、観客を疎外する実験だと評しています(In Review Online)。

    The Observerのウェンディ・アイドは、否定まではしないものの、ぎくしゃくした結末が映画のバランスを崩していると書きました(The Observer)。

    つまり、私が難しいと感じたのは私の理解力の問題ではなく、プロの批評家でも扱いに困っている場所だったことになります。

    そして、賛否のどちらの側も、結末が意図的に置かれたものであることは認めています。争われているのは、その意図に付き合う価値があるかどうかです。

    まとめ|難しさの正体は、決めないという決定だった

    『偶然と想像』で、濱口竜介は長くも難しくもないと思いました。

    『急に具合が悪くなる』はやっぱり長く、『悪は存在しない』はやっぱり難しかった。

    ただ、時間が経ってみると、難しさの中身は見えてきます。

    この映画が難しいのは、謎かけをしているからではありません。

    音楽が先にあり、映像があとから付いた区間があること。説明会のあと、対立劇の型を外して高橋を村へ引き寄せてしまうこと。そして結末を、生死のどちらとも取れる位置で切っていること。

    三つとも、通常の映画が観客に与える手すりを外す方向に働いています。

    しかも濱口は、それを時代への態度として語っています。

    この20年、映画において曖昧さが少しずつ壊されてきていると感じます。芸術に対して非常に瞬間的で素早い反応が価値を持つ状況では、曖昧さを保つのは難しい。この映画とその曖昧さは、私が今日の潮流に抵抗するひとつの方法です。

    RogerEbert.com

    観てすぐ良し悪しを言えないこと自体が、この映画の狙いだったわけです。

    そう考えると、悪は存在しない、という題も居場所が変わります。

    濱口は、物語と題名が人間社会における道徳の存在について考えさせるかもしれない、しかしその後、結末がそれを崩壊させる、と述べています(Film Comment)。

    題は主張ではなく、壊されるために置かれた前提だった。

    好きな映画かと聞かれると、答えに詰まります。気持ちの良い映画ではないし、すぐもう一度観たいとも思いません。

    それでも、観た日から何日も残りました。『偶然と想像』が軽やかに転がって残るとすれば、こちらは重い石が沈むように残ります。

    同じ監督が、その両方を撮っている。

    先入観は結局戻ってきたわけですが、中身は入れ替わりました。難しさは、この監督の欠点ではなく、扱っている材料の性質でした。

    参考資料

  • 映画『ナースコール』|人間らしくあり続けることが、英雄的である

    観終わって最初に浮かんだのは、ごく素朴な感想でした。

    「看護師さんって、本当に大変だ」

    気の利いた批評の言葉ではありません。ところが調べてみると、その素朴な感想こそ、作り手が観客に抱かせたかったものでした。

    2025年公開の『ナースコール』(Heldin)は、スイスの映画作家ペトラ・フォルペが監督・脚本を務めた、スイス・ドイツ合作映画です。ベルリン国際映画祭でワールドプレミア上映され、第98回アカデミー賞国際長編映画賞のスイス代表としてショートリスト入りしました日本では2026年3月6日に公開されています

    主演は『ありふれた教室』のレオニー・ベネシュ。人手不足の病棟で遅番を務める看護師フロリアを演じます。

    物語が描くのは、彼女の一度の勤務だけです。病棟の日常を大きく外れるような事件は起きません。

    一人の看護師が出勤し、働き、勤務を終える。ただそれだけの話です。それでも本作は、緊張感のある一本のドラマとして成立しています。

    この記事では、なぜ「ただの一勤務」が映画になるのかを考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語中盤の、フロリアが重大なミスを犯すあたりまでに触れます。その後の展開と結末には触れません。

    あらすじ|遅番の始まり

    舞台は、人手不足に陥っている州立病院の外科病棟です。

    プロ意識の高い看護師フロリアが、遅番のシフトに入ります。

    この日は、同僚と二人で26人の患者を受け持ち、さらに実習生の指導まで任されています

    患者への対応。絶え間なくかかってくる電話。鳴り続けるナースコール。

    フロリアは有能で、感じがよく、手際もいい。次々と舞い込む仕事を、一つずつ落ち着いて片づけていきます。

    しかし、やるべきことは減りません。要求は積み重なり、次第に時間が足りなくなっていきます。

    そして極限の忙しさの中で、フロリアは投薬ミスを犯してしまいます。

    ここから先は、劇場で確かめてください。

    テーマ|「人手不足」を、頭ではなく身体で分からせる

    観客にも、遅番を一緒に働かせる

    フォルペ監督は、本作で目指したものをはっきりと言葉にしています。

    インタビューでは、観客にもフロリアと一緒に一度の勤務を乗り切ったような感覚を味わってほしかった、と語っています。

    「人手不足」は、ニュースで聞き慣れた言葉です。しかし、その四文字だけでは、現場で何が起きているのかまでは伝わりません。

    この映画は、言葉でしか知らなかった人手不足を、身体で分かる現実に変えます。

    私が抱いた「とにかく看護師さんって大変だ」という感想は、映画に狙いどおり働かされた結果だったわけです。

    原題は「英雄」。人間らしくあり続けることが英雄的

    邦題の『ナースコール』に対して、ドイツ語の原題Heldinは「女性の英雄」を意味します。

    しかし、フロリアが派手な功績を挙げるわけではありません。誰かを劇的に救って拍手を浴びるような物語でもありません。

    むしろ印象に残るのは、感情を表に出す余裕もないまま、目の前に積み上がる仕事をひたすら処理していく姿です。

    では、この映画は彼女の何を「英雄的」と呼んでいるのでしょうか。

    フォルペは、スイスのインタビューで、どれほど追い詰められてもフロリアが人間らしさを失わないことこそ英雄的なのだ、と説明しています。

    これは、私が劇場で感じたこととも重なります。

    フロリアが機械のように仕事を処理し続けるだけなら、本作は医療現場の忙しさを再現するだけの映画になっていたかもしれません。

    けれど、彼女は機械にはなりません。余裕を失いながらも、患者の不安をくみ取り、目の前の人に向き合おうとします。

    その人間らしさが時折こぼれ出るからこそ、病棟の日常がドラマになります。

    極限の忙しさの中でも、患者を一人の人間として扱おうとすること。

    この映画が「英雄的」と呼ぶのは、その姿勢です。

    原案は、現役看護師の手記

    この映画には、土台となった本があります。

    ドイツの現役看護師マデリン・カルヴェラーゲによる手記『私たちの職業が問題なのではない。問題は環境だ』です。

    フォルペは、読み始めてわずか5分で心拍数が上がったと語っています。その切迫感が、本作の撮り方を考える出発点になりました。

    カルヴェラーゲ自身も、看護監修として映画に参加しています。

    手記の題名は、そのまま本作の主張でもあります。

    フロリア個人に問題があるわけではない。看護師という仕事に問題があるわけでもない。問題なのは、その仕事を取り巻く環境です。

    フォルペは、別のインタビューで、コロナ禍には誰もが看護師に拍手を送り、その仕事の大切さを思い出したのに、やがてまた忘れてしまった、と話しています。

    当たり前の事実をあらためて突きつける映画が必要なのは、私たちがその当たり前をすぐに忘れてしまうからです。

    キャラクター造形|誰も悪くないのに、時間が足りない

    フロリア|有能な人が崩れるから、環境の問題だと分かる

    ベネシュ演じるフロリアは、意欲にあふれ、機嫌よく職場にやって来る有能な看護師です。

    この有能さこそ、人物造形の要です。

    ベネシュは、インタビューで、やる気もあり、気分よく働き始めた人物が、目の前の現実によって次第に追い詰められていく役だと説明しています。

    もし主人公が未熟な新人なら、観客は起きたことを「本人の能力不足」として片づけられてしまいます。

    最初から疲れ切った人物であれば、「燃え尽きた看護師の物語」になるでしょう。

    そうではなく、有能で前向きで、仕事にも十分慣れている人物が崩れていく。だからこそ、原因が本人ではなく、置かれている環境にあることが分かります。

    フォルペがベネシュを起用した理由も、この狙いと結びついています。

    配給資料によれば、監督がベネシュに感じたのは、動作がごく自然に見える軽やかさと、看護の所作をバレエのように滑らかにこなせる身体性でした。

    10年もその仕事を続けてきたように見える人が、それでも持ちこたえられなくなる。

    だからこそ、怖いのです。

    患者と家族|もっともな要求が積み重なり、圧力になる

    この映画のうまいところは、患者やその家族を悪役にしていないことです。

    入院している人は不安です。家族は心配です。一つひとつの要求を見れば、どれももっともなものです。

    病院にいる患者も、その家族も大変なのだということは、観ていればよく分かります。

    しかし、一つひとつは正しい要求でも、すべてを引き受ければ、看護師一人が使える時間を超えてしまいます。

    この映画の敵は、特定の患者でも家族でもありません。

    誰も悪くないまま、もっともな要求だけが積み上がり、現場を押しつぶしていく。その状況そのものが敵です。

    だから観客は、誰かを責めるのではなく、「世話をする側にも限界がある」という当たり前の事実へと導かれます。

    同僚と実習生|一人は、二つの部屋に同時にいられない

    遅番を一緒に回す同僚と、フロリアが指導しなければならない実習生は、人手不足を具体的な数の問題として見せる存在です。

    フォルペは、インタビューで、一人の人間が同時に二つの部屋へ行けないのは、考えてみれば単純な話だと語っています。

    二つのナースコールが同時に鳴れば、どちらかを待たせるしかありません。

    誰かが怠けているわけでも、判断を間違えているわけでもない。ただ、人の数と仕事の数が合っていない。

    この映画の緊張のほとんどは、その単純な事実から生まれています。

    映画技法|看護をダンスとして撮り、勤務をスリラーにする

    流れるカメラ

    フォルペは、看護師の動きをアスリートにたとえています。

    インタビューでは、カートを引きながら絶えず動き続ける看護師の運動量に驚かされ、その動きを流れるようなカメラでたたえたかったと語っています。

    撮影を担当したのは、ユーディット・カウフマンです。

    『ありふれた教室』でもベネシュを撮影しており、本作は同じ主演と撮影監督による再タッグとなりました。

    カウフマンは本作で、撮影技術に特化した国際映画祭カメリマージュの最高賞、金蛙賞を受賞しています

    ベネシュは、インタビューで、カウフマンとともに冒頭の長回しを入念にリハーサルしたと明かしています。

    序盤のフロリアは、病棟の中を滑らかに動き回ります。まだ仕事の流れが途切れず、一つのダンスとして続いている状態です。

    しかし、病棟への圧力が高まるにつれて、そのリズムは少しずつ崩れていきます。

    私が序盤で「機械のように淡々としている」と感じた手際の良さは、実際にはダンスのように振り付けられたものでした。

    最初に滑らかな動きを見せておくからこそ、それが乱れていく後半が効いてきます。

    ほぼリアルタイムで進む一勤務

    物語は、遅番の一勤務にほぼ限定されています。上映時間は91分で、撮影も実在の病院で行われました

    フロリアの私生活を説明する場面や、状況を整理するための回想は、ほとんどありません。

    観客はフロリアと同じ時間の中に置かれ、彼女と同じように、次のナースコールに追い立てられます。

    観客にもフロリアの遅番を一緒に乗り切らせる。

    その監督の狙いを、構成そのものが支えています。

    社会問題をスリラーの文法で描く

    フォルペは、この題材をジャンル映画の言葉で説明しています。

    ドイツのインタビューでは、看護の人手不足を犯罪サスペンスになぞらえ、その「犯罪」とは看護師たちが置かれている労働環境のことだと語っています。

    さらに、いつもどおりに始まった勤務でも、病棟にかかる負担が限界を超えればホラーに変わる、この映画は実のところアクション映画なのだ、とも話しています。

    社会問題を扱う映画は、正しさを伝えることを優先するあまり、観客に我慢を求めてしまうことがあります。

    本作は逆です。

    まずスリラーのように観客を追い詰める。そのうえで、その緊張を生んでいるのが、銃でも殺人鬼でもなく、ただ人手が足りないという現実だと気づかせます。

    観終わった後に、「とにかく看護師さんって大変だ」という感想が身体に残る。

    それは、本作が社会問題をスリラーとして描いたからこそだと思います。

    「ただそれだけの話」であること

    正直に言えば、本作は「ただそれだけの話」です。

    一人の看護師が出勤し、働き、勤務を終える。筋だけをたどれば、それ以上のことは起きません。

    批評も、この点では分かれています。

    英語版Wikipediaの集計によれば、Rotten Tomatoesでは96%が好意的に評価している一方、Metacriticは69点です。

    ガーディアンのピーター・ブラッドショーは5点満点の3点を付け、登場人物が歩きながら会話を重ねていくタイプのドラマだと評しました。

    起伏の大きな物語を期待すると、物足りなさが残るかもしれません。

    ただ、私はこの「それだけ」こそ、本作が意識して選んだものだと受け取りました。

    大きな事件を加えれば、映画としては派手になるでしょう。しかし、そのぶん「特別な一夜の物語」になってしまいます。

    この映画が描こうとしているのは、特別な夜ではありません。明日も、どこかの病院で繰り返される普通の勤務です。

    大事件が起きない映画がドラマとして成立しているのは、事件の代わりに、時間が足りないことそのものをサスペンスに変えているからです。

    まとめ|当たり前の事実を、身体で分からせる映画

    『ナースコール』は、難しい解釈を求める映画ではありません。

    観れば分かります。看護師さんは大変です。

    しかし、その「観れば分かる」を成立させるために、周到な準備が重ねられています。

    現役看護師の手記を土台にする。主演俳優は看護の動作をダンスのように身につける。カメラはその動きを追い、物語は一度の勤務から外へ出ない。

    観客を素朴な感想へと着地させるために、すべてが組み立てられています。

    原題の「英雄」という言葉は、大げさに聞こえるかもしれません。

    しかし、まったく時間が足りない夜に、それでも目の前の一人に人間として向き合おうとすることを英雄的と呼ぶなら、この題名は正確です。

    コロナ禍で看護師に送った拍手を忘れてしまった私たちに、この映画は91分間の遅番を一緒に働かせます。

    その勤務を終えた後では、「看護師さんって大変だ」という言葉の重さが変わっているはずです。

    参考資料

  • 映画『偶然と想像』|「長くて難しい」先入観を破る121分

    濱口竜介監督には、勝手な先入観を持っていました。

    『ハッピーアワー』の印象から、やたらと長い映画を作る人。『ドライブ・マイ・カー』の印象から、難しい文芸作品を撮る人。

    その先入観を破ってくれたのが、『偶然と想像』です。

    2021年に公開された、3本の中編からなる121分の短編集。第71回ベルリン国際映画祭では銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しました

    映画『偶然と想像』

    1話あたり約40分。登場人物は、それぞれ2人から3人。大きな事件や派手な映像はなく、物語の大半を会話が占めています。

    それでも、どの話にも先の読めない展開があり、思わず笑ってしまう瞬間があり、観終えたあとまで残る感情があります。

    会話だけの映画が、なぜこれほど軽やかに転がっていくのか。

    この記事では、その理由を考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、3話すべての結末まで扱います。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|偶然から始まる三つの話

    第1話「魔法(よりもっと不確か)」。

    モデルの芽衣子(古川琴音)は、親友のつぐみ(玄理)が夢中で語る新しい恋の相手が、自分の元恋人・和明(中島歩)だと気づきます。

    第2話「扉は開けたままで」。

    単位を落とされた学生・佐々木(甲斐翔真)は、芥川賞作家でもある教授・瀬川(渋川清彦)への報復として、既婚の学生・奈緒(森郁月)に瀬川を誘惑するよう持ちかけます。

    第3話「もう一度」。

    高校の同窓会に参加するため仙台へ来た夏子(占部房子)は、駅のエスカレーターですれ違った女性・あや(河井青葉)と再会を喜び合います。

    ところが、二人は互いに別の人物と勘違いしていました。

    三つの物語をつないでいるのが、タイトルにある「偶然」と「想像」です。

    テーマ|偶然が、別の人生を想像させる

    「存在に食い入る無」

    濱口監督はインタビューで、哲学者・九鬼周造の『偶然性の問題』を参照し、偶然を「存在に食い入る無」という言葉で説明しています。

    本来なら起きなかったはずの出来事が、何の前触れもなく現実へ入り込んでくる。

    親友が好きになった相手が元恋人だった。宛先を一文字間違えたメールが、送るつもりのなかった相手へ届いた。20年ぶりに再会したと思った女性が、まったくの別人だった。

    偶然そのものには、意味も目的もありません。

    しかし、一度起きてしまえば、それまでの現実は同じ形ではいられなくなります。同時に、「もし起きていなかったら」という別の可能性も浮かび上がります。

    本作の登場人物たちは、偶然によって、自分が選ばなかった人生や、言えなかった言葉と向き合うことになります。

    想像は、現実から逃げるためではない

    3話に共通しているのは、登場人物たちが「ありえたかもしれない別の展開」を想像し、その一部を実際に演じてみることです。

    第1話の芽衣子は元恋人のもとを訪れ、二人がもう一度やり直す可能性を試そうとします。

    第2話の奈緒は、小説の朗読という虚構を通じて、誘惑する側とされる側という役割から外れ、瀬川本人と話し始めます。

    第3話の夏子とあやは、人違いだと分かったあとも別れず、互いが本当に会いたかった人物を演じます。

    想像はここで、現実から逃げるためのものではありません。

    現実にはもう存在しない関係や、過去には言えなかった言葉を、短い時間だけ現実の中へ呼び戻す方法です。

    下敷きには哲学がありますが、登場人物が難しい理屈を語るわけではありません。

    恋の自慢話、教授への単位の相談、同窓会の帰り道。どれも私たちが知っている日常の会話です。

    「難しい濱口竜介」という私の先入観が崩れたのは、思想を説明するのではなく、身近な会話として見せる、この平明さがあったからです。

    第3話が示す「想像」の使い方

    3話の中で、タイトルの意味が最も鮮明になるのが「もう一度」です。

    夏子とあやは、人違いをしています。

    普通なら、間違いに気づいた時点で謝って別れるでしょう。しかし二人は、その気まずさをきっかけに、それぞれが会いたかった人について話し始めます。

    そして相手に、その人を演じてもらいます。

    二人が交わす言葉は、事実に基づいた会話ではありません。相手も本当に伝えたかった本人ではありません。

    それでも、その演技を通じてしか口にできなかった本心があります。

    嘘だから無意味なのではなく、嘘という形を借りたからこそ、現実には言えなかったことを言える。

    第3話まで観ると、「偶然」と「想像」がタイトルの中で並んでいる理由が見えてきます。

    偶然が過去を呼び戻し、想像がその過去との向き合い方を作るのです。

    キャラクター造形|三つの話、三つの選択

    第1話・芽衣子|偶然を放っておけない人

    第1話は、深夜のタクシーでつぐみが新しい恋について語り続ける場面から始まります。

    最初、芽衣子は親友の幸せな話を楽しそうに聞いています。

    しかし、話が進むにつれて相槌がわずかに硬くなり、表情から笑顔が消えていく。

    観客が、つぐみの相手と芽衣子の過去につながりがあると気づくのは、説明台詞ではなく、古川琴音の表情の変化からです。

    その後、芽衣子は和明のオフィスへ向かいます。

    二人の会話は、未練なのか、嫉妬なのか、相手を試しているのか、本人たちにも判然としません。

    好きだった気持ちと、傷つけられた記憶と、親友への思いが、一つの会話の中で何度も入れ替わります。

    終盤の喫茶店では、芽衣子が思い描いた展開と、彼女が実際に選んだ行動が続けて示されます。

    最初の展開では、芽衣子は二人の前で自分と和明の過去を明かし、三角関係を決定的に壊します。

    しかし、それは彼女の想像でした。

    現実の芽衣子は、二人の前から静かに身を引きます。

    やり直す可能性を最後まで考えたうえで、友人と元恋人にその先を委ねる。二度目の選択は、芽衣子なりの誠実さだったように見えます。

    第2話・奈緒と瀬川|企みから始まった本当の会話

    第2話は、佐々木の悪意から始まります。

    単位を認めなかった瀬川を失脚させるため、奈緒を研究室へ送り込み、誘惑の証拠を録音しようとします。

    ところが、瀬川は簡単には罠にかかりません。

    研究室の扉を開けたままにし、奈緒の話を聞き続けます。

    奈緒が瀬川の小説にある官能的な文章を朗読する場面は、色仕掛けのはずでした。

    しかし、朗読が続くうちに、二人の関係は誘惑する女性と標的の男性ではなくなります。

    奈緒は、文章を声にしたときに自分の身体に起きたことを語る。瀬川は、作家としてその言葉を受け止める。

    他人の悪意によって始まった時間が、二人にとって思いがけず誠実な対話へ変わっていきます。

    しかし、その時間は宛先を一文字間違えたメールによって壊されます。

    意図して仕掛けた誘惑は失敗したのに、意図しなかった誤送信が瀬川の人生を変えてしまう。

    この残酷な逆転が、3話の中で最も苦い後味を残します。

    第3話・夏子とあや|人違いだから言えること

    第3話では、出会いそのものが間違いです。

    夏子とあやは、互いを昔の同級生だと思い込み、再会を喜びます。

    しかし、話しているうちに記憶がかみ合わなくなり、二人は別人だと気づきます。

    それでも、二人はすぐには別れません。

    夏子は、あやを昔の恋人に見立て、長年言えなかった気持ちを伝えます。今度はあやが、夏子をかつての友人に見立て、自分の言えなかった言葉を託します。

    一方が相手を救うだけではありません。

    役割を交代しながら、それぞれが相手の想像に付き合います。

    だからこの話は、親切な他人が傷ついた人を慰める話ではなく、二人が対等に助け合う話になっています。

    3話の中で最も静かな物語ですが、最も遠い場所まで観客を連れていく一編です。

    映画技法|会話だけで転がすための準備

    本読みが作る会話の弾力

    濱口演出の特徴として知られるのが、俳優が感情をつけずに台詞を読む、本読みのリハーサルです。

    監督はインタビューで、本読みを重ねることによって俳優の演技体力が落ちにくくなり、テキストの読み方にも多くの可能性が生まれると説明しています。

    台詞へ早い段階で感情を固定しないからこそ、本番では俳優の身体や相手との呼吸に応じて、別の感情が立ち上がります。

    『偶然と想像』の会話には、言葉の意味を一つに決められない場面が多くあります。

    冗談なのか、本気なのか。誘惑なのか、告白なのか。怒っているのか、未練があるのか。

    長い会話が単調にならず、同じ言葉の中に複数の感情が漂うのは、この準備があるからでしょう。

    演出とは、偶然を待てる状態を作ること

    濱口監督は別のインタビューで、演出を「偶然をどう配置するのか」と表現しています。

    俳優の身体と、脚本に書かれた言葉は、本来は別のものです。

    その二つが撮影中に思いがけない形で重なり、書かれた台詞が、その俳優本人から生まれた言葉のように聞こえる瞬間がある。

    濱口監督が捉えようとしているのは、派手な偶然ではなく、そうした小さな瞬間です。

    偶然は物語の題材であるだけでなく、撮影現場で監督が待っているものでもあります。

    主題と撮り方が同じ方向を向いているからこそ、物語には大胆な仕掛けがありながら、人物の会話は作り物めいて見えないのでしょう。

    小さな撮影体制が生む集中

    公式サイトでは、本作について、小さな撮影体制でリハーサルと撮影の時間を十分に確保し、俳優の繊細な表現を丁寧に映したと説明されています。

    画面に登場するのは、主に2人か3人。

    場所も、車内、オフィス、研究室、住宅、駅などに限られています。

    カメラの動きや編集を目立たせるのではなく、人物の顔と言葉の間に意識を集中させます。

    第2話では、研究室の扉を開けたままにすることで、廊下を通る人の気配が常に画面へ入り込みます。

    奈緒は誘惑を仕掛けているのに、誰かがいつ入ってきてもおかしくない。

    ドア一枚が、瀬川の倫理を示すと同時に、場面の緊張を作っています。

    大掛かりな仕掛けがなくても退屈しないのは、少ない要素をどこへ置くかが細かく考えられているからです。

    まとめ|身軽な形で見える濱口竜介

    観る前の私にとって、濱口竜介は「長くて難しい」監督でした。

    観終えたいま、その先入観は半分だけ正しかったと思っています。

    本作は短く、笑える場面も多く、親しみやすい映画です。

    しかし、感情を固定しない本読みも、会話を通じて人物を変化させる方法も、偶然が起きる瞬間を待つ演出も、長編作品と変わりません。

    濱口監督が別の作風を試した映画ではなく、普段の方法を、最も身軽な形で見せた作品です。

    長編では何時間もかけて描かれる、人と人との距離の変化が、約40分の中に凝縮されています。

    その意味では、濱口作品への入口として、これほど向いている一本はありません。

    なお、監督は2021年のインタビューで、『偶然と想像』を当初から全7話のシリーズとして構想しており、残る4話を今後の実験の場にしたいと語っていました。

    その後、残り4話の制作や公開はまだ発表されていません。

    いつ実現するかは分かりませんが、会話だけで映画が転がっていく、あの軽やかさにもう一度出会える日を、一人の観客として待ちたいと思います。

    追記|その後、濱口作品を二本観ました

    この記事を書いたあと、私は濱口監督の別の作品を二本観ました。

    『悪は存在しない』と、『急に具合が悪くなる』です。

    結論から書くと、本作で消えたはずの先入観は、半分だけ戻ってきました。

    『悪は存在しない』は、やっぱり難しかった。

    『急に具合が悪くなる』は、やっぱり長かった。

    ただし、戻ってきたのは先入観そのものではありません。

    なぜ難しいのか、なぜ長いのかを、自分の言葉で説明できるようになった状態で戻ってきました。

    その中身は、それぞれの記事に書いています。

    濱口作品を一本だけ観るなら、入口として本作をおすすめします。

    そのうえで、難しさや長さの正体を確かめたくなったら、残りの二本へ進んでください。

    参考資料