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  • 映画『コート・スティーリング』|猫を預かったら人生が転げ落ちた

    2025年公開の『コート・スティーリング』(Caught Stealing)は、『ブラック・スワン』や『ザ・ホエール』のダーレン・アロノフスキー監督による犯罪スリラーです。

    日本では2026年1月9日に公開されました(ソニー・ピクチャーズ公式プレスリリース)。

    原題の Caught Stealing は、野球用語で、盗塁を試みた走者がアウトになることを意味します。主人公がかつて将来を期待された野球選手だったことを考えると、物語の内容を先取りした題名でもあります。

    映画『コート・スティーリング』

    始まりは、隣人から「数日だけ猫を預かってほしい」と頼まれるだけです。

    ところが、その小さな頼まれごとをきっかけに、主人公の人生は坂を転げ落ちるように壊れていきます。

    私の感想は一言で言えます。

    どんどん状況が悪くなっていくカオスが楽しい。

    日本版のキャッチコピーは、「マフィアもネコも、バッチこい。」です。宣伝文句が、これほどそのまま当てはまる映画も珍しいと思います。

    ただ、アロノフスキーの過去作を思い出すと、少し不思議でもあります。

    依存症や強迫観念に囚われた人間を、逃げ場のないところまで追い詰めてきた監督です。その人が、なぜ今回はこれほど明確に「楽しさ」を前面へ出したのでしょうか。

    そして、その楽しさは何によって作られているのでしょうか。

    この記事では、その二つを考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、結末を含む物語の核心まで扱います。

    中盤の大きな出来事や、ラストの展開にも踏み込むため、未見の方はご注意ください。

    あらすじ|1998年、ロウアーイーストサイドの転落

    舞台は1998年のニューヨーク、ロウアーイーストサイドです。

    ハンク・トンプソン(オースティン・バトラー)は、高校時代には野球のスター選手でした。しかし自動車事故によって夢を断たれ、いまはバーテンダーとして酒浸りの日々を送っています。

    ある日、隣人のパンクロッカー、ラス(マット・スミス)から、数日間だけ猫の世話を頼まれます。

    ただそれだけのことだったはずが、ハンクは400万ドルをめぐる争奪戦へ巻き込まれます。

    彼を追うのは、ロシア系ギャング、ユダヤ教の戒律を厳格に守る兄弟ギャング、プエルトリコ系の犯罪者、さらにはニューヨーク市警の刑事です。

    暴力は段階を追って激しくなります。

    ハンクは腎臓を失い、恋人のイヴォンヌ(ゾーイ・クラヴィッツ)は殺され、最後には彼自身が人を殺す側へ回ります。

    猫を数日預かるだけだった男が、金と猫を抱えてニューヨークを去るまで。

    本作が描くのは、その転落の数日間です。

    テーマ|「楽しさ」の器と、その底に沈んでいるもの

    「楽しさのジェットコースター」として作られた映画

    アロノフスキーは、本作の狙いを一貫して「観客を楽しませること」だと語っています。

    『コート・スティーリング』は、楽しさのジェットコースターとして作った。パンクの感性を直接注ぎ込み、映画をさらに加速させたかった。

    GRAMMY.com

    別のインタビューでも、純粋なジャンル映画を作りたかったこと、観客に劇場で心から楽しんでほしかったことを語っています(TheWrap)。

    日本公開時のインタビューでは、観客からもらえる最高の言葉は「楽しかった」だとまで述べました(The Fashion Post)。

    『レスラー』『ブラック・スワン』『ザ・ホエール』と、痛みや強迫観念に囚われる人々を撮り続けてきた監督です。

    そのアロノフスキーが、今回は楽しさを第一の目標に掲げた。

    つまり、私が感じた「どんどん悪くなるのが楽しい」という感想は、作り手の狙いの中心にあったことになります。

    「制御不能」こそが物語のエンジン

    一方、原作者であり、自ら脚本も手がけたチャーリー・ヒューストンは、物語の核を別の言葉で説明しています。

    登場人物たちは、自分では制御できない状況に捕らわれている。そして物語のかなり終盤まで、そのことを理解できない。

    The Credits

    つまり「どんどん悪くなる」のは、行き当たりばったりに事件を増やした結果ではありません。

    主人公が状況を理解できないうちに、事態だけが拡大していく。それ自体が、最初から物語のエンジンとして組み込まれています。

    猫を預かるという小さな親切が、400万ドルをめぐる大きな災厄へ膨らんでいく。

    ハンクには、自分がなぜ狙われているのかさえ分かりません。説明を求めて動くたびに新しい人物が現れ、暴力の規模が一段ずつ大きくなります。

    この落差と加速が、本作のカオスを作っています。

    ヒューストンはさらに、本作と自身のアルコール依存との関係についても率直に語っています。

    正直に言えば、現役のアルコール依存症でなければ、あの物語は書けなかった。

    (同上)

    ハンクの飲酒は、荒れた生活を示すための小道具ではありません。

    自分を傷つけながら、周囲の人間の人生も壊していく。その危うさが物語の出発点にあります。

    底に沈んでいる、いつものアロノフスキー

    では本作は、過去作と完全に縁を切った「ただ楽しいだけの映画」なのでしょうか。

    私には、そうは見えませんでした。

    酒をやめられないハンク。

    事故によって失った野球選手としての未来。

    その事故で死んだ親友。

    そして物語の最初から最後まで、殴られ、切られ、臓器を失い、痛めつけられ続ける身体。

    依存、喪失、傷つく身体という、アロノフスキーが繰り返し扱ってきた素材は、本作にもすべてそろっています。

    Colliderのロス・ボネームも、本作を、依存と強迫という監督の特徴的な主題を、主流の犯罪スリラーへ溶かし込んだ作品だと評しています(Collider)。

    だから本作は、一枚岩の「楽しい映画」ではありません。

    二層になった映画です。

    上の層には、事件が次々と起こる犯罪映画のジェットコースターがある。

    その下には、依存と喪失から逃げ続ける男を描く、いつものアロノフスキーが沈んでいます。

    1998年のニューヨークという土台

    もう一つの重要な土台が、1998年のニューヨークです。

    アロノフスキーは、本作の参照点としてシドニー・ルメットの名前を挙げています。

    ルメットは、この映画の守護聖人だった。

    そして、ニューヨークの街そのものが画面からにじみ出るような映画を目指したと語っています(TheWrap)。

    1998年は、アロノフスキーの長編デビュー作『π』が公開された年でもあります。

    本作は、彼が映画監督として出発したころのニューヨークへ戻る作品でもあるのです。

    批評家のアイリーン・ジョーンズは、再開発が進み切る前のロウアーイーストサイドの薄汚さを、本作の重要な土台として挙げています(Jacobin)。

    現在では家賃が高騰し、多くの店や住人が姿を消した街。

    本作に映るのは、異なる文化や階層の人間が狭い地域に入り交じっていた時代です。

    ロシア系、ユダヤ系、プエルトリコ系の犯罪者が次々と現れる構成も、その街の混在を背景にしています。

    もう存在しない街を舞台にした「楽しい映画」。

    そのカオスの底には、失われたニューヨークへの追悼のような響きもあるように、私には見えました。

    キャラクター造形|転げ落ちる男と、彼を囲む顔ぶれ

    ハンク|巻き込まれる「善良な普通の男」

    アロノフスキーは、ハンクを「身の丈を超えた事態に巻き込まれた普通の男」と説明しています。

    彼はまっとうな、いい奴だ。誰も傷つけていない。

    TheWrap

    日本のインタビューでは、「せいぜい、自分自身を少し傷つけているくらいだ」と付け加えました(The Fashion Post)。

    ハンクは犯罪者ではありません。

    猫を好きでもないのに、頼まれたから世話をする。理不尽な暴力に巻き込まれても、最初は人を傷つけることを避けようとします。

    しかし、「自分自身を少し傷つけているだけ」という説明は、映画が進むにつれて崩れていきます。

    酒に逃げ、過去から目をそらし続けることは、本当に自分だけを傷つける行為だったのでしょうか。

    彼が現実と向き合わないまま生きてきたことは、イヴォンヌとの関係にも影を落としています。

    脚色では、ハンクの過去に重要な変更が加えられました。

    原作では、野球選手としての将来を絶たれた試合中の骨折と、親友が死亡した自動車事故は別の出来事でした。

    映画では、それを一つの自動車事故へ統合しています(The Credits)。

    この変更によって、終盤の自動車による衝突は、過去の事故の再演になります。

    ハンクは長いあいだ、事故から逃げてきました。

    ところが最後には、同じように車を武器として使い、自分で衝突を選びます。

    カオスは一見すると、無関係な不運の連続です。

    しかしハンクにとっては、逃げ続けてきた過去が一周して戻ってくる物語でもあります。

    イヴォンヌ|楽しさに代償を持ち込む転回点

    中盤、ハンクの恋人イヴォンヌは、彼が持っていると思われた金をめぐって殺されます。

    ヒューストンは、この場面について、彼女が死んだかどうかに曖昧さを残さないことが重要だったと語っています(The Credits)。

    ここで映画の手触りは、後戻りできない形で変わります。

    それ以前にも、ハンクは激しい暴力を受けています。

    しかし、彼が殴られ、腎臓を失う場面には、痛々しさと同時に犯罪映画の過剰な可笑しさがあります。

    イヴォンヌの死は違います。

    同じ悪化の連鎖でも、彼女が死ぬ前と後では、その意味が変わります。

    この展開は、本作最大の論争点にもなりました。

    Screen Rantは、男性主人公を動かすために女性を殺す古い物語の型だとして、後退的だと批判しています(Screen Rant)。

    CBRも、軽快な犯罪コメディと重い喪失劇という、二つの異なる映画が一本にまとめられていると指摘しました(CBR)。

    一方、SlashFilmは、イヴォンヌの死がなければ、終盤のハンクの行動は感情的にも論理的にも成立しないと擁護しています(SlashFilm)。

    私は、擁護側に近い立場です。

    イヴォンヌの死があるからこそ、カオスは遊園地の楽しさだけでは終わりません。

    ハンクが巻き込まれた出来事には、取り返しのつかない代償がある。

    そのことを映画へ刻み込む転回点として、必要な場面だったと思います。

    ただし、それが女性を主人公の成長のために使う古い型であるという批判も、無視はできません。

    この場面が本作の強度を高めると同時に、弱点にもなっている。その両方があると思います。

    ラスと追う者たち|カオスを持ち込む顔ぶれ

    すべての発端を作るのは、モヒカン頭の英国人パンクロッカー、ラスです。

    「数日だけ猫を頼む」

    その一言で、隣人の人生を破壊します。

    売れないロッカーの軽さが、そのまま災厄の軽い入り口になっています。

    追う側の顔ぶれも濃い。

    リーヴ・シュレイバーとヴィンセント・ドノフリオが演じるリパとシュムリーは、ユダヤ教の戒律を厳格に守りながら、人を拷問し、殺す兄弟ギャングです。

    信仰の規律と暴力稼業が同じ人物の中に存在する。

    本作の「コミカルさと不穏さの同居」を、最も濃く担う二人です。

    レジーナ・キング演じる刑事ローマンは、ハンクにとって唯一の「制度の側の味方」に見えます。

    しかし彼女もまた、400万ドルを狙う汚職刑事です。

    誰も信用できないという犯罪映画の論理を、警察にまで広げる反転になっています。

    さらに、ベニート・マルティネス・オカシオが演じるコロラドが加わります。

    ロシア系、ユダヤ系、プエルトリコ系の犯罪者と、ニューヨーク市警。

    ハンクを追う顔ぶれそのものが、再開発前の雑多なニューヨークを映す地図になっています。

    猫のバド|最後に残るもの

    そして、猫のバドです。

    物語の発端であり、400万ドルへたどり着くための鍵を預かる存在でもあります。

    しかしバド自身は、金にも犯罪にも関係ありません。

    ただ世話を必要としているだけです。

    ハンクは、人間を信用できなくなっていく一方で、猫だけは最後まで見捨てません。

    結末でハンクは、リパとシュムリーを自らの手で殺し、金の半分を母親へ送り、猫を連れてニューヨークを去ります。

    「誰も傷つけていない、いい奴」は、人を殺した男として街を出る。

    恋人も、仕事も、それまでの生活も失った彼の隣に残るのは、猫一匹だけです。

    この幕切れに、本作で失われたものの大きさが表れていると思います。

    映画技法|カオスはどうやって作られたか

    撮影|最新カメラに1930年代のレンズ

    撮影監督は、アロノフスキー作品の常連であるマシュー・リバティークです。

    リバティークは、本作ではアロノフスキーとの従来の仕事の原則が変わったと語っています。

    普段のダーレンとの仕事では、『レスラー』でも『ブラック・スワン』でも、すべてを主人公の主観から発想する。本作では、過去の強迫観念をいったん脇へ置き、気軽に楽しめるポップコーン映画を作った。

    The Credits

    過去作では、カメラが主人公の精神状態へ密着していました。

    『ブラック・スワン』では、観客も主人公と一緒に現実と妄想の境界を失っていきます。

    本作のカメラは、より自由です。

    ハンクの内面だけに閉じこもらず、街を走り回り、多数の人物を映し、犯罪映画の速度を作ります。

    機材の組み合わせも特徴的です。

    リバティークは、最新のデジタルシネマカメラであるソニーVenice 2に、1930年代に設計されたボシュロムのバルターレンズを組み合わせました。

    レンズは、撮影監督のエド・ラックマンから譲り受けたものです(The CreditsDefinition Magazine)。

    最新のデジタルカメラを使いながら、古いレンズを通して1998年を見る。

    現在の技術で、失われた街の質感を呼び戻す組み合わせです。

    照明|「見せない光」で呼び戻す1990年代

    リバティークは、照明についても明確な方針を持っていました。

    照明が自己主張するのは好きではない。特にこの映画では、1990年代にニューヨークの街を歩いた、自分の記憶の感触にしたかった。

    Definition Magazine

    Venice 2の高感度性能を活かし、ISO 3200で撮影することで、暗い場所でも大量の照明を追加せずに撮影しています。

    いかにも映画用に明るく照らすのではなく、バーや路地が実際に持っている暗さを残す。

    また、現在はなくなったイーストヴィレッジの店や街並みも再現されました。

    当時を知る人が、一瞬でその時代へ引き戻されることを目指したといいます。

    「楽しい犯罪映画」の器の中身が、監督と撮影監督の個人的な記憶によって作られていた。

    アロノフスキーの「ニューヨークの街がにじみ出る映画」という言葉と、正確に重なります。

    カメラワーク|カメラ自体が転がって逃げる

    私が感じたカオスには、技術的な裏づけがあります。

    食料品店の追跡場面で、リバティークは砂袋を運ぶカートへ屈み込んで乗り込み、スタッフ二人に押してもらいながら撮影しました。

    低い位置で手持ちカメラを構え、オースティン・バトラーがフォークリフトの下を滑り抜ける動きを追っています(The Credits)。

    カメラそのものが、転がりながら逃げる身体になっている。

    観客は離れた場所から追跡を見るのではなく、ハンクと一緒に床の近くを滑っていきます。

    一方でリバティークは、アロノフスキーについて、即興に見える場面でも頭の中ではすべて組み立てられている、極めて意図的な監督だと語っています(Definition Magazine)。

    画面は制御不能に見えます。

    しかし、その制御不能は精密な統制によって作られている。

    脚本が状況の悪化を設計し、撮影が身体の速度を作り、編集が次の災厄へ押し出していく。

    「どんどん悪くなる」快感は、偶然ではありません。

    音楽|パンクの感性を注ぎ込む

    音楽も、映画を加速させる方向へ統一されています。

    スコアの作曲はロブ・シモンセンですが、演奏を担当したのは英国のパンクバンド、IDLESです(GRAMMY.com)。

    アロノフスキーが語ったとおり、パンクの感性を直接映画へ注ぎ込むための起用でした。

    物語へ災厄を持ち込む隣人は、パンクロッカーです。

    その映画を、パンクバンドの演奏が押していく。

    題材、人物、音楽が同じ速度で進んでいます。

    まとめ|盗塁を試みて、アウトになる

    冒頭の問いに戻ります。

    この映画の楽しさは、何でできているのでしょうか。

    私の答えは、精密に作り込まれた悪化の連鎖です。

    自分では制御できない状況に主人公を放り込む脚本。

    転がる身体となって、主人公と一緒に逃げるカメラ。

    記憶をもとに再現された1998年のニューヨーク。

    映画をさらに加速させるパンクの演奏。

    そして中盤で、その楽しさに取り返しのつかない代償を刻むイヴォンヌの死。

    画面では何もかもが制御不能に見えます。

    しかし、そのカオスは細部まで制御されています。

    次の塁を狙って走り、アウトになる。

    野球選手としても、その後の人生でも、前へ進もうとしては痛い目に遭ってきたハンクの物語に、これほど収まりのよい原題はありません。

    これは作り手が明言した意味ではなく、私の解釈です。

    ただ、そう読みたくなる符合があります。

    批評家の反応は好意的で、Rotten Tomatoesでは85%の評価を得ました。一方、世界興行収入は約3,325万ドルにとどまっています(Rotten TomatoesBox Office Mojo)。

    観客を楽しませることを、これまで以上に明確な目標として作られた作品が、興行的には大きな成功に結びつかなかった。

    その点まで、どこか原題の意味に重なって見えます。

    それでも、アロノフスキーは、観客からもらえる最高の言葉は「楽しかった」だと語っています。

    私は、その言葉をそのまま返したい。

    どんどん状況が悪くなっていくカオスは、確かに楽しかった。

    そして、その楽しさの底に、依存、喪失、傷つく身体という、いつものアロノフスキーがきちんと沈んでいた。

    それが、この映画をただの気晴らしで終わらせていないのだと思います。

    参考資料

  • 映画『クライム101』|豪華キャストはなぜ記憶に残らないのか

    2026年公開の『クライム101』(Crime 101)は、名前を並べるだけで期待が膨らむ映画です。

    クリス・ヘムズワース、マーク・ラファロ、ハル・ベリー、バリー・コーガン。さらに、ニック・ノルティ、ジェニファー・ジェイソン・リー、モニカ・バルバロ、コリー・ホーキンズまで出演しています。

    日本版のキャッチコピーは、「名作『ヒート』に続く、L.A.を舞台にしたクライムアクション・スリラーの傑作誕生!」。

    公式サイトも、追う者と追われる者の対決や、豪華俳優陣の演技を大きな見どころとして紹介しています(日本公式サイト)。

    ところが、観終わって残ったのは、期待とは少し違うものでした。

    豪華な俳優が集まっているのに、キャラクターがあまり記憶に残らない。

    演技が悪いわけではありません。映像も洗練され、犯罪映画としての見応えもある。それでも、一人ひとりの人物像が、俳優の名前から期待するほど立ち上がってこないのです。

    なぜ、これだけの顔ぶれを集めながら、人物の印象が薄くなったのでしょうか。

    この記事では、その違和感の正体を、英語圏の批評と、監督バート・レイトン本人の発言を手がかりに考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の設定と中盤までの展開に触れます。

    結末と、その意味には触れません。

    あらすじ|ハイウェイ101の宝石強盗と、それを囲む人々

    監督・脚本はバート・レイトン。

    ドキュメンタリー『The Imposter』で注目され、『アメリカン・アニマルズ』(2018年)で劇映画へ進んだ監督です。本作は、レイトンにとって初めての大規模なスタジオ映画となりました。

    原作は、ドン・ウィンズロウが2020年に発表した同名の中編小説です。

    日本では、2026年2月13日に日米同日公開されました(日本公式サイト)。

    物語の軸となるのは、二人の男です。

    一人は、カリフォルニアのハイウェイ101号線沿いで宝石強盗を重ねるデーヴィス(クリス・ヘムズワース)。

    もう一人は、一連の犯行には同じ人物が関わっていると確信し、捜査を続ける刑事ルー・ルベズニック(マーク・ラファロ)です。

    デーヴィスは、これまで一度もミスを犯さず、正体も証拠も残してきませんでした。

    しかし、1,100万ドル相当の宝石を狙う最後の大仕事で、高額商品を扱う保険会社に勤めるシャロン(ハル・ベリー)へ接触します。

    そこへ、粗暴な若い犯罪者オーマン(バリー・コーガン)、デーヴィスの前に現れるマヤ(モニカ・バルバロ)、警察内部の思惑などが絡み、完璧だった計画が崩れ始めます。

    Rotten Tomatoesの批評家評価は88%です。

    総評には「鮮やかな人物造形」という言葉も入り、数字の上では高く評価されています(Rotten Tomatoes)。

    しかし、個々のレビューを読むと、人物の厚みについての評価は割れています。

    その割れ方が、私の感じた違和感と重なっていました。

    テーマ|主役は人物よりも、都市と制度に近い

    「あなたは、あなたが所有するものになる」

    レイトンは、英国映画協会のインタビューで、この映画の中心にロサンゼルスという都市を置いたと語っています。

    ロサンゼルスは、ステータスへの圧力がすべてを動かしている場所だ。人は、所有するもの、乗っている車、着ている服そのものになる。

    BFI

    人間の価値が、車、服、家、肩書によって決められる都市。

    その中でデーヴィスは、社会の規範から降り、他人が所有する高価なものを盗んで生きています。

    レイトンは、本作を犯罪そのものの物語というより、アイデンティティと意思決定の物語だと説明しています。

    規範の外へ一歩踏み出したとき、人は何者になるのか。

    つまり監督が撮ろうとしたのは、宝石強盗の手口だけではありません。

    所有物で人間の価値が決まる都市と、そこで別の生き方を選ぼうとする人々です。

    泥棒と保険会社、どちらが犯罪者か

    本作のもう一つの柱が、「犯罪者とは誰か」という問いです。

    レイトンは、次のように語っています。

    誰が道徳的に正しいのかという問いがある。誰が犯罪者なのか。保険の掛かった品物を盗む男は、保険会社よりも腐敗しているのか。

    BFI

    デーヴィスが盗む宝石には保険が掛けられています。

    所有者には保険金が支払われる。保険会社も、リスクを計算したうえで商品を売っている。

    では、強盗によって本当に損をしているのは誰なのでしょうか。

    一方、保険会社は合法的な制度の中で、人間や物の価値を金額へ換えています。

    本作は、単純に泥棒と警察を対立させるのではなく、合法と非合法の境界そのものを曖昧にします。

    その問いを担うのが、保険業界の内側にいるシャロンです。

    彼女を置くことで、強盗映画に昔からある「誰から盗むのか」という問題が、制度そのものへの問いへ広がっています。

    ジャンルの入れ物に、別の主題を忍ばせる

    レイトンはTheWrapのインタビューで、ヒースト映画の構造について、思慮深いアイデアを忍び込ませるための優れた型だと語っています(TheWrap)。

    また、近年の大作映画は、感情の強さよりもアクションの強さを重視するようになったと指摘し、大人が劇場で観られる犯罪映画を作りたかったとも説明しています(Third Coast Review)。

    派手な強盗や追跡を見せながら、都市、階級、所有、制度の問題を描く。

    ここまで監督の発言を並べると、一つの見立てが浮かびます。

    本作の中心にあるのは、特定の一人の人生というより、ロサンゼルスという都市と、その都市を動かす仕組みだったのではないでしょうか。

    その狙いは、人物の描き方にも表れています。

    登場人物たちは、それぞれ独立した人生を持つ人物である以上に、都市の異なる場所を受け持つ存在として配置されています。

    キャラクター造形|スターたちに割り当てられた持ち場

    デーヴィス|「ソーの声」を封じられた主演

    ヘムズワース演じるデーヴィスは、所有物によって人の値打ちが決まる社会から距離を置き、職業として強盗を続けています。

    高級車や宝石を扱いながら、それを所有しようとはしない。

    犯罪には厳格な規則を設け、感情を持ち込まず、目立たないことを徹底しています。

    この人物の静けさには、はっきりした演出上の意図がありました。

    レイトンは、ヘムズワースの声を、よく響く「ソーの声」ではなく、胸の奥につかえたような声へ変えさせたと語っています。

    アクションヒーローらしい演技が出るたびに、それを止めたそうです(Third Coast Review)。

    つまり、デーヴィスの抑制は、ヘムズワースが何もしていないからではありません。

    スターとして身につけてきた華やかさを、意図的に消した結果です。

    この演技を、Varietyのオーウェン・グレイバーマンは、ヘムズワースの最高の演技の一つと評価しました。

    一方、Empireのベン・トラヴィスは、ヘムズワースが「洗練された犯罪者という薄い役」を背負わされていると批判しています。

    同じ抑制が、一方には繊細な演技として映り、他方には人物の薄さとして映る。

    私の見え方は、後者に近いものでした。

    声や身体の使い方を抑える演出は伝わります。

    しかし、消されたスター性に代わるほどの内面が、画面に積み上がっていたとは感じませんでした。

    ルー|デーヴィスの鏡として配置された刑事

    ラファロ演じるルー・ルベズニックは、デーヴィスを追う刑事です。

    社会の規範から降りたデーヴィスに対し、ルーは制度の内側にいます。

    ただし彼も、組織の中で順調に出世している人物ではありません。

    周囲から相手にされなくても、ハイウェイ101号線の強盗には一人の犯人がいると信じ、捜査を続けています。

    追われる者と、追う者。

    法の外側で独自の規則を守る男と、法の内側で自分の直感を信じる男。

    二人を鏡のように配置する構造は明快です。

    しかし、その配置以上に、ルー個人の人生が深く掘り下げられているかというと、疑問が残ります。

    The Only Criticのネイト・アダムスは、ルーを「十分な掘り下げのない、ベテラン刑事の類型」と評しました(The Only Critic)。

    デーヴィスとの対比を成立させるための位置は与えられている。

    しかし、一人の人間として記憶に残るための細部は少ない。

    マーク・ラファロという俳優の存在感が、その空白を埋めているように見えました。

    シャロン|作品の問いを一身に背負う人物

    ハル・ベリー演じるシャロンは、保険会社に勤めるブローカーです。

    高価な宝石を守る側にいながら、会社の中では自分の働きに見合った扱いを受けていません。

    所有物と地位によって人間の価値が決まる社会。

    泥棒と保険会社のどちらが本当に腐敗しているのかという問い。

    シャロンは、本作の主題を最も直接的に背負った人物です。

    演技への評価も高く、Empireは、観客が本当に応援できる人物だと評しました。

    AV Clubも、ベリーを映画の重要なカリスマの源として評価しています。

    一方で同じAV Clubは、オーマンやマヤが画面を支配する場面では、シャロンが傍らに浮かんでいるとも指摘しました(AV Club)。

    俳優の演技は届いている。

    物語上の役割も重要です。

    それでも、映画はシャロンを中心に置き続けません。

    テーマを背負った人物でありながら、そのテーマを十分に展開する時間が与えられていない。

    ここにも、俳優の力と役の扱いの間にずれがあります。

    オーマン|唯一、抑制されない男

    バリー・コーガン演じるオーマンは、デーヴィスとは正反対の犯罪者です。

    規則を守らず、暴力的で、感情のままに動く。

    慎重に組み立てられたデーヴィスの計画を、外側から壊す存在です。

    The Hollywood Reporterのフランク・シェックは、映画をさらうのはコーガンだと評しました。

    実際、オーマンは本作の中で最も分かりやすく記憶に残ります。

    ただし、それは人物が深く書かれているからとは限りません。

    主要人物の多くが抑えた演技を求められる中で、オーマンだけが過剰であることを許されているからです。

    Empireは、こうした暴力的で危うい役は、コーガンがこれまでにも演じてきた得意な型だと指摘しています。

    個性の強い俳優を起用し、その俳優に期待される個性をそのまま使う。

    強い印象は残りますが、新しい人物像が生まれているとは言いにくい。

    マヤ|別の人生を示すための人物

    モニカ・バルバロ演じるマヤは、デーヴィスが選ばなかった人生を示す存在です。

    犯罪の外側にあり、誰かと関係を築き、社会の規範の中へ戻る可能性を差し出します。

    しかし、デーヴィスとの関係が十分に描かれないため、マヤ自身の人生より、主人公に別の道を見せる役割の方が先に立ちます。

    The Only Criticは、二人の関係を、意味のある結びつきではなく、物語を埋めるための要素だと批判しました。

    マヤには、テーマ上の明確な持ち場があります。

    ただし、持ち場があることと、人物が立っていることは同じではありません。

    脇のベテラン勢|人物より、都市の構成要素になる

    ニック・ノルティ、ジェニファー・ジェイソン・リー、コリー・ホーキンズ。

    いずれも一線級の俳優ですが、出番は限られています。

    彼らは、旧世代の犯罪者、刑事の家庭、警察組織といった、都市の異なる場所を受け持っています。

    レイトンは、ロサンゼルスの社会階層全体を表現したかったと語っています(TheWrap)。

    その狙いを実行するには、多くの人物が必要です。

    しかし、人物を増やせば増やすほど、一人あたりに使える時間は短くなります。

    本作の上映時間は約140分あります。

    それでも、人物の内面を掘り下げるより、都市の各所へ登場人物を配置することに時間が使われています。

    豪華な俳優たちは、一人ひとりの物語を持つ中心人物というより、ロサンゼルスの見取り図を完成させるための目印になっています。

    映画技法|磨き上げられた表面はどう作られたか

    ドキュメンタリーの問いから始まるカメラ

    レイトンは、ドキュメンタリー出身の監督です。

    本作の画面作りでも、「これをドキュメンタリーとして撮るなら、カメラをどこへ置くか」という問いから考えたと語っています。

    目指したのは、危険で予測できず、生きているように感じられる画面でした(Third Coast Review)。

    VFXへ頼りすぎず、可能な限り実写で撮る方針も明言しています。

    犯罪映画の様式を使いながら、現場へ偶然居合わせたような感覚を残す。

    『The Imposter』や『アメリカン・アニマルズ』から続く、レイトンらしい考え方です。

    ただし、実際の画面から受ける印象は、荒々しさよりも洗練に近いものでした。

    生々しさを狙った手法と、スター映画として磨き上げられた画面。

    本作は、その二つの間にあります。

    撮影と音楽|高く評価された部品

    撮影はエリック・ウィルソンです。

    Empireは、輪郭のくっきりしたデジタル撮影がロサンゼルスを捉え、映画に冷静な自信を与えていると評価しました。

    音楽は、Blanck Mass名義で活動する電子音楽家、ベンジャミン・ジョン・パワーが担当しています。

    AV Clubも、脈打つような音楽が映画のムードを支えていると評価しました。

    撮影、音楽、アクション、俳優。

    部門ごとの仕事には、それぞれ見どころがあります。

    それでも、The Hollywood Reporterのレビューは、本作を「磨き上げられた部品の総和には届かない」と評しました。

    一つひとつの部品は優れている。

    しかし、組み上がった全体から、人間の体温が十分に伝わってこない。

    私が感じた違和感も、この評価に重なります。

    『ヒート』の名が引き上げた期待

    レイトンは、1970年代の犯罪映画が持っていた質感へ戻ろうとし、ウィリアム・フリードキンの名前を参照点として挙げています(BFI)。

    一方、日本版の宣伝は『ヒート』を前面へ出しました。

    英語圏の批評でも、追う刑事と追われる泥棒を描いたロサンゼルスの犯罪映画として、『ヒート』が比較対象になっています。

    ここに、本作の不運の一つがあると思います。

    『ヒート』は、強盗と刑事の対決だけで成立している映画ではありません。

    二人の仕事、家庭、孤独、生き方を時間をかけて描いた、人物の映画です。

    その名前を掲げれば、観客は犯罪映画としての緊張感だけでなく、同じ種類の人物の厚みを期待します。

    しかし『クライム101』が目指したのは、二人の男の人生へ深く入り込むことよりも、より多くの人物を使ってロサンゼルス全体を描くことでした。

    似た外見の犯罪映画でありながら、人物の扱い方は違います。

    その違いを示さないまま『ヒート』の名前を掲げたことで、本作が持っていないものまで期待させてしまいました。

    まとめ|活かしきれていないのは、狙いと売り方のずれ

    冒頭の違和感に戻ります。

    豪華な俳優が集まっているのに、キャラクターが記憶に残らない。

    英語圏の否定的な批評にも、同じ指摘が見つかりました。

    人物の書き込みが不足している。

    表面は光沢に満ちているが、その下につかまるものが少ない。

    過去の優れた犯罪映画を思わせる要素はあるが、本作だけの人物像が立ち上がってこない。

    一方、監督の発言をたどると、少なくともデーヴィスの静けさは、意図的な演出だったことが分かります。

    人物よりも都市や制度を描くという考え方も、一貫しています。

    それなら、キャラクターが立っていないという感想は、監督の狙いを読み違えた結果なのでしょうか。

    私は、そうは思いません。

    日本公式サイトは、『ヒート』との比較だけでなく、豪華なキャストと、その演技を本作の魅力として前面へ出しています。

    これだけのスターを揃えれば、観客は一人ひとりの人物を見たいと思います。

    ところが映画の中で、俳優たちは心理的な中心ではなく、都市の異なる場所を受け持つ人物として配置されています。

    デーヴィスは規範の外。

    ルーは警察。

    シャロンは保険制度。

    オーマンは無秩序な暴力。

    マヤは犯罪の外の人生。

    ベテラン俳優たちは、旧世代、家庭、組織を受け持つ。

    それぞれの位置は明確です。

    しかし、人物としての細部を積み重ねるより、全員を並べて都市の見取り図を完成させることが優先されています。

    だから、キャストが活かされていないように見える。

    正確には、俳優たちは使われています。

    ただし、観客が期待した使われ方ではありません。

    個性派俳優たちを、個人の物語の中心ではなく、ロサンゼルスという大きな構図の中の持ち場として使っているのです。

    作品の狙いだけを見れば、一貫しています。

    問題は、その映画をスターたちの競演と、『ヒート』に続く人物中心の犯罪映画として売ったことです。

    映画が差し出したのは都市と制度の群像劇。

    宣伝が期待させたのは、スター同士の濃密な対決です。

    この食い違いが、「豪華キャストなのに記憶に残らない」という違和感の正体だったのだと思います。

    参考資料

  • 映画『YADANG/ヤダン』|検事・刑事・情報屋、三つ巴の逆襲劇

    2025年公開の『YADANG/ヤダン』(야당)を観て、最初に浮かんだのは、「こんな仕事が本当に韓国にあるのか」という驚きでした。

    「ヤダン」とは、麻薬犯罪者から情報を集めて検察や警察へ渡し、その見返りとして依頼人の減刑を取り持つ闇の仲介人です(日本公式サイト)。

    映画『YADANG/ヤダン』

    本作は、この聞き慣れない仕事を軸に、検事、刑事、ヤダンの三者が絡み合う犯罪映画です。

    監督はファン・ビョングク。韓国では2025年4月に公開され、日本では2026年1月9日にショウゲートの配給で公開されました(Wikipedia日本語版)。

    この記事では、鑑賞後に調べて分かった「ヤダンは本当にいるのか」という問いへの答えを出発点に、本作のテーマ、登場人物の役割、逆襲劇を成立させる構成について考えます。

    先に答えを書くと、ヤダンは実在しました。ただし、いまでは消えつつある仕事です。

    「あった。そして、終わりつつある」。

    この二段構えの答えが、本作の面白さをよく表していると思います。

    ネタバレについて

    この記事では、検事、刑事、ヤダンの関係が出そろう物語の中盤までに触れます。

    終盤の展開と結末は伏せています。

    あらすじ|冤罪の男が「ヤダン」になるまで

    主人公のイ・ガンス(カン・ハヌル)は、客に薬物を盛られ、麻薬犯罪の冤罪で刑務所へ送られます。

    そこへ現れるのが、出世欲の強い検事ク・グァニ(ユ・ヘジン)です。

    グァニは、優れた記憶力を持つガンスに目をつけ、減刑と引き換えに「ヤダン」になるよう持ちかけます(日本公式サイト)。

    腕力ではなく、記憶力を買われた主人公という出発点です。

    ガンスは検察の手足となり、麻薬捜査を裏から動かす腕利きのヤダンへ成長します。グァニも、彼の情報によって検挙実績を積み上げ、出世の階段を上っていきます。

    物語の前半は、二人が互いを利用しながら、同時にのし上がっていく過程として進みます。

    一方、麻薬犯罪の撲滅に執念を燃やす刑事オ・サンジェ(パク・ヘジュン)の捜査が、少しずつガンスとグァニへ近づいていきます(Wikipedia日本語版)。

    ここまでが、三つ巴の駆け引きが始まるまでの設定です。

    テーマ|実在した仕組みと、その終わり

    「ヤダン」は実在した

    鑑賞後に調べて、まず分かったのは、「ヤダン」が映画のために作られた言葉ではないということです。

    韓国の京郷新聞によると、この言葉は1960年代から70年代に、スリ組織の情報屋を指す捜査現場の隠語として生まれ、後に麻薬捜査の世界で使われるようになりました(京郷新聞)。

    その仕組みは、三者の利害によって成り立っています。

    検察や警察は、麻薬犯罪者を検挙するための情報を手に入れ、実績や昇進につなげます。

    被告は、捜査への協力を証明する「公的書」と呼ばれる書面を発行してもらい、裁判で減刑を求める材料にします。

    ヤダンは両者の間に入り、依頼人から「活動費」などの名目で報酬を受け取ります。

    このような取引は、2000年代から2010年代にかけて横行していたと報じられています(京郷新聞)。

    私が興味を引かれたのは、この仕組みが、一人の悪人の意思だけで動いているわけではないことです。

    検察や警察は実績を得る。被告は減刑を期待する。ヤダンは報酬を受け取る。

    三者全員に利益があるからこそ、外からは簡単に壊せません。

    本作の緊張感は、この利害関係の上に成り立っています。

    情報と減刑を交換し、検事がその成果を出世に利用する。本作の基本設定は、実際にあった構造を物語へ移したものなのです。

    麻薬の実害を描くという監督の意図

    ファン・ビョングク監督は、本作を作った理由について、麻薬の危険性と深刻さを伝え、麻薬犯罪がもたらす被害を現実的に見せたかったと語っています(青年日報)。

    同じインタビューでは、メッセージだけを伝える映画ではなく、娯楽の中にメッセージを込めたいとも述べています。

    この二つの発言は、本作の作り方をよく表しています。

    まず、ヤダンという珍しい仕事と、検事、刑事、情報屋の駆け引きで観客を引き込みます。

    その一方で、物語の周辺には、麻薬によって生活や人生を壊されていく人々が配置されています。

    犯罪映画としての面白さと、麻薬の実害を伝える視点。その両方を一本の映画に収めようとしています。

    消えつつある仕事を映画に残す

    さらに興味深いのは、「ヤダンは現在もいるのか」という問いへの答えです。

    映画の公開後、京郷新聞は実際にヤダンとして活動していた人物へ取材しています。

    その人物は、「いまの時代にヤダンなんてどこにいるのか」と答えました。制度が厳しくなり、ヤダンの時代は終わりつつあるというのです(京郷新聞)。

    劇中のような取引が、現在もそのまま通用するわけではありません。

    実際には捜査へ協力していないのに、協力したとする公的書を作れば、虚偽公文書作成として処罰される可能性があります。

    つまり本作は、現在進行形の裏稼業を暴いた映画というより、かつて存在し、いまでは消えつつある仕組みを記録した映画です。

    「ヤダンは本当にいるのか」という私の疑問への答えは、「いた。ただし、その時代は終わろうとしている」でした。

    キャラクター造形|三者の利害を人物に置き換える

    登場人物の配置は、ヤダンをめぐる三者の利害関係と重ねると分かりやすくなります。

    イ・ガンス|被害者から、仕組みの使い手へ

    カン・ハヌルが演じるガンスは、冤罪によってこの世界へ引きずり込まれた被害者です。

    ところが物語が進むにつれ、彼はその仕組みを誰よりも巧みに操るヤダンになっていきます。

    ガンスは最初、減刑を必要とする被告の立場にいます。そこから、情報と減刑を仲介し、報酬を受け取るヤダンの側へ移っていきます。

    一人の人物が、取引の異なる二つの立場を経験するのです。

    そのため観客は、彼の目を通じて、仕組みに利用される側と、仕組みを利用する側の両方を見ることになります。

    被害者として始まった男が、自分を陥れた仕組みの内側で力をつけていく。

    この二重性が、ガンスという人物の核です。

    後半の逆襲に説得力が生まれるのも、彼が単なる被害者ではなく、仕組みの裏側を知り尽くした使い手になっているからでしょう。

    ク・グァニ|情報を出世に変える検事

    ユ・ヘジンが演じるク・グァニは、ヤダンが持ち込む情報を検挙実績へ変え、その成果を出世につなげる人物です。

    三者の利害関係の中では、「実績と昇進」を得る側に立っています。

    本作は、英語圏でも検察の腐敗を描く犯罪映画として紹介されています(Wikipedia英語版)。

    本来は捜査協力を評価するための制度が、個人の出世や権力のために利用されていく。

    グァニは、その腐敗の中心にいる人物です。

    ただし、単純な悪役としてではなく、ガンスと手を組み、一緒にのし上がっていく相棒のような顔も見せます。

    この距離の近さが、二人の関係を単純な加害者と被害者では終わらせません。

    オ・サンジェ|取引の外から迫る刑事

    パク・ヘジュンが演じるオ・サンジェは、麻薬犯罪の撲滅に執念を燃やす刑事です。

    ガンスとグァニが裏で結んだ取引の外側から、二人へ迫っていきます。

    サンジェがいることで、物語は「悪徳検事と利用された男」の対立だけにはなりません。

    検事、刑事、ヤダンの三者が、それぞれの正義と利益を抱えてぶつかり合う、三つ巴の駆け引きになります。

    誰が誰を利用しているのか。誰が味方で、誰が敵なのか。

    その関係が変化し続けることが、本作の面白さです。

    オム・スジンたち|麻薬の被害を引き受ける人々

    チェ・ウォンビンが演じるオム・スジンをはじめ、物語の周辺には、麻薬によって生活を壊されていく人々が登場します。

    詳しい展開には触れませんが、監督が語った「麻薬犯罪の被害を現実的に描きたい」という意図は、主にこうした登場人物を通して表れています。

    検事やヤダンにとって、麻薬犯罪は情報や実績を得るための材料にもなります。

    しかし、その裏には、実際に傷つき、人生を失っていく人間がいます。

    周辺人物の存在によって、本作は権力者たちの駆け引きだけを楽しむ映画にはなっていません。

    チェ・ウォンビンはこの役で、韓国を代表する芸術賞の一つである百想芸術大賞の候補になっています(Wikipedia英語版)。

    映画技法|知らない仕事を理解させ、逆襲へつなげる

    ヤダンの仕事を「手順」で見せる

    日本の観客の多くは、本作で初めて「ヤダン」という言葉を知るはずです。

    私もそうでした。

    そこで重要になるのが、序盤でヤダンの仕事を具体的な手順として見せる場面です。

    誰から情報を得るのか。誰へ情報を渡すのか。何と引き換えに減刑を取りつけるのか。報酬はどこから生まれるのか。

    取引の流れを一つずつ示すことで、観客は聞き慣れない仕事の仕組みを理解できます。

    しかも、その内容は、京郷新聞が報じた実際のヤダンの仕組みと重なっています。

    単なる架空の職業の設定説明ではなく、実在した裏取引を再現する場面として見ることができます。

    知らない世界を観客に理解させながら、その仕組み自体を物語の武器に変えていく。

    この序盤の説明があるからこそ、後半の駆け引きにもついていけます。

    麻薬の被害を美化しない

    麻薬の描写について、監督は、悲惨な現実を隠すのではなく、できるだけ事実に近い形で描こうとしたと語っています(青年日報)。

    麻薬を華やかな犯罪映画の小道具として扱うのではなく、その先にある身体や生活の崩壊まで見せる方針です。

    本作は後半へ進むほど、逆襲劇としての勢いを強めていきます。

    それでも、麻薬の世界を格好よく見せる映画にならないのは、周辺にいる被害者たちと、実害を隠さない描写があるからです。

    娯楽性を高めながらも、題材そのものへの警戒を失わないための支えになっています。

    三人がそれぞれの敵を狙う

    英語圏の紹介では、本作は三人の中心人物が、それぞれ異なる相手への逆襲を抱えた物語として整理されています(Wikipedia英語版)。

    前半では、ガンス、グァニ、サンジェの力関係が作られます。

    中盤に入ると、それぞれが誰を敵と見なし、何を取り戻そうとしているのかが少しずつ明らかになります。

    誰が誰を利用するのか。誰と誰が一時的に手を組むのか。そして、その同盟がいつ裏切りへ変わるのか。

    三者の利害がぶつかり、盤面が動き始めるところまでで、後半の逆襲劇への期待が作られます。

    タイトルに掲げた「三つ巴の逆襲劇」とは、この構造を指しています。

    実在した減刑制度の抜け穴を土台にしながら、情報戦と裏切りが連続する娯楽映画へ仕上げる。

    現実の制度と犯罪映画の快感を結びつけたところに、本作の巧さがあります。

    まとめ|終わりゆく裏稼業の記録

    冒頭の驚きに戻ります。

    「ヤダンのような存在が、本当に韓国にいたのか」。

    答えは、「いた」です。

    ただし、実際にヤダンとして活動していた人物が「いまの時代にヤダンなんてどこにいるのか」と語るように、この仕事はいまでは消えつつあります(京郷新聞)。

    本作は、消えゆく裏稼業を、それが最も活発に動いていた時代の姿で映画に残した作品です。

    実在した三者の利害関係。それぞれの立場を担う登場人物。そして、その仕組みを利用して形勢をひっくり返す逆襲劇。

    この三つが一本につながっていることが、本作の強さだと思います。

    珍しい職業を知る驚きだけではありません。

    制度の抜け穴をめぐる駆け引きと、検事、刑事、ヤダンの力関係が次々に反転していく面白さがあります。

    実在した仕組みを知る犯罪映画としても、三つ巴の逆襲劇としても、『YADANG/ヤダン』は見応えのある作品でした。

    鑑賞後に「ヤダンは本当にいたのか」と調べ、映画と現実を照らし合わせる。

    その答え合わせまで含めて楽しめる一本です。

    参考資料