映画『コート・スティーリング』|猫を預かったら人生が転げ落ちた

2025年公開の『コート・スティーリング』(Caught Stealing)は、『ブラック・スワン』や『ザ・ホエール』のダーレン・アロノフスキー監督による犯罪スリラーです。

日本では2026年1月9日に公開されました(ソニー・ピクチャーズ公式プレスリリース)。

原題の Caught Stealing は、野球用語で、盗塁を試みた走者がアウトになることを意味します。主人公がかつて将来を期待された野球選手だったことを考えると、物語の内容を先取りした題名でもあります。

映画『コート・スティーリング』

始まりは、隣人から「数日だけ猫を預かってほしい」と頼まれるだけです。

ところが、その小さな頼まれごとをきっかけに、主人公の人生は坂を転げ落ちるように壊れていきます。

私の感想は一言で言えます。

どんどん状況が悪くなっていくカオスが楽しい。

日本版のキャッチコピーは、「マフィアもネコも、バッチこい。」です。宣伝文句が、これほどそのまま当てはまる映画も珍しいと思います。

ただ、アロノフスキーの過去作を思い出すと、少し不思議でもあります。

依存症や強迫観念に囚われた人間を、逃げ場のないところまで追い詰めてきた監督です。その人が、なぜ今回はこれほど明確に「楽しさ」を前面へ出したのでしょうか。

そして、その楽しさは何によって作られているのでしょうか。

この記事では、その二つを考えます。

ネタバレについて

この記事では、結末を含む物語の核心まで扱います。

中盤の大きな出来事や、ラストの展開にも踏み込むため、未見の方はご注意ください。

あらすじ|1998年、ロウアーイーストサイドの転落

舞台は1998年のニューヨーク、ロウアーイーストサイドです。

ハンク・トンプソン(オースティン・バトラー)は、高校時代には野球のスター選手でした。しかし自動車事故によって夢を断たれ、いまはバーテンダーとして酒浸りの日々を送っています。

ある日、隣人のパンクロッカー、ラス(マット・スミス)から、数日間だけ猫の世話を頼まれます。

ただそれだけのことだったはずが、ハンクは400万ドルをめぐる争奪戦へ巻き込まれます。

彼を追うのは、ロシア系ギャング、ユダヤ教の戒律を厳格に守る兄弟ギャング、プエルトリコ系の犯罪者、さらにはニューヨーク市警の刑事です。

暴力は段階を追って激しくなります。

ハンクは腎臓を失い、恋人のイヴォンヌ(ゾーイ・クラヴィッツ)は殺され、最後には彼自身が人を殺す側へ回ります。

猫を数日預かるだけだった男が、金と猫を抱えてニューヨークを去るまで。

本作が描くのは、その転落の数日間です。

テーマ|「楽しさ」の器と、その底に沈んでいるもの

「楽しさのジェットコースター」として作られた映画

アロノフスキーは、本作の狙いを一貫して「観客を楽しませること」だと語っています。

『コート・スティーリング』は、楽しさのジェットコースターとして作った。パンクの感性を直接注ぎ込み、映画をさらに加速させたかった。

GRAMMY.com

別のインタビューでも、純粋なジャンル映画を作りたかったこと、観客に劇場で心から楽しんでほしかったことを語っています(TheWrap)。

日本公開時のインタビューでは、観客からもらえる最高の言葉は「楽しかった」だとまで述べました(The Fashion Post)。

『レスラー』『ブラック・スワン』『ザ・ホエール』と、痛みや強迫観念に囚われる人々を撮り続けてきた監督です。

そのアロノフスキーが、今回は楽しさを第一の目標に掲げた。

つまり、私が感じた「どんどん悪くなるのが楽しい」という感想は、作り手の狙いの中心にあったことになります。

「制御不能」こそが物語のエンジン

一方、原作者であり、自ら脚本も手がけたチャーリー・ヒューストンは、物語の核を別の言葉で説明しています。

登場人物たちは、自分では制御できない状況に捕らわれている。そして物語のかなり終盤まで、そのことを理解できない。

The Credits

つまり「どんどん悪くなる」のは、行き当たりばったりに事件を増やした結果ではありません。

主人公が状況を理解できないうちに、事態だけが拡大していく。それ自体が、最初から物語のエンジンとして組み込まれています。

猫を預かるという小さな親切が、400万ドルをめぐる大きな災厄へ膨らんでいく。

ハンクには、自分がなぜ狙われているのかさえ分かりません。説明を求めて動くたびに新しい人物が現れ、暴力の規模が一段ずつ大きくなります。

この落差と加速が、本作のカオスを作っています。

ヒューストンはさらに、本作と自身のアルコール依存との関係についても率直に語っています。

正直に言えば、現役のアルコール依存症でなければ、あの物語は書けなかった。

(同上)

ハンクの飲酒は、荒れた生活を示すための小道具ではありません。

自分を傷つけながら、周囲の人間の人生も壊していく。その危うさが物語の出発点にあります。

底に沈んでいる、いつものアロノフスキー

では本作は、過去作と完全に縁を切った「ただ楽しいだけの映画」なのでしょうか。

私には、そうは見えませんでした。

酒をやめられないハンク。

事故によって失った野球選手としての未来。

その事故で死んだ親友。

そして物語の最初から最後まで、殴られ、切られ、臓器を失い、痛めつけられ続ける身体。

依存、喪失、傷つく身体という、アロノフスキーが繰り返し扱ってきた素材は、本作にもすべてそろっています。

Colliderのロス・ボネームも、本作を、依存と強迫という監督の特徴的な主題を、主流の犯罪スリラーへ溶かし込んだ作品だと評しています(Collider)。

だから本作は、一枚岩の「楽しい映画」ではありません。

二層になった映画です。

上の層には、事件が次々と起こる犯罪映画のジェットコースターがある。

その下には、依存と喪失から逃げ続ける男を描く、いつものアロノフスキーが沈んでいます。

1998年のニューヨークという土台

もう一つの重要な土台が、1998年のニューヨークです。

アロノフスキーは、本作の参照点としてシドニー・ルメットの名前を挙げています。

ルメットは、この映画の守護聖人だった。

そして、ニューヨークの街そのものが画面からにじみ出るような映画を目指したと語っています(TheWrap)。

1998年は、アロノフスキーの長編デビュー作『π』が公開された年でもあります。

本作は、彼が映画監督として出発したころのニューヨークへ戻る作品でもあるのです。

批評家のアイリーン・ジョーンズは、再開発が進み切る前のロウアーイーストサイドの薄汚さを、本作の重要な土台として挙げています(Jacobin)。

現在では家賃が高騰し、多くの店や住人が姿を消した街。

本作に映るのは、異なる文化や階層の人間が狭い地域に入り交じっていた時代です。

ロシア系、ユダヤ系、プエルトリコ系の犯罪者が次々と現れる構成も、その街の混在を背景にしています。

もう存在しない街を舞台にした「楽しい映画」。

そのカオスの底には、失われたニューヨークへの追悼のような響きもあるように、私には見えました。

キャラクター造形|転げ落ちる男と、彼を囲む顔ぶれ

ハンク|巻き込まれる「善良な普通の男」

アロノフスキーは、ハンクを「身の丈を超えた事態に巻き込まれた普通の男」と説明しています。

彼はまっとうな、いい奴だ。誰も傷つけていない。

TheWrap

日本のインタビューでは、「せいぜい、自分自身を少し傷つけているくらいだ」と付け加えました(The Fashion Post)。

ハンクは犯罪者ではありません。

猫を好きでもないのに、頼まれたから世話をする。理不尽な暴力に巻き込まれても、最初は人を傷つけることを避けようとします。

しかし、「自分自身を少し傷つけているだけ」という説明は、映画が進むにつれて崩れていきます。

酒に逃げ、過去から目をそらし続けることは、本当に自分だけを傷つける行為だったのでしょうか。

彼が現実と向き合わないまま生きてきたことは、イヴォンヌとの関係にも影を落としています。

脚色では、ハンクの過去に重要な変更が加えられました。

原作では、野球選手としての将来を絶たれた試合中の骨折と、親友が死亡した自動車事故は別の出来事でした。

映画では、それを一つの自動車事故へ統合しています(The Credits)。

この変更によって、終盤の自動車による衝突は、過去の事故の再演になります。

ハンクは長いあいだ、事故から逃げてきました。

ところが最後には、同じように車を武器として使い、自分で衝突を選びます。

カオスは一見すると、無関係な不運の連続です。

しかしハンクにとっては、逃げ続けてきた過去が一周して戻ってくる物語でもあります。

イヴォンヌ|楽しさに代償を持ち込む転回点

中盤、ハンクの恋人イヴォンヌは、彼が持っていると思われた金をめぐって殺されます。

ヒューストンは、この場面について、彼女が死んだかどうかに曖昧さを残さないことが重要だったと語っています(The Credits)。

ここで映画の手触りは、後戻りできない形で変わります。

それ以前にも、ハンクは激しい暴力を受けています。

しかし、彼が殴られ、腎臓を失う場面には、痛々しさと同時に犯罪映画の過剰な可笑しさがあります。

イヴォンヌの死は違います。

同じ悪化の連鎖でも、彼女が死ぬ前と後では、その意味が変わります。

この展開は、本作最大の論争点にもなりました。

Screen Rantは、男性主人公を動かすために女性を殺す古い物語の型だとして、後退的だと批判しています(Screen Rant)。

CBRも、軽快な犯罪コメディと重い喪失劇という、二つの異なる映画が一本にまとめられていると指摘しました(CBR)。

一方、SlashFilmは、イヴォンヌの死がなければ、終盤のハンクの行動は感情的にも論理的にも成立しないと擁護しています(SlashFilm)。

私は、擁護側に近い立場です。

イヴォンヌの死があるからこそ、カオスは遊園地の楽しさだけでは終わりません。

ハンクが巻き込まれた出来事には、取り返しのつかない代償がある。

そのことを映画へ刻み込む転回点として、必要な場面だったと思います。

ただし、それが女性を主人公の成長のために使う古い型であるという批判も、無視はできません。

この場面が本作の強度を高めると同時に、弱点にもなっている。その両方があると思います。

ラスと追う者たち|カオスを持ち込む顔ぶれ

すべての発端を作るのは、モヒカン頭の英国人パンクロッカー、ラスです。

「数日だけ猫を頼む」

その一言で、隣人の人生を破壊します。

売れないロッカーの軽さが、そのまま災厄の軽い入り口になっています。

追う側の顔ぶれも濃い。

リーヴ・シュレイバーとヴィンセント・ドノフリオが演じるリパとシュムリーは、ユダヤ教の戒律を厳格に守りながら、人を拷問し、殺す兄弟ギャングです。

信仰の規律と暴力稼業が同じ人物の中に存在する。

本作の「コミカルさと不穏さの同居」を、最も濃く担う二人です。

レジーナ・キング演じる刑事ローマンは、ハンクにとって唯一の「制度の側の味方」に見えます。

しかし彼女もまた、400万ドルを狙う汚職刑事です。

誰も信用できないという犯罪映画の論理を、警察にまで広げる反転になっています。

さらに、ベニート・マルティネス・オカシオが演じるコロラドが加わります。

ロシア系、ユダヤ系、プエルトリコ系の犯罪者と、ニューヨーク市警。

ハンクを追う顔ぶれそのものが、再開発前の雑多なニューヨークを映す地図になっています。

猫のバド|最後に残るもの

そして、猫のバドです。

物語の発端であり、400万ドルへたどり着くための鍵を預かる存在でもあります。

しかしバド自身は、金にも犯罪にも関係ありません。

ただ世話を必要としているだけです。

ハンクは、人間を信用できなくなっていく一方で、猫だけは最後まで見捨てません。

結末でハンクは、リパとシュムリーを自らの手で殺し、金の半分を母親へ送り、猫を連れてニューヨークを去ります。

「誰も傷つけていない、いい奴」は、人を殺した男として街を出る。

恋人も、仕事も、それまでの生活も失った彼の隣に残るのは、猫一匹だけです。

この幕切れに、本作で失われたものの大きさが表れていると思います。

映画技法|カオスはどうやって作られたか

撮影|最新カメラに1930年代のレンズ

撮影監督は、アロノフスキー作品の常連であるマシュー・リバティークです。

リバティークは、本作ではアロノフスキーとの従来の仕事の原則が変わったと語っています。

普段のダーレンとの仕事では、『レスラー』でも『ブラック・スワン』でも、すべてを主人公の主観から発想する。本作では、過去の強迫観念をいったん脇へ置き、気軽に楽しめるポップコーン映画を作った。

The Credits

過去作では、カメラが主人公の精神状態へ密着していました。

『ブラック・スワン』では、観客も主人公と一緒に現実と妄想の境界を失っていきます。

本作のカメラは、より自由です。

ハンクの内面だけに閉じこもらず、街を走り回り、多数の人物を映し、犯罪映画の速度を作ります。

機材の組み合わせも特徴的です。

リバティークは、最新のデジタルシネマカメラであるソニーVenice 2に、1930年代に設計されたボシュロムのバルターレンズを組み合わせました。

レンズは、撮影監督のエド・ラックマンから譲り受けたものです(The CreditsDefinition Magazine)。

最新のデジタルカメラを使いながら、古いレンズを通して1998年を見る。

現在の技術で、失われた街の質感を呼び戻す組み合わせです。

照明|「見せない光」で呼び戻す1990年代

リバティークは、照明についても明確な方針を持っていました。

照明が自己主張するのは好きではない。特にこの映画では、1990年代にニューヨークの街を歩いた、自分の記憶の感触にしたかった。

Definition Magazine

Venice 2の高感度性能を活かし、ISO 3200で撮影することで、暗い場所でも大量の照明を追加せずに撮影しています。

いかにも映画用に明るく照らすのではなく、バーや路地が実際に持っている暗さを残す。

また、現在はなくなったイーストヴィレッジの店や街並みも再現されました。

当時を知る人が、一瞬でその時代へ引き戻されることを目指したといいます。

「楽しい犯罪映画」の器の中身が、監督と撮影監督の個人的な記憶によって作られていた。

アロノフスキーの「ニューヨークの街がにじみ出る映画」という言葉と、正確に重なります。

カメラワーク|カメラ自体が転がって逃げる

私が感じたカオスには、技術的な裏づけがあります。

食料品店の追跡場面で、リバティークは砂袋を運ぶカートへ屈み込んで乗り込み、スタッフ二人に押してもらいながら撮影しました。

低い位置で手持ちカメラを構え、オースティン・バトラーがフォークリフトの下を滑り抜ける動きを追っています(The Credits)。

カメラそのものが、転がりながら逃げる身体になっている。

観客は離れた場所から追跡を見るのではなく、ハンクと一緒に床の近くを滑っていきます。

一方でリバティークは、アロノフスキーについて、即興に見える場面でも頭の中ではすべて組み立てられている、極めて意図的な監督だと語っています(Definition Magazine)。

画面は制御不能に見えます。

しかし、その制御不能は精密な統制によって作られている。

脚本が状況の悪化を設計し、撮影が身体の速度を作り、編集が次の災厄へ押し出していく。

「どんどん悪くなる」快感は、偶然ではありません。

音楽|パンクの感性を注ぎ込む

音楽も、映画を加速させる方向へ統一されています。

スコアの作曲はロブ・シモンセンですが、演奏を担当したのは英国のパンクバンド、IDLESです(GRAMMY.com)。

アロノフスキーが語ったとおり、パンクの感性を直接映画へ注ぎ込むための起用でした。

物語へ災厄を持ち込む隣人は、パンクロッカーです。

その映画を、パンクバンドの演奏が押していく。

題材、人物、音楽が同じ速度で進んでいます。

まとめ|盗塁を試みて、アウトになる

冒頭の問いに戻ります。

この映画の楽しさは、何でできているのでしょうか。

私の答えは、精密に作り込まれた悪化の連鎖です。

自分では制御できない状況に主人公を放り込む脚本。

転がる身体となって、主人公と一緒に逃げるカメラ。

記憶をもとに再現された1998年のニューヨーク。

映画をさらに加速させるパンクの演奏。

そして中盤で、その楽しさに取り返しのつかない代償を刻むイヴォンヌの死。

画面では何もかもが制御不能に見えます。

しかし、そのカオスは細部まで制御されています。

次の塁を狙って走り、アウトになる。

野球選手としても、その後の人生でも、前へ進もうとしては痛い目に遭ってきたハンクの物語に、これほど収まりのよい原題はありません。

これは作り手が明言した意味ではなく、私の解釈です。

ただ、そう読みたくなる符合があります。

批評家の反応は好意的で、Rotten Tomatoesでは85%の評価を得ました。一方、世界興行収入は約3,325万ドルにとどまっています(Rotten TomatoesBox Office Mojo)。

観客を楽しませることを、これまで以上に明確な目標として作られた作品が、興行的には大きな成功に結びつかなかった。

その点まで、どこか原題の意味に重なって見えます。

それでも、アロノフスキーは、観客からもらえる最高の言葉は「楽しかった」だと語っています。

私は、その言葉をそのまま返したい。

どんどん状況が悪くなっていくカオスは、確かに楽しかった。

そして、その楽しさの底に、依存、喪失、傷つく身体という、いつものアロノフスキーがきちんと沈んでいた。

それが、この映画をただの気晴らしで終わらせていないのだと思います。

参考資料