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  • 映画『ブラック・フォン』|ホラー×ファンタジーという鉄板設定を新しい視点で

    地下室の壁に、断線した黒電話が掛かっています。

    つながっていないはずのその電話が、鳴る。

    『ブラック・フォン』(The Black Phone)は、この一つのイメージに映画の核心を詰め込んだ作品です。

    映画『ブラック・フォン』

    恐ろしい状況に超自然の力が介入する。ホラーとファンタジーを掛け合わせた物語は、これまでにも数多く作られてきました。

    しかし本作は、犯罪スリラーとゴーストストーリーを結びつけ、幽霊を恐怖の源ではなく、少年を救う存在として描きます。定番の組み合わせを使いながら、物語を見る角度を反転させているのです。

    では、その「新しい視点」の中身は何だったのでしょうか。

    この記事では、監督と脚本家の発言を手がかりに、本作が定番の設定をどのように新しい物語へ変えたのかを見ていきます。

    監督はスコット・デリクソン。『シニスター』で組んだ共同脚本のC・ロバート・カーギル、主演のイーサン・ホークと再び組み、ジョー・ヒルの短編小説「黒電話」を映画化しました。製作はブラムハウスです。

    2021年9月25日にジャンル映画祭Fantastic Festでプレミア上映され、全米では2022年6月24日に公開。日本では同年7月1日に東宝東和の配給で公開されました。上映時間は104分、映倫区分はPG12です(Blumhouse公式サイト日本公式サイト)。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の中盤までの展開に触れます。

    地下室で何が始まるのかまでは書きますが、その先の展開と結末は伏せています。

    あらすじ|1978年、少年が地下室で電話を受けるまで

    舞台は1978年、コロラド州デンバー近郊の町です。

    13歳のフィニー(メイソン・テムズ)は、内気ですが賢い少年です。学校ではいじめられ、家では酒浸りの父親の暴力に怯えて暮らしています。

    町では、子どもの失踪が相次いでいました。

    犯人は「グラバー」と呼ばれる誘拐犯です。黒い風船と、不気味なマスクだけが目撃されています。

    フィニーの妹グウェン(マデリーン・マックグロウ)は、夢の中で事件の断片を見ることがあります。亡くなった母親から受け継いだ力です。兄思いで、口が悪く、神に祈る少女でもあります。

    ある日、フィニーはグラバー(イーサン・ホーク)に連れ去られ、防音された地下室に閉じ込められます。

    地下室にあるのは、汚れたマットレスと、壁に掛かった黒電話だけ。電話は断線していて、使いものになりません。

    その電話が、鳴ります。

    受話器の向こうから聞こえてくるのは、グラバーに殺された子どもたちの声でした。

    彼らは一人ずつ、自分が生き延びられなかった経験をフィニーに伝えていきます。

    一方、外の世界では、グウェンが夢を頼りに兄を捜し始めます。

    ここから先は、劇場や配信で確かめてください。

    テーマ|幽霊が、助ける側に回る

    鉄板設定の中身——二つの定型を一つのショックに重ねる

    デリクソン監督は、原作短編に惹かれた理由をはっきり語っています。

    シリアルキラーの物語とゴーストストーリーを組み合わせながら、暗い題材を共感と希望の視点から描いていたことに魅力を感じたそうです(TIMESlashFilm)。

    「鳴るはずのない電話が鳴る」という出来事は、最初は恐怖として現れます。

    しかし、その電話は同時に、フィニーにとって希望の始まりでもあります。

    死者の声は、彼を脅かすために掛かってくるのではありません。生き延びる方法を教えるために掛かってきます。

    共同脚本のカーギルは、電話や幽霊といった超自然の要素が、これまでの犠牲者にはなかった「自分を救うための道具」をフィニーに与えると説明しています(Creative Screenwriting)。

    ホラーの定型では、幽霊は人間を脅かす側にいます。

    本作はその役割を反転させ、幽霊を助ける側へ回しました。

    しかも、死者たちは万能ではありません。彼らが教えられるのは、自分が試して失敗したことだけです。一人ひとりの失敗が積み重なり、フィニーが生き延びるための手段へ変わっていきます。

    恐怖の意匠をまとったまま、物語は少年のサバイバルと成長へ向かう。

    私が「新しい視点」と感じたものの第一の実体は、この反転です。

    新しさのもう半分は、監督の実体験

    ただし、調べていくと、本作の新しさはジャンルの組み合わせだけではないことが分かります。

    この映画には、デリクソン自身の子ども時代が強く反映されています。

    監督は1978年、本作と同じノースデンバーで暮らす12歳の少年でした。暴力の多い地域と家庭で育ち、子ども時代の最も強い感情的な記憶は恐怖だったと語っています。

    物語全体が、本当に子ども時代のトラウマについてのものなんだ。

    Rue Morgue

    デリクソンは、約3年間のセラピーを通して幼少期の暴力と向き合ったことが、本作を完成させるきっかけになったとも説明しています(SYFY WIRESlashFilm)。

    原作短編は、誘拐された少年が黒電話を通じて死者の声を聞く物語でした。

    そこへデリクソンが付け加えたのが、1978年の町、学校でのいじめ、家庭内暴力、そして兄妹の関係です。

    つまり本作の恐怖は、グラバーが現れた瞬間に始まるのではありません。

    フィニーとグウェンは、誘拐事件が起きる前から恐怖の中で暮らしています。

    この日常を描いたことで、グラバーは突然現れた唯一の怪物ではなく、子どもたちが生きる暴力的な世界の延長として見えてきます。

    鉄板設定が新しく見える理由は、組み合わせの巧さだけではありません。

    1978年の空気と、恐怖と一緒に育った子どもの実感。その具体性が、定型に血肉を与えているのです。

    ホラーは、恐怖を祓うための道具

    デリクソンにとって、ホラーというジャンルを選ぶこと自体にも意味があります。

    こうした映画を作ることはカタルシスであり、不安や恐怖を生み出すのではなく、外へ追い出す営みなのだと語っています(TIME)。

    カーギルも、本作の主要なテーマを「子どもの回復力」だと説明しています(Creative Screenwriting)。

    フィニーは、恐怖を感じなくなるわけではありません。

    電話の声に助けられながら、怖いまま一つずつ行動を起こします。

    怖がらせて終わるのではなく、恐怖の中でも動けることを描く。

    幽霊を助ける側に回した反転は、この主題を成立させるための仕掛けでもありました。

    キャラクター造形|トラウマへの、三つの応答

    フィニー——受け身の子が、行動する側へ

    主人公フィニーは、いじめと家庭内暴力にさらされた「受け身の子」として登場します。

    学校では殴られ、家では父親の機嫌をうかがう。危険を避けるためには、目立たず、抵抗しない方がよいと学んできた少年です。

    カーギルは、フィニーが地下室へ連れ去られるまでの約30分を使い、観客が彼を好きになり、助かってほしいと思えるようにしたと説明しています(Creative Screenwriting)。

    前半の日常があるからこそ、地下室での変化が効いてきます。

    死者たちは、それぞれ異なる方法をフィニーに教えます。

    壁を掘る。窓へ手を伸ばす。電話のコードを使う。床に罠を作る。

    しかし、誰か一人の方法だけでは逃げられません。

    フィニーは、死者たちが残した失敗を自分なりに組み合わせ、少しずつ行動する側へ変わっていきます。

    彼が手に入れるのは、恐怖を消す魔法ではありません。

    それまで自分にはないと思っていた、考え、試し、抵抗する力です。

    演じたメイソン・テムズにとって、本作は長編映画デビュー作でした。デリクソンは、その演技を「文字どおり完璧」と評しています(SlashFilm)。

    グウェン——祈り、悪態をつき、走る妹

    妹のグウェンは、この映画のもう一人の主人公です。

    夢で事件の断片を見る「霊感少女」ですが、超自然の力が答えをすべて教えてくれるわけではありません。

    断片的な夢を手がかりに、自分の足で町を走り回り、警察にも意見し、兄を捜し続けます。

    口が悪く、いじめっ子にも大人にもひるまない。フィニーが恐怖を避けようとする少年なら、グウェンは恐怖へ正面から向かっていく少女です。

    一方で、彼女は神に祈ります。

    そして、祈っても兄の居場所が分からなければ、神に怒りをぶつけます。カーギルは、この神への怒りを重要な場面として挙げています(Creative Screenwriting)。

    グウェンにとって、信じることは答えを待つことではありません。

    祈りながら、自分でも動き続けることです。

    地下室の中で戦うフィニーと、外の世界で走り続けるグウェン。

    兄妹の二つの行動が並行することで、物語は監禁された少年だけの閉じた話にならず、外へ向かって進んでいきます。

    グラバー——背景を語られない怪物

    イーサン・ホーク演じる誘拐犯グラバーには、過去の説明がほとんどありません。

    なぜ子どもを誘拐するのか。なぜマスクを着けるのか。地下室で行う「ゲーム」はいつ始まったのか。

    映画は、その答えを示しません。

    デリクソンは、悪役を一つの過去の出来事によって説明することを避けたと語っています。人間が怪物になる理由を単純な原因へ還元すると、かえって恐ろしさが失われると考えたからです(SYFY WIRESlashFilm)。

    説明はしない。しかし、単なる超自然の怪物でもありません。

    グラバーは現実の人間であり、子どもたちの身近な世界へ入り込んでくる存在です。

    本作には、地下室の外にも暴力があります。

    学校のいじめっ子。家庭で子どもを殴る父親。そして、子どもを誘拐するグラバー。

    規模は異なっても、力の強い者が弱い者を支配するという点ではつながっています。

    フィニーとグウェンは、恐怖の中で他者とつながり、行動することでそこから抜け出そうとします。

    一方のグラバーは、他者を支配することでしか自分を保てません。

    本作が描くのは、トラウマの原因を説明することではなく、恐怖や暴力に対して人がどの方向へ進むのかという違いなのだと思います。

    映画技法|マスク、8ミリ、そして地下室

    分割式マスク——顔を隠す道具が、表情の道具になる

    グラバーのマスクは、本作を象徴する視覚的なアイコンです。

    制作したのは、特殊メイクのトム・サヴィーニとジェイソン・ベイカー。デリクソンが示した参照点は、映画『笑ふ男』(1928年)でした(Looper)。

    マスクは目元と口元を別々に着脱できる分割式です。

    笑った口。下向きの口。目を隠した顔。場面によって組み合わせを変えることで、同じマスクが異なる表情を見せます。

    通常、マスクは俳優の表情を隠すものです。

    本作では逆に、マスクを付け替えること自体が感情表現になっています。

    イーサン・ホークは素顔をほとんど見せません。それでも、声、姿勢、マスクの組み合わせによって、グラバーの機嫌や危険の度合いが伝わります。

    背景を説明しない脚本方針と、素顔を見せない造形が一致しているのです。

    サヴィーニには、子どもを犠牲者として搾取する映画には関わらないという個人的な方針があったそうです。

    それでも本作を引き受けたのは、子どもたちを一方的な犠牲者ではなく、互いにつながり、力を取り戻す集団として描いていたからだと、原作者ジョー・ヒルが説明しています(Looper)。

    子どもがひどい目に遭う映画と、子どもが生き延びる力を描く映画は違う。

    この逸話は、本作が守ろうとした一線を示しています。

    スーパー8の夢——記憶の質感を、フォーマットで作る

    グウェンの夢の場面は、スーパー8フィルムで撮影されています。

    撮影監督ブレット・ユトキービッチによれば、後から映像を加工したのではなく、脚本の段階から夢の場面はスーパー8で撮ると決められていました(Deep Fried Movies)。

    粒子が粗く、汚れのある映像は、古いホームムービーのように見えます。

    そこに映るのは、グウェン自身が見たことのない事件の断片です。

    現実の記録のようでありながら、どこか欠けている。記憶のようでありながら、本人の記憶ではない。

    スーパー8というフォーマットが、夢と記録の中間にある不安定な感触を作っています。

    同時に、1978年という時代設定とも自然につながります。

    映像へ古さを加えるのではなく、当時使われていた撮影方式そのものを用いることで、夢を時代の中へ埋め込んでいるのです。

    地下室——光の主導権まで奪われる空間

    物語の後半は、大部分が一つの地下室で進みます。

    長時間同じ場所を映すため、画面が単調になる危険があります。

    撮影監督のユトキービッチは、毎回同じ場所に見えない動的な空間にする必要があったと語っています。

    そこで考えられたのが、地下室の照明をグラバーが外から操作するという仕掛けでした(Deep Fried Movies)。

    フィニーには、明かりを点ける自由すらありません。

    光が点くか、暗闇になるかは、すべてグラバーが決めます。

    二人の力関係が、照明の設計そのものに書き込まれているのです。

    同じ地下室でも、昼と夜、電話が鳴るとき、グラバーが入ってくるときで、光の状態が変わります。

    空間を増やすのではなく、光を変えることで、一つの部屋に複数の表情を与えています。

    デリクソンのホラー演出は、すべてを見せる方向には進みません。

    ホラーはコメディと同じくタイミングが重要であり、観客を最も怖がらせるのは、目の前に見せるものではなく、頭の中に浮かばせるものだと語っています(SlashFilm)。

    本作を象徴する恐怖も、血まみれの映像ではありません。

    何も動いていない地下室で、鳴るはずのない電話が鳴る。

    見えない相手の存在を、音だけで想像させる映画です。

    まとめ|「新しい視点」の答え合わせ

    冒頭の問いに戻ります。

    ホラー×ファンタジーという鉄板設定を、本作はどのように新しく調理したのでしょうか。

    答えは二段構えでした。

    第一に、幽霊の役割を反転させたことです。

    人間を脅かす存在として描かれがちな幽霊を、少年を助ける側へ回す。死者たちの失敗を、フィニーが生き延びるための道具へ変えています。

    第二に、その反転を監督自身の子ども時代と結びつけたことです。

    1978年のデンバー近郊。暴力のある家庭と地域。学校でのいじめ。恐怖と一緒に育った少年時代。

    原作のシリアルキラーと幽霊の物語へ、デリクソン自身の記憶を加えたことで、映画は単なる脱出劇ではなく、子どもが恐怖に抗う物語になりました。

    正確に言えば、本作の「ファンタジー」は異世界の魔法ではなく、死者と会話するゴーストストーリーの超自然です。

    しかし、その超自然を怖がらせるためだけに使わず、子どもの回復力を描くために使い切った。

    それが、本作の新しい視点だったのだと思います。

    その設計は、商業的にも成功しました。

    製作費約1,600万~1,800万ドルの本作は、世界興行収入約1億6,144万ドルを記録しています(Box Office Mojo)。

    明快な設定と強い視覚的アイコンを持つ中規模ホラーを作り、観客を集める。ブラムハウスらしい成功例です。

    そして本作から4年後を描く続編、『ブラックフォン 2』も2025年に公開されました。

    完結していたように見えた物語を、どのように続けたのか。その話は別の記事に譲ります。

    まずは、鳴るはずのない電話が鳴る瞬間を、予備知識なしで浴びてください。

    参考資料

  • 映画『ブラックフォン 2』|完結した物語に、続きの電話が鳴る

    2025年公開の『ブラックフォン 2』(Black Phone 2)は、そもそも「続きがあり得ない」続編でした。

    前作『ブラック・フォン』のレビューでも書いたとおり、第1作で、少年ばかりを狙う連続誘拐殺人犯グラバーは死に、物語は完結していました。

    地下室に監禁された少年フィニーが、死んだ被害者たちの声に助けられて脱出し、加害者を倒す。あの結末に、続きの余地はなかったはずです。

    ところが、敵役は戻ってきました。

    映画『ブラックフォン 2』

    さすがに、ホラーの敵役はしぶとい。

    この記事では、その「しぶとさ」が何でできているのかを考えます。

    死んだはずの殺人鬼は、なぜ、どのようにして戻ってきたのか。そして、彼を復活させることで、この続編は前作の物語を何に書き換えたのでしょうか。

    監督は前作に続いてスコット・デリクソン。共同脚本のC・ロバート・カーギルも続投しています。グラバー役のイーサン・ホーク、兄妹を演じたメイソン・テムズとマデリーン・マックグロウも再登場します。

    日本では、東宝東和の配給で2025年11月21日に公開されました。上映時間は114分、映倫区分はR15+です(東宝東和映画.com)。

    ネタバレについて

    本作の中心には、大きな秘密の開示があります。

    この記事では、母親の死の真相、クライマックス、ラストシーンまで具体的に扱います。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|4年後の冬、母の過去が眠るキャンプへ

    前作から4年後の1982年。

    グラバーの地下室から生還したフィニー(メイソン・テムズ)は高校生になりましたが、事件の記憶を抱えたまま、荒れた日々を送っています。

    一方、妹のグウェン(マデリーン・マックグロウ)は、繰り返し悪夢を見るようになります。

    夢に現れるのは、雪に閉ざされたキャンプ場で殺される3人の少年。そして、鳴り続ける黒電話です。

    夢に導かれた兄妹は、亡き母ホープがかつて働いていたキリスト教系のウィンターキャンプ「アルパイン・レイク」へ向かいます。

    そこは1957年、若き日のグラバーが3人の少年を殺し、遺体を凍った湖の下へ隠した場所でした。

    そして、死んだはずのグラバーが、グウェンの夢の中から兄妹を狙い始めます。

    テーマ|しぶといのは敵役か、それとも悲嘆か

    起点は「くだらないアイデア」だった

    完結した物語が再び動き出した経緯は、はっきり記録されています。

    起点は、原作者ジョー・ヒルが共同脚本のカーギルに送ったメールでした。

    ヒルは「くだらないアイデアなんだけど」と前置きしながら、次のような場面を提案したそうです。

    電話が鳴り、フィニーが出ると、地獄からグラバーがかけてきている。

    Collider

    デリクソンは、この一行に可能性を見いだしました。

    グラバーを生き返らせて、もう一度連続殺人鬼の物語を作るのではない。死者となったグラバーを使い、前作とは異なるゴーストストーリーを作る。

    本作は、第1作の物語をそのまま延長したのではありません。

    敵役を現実の犯罪者から超自然の存在へ変え、ジャンルを乗り換えることで成立した続編です。

    『エルム街の悪夢』の型を公然と引き受ける

    死んだ殺人鬼が、夢の中で若者を襲う。

    この設定から『エルム街の悪夢』シリーズを思い出すのは、自然な反応です。特に、若者たちが夢の中で殺人鬼に立ち向かう第3作『エルム街の悪夢3/惨劇の館』との共通点は明らかです。

    作り手も、その影響を隠していません。

    カーギルは、同シリーズを生んだウェス・クレイヴンの名前を挙げながら、単純に真似るのではなく、自分たちなりの変奏を試みたと語っています(Collider)。

    デリクソンも、本作が1980年代初頭のホラー映画と対話する作品であることを認めています。

    『エルム街の悪夢』だけでなく、『シャイニング』や、当時数多く作られたキャンプ場を舞台にしたホラー映画。その伝統を引き受けながら、舞台を夏ではなく雪に閉ざされたウィンターキャンプへ移しました(The AU Review)。

    つまり「ホラーの敵役はしぶとい」という私の第一印象は、まさに作り手が選んだ土俵でもありました。

    グラバーの復活は、ごまかされた死ではありません。

    死んだ殺人鬼が別の姿で帰ってくるという、ホラー映画の伝統を意識的に引き受けたものです。

    しぶとさの正体は、終わっていない悲嘆

    ただし本作は、ジャンルの慣習だけでグラバーを復活させてはいません。

    劇中にも、彼が消えない理由が用意されています。

    1957年に殺された3人の少年は、遺体が発見されないまま、凍った湖の下に沈んでいます。彼らの死は誰にも認識されず、魂も解放されていません。

    その未解決の死が、グラバーの力を支えています。

    遺体が見つからず、恐怖が残っている限り、加害者も消えない。

    グラバーのしぶとさは、被害が終わっていないことの表れです。

    そして本作は、その中心にもう一つの秘密を置きます。

    自殺したと家族が信じてきた母ホープは、実際にはグラバーに殺され、その死を自殺に偽装されていました。

    ホープは、グウェンと同じ夢を見る力によって、1957年の殺人に気づいていたのです(TIME)。

    この真相が明らかになることで、兄妹の戦いは単なるグラバーとの再戦ではなくなります。

    家族の中で長く止まっていた悲嘆を終わらせるための戦いになります。

    父テレンスは、妻が自ら命を絶ったと信じてきました。フィニーとグウェンも、母親が家族を残して死を選んだという物語の中で育っています。

    グラバーを倒しても、その誤解が残る限り、家族の時間は動きません。

    だから本作で本当に終わらせなければならないのは、殺人鬼だけではありません。

    発見されなかった遺体。知られなかった母親の死。言えなかった別れ。

    未処理のまま残っていたものを一つずつ明るみに出し、正しい場所へ戻す必要があります。

    私には、グラバーというしぶとい敵役が、遺された家族の悲嘆そのものに見えました。

    「愛の視点から語られるホラー」

    デリクソンは、前作と本作を「愛の視点から語られるホラー映画」だと表現しています(The AU Review)。

    恐怖に対抗する力として置かれているのは、兄妹の愛と、母親の愛です。

    デリクソンは同じインタビューで、10代に抱く感情の一部は、人生の中で最も強いものだとも語っています。

    10代で感じるものごとの一部は、人生で感じる最も強力なものだ。

    (同上)

    前作のフィニーとグウェンは、暴力的な家庭と地域で支え合って生きる兄妹でした。

    本作では、二人の関係にもひびが入っています。

    フィニーは前作の事件について話そうとせず、怒りを抱えたまま妹を遠ざける。グウェンは兄を助けたいと思いながら、自分の力にも神にも確信を持てません。

    それでも最後には、兄妹が互いを信じ、母親から受け継いだものを受け入れることでグラバーに立ち向かいます。

    殺人鬼が夢の中から戻る物語でありながら、中心にあるのは家族の関係を結び直すことです。

    だから本作は、グラバーの復活を目的にはしていません。

    終わっていなかった家族の物語を終わらせるために、彼を戻しているのです。

    キャラクター造形|妹が主役になる続編

    グウェン——呪いを祝福に書き換える

    本作の実質的な主人公は、兄のフィニーではなく妹のグウェンです。

    前作でも、夢を手がかりにフィニーを捜し続けたのはグウェンでした。しかし、物語の中心にいたのは地下室へ監禁されたフィニーです。

    本作では、その位置が入れ替わります。

    グラバーが現れる場所は、グウェンの夢です。1957年の事件を目撃し、母親の過去へ近づき、最後にグラバーと向き合うのも彼女です。

    グウェンは母親から、夢を通じて死者や過去を見る力を受け継いでいます。

    序盤の彼女は、その力を呪いだと考えています。

    母親も同じ力に苦しみ、最後には自ら命を絶ったと教えられてきたからです。自分も母親と同じ道をたどるのではないかという恐怖が、グウェンにはあります。

    しかし、母親の死の真相が明らかになることで、意味が反転します。

    母親は力に負けて死んだのではありません。殺された少年たちを救おうとし、そのためにグラバーから狙われました。

    自分に受け継がれたものは、家族を壊す呪いではなく、死者の声を聞き、誰かを救うための力だった。

    終盤、公衆電話を通じて母親と言葉を交わす場面で、この転換は完成します(TIME)。

    グウェンは、母親と同じになることを恐れる少女から、母親の意志を引き継ぐ少女へ変わります。

    悲嘆、信仰、継承という本作の主題は、すべて彼女に集まっています。

    批評でも、マデリーン・マックグロウの演技は高く評価されました。io9のジャーメイン・ルシエは、彼女を本作の「真のスター」と評しています(Rotten Tomatoes編集部)。

    口が悪く、神に食ってかかり、それでも祈る。

    前作から変わらないグウェンの強さが、本作では映画全体を前へ進める力になっています。

    フィニー——生き残った者の怒り

    前作で黒電話を受ける側だったフィニーは、本作では妹を守る側へ回ります。

    しかし、前作の出来事を乗り越えたわけではありません。

    加害者を倒して生還しても、被害者の時間がその場で終わるわけではない。本作のフィニーは、その事実を引き受ける人物です。

    彼は事件について話すことを拒み、怒りを抱え、周囲と衝突します。

    演じるメイソン・テムズは、本作のフィニーを「とても怒っていて、自分に起きたことと向き合いたくない人物」と説明しています(Entertainment Weekly/AOL配信)。

    前作でフィニーを救ったのは、死んだ少年たちの声でした。

    ところが本作の彼は、その経験を自分の中へ閉じ込めています。

    電話の向こうの声を受け入れた少年が、自分の声を外へ出せなくなっているのです。

    だから、フィニーの課題はもう一度グラバーを倒すことだけではありません。

    自分が怖かったこと、傷ついたこと、今も苦しんでいることを認める必要があります。

    本作でフィニーが妹を守ろうとするのは、単に兄だからではないでしょう。

    自分と同じ傷を、グウェンに負わせたくないからです。

    しかし、自分一人で妹を守ろうとすればするほど、グウェンの力や意思を否定することにもなります。

    最後に兄妹が並んでグラバーと戦うことで、フィニーは守る側へ回るだけでなく、妹を対等な相手として信じるようになります。

    グラバー——マスクだけが残った

    イーサン・ホーク演じるグラバーは、死んだことで、人間だったころの輪郭を失いました。

    前作では、地下室を持ち、兄と暮らし、子どもたちに独自の「ゲーム」を強いる現実の犯罪者でした。

    本作では、夢の中へ現れる超自然の存在です。

    残っているのは、マスクと声と怒りだけ。

    人間だったころの生活や肉体が失われたことで、前作以上にホラー映画の怪物へ近づいています。

    ホークは前作の公開時、マスクを着けて演じることについて、「未知の中にこそ恐怖の多くが宿る」と語っていました(The AU Review)。

    素顔そのものが失われた本作のグラバーは、その考え方の行き着いた先に見えます。

    メイソン・テムズは、本作のグラバーをフレディ・クルーガーと比較しながら、より怒りに満ち、自分にとってはさらに恐ろしい存在だと表現しています(Entertainment Weekly/AOL配信)。

    ただし、フレディのように冗談を言いながら観客を楽しませる怪物ではありません。

    本作のグラバーには、余裕も遊びもない。

    被害者たちが自分から離れていくことへの怒りと、兄妹を支配できないことへの憎しみだけが残っています。

    死んで自由になったのではなく、執着だけになった男です。

    母ホープ——不在の中心

    前作と本作を最も大きく分けているのが、亡き母ホープの存在です。

    前作では、グウェンの力が母親から受け継がれたこと、父親がその力を恐れていることだけが語られていました。

    本作は、その空白を物語の中心へ移します。

    ホープは、グウェンと同じように夢で過去を見る力を持っていました。

    1957年に殺された少年たちの姿を夢で見て、真相に近づいたため、グラバーに殺されました。そして、その死は自殺に偽装されます(TIME)。

    この真相によって、家族が信じてきた物語が書き換えられます。

    母親は家族を残して自ら死を選んだのではありません。

    死者を救おうとして殺された。

    その違いは、残された家族にとって決定的です。

    グウェンが自分の力を呪いだと思っていた理由も、父テレンスが娘の夢を恐れていた理由も、母親の死について誤った説明を信じていたことにあります。

    真相が分かることで、「呪われた家系」は「受け継がれた守護」へ反転します。

    父親の止まっていた時間も、ようやく動き始めます。

    前作には存在しなかった感情の核です。

    グラバーの再登場は、この母親の物語を成立させるための手段になっています。

    映画技法|夢は本物のフィルムでできている

    悪夢はすべて実写のフィルム

    本作の悪夢には、現実の場面とは明らかに異なる、ざらついた質感があります。

    あれは、デジタル映像へ後から加えた加工ではありません。

    グウェンの悪夢は、実際のSuper 8とSuper 16フィルムで撮影されています。カーギルによれば、フィルムに見える場面はすべて本物のフィルムで、デジタル映像をフィルム風に加工したショットは一つもありません(SlashFilm)。

    前作でも、グウェンの夢はSuper 8で撮られていました。

    本作はその方法をさらに広げ、夢の世界そのものを映画の主要な舞台にしています。

    デリクソンは、Super 8が生み出す予測できない光や奇妙なフレアに魅力を感じていると語っています。

    画面が安定せず、光がにじみ、映像の一部が欠ける。

    古いホームムービーのようでありながら、そこに映っているのは殺人の記憶です。

    誰かの家族の記録に見える形式で、誰にも発見されなかった死が映し出される。

    見てはいけない記録を偶然見つけたような感触が、悪夢の不気味さを支えています。

    1957年の出来事を、1982年のグウェンが夢で目撃する。

    悪夢が古いフィルムの姿で届くのは、それが湖の下へ沈んだまま、処理されなかった過去だからだと読めます。

    「Super 12」という発明

    もっとも、Super 8には撮影上の限界があります。

    フィルムの感度が低く、暗い場面を撮るのが難しい。映像を合成すると、画質も大きく損なわれます。

    そこで撮影監督パー・M・エークベリのチームは、16ミリフィルムの一部を使い、8ミリと16ミリの中間のような画面を得る独自の方法を考案しました。

    それが「Super 12」です(AT Crafty)。

    正式な映画規格ではなく、本作のために作られた撮影方法です。

    エークベリは、この方法について、非常に複雑で大量の光が必要だったと振り返っています。

    一方で、単独の映像として見れば失敗に思えるような素材が、編集の中へ置くと効果を発揮するとも語っています。

    単体で見たら使いものにならないと判断するような素材が、編集で見ると実に効く。

    (同上)

    フィルムの不完全さを消すのではなく、不完全さが生きる形式を作る。

    夢の映像に必要な質感を得るため、撮影規格そのものを作ってしまったのです。

    この執着が、本作の悪夢を単なる「フィルム風」の画面から遠ざけています。

    冷たいデジタルの現実との対比

    一方、目覚めているときの現実は、Sony Venice 2というデジタルシネマカメラで撮影されています。

    色調は青く、生気が薄く、雪に閉ざされたキャンプ場の冷たさが強調されています(SlashFilm)。

    夢の世界は、ざらつき、揺れ、光がにじむ。

    現実の世界は、冷たく、滑らかで、輪郭がはっきりしている。

    普通なら、現実の方に手触りがあり、夢の方が希薄に見えるはずです。

    本作は、その関係を逆転させています。

    死者のいる夢の方が温かく、物質的です。生きている人間のいる現実の方が、青く冷えて見えます。

    この逆転は、悲嘆に囚われた兄妹の感覚と重なります。

    母親のいる場所の方が、目の前の現実より確かに感じられてしまう。

    だからこそ、最後に必要なのは夢の中へ残ることではありません。

    母親と話し、別れを告げ、現実へ戻ってくることです。

    映像の質感そのものが、兄妹の悲嘆と回復を表しています。

    まとめ|悪夢の終わらせ方

    冒頭の問いに戻ります。

    ホラーの敵役は、なぜしぶといのでしょうか。

    本作の答えは、二段構えでした。

    一つ目は、ジャンルの伝統です。

    死んだ殺人鬼が夢の中から戻るのは、『エルム街の悪夢』以来のよく知られた型です。作り手はその影響を隠さず、自分たちなりの変奏として引き受けました。

    二つ目は、物語の中の理由です。

    グラバーを生かしているのは、発見されなかった死者と、遺された者たちの恐怖です。

    つまり、しぶといのは敵役そのものというより、処理されないまま残った被害の記憶でした。

    だから本作は、グラバーを倒して終わりません。

    凍った湖から3人の少年の遺体を引き上げる。母親の死の真相を明らかにする。家族が信じてきた誤った物語を書き換える。

    そして最後には、公衆電話を通じて母親と別れの言葉を交わします。

    前作の黒電話は、死者がフィニーを助けるための回線でした。

    本作では、遺された者が死者へ別れを告げるための回線に変わります。

    同じ電話を使いながら、その役割を反転させているのです。

    もちろん、続編として説明が増えたことは否定できません。

    母親の過去、1957年の事件、グラバーが夢の中で力を持つ仕組み。神話を広げた分だけ、前作の簡潔さは薄れています。

    RogerEbert.comのブライアン・タレリコも、本作には少し長すぎる部分や、説明的になりすぎた箇所があると指摘しています(Rotten Tomatoes編集部)。

    前作の「地下室と黒電話」という単純で強い構図に比べれば、本作は明らかに複雑です。

    それでも、「完結した話に続編は必要なのか」という疑問に対し、本作は理屈と感情の両方で答えを用意していました。

    しぶとい敵役を、単なるシリーズ延命のために使わない。

    家族の中で宙吊りになっていた悲嘆を終わらせるために使う。

    この一点で、続編としての筋は通っていたと思います。

    敵役はしぶとい。

    ただ、そのしぶとさに理由を与えたことが、この続編の一番の仕事でした。

    参考資料

  • 映画『オブセッション 災愛』|愛から「拒む自由」を奪うと何が起きるか

    映画『オブセッション 災愛』|愛から「拒む自由」を奪うと何が起きるか

    2025年公開の『オブセッション 災愛』(Obsession)が面白いのは、ラブストーリーがホラーストーリーへ変わっていくところです。

    好きな相手が自分を愛してくれる。恋愛映画なら、それは主人公がようやく手にする幸福でしょう。本作も一度は、その高揚をきちんと見せます。ところが、ニッキーの愛情が強くなるほど、見ている側の気持ちは冷えていきます。彼女は理想の恋人に近づいているはずなのに、ニッキー本人からは遠ざかっていくからです。

    本作の恐怖は、願いが叶ったこと自体にはありません。相手が「愛さない」と選べない形で、願いが叶ってしまうことにあります。愛情の量が増えれば幸福になるという恋愛映画の前提を、そのまま限界まで押し進めた結果、愛が支配へ反転する。その発想に、この映画ならではの怖さがあります。

    企画と撮影は低予算の独立制作として進み、トロント国際映画祭での上映後にFocus Featuresが買い付け、ブラムハウスが加わった作品です。最初から大手スタジオの企画として整えられたのではなく、YouTubeで短編を作り続けてきたカリー・バーカーの映画が、完成後に発見されたという経緯にも魅力を感じます。(DeadlineBlumhouse)

    ※本記事は物語の中盤まで触れますが、結末は伏せています。

    あらすじ|「愛されたい」という願いが現実になる

    音楽店で働くベアは、同僚のニッキーに長く想いを寄せています。しかし、彼は気持ちを伝えられません。車内で二人きりになる機会があっても、拒絶される怖さから言葉を飲み込みます。

    そんな彼が手に入れるのが、一つだけ願いを叶えるという「ワン・ウィッシュ・ウィロー」です。半信半疑のまま、ニッキーが自分を愛してくれるように願った翌日、彼女の態度は一変します。

    望んでいたはずの恋が始まります。けれども、ニッキーの好意には迷いも距離もありません。彼女の愛情は急速に強まり、ベアの生活へ入り込み、二人の関係を幸福ではなく閉鎖へ向かわせていきます。

    テーマ|愛は「強さ」ではなく、拒める自由でできている

    本作は「願いには代償がある」という古典的な物語に見えます。しかし、カリー・バーカー監督の説明を踏まえると、問題は願いを叶える枝そのものではありません。誰も傷つけない願いであれば、必ず悲劇になるわけではない。破局の原因は、ベアが他人の感情を自分のために変えることを願った点にあります。(TIME)

    つまり、ワン・ウィッシュ・ウィローは単なる呪物というより、願う人間が何を自分の権利だと思っているかを露出させる装置です。ベアは金や成功ではなく、ニッキーの感情を求めます。自分が愛されることを願ったつもりでも、実際に奪われるのは彼女の拒否権です。

    ここで本作は、愛情の強さと愛の成立を切り離します。

    ニッキーはベアを強く求めています。誰よりも彼を優先し、彼の望みを肯定します。しかし、その感情をやめる自由が彼女にない以上、それをそのまま愛と呼べるのか。映画はその違和感を、説明ではなく、彼女の振る舞いが少しずつ過剰になっていく過程で見せます。

    恋愛映画では、好きな相手が積極的になり、主人公だけを見てくれることは幸福の記号です。『オブセッション 災愛』では、その定型が失敗するのではありません。成功しすぎます。偶然の接近、急速な親密化、献身、二人だけの世界というロマンスの要素が、相互性を失ったまま最大化されることで、依存、監視、人格の消去へ変わっていきます。

    だから本作は、ラブストーリーを途中で捨ててホラーへ移る映画ではありません。ラブストーリーの続きを、そのまま地獄へ運ぶ映画です。

    孤独は、他人に治してもらうものなのか

    ベアが求めているのは、ニッキーの幸福よりも、自分が孤独ではなくなることです。マイケル・ジョンストンも、ベアは自分自身の問題と向き合う代わりに、「この女性が自分の人生を良くしてくれる」と考えている人物だと説明しています。(India Today)

    この視点に立つと、ベアが愛しているのはニッキーという一人の人間ではなく、「自分を救ってくれるニッキー」という役割にも見えます。彼女が何を望むかより、自分を孤独から解放してくれるかが優先される。相手を自分の治療装置にした瞬間、その人の意思は二次的なものになります。

    監督は、現代では接続手段が増えた一方、人と直接向き合うことが難しくなっていると語っています。ベアは、ニッキーに告白して拒絶される可能性を受け入れる代わりに、相手の答えを飛ばして結果だけを手に入れます。魔法は、会話を省略する道具です。

    そこには、対人関係の摩擦を避け、自分にとって望ましい反応だけを得たいという現代的な欲望も重なります。本作はSNSや恋愛アプリを直接描きません。それでも、他者との不確実な関係を、自分向けに最適化された結果へ置き換えたいという心性は、かなり現在的です。

    キャラクター造形|怪物になるニッキー、本性が見えてくるベア

    ベア|臆病さは善良さの証明ではない

    マイケル・ジョンストンのキャスティングがよかったと思う最大の理由は、ベアが最初から嫌な人物に見えないことです。

    彼は不器用で、遠慮がちで、言葉に詰まります。相手に強く出られず、周囲から少し遅れて反応する。ジョンストンは、ベアを単純な「危険な男」として演じるのではなく、守ってあげたくなるような弱さを持つ青年として成立させています。

    バーカー監督は、ジョンストンの自然さや声、実生活では自信のある人物が不器用さを演じられる点を評価し、インディ・ナヴァレッテとの相性を確認して起用したと話しています。(The Moveable Fest)

    だからこそ、ベアの変化は派手な悪役化ではなく、見る側の認識の変化として進みます。

    願いを口にした時点では、彼は魔法が本当に働くとは考えていません。ここだけなら、孤独な青年の軽率な冗談として受け取る余地があります。決定的なのは、その願いが現実になったと理解した後です。

    レストランでニッキーの言葉と自分の願いが一致していると気づく場面を、監督自身が重要な転換点として挙げています。そこでベアは、彼女の変化が偶然ではないと知ります。それでも、自分が愛される利益を手放せません。(TIME)

    ベアの本性は、最初から隠されていた完全な悪が突然現れるのではありません。「知らずに始めたこと」を、「知った後も続ける」という選択の積み重ねによって現れます。

    最初は無垢でいい奴に見えたのに、少しずつ違って見えてくる。そのジワリとした怖さは、傷つきやすい人が必ずしも他人を傷つけない人ではない、と示すところにあります。臆病さと善良さは同じではありません。

    ニッキー|別人格になるのではなく、他人の理想像に占領される

    インディ・ナヴァレッテが演じるニッキーは、本作でもっとも目に見えて変化する人物です。願いの前後で、表情、声、視線、身体の距離が大きく変わります。親しげで自然だった人物が、ベアだけを見つめる存在へ切り替わる。その落差が本当に怖いです。

    監督は、ニッキー役には自然さ、狂気、恐怖を同時に成立させられる俳優が必要だったと語っています。ナヴァレッテの不自然な笑顔や身体の動きは偶然の怪演ではなく、監督と俳優が参考作品を見ながら細かく設計したものです。(The Moveable FestThe Cold Magazine)

    ただし、ニッキーが「全く別人格になる」とだけ捉えると、本作の怖さを少し取り逃がします。

    彼女の中に新しい人格が生まれたというより、ニッキー本人が内側へ押し込まれ、ベアが望んだ理想の恋人像が彼女の身体を使い始める。そう考えるほうが、本作のテーマと合います。

    時折見える表情の揺れや沈黙には、本来のニッキーが残っているように感じられる瞬間があります。観客は、ベアを追い詰める怖い存在と、その身体の中に閉じ込められた被害者を同時に見ることになります。

    ここでニッキーは、単なる対立者ではありません。対立者の外見を与えられた被害者です。彼女の執着はベアを脅かしますが、その執着自体がベアの願いによって作られています。怪物として迫ってくるニッキーは、実はベアの欲望を外側から見せる鏡でもあります。

    イアンとサラ|異常を見ても、原因までは見えない人々

    イアンとサラは、ベアとニッキーの変化を外から見る役割を担います。彼らがいることで、願い以前の四人の距離感と、願い以後の異常さが比較できます。

    一方で、彼らには原因が見えません。見えているのは、ニッキーの過剰な行動だけです。そのため、被害者である彼女が問題の中心にいるように見えてしまいます。

    これは本作の重要な構造です。強制が見えないとき、周囲は強制された人の異常な振る舞いだけを問題視しやすい。ベアの願いは目に見えず、ニッキーの変化だけが表面に出る。映画はその非対称も利用しています。

    ただし、ニッキーの願い以前の生活や内面が、ベアほど厚く描かれていないという批判は残ります。女性の主体性喪失を扱う映画が、失われる前の彼女を十分に描かなければ、女性を男性主人公の物語装置にする構造を自ら繰り返しかねません。冒頭の会話や衣装、時折戻る表情はニッキーの固有性を示していますが、それで十分かどうかは、本作の弱点として考える余地があります。(That Shelf)

    映画技法|ロマンスの形を残したまま、画面を腐らせる

    固定カメラと暗い余白|観客に「見えないもの」を探させる

    本作では、多くの場面が固定カメラと中央構図で撮られています。人物の頭上には不自然なほど余白があり、暗い背景が長く残ります。

    撮影監督テイラー・クレモンズは、カメラを動かして恐怖の場所を教えるのではなく、観客自身に暗い画面を探索させる設計だったと説明しています。さらに『セブン』の圧迫感を参照し、通常より暗い露出を選んだと語っています。(Focus Features)

    この固定された視線は、単に「暗闇から何かが出るかもしれない」と不安にさせるだけではありません。映画がベアを観察しているようにも見えます。

    観客は、ニッキーの異常を探すと同時に、ベアがいつ異常に気づき、気づいた後にどうするかを見張ることになります。暗い余白は怪物の居場所であるだけでなく、ベアが見ようとしない現実の居場所です。

    音楽店など、まだ日常へ戻れる可能性のある場所には明るさが残ります。それに対して、ベアの家は暗く閉じています。二人だけの親密な空間に見えながら、実際にはベアの欲望だけが正当性を持つ場所へ変わっていく。

    画面が暗くなることは、恐怖が強まることだけを意味しません。ベアに残された選択肢が減っていくことを示しています。

    衣装|ニッキーの服から、ニッキーの意思が消えていく

    ニッキーの変化は、演技だけでなく衣装にも表れています。

    衣装デザイナーのブレア・ジェームズによれば、願い以前のニッキーは、他人の承認ではなく自分自身のために服を選ぶ人物として設計されました。ところが願い以後は、「ベアが彼女に何を着てほしいか」という視線へ衣装が移っていきます。衣装予算は約6,000ドルという小規模なものでしたが、その制約の中で人物の主体性の変化が組み立てられています。(Vanity Fair)

    ニッキーがきれいになった、恋人らしくなった、と見ることもできます。しかし、その変化が本人の選択ではないと考えると、服装まで怖く見えます。

    彼女はベアの理想の恋人に近づくほど、自分の趣味から離れていく。外見が整うことと、人格が消えることが同時に進みます。ニッキーの「別人感」は、顔や動きだけではなく、誰の視線に合わせて服を着ているのかという変化からも作られています。

    音楽|恋愛の主題を、そのまま悪夢へ歪める

    作曲家ロック・バーウェルの音楽も、本作がラブストーリーからホラーへ変わる感覚を支えています。

    バーウェルは、監督から本作を「ホラーに偽装したロマンス」のように考える方向を示され、最初に柔らかく夢見心地の恋愛感情を作り、それを徐々に恐怖へ歪めたと話しています。音楽の90%以上はソフトウェア内のシンセサイザーで制作され、アンジェロ・バダラメンティや『ツイン・ピークス』の温かさと不穏さが参照されました。(Vehlinggo)

    ここで重要なのは、音楽が最初から恋愛を嘘だと告発しないことです。

    中盤の恋愛モンタージュでは、ベアの願いが叶った幸福を、音楽も一度は本気で美しく見せます。観客にも、二人がこのまま幸せになれるのではないかと思わせる。その幸福がニッキーの自由を代償にしていると気づいたとき、同じ甘さが圧迫感へ変わります。

    音楽はロマンスを壊してホラー音楽へ交代するのではありません。ロマンスの音色が腐り、抱擁と監禁の区別がつかなくなっていきます。

    ワン・ウィッシュ・ウィロー|禍々しくないからこそ怖い

    願いを叶える枝の箱は、グラフィックデザイナーである監督の母親が制作を手伝い、1950年代とも1980年代とも特定できない、親しげで少し不気味な商品を目指して作られました。(The Moveable Fest)

    この小道具が最初から悪魔的でないことは重要です。

    見るからに危険な呪物なら、ベアは明白な警告を無視した人物になります。しかし、ワン・ウィッシュ・ウィローは、冗談で買えそうな古い雑貨に見えます。だから、ベアの願いも特別な悪意ではなく、誰でも一度は想像しそうな平凡な欲望として始まります。

    好きな人に愛されたい。その願い自体は理解できます。怖いのは、その願いの中に、相手が何を望むかという視点が最初から欠けていることです。

    まとめ|恐怖は、叶った後に手放さないことから始まる

    『オブセッション 災愛』を見て最も印象に残ったのは、ニッキーの変貌だけではありません。彼女が変わるほど、ベアの見え方も変わっていくことです。

    ニッキーは外側から別人のようになります。しかし、それは本人の成長ではなく、他人の願望による侵入です。一方のベアは、外見も話し方も大きく変わりません。変わるのは、彼の選択と、観客が彼を見る位置です。

    最初の彼は、無垢で不器用ないい青年に見えます。けれども、願いが本物だと知った後も、その利益を手放さない。そこから、弱さの奥にあった自己中心性が少しずつ見えてきます。

    本作の怖さは、好きな人が怪物になることだけではありません。その怪物が、自分の願った理想を忠実に実現した姿であることです。ニッキーの過剰な愛は、ベアの欲望を外側から見せています。彼が恐れているのは、願いの失敗ではなく、願いがあまりにも正確に叶った結果です。

    だから「想いが叶うとき、恐怖がはじまる」という言葉は、もう一段深く言い換えられます。

    恐怖は、願いが叶った瞬間に始まるのではありません。相手が拒めない形で叶ったと知りながら、それを手放さない瞬間に始まります。

    『オブセッション 災愛』は、愛情の強さを描く映画ではありません。愛と呼ぶために、相手にどれだけ自由が残されていなければならないのかを問うホラーです。

    参考資料