映画『ブラックフォン 2』|完結した物語に、続きの電話が鳴る

2025年公開の『ブラックフォン 2』(Black Phone 2)は、そもそも「続きがあり得ない」続編でした。

前作『ブラック・フォン』のレビューでも書いたとおり、第1作で、少年ばかりを狙う連続誘拐殺人犯グラバーは死に、物語は完結していました。

地下室に監禁された少年フィニーが、死んだ被害者たちの声に助けられて脱出し、加害者を倒す。あの結末に、続きの余地はなかったはずです。

ところが、敵役は戻ってきました。

映画『ブラックフォン 2』

さすがに、ホラーの敵役はしぶとい。

この記事では、その「しぶとさ」が何でできているのかを考えます。

死んだはずの殺人鬼は、なぜ、どのようにして戻ってきたのか。そして、彼を復活させることで、この続編は前作の物語を何に書き換えたのでしょうか。

監督は前作に続いてスコット・デリクソン。共同脚本のC・ロバート・カーギルも続投しています。グラバー役のイーサン・ホーク、兄妹を演じたメイソン・テムズとマデリーン・マックグロウも再登場します。

日本では、東宝東和の配給で2025年11月21日に公開されました。上映時間は114分、映倫区分はR15+です(東宝東和映画.com)。

ネタバレについて

本作の中心には、大きな秘密の開示があります。

この記事では、母親の死の真相、クライマックス、ラストシーンまで具体的に扱います。未見の方はご注意ください。

あらすじ|4年後の冬、母の過去が眠るキャンプへ

前作から4年後の1982年。

グラバーの地下室から生還したフィニー(メイソン・テムズ)は高校生になりましたが、事件の記憶を抱えたまま、荒れた日々を送っています。

一方、妹のグウェン(マデリーン・マックグロウ)は、繰り返し悪夢を見るようになります。

夢に現れるのは、雪に閉ざされたキャンプ場で殺される3人の少年。そして、鳴り続ける黒電話です。

夢に導かれた兄妹は、亡き母ホープがかつて働いていたキリスト教系のウィンターキャンプ「アルパイン・レイク」へ向かいます。

そこは1957年、若き日のグラバーが3人の少年を殺し、遺体を凍った湖の下へ隠した場所でした。

そして、死んだはずのグラバーが、グウェンの夢の中から兄妹を狙い始めます。

テーマ|しぶといのは敵役か、それとも悲嘆か

起点は「くだらないアイデア」だった

完結した物語が再び動き出した経緯は、はっきり記録されています。

起点は、原作者ジョー・ヒルが共同脚本のカーギルに送ったメールでした。

ヒルは「くだらないアイデアなんだけど」と前置きしながら、次のような場面を提案したそうです。

電話が鳴り、フィニーが出ると、地獄からグラバーがかけてきている。

Collider

デリクソンは、この一行に可能性を見いだしました。

グラバーを生き返らせて、もう一度連続殺人鬼の物語を作るのではない。死者となったグラバーを使い、前作とは異なるゴーストストーリーを作る。

本作は、第1作の物語をそのまま延長したのではありません。

敵役を現実の犯罪者から超自然の存在へ変え、ジャンルを乗り換えることで成立した続編です。

『エルム街の悪夢』の型を公然と引き受ける

死んだ殺人鬼が、夢の中で若者を襲う。

この設定から『エルム街の悪夢』シリーズを思い出すのは、自然な反応です。特に、若者たちが夢の中で殺人鬼に立ち向かう第3作『エルム街の悪夢3/惨劇の館』との共通点は明らかです。

作り手も、その影響を隠していません。

カーギルは、同シリーズを生んだウェス・クレイヴンの名前を挙げながら、単純に真似るのではなく、自分たちなりの変奏を試みたと語っています(Collider)。

デリクソンも、本作が1980年代初頭のホラー映画と対話する作品であることを認めています。

『エルム街の悪夢』だけでなく、『シャイニング』や、当時数多く作られたキャンプ場を舞台にしたホラー映画。その伝統を引き受けながら、舞台を夏ではなく雪に閉ざされたウィンターキャンプへ移しました(The AU Review)。

つまり「ホラーの敵役はしぶとい」という私の第一印象は、まさに作り手が選んだ土俵でもありました。

グラバーの復活は、ごまかされた死ではありません。

死んだ殺人鬼が別の姿で帰ってくるという、ホラー映画の伝統を意識的に引き受けたものです。

しぶとさの正体は、終わっていない悲嘆

ただし本作は、ジャンルの慣習だけでグラバーを復活させてはいません。

劇中にも、彼が消えない理由が用意されています。

1957年に殺された3人の少年は、遺体が発見されないまま、凍った湖の下に沈んでいます。彼らの死は誰にも認識されず、魂も解放されていません。

その未解決の死が、グラバーの力を支えています。

遺体が見つからず、恐怖が残っている限り、加害者も消えない。

グラバーのしぶとさは、被害が終わっていないことの表れです。

そして本作は、その中心にもう一つの秘密を置きます。

自殺したと家族が信じてきた母ホープは、実際にはグラバーに殺され、その死を自殺に偽装されていました。

ホープは、グウェンと同じ夢を見る力によって、1957年の殺人に気づいていたのです(TIME)。

この真相が明らかになることで、兄妹の戦いは単なるグラバーとの再戦ではなくなります。

家族の中で長く止まっていた悲嘆を終わらせるための戦いになります。

父テレンスは、妻が自ら命を絶ったと信じてきました。フィニーとグウェンも、母親が家族を残して死を選んだという物語の中で育っています。

グラバーを倒しても、その誤解が残る限り、家族の時間は動きません。

だから本作で本当に終わらせなければならないのは、殺人鬼だけではありません。

発見されなかった遺体。知られなかった母親の死。言えなかった別れ。

未処理のまま残っていたものを一つずつ明るみに出し、正しい場所へ戻す必要があります。

私には、グラバーというしぶとい敵役が、遺された家族の悲嘆そのものに見えました。

「愛の視点から語られるホラー」

デリクソンは、前作と本作を「愛の視点から語られるホラー映画」だと表現しています(The AU Review)。

恐怖に対抗する力として置かれているのは、兄妹の愛と、母親の愛です。

デリクソンは同じインタビューで、10代に抱く感情の一部は、人生の中で最も強いものだとも語っています。

10代で感じるものごとの一部は、人生で感じる最も強力なものだ。

(同上)

前作のフィニーとグウェンは、暴力的な家庭と地域で支え合って生きる兄妹でした。

本作では、二人の関係にもひびが入っています。

フィニーは前作の事件について話そうとせず、怒りを抱えたまま妹を遠ざける。グウェンは兄を助けたいと思いながら、自分の力にも神にも確信を持てません。

それでも最後には、兄妹が互いを信じ、母親から受け継いだものを受け入れることでグラバーに立ち向かいます。

殺人鬼が夢の中から戻る物語でありながら、中心にあるのは家族の関係を結び直すことです。

だから本作は、グラバーの復活を目的にはしていません。

終わっていなかった家族の物語を終わらせるために、彼を戻しているのです。

キャラクター造形|妹が主役になる続編

グウェン——呪いを祝福に書き換える

本作の実質的な主人公は、兄のフィニーではなく妹のグウェンです。

前作でも、夢を手がかりにフィニーを捜し続けたのはグウェンでした。しかし、物語の中心にいたのは地下室へ監禁されたフィニーです。

本作では、その位置が入れ替わります。

グラバーが現れる場所は、グウェンの夢です。1957年の事件を目撃し、母親の過去へ近づき、最後にグラバーと向き合うのも彼女です。

グウェンは母親から、夢を通じて死者や過去を見る力を受け継いでいます。

序盤の彼女は、その力を呪いだと考えています。

母親も同じ力に苦しみ、最後には自ら命を絶ったと教えられてきたからです。自分も母親と同じ道をたどるのではないかという恐怖が、グウェンにはあります。

しかし、母親の死の真相が明らかになることで、意味が反転します。

母親は力に負けて死んだのではありません。殺された少年たちを救おうとし、そのためにグラバーから狙われました。

自分に受け継がれたものは、家族を壊す呪いではなく、死者の声を聞き、誰かを救うための力だった。

終盤、公衆電話を通じて母親と言葉を交わす場面で、この転換は完成します(TIME)。

グウェンは、母親と同じになることを恐れる少女から、母親の意志を引き継ぐ少女へ変わります。

悲嘆、信仰、継承という本作の主題は、すべて彼女に集まっています。

批評でも、マデリーン・マックグロウの演技は高く評価されました。io9のジャーメイン・ルシエは、彼女を本作の「真のスター」と評しています(Rotten Tomatoes編集部)。

口が悪く、神に食ってかかり、それでも祈る。

前作から変わらないグウェンの強さが、本作では映画全体を前へ進める力になっています。

フィニー——生き残った者の怒り

前作で黒電話を受ける側だったフィニーは、本作では妹を守る側へ回ります。

しかし、前作の出来事を乗り越えたわけではありません。

加害者を倒して生還しても、被害者の時間がその場で終わるわけではない。本作のフィニーは、その事実を引き受ける人物です。

彼は事件について話すことを拒み、怒りを抱え、周囲と衝突します。

演じるメイソン・テムズは、本作のフィニーを「とても怒っていて、自分に起きたことと向き合いたくない人物」と説明しています(Entertainment Weekly/AOL配信)。

前作でフィニーを救ったのは、死んだ少年たちの声でした。

ところが本作の彼は、その経験を自分の中へ閉じ込めています。

電話の向こうの声を受け入れた少年が、自分の声を外へ出せなくなっているのです。

だから、フィニーの課題はもう一度グラバーを倒すことだけではありません。

自分が怖かったこと、傷ついたこと、今も苦しんでいることを認める必要があります。

本作でフィニーが妹を守ろうとするのは、単に兄だからではないでしょう。

自分と同じ傷を、グウェンに負わせたくないからです。

しかし、自分一人で妹を守ろうとすればするほど、グウェンの力や意思を否定することにもなります。

最後に兄妹が並んでグラバーと戦うことで、フィニーは守る側へ回るだけでなく、妹を対等な相手として信じるようになります。

グラバー——マスクだけが残った

イーサン・ホーク演じるグラバーは、死んだことで、人間だったころの輪郭を失いました。

前作では、地下室を持ち、兄と暮らし、子どもたちに独自の「ゲーム」を強いる現実の犯罪者でした。

本作では、夢の中へ現れる超自然の存在です。

残っているのは、マスクと声と怒りだけ。

人間だったころの生活や肉体が失われたことで、前作以上にホラー映画の怪物へ近づいています。

ホークは前作の公開時、マスクを着けて演じることについて、「未知の中にこそ恐怖の多くが宿る」と語っていました(The AU Review)。

素顔そのものが失われた本作のグラバーは、その考え方の行き着いた先に見えます。

メイソン・テムズは、本作のグラバーをフレディ・クルーガーと比較しながら、より怒りに満ち、自分にとってはさらに恐ろしい存在だと表現しています(Entertainment Weekly/AOL配信)。

ただし、フレディのように冗談を言いながら観客を楽しませる怪物ではありません。

本作のグラバーには、余裕も遊びもない。

被害者たちが自分から離れていくことへの怒りと、兄妹を支配できないことへの憎しみだけが残っています。

死んで自由になったのではなく、執着だけになった男です。

母ホープ——不在の中心

前作と本作を最も大きく分けているのが、亡き母ホープの存在です。

前作では、グウェンの力が母親から受け継がれたこと、父親がその力を恐れていることだけが語られていました。

本作は、その空白を物語の中心へ移します。

ホープは、グウェンと同じように夢で過去を見る力を持っていました。

1957年に殺された少年たちの姿を夢で見て、真相に近づいたため、グラバーに殺されました。そして、その死は自殺に偽装されます(TIME)。

この真相によって、家族が信じてきた物語が書き換えられます。

母親は家族を残して自ら死を選んだのではありません。

死者を救おうとして殺された。

その違いは、残された家族にとって決定的です。

グウェンが自分の力を呪いだと思っていた理由も、父テレンスが娘の夢を恐れていた理由も、母親の死について誤った説明を信じていたことにあります。

真相が分かることで、「呪われた家系」は「受け継がれた守護」へ反転します。

父親の止まっていた時間も、ようやく動き始めます。

前作には存在しなかった感情の核です。

グラバーの再登場は、この母親の物語を成立させるための手段になっています。

映画技法|夢は本物のフィルムでできている

悪夢はすべて実写のフィルム

本作の悪夢には、現実の場面とは明らかに異なる、ざらついた質感があります。

あれは、デジタル映像へ後から加えた加工ではありません。

グウェンの悪夢は、実際のSuper 8とSuper 16フィルムで撮影されています。カーギルによれば、フィルムに見える場面はすべて本物のフィルムで、デジタル映像をフィルム風に加工したショットは一つもありません(SlashFilm)。

前作でも、グウェンの夢はSuper 8で撮られていました。

本作はその方法をさらに広げ、夢の世界そのものを映画の主要な舞台にしています。

デリクソンは、Super 8が生み出す予測できない光や奇妙なフレアに魅力を感じていると語っています。

画面が安定せず、光がにじみ、映像の一部が欠ける。

古いホームムービーのようでありながら、そこに映っているのは殺人の記憶です。

誰かの家族の記録に見える形式で、誰にも発見されなかった死が映し出される。

見てはいけない記録を偶然見つけたような感触が、悪夢の不気味さを支えています。

1957年の出来事を、1982年のグウェンが夢で目撃する。

悪夢が古いフィルムの姿で届くのは、それが湖の下へ沈んだまま、処理されなかった過去だからだと読めます。

「Super 12」という発明

もっとも、Super 8には撮影上の限界があります。

フィルムの感度が低く、暗い場面を撮るのが難しい。映像を合成すると、画質も大きく損なわれます。

そこで撮影監督パー・M・エークベリのチームは、16ミリフィルムの一部を使い、8ミリと16ミリの中間のような画面を得る独自の方法を考案しました。

それが「Super 12」です(AT Crafty)。

正式な映画規格ではなく、本作のために作られた撮影方法です。

エークベリは、この方法について、非常に複雑で大量の光が必要だったと振り返っています。

一方で、単独の映像として見れば失敗に思えるような素材が、編集の中へ置くと効果を発揮するとも語っています。

単体で見たら使いものにならないと判断するような素材が、編集で見ると実に効く。

(同上)

フィルムの不完全さを消すのではなく、不完全さが生きる形式を作る。

夢の映像に必要な質感を得るため、撮影規格そのものを作ってしまったのです。

この執着が、本作の悪夢を単なる「フィルム風」の画面から遠ざけています。

冷たいデジタルの現実との対比

一方、目覚めているときの現実は、Sony Venice 2というデジタルシネマカメラで撮影されています。

色調は青く、生気が薄く、雪に閉ざされたキャンプ場の冷たさが強調されています(SlashFilm)。

夢の世界は、ざらつき、揺れ、光がにじむ。

現実の世界は、冷たく、滑らかで、輪郭がはっきりしている。

普通なら、現実の方に手触りがあり、夢の方が希薄に見えるはずです。

本作は、その関係を逆転させています。

死者のいる夢の方が温かく、物質的です。生きている人間のいる現実の方が、青く冷えて見えます。

この逆転は、悲嘆に囚われた兄妹の感覚と重なります。

母親のいる場所の方が、目の前の現実より確かに感じられてしまう。

だからこそ、最後に必要なのは夢の中へ残ることではありません。

母親と話し、別れを告げ、現実へ戻ってくることです。

映像の質感そのものが、兄妹の悲嘆と回復を表しています。

まとめ|悪夢の終わらせ方

冒頭の問いに戻ります。

ホラーの敵役は、なぜしぶといのでしょうか。

本作の答えは、二段構えでした。

一つ目は、ジャンルの伝統です。

死んだ殺人鬼が夢の中から戻るのは、『エルム街の悪夢』以来のよく知られた型です。作り手はその影響を隠さず、自分たちなりの変奏として引き受けました。

二つ目は、物語の中の理由です。

グラバーを生かしているのは、発見されなかった死者と、遺された者たちの恐怖です。

つまり、しぶといのは敵役そのものというより、処理されないまま残った被害の記憶でした。

だから本作は、グラバーを倒して終わりません。

凍った湖から3人の少年の遺体を引き上げる。母親の死の真相を明らかにする。家族が信じてきた誤った物語を書き換える。

そして最後には、公衆電話を通じて母親と別れの言葉を交わします。

前作の黒電話は、死者がフィニーを助けるための回線でした。

本作では、遺された者が死者へ別れを告げるための回線に変わります。

同じ電話を使いながら、その役割を反転させているのです。

もちろん、続編として説明が増えたことは否定できません。

母親の過去、1957年の事件、グラバーが夢の中で力を持つ仕組み。神話を広げた分だけ、前作の簡潔さは薄れています。

RogerEbert.comのブライアン・タレリコも、本作には少し長すぎる部分や、説明的になりすぎた箇所があると指摘しています(Rotten Tomatoes編集部)。

前作の「地下室と黒電話」という単純で強い構図に比べれば、本作は明らかに複雑です。

それでも、「完結した話に続編は必要なのか」という疑問に対し、本作は理屈と感情の両方で答えを用意していました。

しぶとい敵役を、単なるシリーズ延命のために使わない。

家族の中で宙吊りになっていた悲嘆を終わらせるために使う。

この一点で、続編としての筋は通っていたと思います。

敵役はしぶとい。

ただ、そのしぶとさに理由を与えたことが、この続編の一番の仕事でした。

参考資料