2025年公開の『ウォーフェア 戦地最前線』(Warfare)を観ました。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のアレックス・ガーランドと、イラク戦争に従軍した元Navy SEAL——米海軍特殊部隊——のレイ・メンドーサが共同で脚本・監督したA24作品です。日本では2026年1月16日に公開されました(A24ジャパン公式サイト)。

先に評価を書いてしまうと、ほぼ一軒の民家だけで進むワンシチュエーションの戦争映画として、とてもよくできています。
95分のあいだ、緊張がほとんど途切れません。
ところが、観終わったとき、何かが足りないとも感じました。
ガーランドの前作『シビル・ウォー』には、ジェシー・プレモンス演じる「赤いサングラスの男」がいました。
銃を持って目の前の人間へ質問を重ね、その答えによって生死を選別する。人間の悪意を一つの場面へ凝縮したような人物です。
本作には、あのような存在がいません。
戦闘の恐ろしさは徹底して描かれています。しかし、人間が人間へ向ける悪意の恐ろしさまでは、正面から描かれていない。
これが、観終わった直後の私の感想でした。
この物足りなさは欠点なのでしょうか。
それとも、作り手が戦闘の体験を純粋な形で再現しようとした結果なのでしょうか。
本作の作り方を確かめながら考えます。
目次
ネタバレについて
この記事では、終盤の展開とラストシーンの意味まで扱います。
未見の方はご注意ください。
あらすじ|2006年11月19日、ラマディの一軒家
2006年11月19日。
武装勢力が支配するイラクの都市ラマディで、米海軍特殊部隊SEALの小隊が、翌日の地上部隊の進攻を支援する監視任務に就きます。
隊員たちは深夜、イラク人家族が暮らす民家を占拠します。
住人を一室へ集め、壁に狙撃用の穴を開け、市街を見張り続ける。
しばらくは、何も起きません。
やがて狙撃孔から手榴弾が投げ込まれます。
さらに、負傷者を装甲車へ運び出す途中でIED——即席爆発装置——が爆発し、被害が広がります。
狙撃手兼衛生兵のエリオットと、先任下士官のサムが重傷を負います。
小隊は増援と救出を待ちながら、血と瓦礫にまみれた家で持ちこたえなければなりません。
これは、メンドーサ自身が参加した実際の作戦をもとにしています。
映画は、生存した隊員たちの記憶だけを材料に、その日の出来事を95分のほぼリアルタイムで再構成しました(TIME)。
実名で登場するのは、メンドーサ本人とエリオット・ミラーの二人です。ほかの隊員の名前は変更されています。
テーマ|「戦争の意味」ではなく「戦闘の体験」を描く
記憶だけから作るというルール
本作の制作方法は、徹底しています。
ガーランドとメンドーサは、当時の小隊メンバーへ聞き取りを重ねました。
そして、映画へ入れる出来事はすべて、誰かの証言へさかのぼれなければならない、というルールで脚本を書きました。
時間を縮めない。
複数の人物を一人へまとめない。
映画として都合のよい出来事を付け加えない。
ガーランドは、従来の戦争映画が使ってきた演出を、はっきり拒否しています。
映画は装置を作る。音楽や高揚する弦楽器もそうだ。両軍が互いをはっきり見ているのも、映画にとって都合がよいからだ。
戦争映画では、敵がどこにいるのかを観客に見せる必要があります。
そうしなければ、誰が誰を撃っているのか分かりにくいからです。
しかし現実の銃撃戦では、敵がはっきり見えているとは限りません。
姿が見えないからこそ、いつ、どこから撃たれるのか分からない。
本作は、映画としての分かりやすさより、隊員たちが実際に感じた混乱を優先しています。
ただし、ここでいう「記憶から作った映画」は、客観的な記録という意味ではありません。
メンドーサは、証言を組み合わせる作業について、同じ交通事故を経験しても、人によって記憶は異なると説明しています。
ある隊員は、自分が止血帯を巻いたと記憶している。
別の隊員も、自分がやったと記憶している。
第三者の証言によって確認すると、二人は別々の作業を続けて行っていた。
私たちは二人とも正しく、二人とも間違っていた。
本作の冒頭には、「実話に基づく」ではなく「記憶に基づく」と表示されます。
再現しようとしたのは、検証可能な客観的事実そのものではありません。
あの日を生き延びた人々が、何を見て、何を聞き、どのように感じたのか。
本作は、複数の主観をつなぎ合わせて作られた映画です。
誰のために作られた映画なのか
本作は、エリオット・ミラーに捧げられています。
実際のミラーは、この日の負傷によって左脚と発話能力を失い、作戦当日の記憶も失いました(TIME)。
メンドーサは、本作を作った第一の理由を、エリオットへ失われた記憶を返すためだったと説明しています。
私は、これをエリオットのために再現しようとしていた。彼は覚えていないからだ。
さらに、退役軍人たちが、それまでできなかった会話を始めるきっかけにしたかったとも語っています。
一般の観客を楽しませることが、第一の目的ではありません。
退役軍人が観て、「あれはこういう音だった」「自分も同じように感じた」と話せるものを作る。
メンドーサは、退役軍人から「これがあのときの感触だった」と言われることが、自分の求めていた反応だと語っています(PBS NewsHour)。
この目的を知ると、人物の背景がほとんど描かれないことにも、別の意味が見えてきます。
本作は、戦場で何が起きたのかを説明する英雄譚ではありません。
記憶を失った一人の戦友へ、その日の時間を返すための記録です。
「赤いサングラスの男」の不在
それでも、私の物足りなさは完全には消えませんでした。
『シビル・ウォー』の赤いサングラスの男が作り出したのは、対面する恐怖です。
銃を持った男と目を合わせる。
質問へ答えなければならない。
何を答えても、相手の気分一つで殺されるかもしれない。
そこにあるのは、人間が人間へ向ける、意識的な悪意の恐ろしさです。
『ウォーフェア』には、その席が最初から用意されていません。
交戦相手は、ほとんど画面に映りません。
米兵たちにも、家族関係や過去、信念といった背景は与えられません。
悪意を担う人物が、画面の外へ置かれたままなのです。
ただし、これは欠落ではなく、明確な選択です。
メンドーサは、対峙していたのが制服を着た軍隊ではなく、民間人と区別しにくい反乱勢力だったことを挙げています。
誰が敵なのか、どこから撃たれているのか分からない。
ガーランドも、両軍が互いをはっきり視認する銃撃戦は、映画が作ってきた慣習にすぎないと語っています(Den of Geek)。
選択であることは理解できます。
しかし、劇映画として観たとき、満たされないものが残るのも事実です。
Deep Focus Reviewのブライアン・エガートは、隊員たちが「人物ではなく顔」にとどまり、通常の物語映画がもたらす感情の解放を、技法の実験と引き換えに手放していると評しました(Deep Focus Review)。
悪役がいないというより、そもそも人間をドラマの中心へ置かない映画なのです。
悪役ではなく、文脈が欠けているという批判
物足りなさの原因を、悪役の不在ではなく、政治的な文脈の不在に求める批評もあります。
本作は、なぜアメリカ軍がイラクにいるのかを説明しません。
開戦の経緯にも、占領にも、イラク側の犠牲にも踏み込みません。
学生新聞Honi Soitは、非政治的であろうとすること自体が政治的な選択だと批判しています(Honi Soit)。
ガーランドは、本作はプロパガンダではなく、「これが起きた」と示しているだけだと語っています。
そこから何を読み取るかは、観客に委ねる。
その考え方には一貫性があります。
しかし、米兵の記憶だけを材料にすれば、映画の世界も米兵が見た範囲へ限定されます。
その限界を、映画が自覚的に示しているのが、イラク人家族の扱いです。
キャラクター造形|人物は「機能」として置かれる
レイ|語り手なのに、感情を語らない
ディファラオ・ウン=ア=タイが演じるレイは通信兵で、共同監督メンドーサ本人にあたる人物です。
本作の記憶を提供した中心人物でありながら、映画の中で自分の感情をほとんど語りません。
爆発後も、レイには感情を吐き出す場面が与えられません。
放心しながら、それでも無線を使い、通信兵として動き続けます。
自分が何を感じているのかを説明するより、次に必要な作業をする。
戦闘中には、そのようにしか行動できなかったのでしょう。
この「語り手が語らない」構えは、記憶を材料にした本作の誠実さでもあります。
メンドーサは、自分を英雄や物語の主人公として書き直しませんでした。
ただし、その抑制によって、レイ個人の内面も見えにくくなっています。
エリオット|記憶の空白そのもの
コズモ・ジャーヴィス演じるエリオットは、本作が捧げられた本人です。
そして、映画の中心にある空白でもあります。
実際のエリオット・ミラーには、この日の記憶がありません。
そのため映画全体が、彼へ返される「失われた一日」のように見えます。
負傷後のエリオットの顔は、本作の中で最も長く画面にとどまり続けるものの一つです。
意識が定まらず、周囲で何が起きているのかを理解できない。
人物の内面を言葉で説明しない本作で、唯一雄弁なのが、この顔なのだと思います。
サム、エリック、トミー|絶叫と判断停止
ジョセフ・クイン演じる先任下士官サムは、爆発によって両脚へ重傷を負い、絶叫し続けます。
劇伴のない本作では、この叫びが事実上の音楽のように響きます。
痛みの程度も、時間の経過も、叫び声の変化によって伝わります。
サムのモデルとなった実在の隊員ジョー・ヒルデブランドは、映画の制作を通じて、当時の隊員たちが初めて癒え始めたのではないかと振り返っています(ScreenRant)。
ウィル・ポールター演じる指揮官エリックは、危機の中で判断が止まっていくように見えます。
キット・コナー演じる最年少のトミーは、冒頭では仲間とミュージックビデオに大騒ぎしています。
しかし、初めての実戦では身体が動かなくなります。
本作には、分かりやすい英雄も臆病者もいません。
極限状況で機能できた者と、機能できなくなった者がいるだけです。
この扱いによって、人物たちはドラマの登場人物というより、作戦報告書に記録された隊員へ近づいていきます。
イラク人家族|視点の限界を映す鏡
本作の倫理的な支点となるのが、家を占拠されたイラク人家族です。
彼らには、ほとんど名前も台詞も与えられません。
米兵は家族を一室へ集め、監視任務のために家を使います。
メンドーサは当時の兵士たちの認識について、次のように語っています。
我々のほとんどは彼らと関わらない。彼らのためにそこにいるのではない。地理的に有利だから、彼らの家を使うのだ。
当時の隊員の中には、家族がいたこと自体をほとんど覚えていない人もいたそうです。
映画が家族を詳しく描かないのは、米兵の記憶の中で、彼らがその程度にしか認識されていなかったからです。
この説明は、映画の方法としては一貫しています。
しかし同時に、米兵がイラクの住民をどのように見ていたかも明らかにします。
彼らの暮らしや人生ではなく、家が持つ地理的な利点しか見ていなかった。
そしてラストシーン。
小隊が去った後、破壊された家へ取り残された家族が映されます。
95分間、米兵の側に閉じ込められていた観客は、ここで初めて、自分が誰の視点からこの家を見ていたのかを突きつけられます。
ニューヨーカー誌のジャスティン・チャンは、米軍の存在を、暴力的で見当違いの侵入として受け取らずに観ることは難しいと評しました(Forbes)。
この読み方に立てば、人間の恐ろしさは描かれていなかったのではありません。
狙撃孔の外ではなく、95分間、観客が寄り添ってきた側に置かれていたことになります。
ただし、それは赤いサングラスの男のように、体験の最中へ直接現れる恐怖ではありません。
映画が終わる直前に、視点を反転させることで届く恐怖です。
映画技法|引き算が緊張を作る
95分を編集で縮めない
本作は、時間を大きく圧縮しません。
ガーランドは、もし5分間誰も何もしなかったのなら、映画でもカメラは5分間そこに留まる、という考え方を説明しています(SlashFilm)。
そのため前半には、長い待機の時間があります。
狙撃スコープ越しに市街を見る。
持ち場を交代する。
小声で無線を使う。
仲間同士でふざける。
何も起きていないように見える時間が続きます。
しかし、何も起きないこと自体が不安を作ります。
敵が見えず、攻撃がいつ始まるのかも分からないからです。
戦闘とは、長い退屈が、一瞬の純粋な恐怖によって破られるものだと言われます。
本作は、その退屈まで省略しません。
だから、手榴弾が投げ込まれた瞬間、映画の時間そのものが破壊されたように感じられます。
95分間の緊張は、激しい場面を増やすことで作られているのではありません。
何も起きない時間を我慢強く残すことによって作られています。
実銃と実弾で作られた音
音響を担当したのは、『シビル・ウォー』にも参加したグレン・フリーマントルです。
ガーランドからの指示は、「100%リアルにすること」と「音楽を使わないこと」でした(Screen Daily)。
音響チームは、銃声、着弾音、弾丸が近くを通過する音のために、実銃と実弾を使った専用の音響ライブラリを収録しました。
金属製の扉やコンクリートへ弾丸を撃ち込み、材質によって異なる衝撃音を記録しています。
さらに、超音速で飛ぶ弾丸が生む衝撃波の「クラック」も再現しました。
遠くから撃たれた場合、このクラックは、発射地点から届く銃声より先に聞こえることがあります。
つまり、何が起きたのかを理解する前に、弾丸が近くを通過した音だけが届く。
撃たれる側にとって、銃声は敵の位置を教える親切な音ではありません。
方向も距離も分からない、突然の音の暴力です。
姿の見えない敵という本作の方針は、この音響があって初めて恐怖として成立しています。
爆発後の主観を音で作る
IEDが爆発した直後、音は一度ほとんど消えます。
水中へ沈んだように、周囲の声や銃声がくぐもって聞こえる。
これは、戦闘を分かりやすくするための演出ではありません。
爆発を経験した隊員が、実際にどのように音を感じたかを再現したものです。
ガーランドは、本作の音について、客観的な戦場の音ではなく、「自分にはこのように感じられた」という主観の報告だと説明しています。
たとえばレイは、爆発後もヘッドセットから無線の音を聞いていたはずです。
しかし本人の記憶では、路上で銃撃を受けていると気づくまで、その音を認識していません。
そのため映画でも、レイが認識していない音は、観客にも聞こえません。
現実に鳴っていた音ではなく、記憶の中で聞こえていた音を再現する。
「記憶に基づく」という制作方針が、音響へ最もはっきり表れています。
見せずに、音だけを通過させる
上空を戦闘機が低空飛行し、敵を威嚇する「ショウ・オブ・フォース」の場面があります。
画面に戦闘機はほとんど映りません。
見えるのは、家の中にいる兵士と、舞い上がる砂埃です。
巨大な軍事力は、轟音と振動としてだけ通過します。
敵も見えない。
味方の航空戦力も見えない。
攻撃も救援も、まず音としてやって来る。
見せないことと、聞かせることが、本作では表裏一体になっています。
タイトルにある「実弾の音だけで観客を閉じ込める」という感覚は、ここから生まれました。
まとめ|ドラマの深みより、体験の純度を選んだ映画
冒頭の問いに戻ります。
人間の恐ろしさまでは描き切れていない、という私の物足りなさは、欠点なのでしょうか。それとも、作り手の狙いなのでしょうか。
調べた限り、明らかに狙いでした。
悪意を体現する人物を置かない。
隊員の背景や内面を詳しく説明しない。
戦争の大義や政治的な結論も語らない。
すべては、当事者の記憶だけから、その日の戦闘を再構成するという方針の帰結です。
本作は、恐怖の置き場所を変えています。
『シビル・ウォー』では、人間の顔と悪意が恐怖を作りました。
本作では、どこから来るか分からない銃弾の音と、何もできずに待つ時間が恐怖を作ります。
その移し替えの精度において、本作は文句なしに一級です。
戦闘の緊張だけを取れば、私がこれまで観た戦争映画の中でも突出しています。
それでも、赤いサングラスの男と向かい合うときのような、人間そのものが怖いという時間はありません。
ラストのイラク人家族によって、米兵の側にあった暴力が照らし返されるという読みはできます。
しかし、それは体験が終わった後に届く反省です。
体験の最中に観客を捕まえる、対面する恐怖とは異なります。
つまり本作は、ドラマとしての深みと引き換えに、戦闘体験の純度を選んだ映画です。
記憶を失った戦友へ、その日を返す。
退役軍人が、自分の経験について話し始めるきっかけを作る。
その目的からすれば、人物を物語として膨らませなかったことは、欠点ですらないのでしょう。
ただ、『シビル・ウォー』のあの場面に、劇映画としての凄みを感じた観客——私もその一人です——には、感情の残り方が少し違う作品に映るはずです。
観るなら、音響のよい劇場か、それに近い設備を勧めます。
この映画の核心は、画面より先に耳へ届くからです。
参考資料
- A24×Happinet Phantom Studios 日本公式サイト「ウォーフェア 戦地最前線」
- TIME「The True Story Behind Warfare」
- Den of Geek「Alex Garland and Ray Mendoza Want to Reinvent the War Movie with Something Radical: Truth」
- PBS NewsHour「Former Navy SEAL on making the new film ‘Warfare’ and its authentic depiction of combat」
- SlashFilm「How Warfare Directors Alex Garland and Ray Mendoza Made One of the Most Intense War Films Ever」
- Screen Daily「Aiming to be ‘100% real’, Glenn Freemantle’s Warfare soundscape amplifies a real Iraq war firefight」
- Deep Focus Review「Warfare」
- Honi Soit「Warfare Wants to be Apolitical. It’s Not.」
- Forbes「Warfare Reviews: Do Critics Salute Alex Garland’s Civil War Follow-Up?」
- ScreenRant「Who Is Joe Hildebrand in Warfare?」


