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  • 映画『ウォーフェア 戦地最前線』|実弾の音だけで観客を閉じ込める95分

    2025年公開の『ウォーフェア 戦地最前線』(Warfare)を観ました。

    『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のアレックス・ガーランドと、イラク戦争に従軍した元Navy SEAL——米海軍特殊部隊——のレイ・メンドーサが共同で脚本・監督したA24作品です。日本では2026年1月16日に公開されました(A24ジャパン公式サイト)。

    映画『ウォーフェア 戦地最前線』

    先に評価を書いてしまうと、ほぼ一軒の民家だけで進むワンシチュエーションの戦争映画として、とてもよくできています。

    95分のあいだ、緊張がほとんど途切れません。

    ところが、観終わったとき、何かが足りないとも感じました。

    ガーランドの前作『シビル・ウォー』には、ジェシー・プレモンス演じる「赤いサングラスの男」がいました。

    銃を持って目の前の人間へ質問を重ね、その答えによって生死を選別する。人間の悪意を一つの場面へ凝縮したような人物です。

    本作には、あのような存在がいません。

    戦闘の恐ろしさは徹底して描かれています。しかし、人間が人間へ向ける悪意の恐ろしさまでは、正面から描かれていない。

    これが、観終わった直後の私の感想でした。

    この物足りなさは欠点なのでしょうか。

    それとも、作り手が戦闘の体験を純粋な形で再現しようとした結果なのでしょうか。

    本作の作り方を確かめながら考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、終盤の展開とラストシーンの意味まで扱います。

    未見の方はご注意ください。

    あらすじ|2006年11月19日、ラマディの一軒家

    2006年11月19日。

    武装勢力が支配するイラクの都市ラマディで、米海軍特殊部隊SEALの小隊が、翌日の地上部隊の進攻を支援する監視任務に就きます。

    隊員たちは深夜、イラク人家族が暮らす民家を占拠します。

    住人を一室へ集め、壁に狙撃用の穴を開け、市街を見張り続ける。

    しばらくは、何も起きません。

    やがて狙撃孔から手榴弾が投げ込まれます。

    さらに、負傷者を装甲車へ運び出す途中でIED——即席爆発装置——が爆発し、被害が広がります。

    狙撃手兼衛生兵のエリオットと、先任下士官のサムが重傷を負います。

    小隊は増援と救出を待ちながら、血と瓦礫にまみれた家で持ちこたえなければなりません。

    これは、メンドーサ自身が参加した実際の作戦をもとにしています。

    映画は、生存した隊員たちの記憶だけを材料に、その日の出来事を95分のほぼリアルタイムで再構成しました(TIME)。

    実名で登場するのは、メンドーサ本人とエリオット・ミラーの二人です。ほかの隊員の名前は変更されています。

    テーマ|「戦争の意味」ではなく「戦闘の体験」を描く

    記憶だけから作るというルール

    本作の制作方法は、徹底しています。

    ガーランドとメンドーサは、当時の小隊メンバーへ聞き取りを重ねました。

    そして、映画へ入れる出来事はすべて、誰かの証言へさかのぼれなければならない、というルールで脚本を書きました。

    時間を縮めない。

    複数の人物を一人へまとめない。

    映画として都合のよい出来事を付け加えない。

    ガーランドは、従来の戦争映画が使ってきた演出を、はっきり拒否しています。

    映画は装置を作る。音楽や高揚する弦楽器もそうだ。両軍が互いをはっきり見ているのも、映画にとって都合がよいからだ。

    Den of Geek

    戦争映画では、敵がどこにいるのかを観客に見せる必要があります。

    そうしなければ、誰が誰を撃っているのか分かりにくいからです。

    しかし現実の銃撃戦では、敵がはっきり見えているとは限りません。

    姿が見えないからこそ、いつ、どこから撃たれるのか分からない。

    本作は、映画としての分かりやすさより、隊員たちが実際に感じた混乱を優先しています。

    ただし、ここでいう「記憶から作った映画」は、客観的な記録という意味ではありません。

    メンドーサは、証言を組み合わせる作業について、同じ交通事故を経験しても、人によって記憶は異なると説明しています。

    ある隊員は、自分が止血帯を巻いたと記憶している。

    別の隊員も、自分がやったと記憶している。

    第三者の証言によって確認すると、二人は別々の作業を続けて行っていた。

    私たちは二人とも正しく、二人とも間違っていた。

    PBS NewsHour

    本作の冒頭には、「実話に基づく」ではなく「記憶に基づく」と表示されます。

    再現しようとしたのは、検証可能な客観的事実そのものではありません。

    あの日を生き延びた人々が、何を見て、何を聞き、どのように感じたのか。

    本作は、複数の主観をつなぎ合わせて作られた映画です。

    誰のために作られた映画なのか

    本作は、エリオット・ミラーに捧げられています。

    実際のミラーは、この日の負傷によって左脚と発話能力を失い、作戦当日の記憶も失いました(TIME)。

    メンドーサは、本作を作った第一の理由を、エリオットへ失われた記憶を返すためだったと説明しています。

    私は、これをエリオットのために再現しようとしていた。彼は覚えていないからだ。

    SlashFilm

    さらに、退役軍人たちが、それまでできなかった会話を始めるきっかけにしたかったとも語っています。

    一般の観客を楽しませることが、第一の目的ではありません。

    退役軍人が観て、「あれはこういう音だった」「自分も同じように感じた」と話せるものを作る。

    メンドーサは、退役軍人から「これがあのときの感触だった」と言われることが、自分の求めていた反応だと語っています(PBS NewsHour)。

    この目的を知ると、人物の背景がほとんど描かれないことにも、別の意味が見えてきます。

    本作は、戦場で何が起きたのかを説明する英雄譚ではありません。

    記憶を失った一人の戦友へ、その日の時間を返すための記録です。

    「赤いサングラスの男」の不在

    それでも、私の物足りなさは完全には消えませんでした。

    『シビル・ウォー』の赤いサングラスの男が作り出したのは、対面する恐怖です。

    銃を持った男と目を合わせる。

    質問へ答えなければならない。

    何を答えても、相手の気分一つで殺されるかもしれない。

    そこにあるのは、人間が人間へ向ける、意識的な悪意の恐ろしさです。

    『ウォーフェア』には、その席が最初から用意されていません。

    交戦相手は、ほとんど画面に映りません。

    米兵たちにも、家族関係や過去、信念といった背景は与えられません。

    悪意を担う人物が、画面の外へ置かれたままなのです。

    ただし、これは欠落ではなく、明確な選択です。

    メンドーサは、対峙していたのが制服を着た軍隊ではなく、民間人と区別しにくい反乱勢力だったことを挙げています。

    誰が敵なのか、どこから撃たれているのか分からない。

    ガーランドも、両軍が互いをはっきり視認する銃撃戦は、映画が作ってきた慣習にすぎないと語っています(Den of Geek)。

    選択であることは理解できます。

    しかし、劇映画として観たとき、満たされないものが残るのも事実です。

    Deep Focus Reviewのブライアン・エガートは、隊員たちが「人物ではなく顔」にとどまり、通常の物語映画がもたらす感情の解放を、技法の実験と引き換えに手放していると評しました(Deep Focus Review)。

    悪役がいないというより、そもそも人間をドラマの中心へ置かない映画なのです。

    悪役ではなく、文脈が欠けているという批判

    物足りなさの原因を、悪役の不在ではなく、政治的な文脈の不在に求める批評もあります。

    本作は、なぜアメリカ軍がイラクにいるのかを説明しません。

    開戦の経緯にも、占領にも、イラク側の犠牲にも踏み込みません。

    学生新聞Honi Soitは、非政治的であろうとすること自体が政治的な選択だと批判しています(Honi Soit)。

    ガーランドは、本作はプロパガンダではなく、「これが起きた」と示しているだけだと語っています。

    そこから何を読み取るかは、観客に委ねる。

    その考え方には一貫性があります。

    しかし、米兵の記憶だけを材料にすれば、映画の世界も米兵が見た範囲へ限定されます。

    その限界を、映画が自覚的に示しているのが、イラク人家族の扱いです。

    キャラクター造形|人物は「機能」として置かれる

    レイ|語り手なのに、感情を語らない

    ディファラオ・ウン=ア=タイが演じるレイは通信兵で、共同監督メンドーサ本人にあたる人物です。

    本作の記憶を提供した中心人物でありながら、映画の中で自分の感情をほとんど語りません。

    爆発後も、レイには感情を吐き出す場面が与えられません。

    放心しながら、それでも無線を使い、通信兵として動き続けます。

    自分が何を感じているのかを説明するより、次に必要な作業をする。

    戦闘中には、そのようにしか行動できなかったのでしょう。

    この「語り手が語らない」構えは、記憶を材料にした本作の誠実さでもあります。

    メンドーサは、自分を英雄や物語の主人公として書き直しませんでした。

    ただし、その抑制によって、レイ個人の内面も見えにくくなっています。

    エリオット|記憶の空白そのもの

    コズモ・ジャーヴィス演じるエリオットは、本作が捧げられた本人です。

    そして、映画の中心にある空白でもあります。

    実際のエリオット・ミラーには、この日の記憶がありません。

    そのため映画全体が、彼へ返される「失われた一日」のように見えます。

    負傷後のエリオットの顔は、本作の中で最も長く画面にとどまり続けるものの一つです。

    意識が定まらず、周囲で何が起きているのかを理解できない。

    人物の内面を言葉で説明しない本作で、唯一雄弁なのが、この顔なのだと思います。

    サム、エリック、トミー|絶叫と判断停止

    ジョセフ・クイン演じる先任下士官サムは、爆発によって両脚へ重傷を負い、絶叫し続けます。

    劇伴のない本作では、この叫びが事実上の音楽のように響きます。

    痛みの程度も、時間の経過も、叫び声の変化によって伝わります。

    サムのモデルとなった実在の隊員ジョー・ヒルデブランドは、映画の制作を通じて、当時の隊員たちが初めて癒え始めたのではないかと振り返っています(ScreenRant)。

    ウィル・ポールター演じる指揮官エリックは、危機の中で判断が止まっていくように見えます。

    キット・コナー演じる最年少のトミーは、冒頭では仲間とミュージックビデオに大騒ぎしています。

    しかし、初めての実戦では身体が動かなくなります。

    本作には、分かりやすい英雄も臆病者もいません。

    極限状況で機能できた者と、機能できなくなった者がいるだけです。

    この扱いによって、人物たちはドラマの登場人物というより、作戦報告書に記録された隊員へ近づいていきます。

    イラク人家族|視点の限界を映す鏡

    本作の倫理的な支点となるのが、家を占拠されたイラク人家族です。

    彼らには、ほとんど名前も台詞も与えられません。

    米兵は家族を一室へ集め、監視任務のために家を使います。

    メンドーサは当時の兵士たちの認識について、次のように語っています。

    我々のほとんどは彼らと関わらない。彼らのためにそこにいるのではない。地理的に有利だから、彼らの家を使うのだ。

    PBS NewsHour

    当時の隊員の中には、家族がいたこと自体をほとんど覚えていない人もいたそうです。

    映画が家族を詳しく描かないのは、米兵の記憶の中で、彼らがその程度にしか認識されていなかったからです。

    この説明は、映画の方法としては一貫しています。

    しかし同時に、米兵がイラクの住民をどのように見ていたかも明らかにします。

    彼らの暮らしや人生ではなく、家が持つ地理的な利点しか見ていなかった。

    そしてラストシーン。

    小隊が去った後、破壊された家へ取り残された家族が映されます。

    95分間、米兵の側に閉じ込められていた観客は、ここで初めて、自分が誰の視点からこの家を見ていたのかを突きつけられます。

    ニューヨーカー誌のジャスティン・チャンは、米軍の存在を、暴力的で見当違いの侵入として受け取らずに観ることは難しいと評しました(Forbes)。

    この読み方に立てば、人間の恐ろしさは描かれていなかったのではありません。

    狙撃孔の外ではなく、95分間、観客が寄り添ってきた側に置かれていたことになります。

    ただし、それは赤いサングラスの男のように、体験の最中へ直接現れる恐怖ではありません。

    映画が終わる直前に、視点を反転させることで届く恐怖です。

    映画技法|引き算が緊張を作る

    95分を編集で縮めない

    本作は、時間を大きく圧縮しません。

    ガーランドは、もし5分間誰も何もしなかったのなら、映画でもカメラは5分間そこに留まる、という考え方を説明しています(SlashFilm)。

    そのため前半には、長い待機の時間があります。

    狙撃スコープ越しに市街を見る。

    持ち場を交代する。

    小声で無線を使う。

    仲間同士でふざける。

    何も起きていないように見える時間が続きます。

    しかし、何も起きないこと自体が不安を作ります。

    敵が見えず、攻撃がいつ始まるのかも分からないからです。

    戦闘とは、長い退屈が、一瞬の純粋な恐怖によって破られるものだと言われます。

    本作は、その退屈まで省略しません。

    だから、手榴弾が投げ込まれた瞬間、映画の時間そのものが破壊されたように感じられます。

    95分間の緊張は、激しい場面を増やすことで作られているのではありません。

    何も起きない時間を我慢強く残すことによって作られています。

    実銃と実弾で作られた音

    音響を担当したのは、『シビル・ウォー』にも参加したグレン・フリーマントルです。

    ガーランドからの指示は、「100%リアルにすること」と「音楽を使わないこと」でした(Screen Daily)。

    音響チームは、銃声、着弾音、弾丸が近くを通過する音のために、実銃と実弾を使った専用の音響ライブラリを収録しました。

    金属製の扉やコンクリートへ弾丸を撃ち込み、材質によって異なる衝撃音を記録しています。

    さらに、超音速で飛ぶ弾丸が生む衝撃波の「クラック」も再現しました。

    遠くから撃たれた場合、このクラックは、発射地点から届く銃声より先に聞こえることがあります。

    つまり、何が起きたのかを理解する前に、弾丸が近くを通過した音だけが届く。

    撃たれる側にとって、銃声は敵の位置を教える親切な音ではありません。

    方向も距離も分からない、突然の音の暴力です。

    姿の見えない敵という本作の方針は、この音響があって初めて恐怖として成立しています。

    爆発後の主観を音で作る

    IEDが爆発した直後、音は一度ほとんど消えます。

    水中へ沈んだように、周囲の声や銃声がくぐもって聞こえる。

    これは、戦闘を分かりやすくするための演出ではありません。

    爆発を経験した隊員が、実際にどのように音を感じたかを再現したものです。

    ガーランドは、本作の音について、客観的な戦場の音ではなく、「自分にはこのように感じられた」という主観の報告だと説明しています。

    たとえばレイは、爆発後もヘッドセットから無線の音を聞いていたはずです。

    しかし本人の記憶では、路上で銃撃を受けていると気づくまで、その音を認識していません。

    そのため映画でも、レイが認識していない音は、観客にも聞こえません。

    現実に鳴っていた音ではなく、記憶の中で聞こえていた音を再現する。

    「記憶に基づく」という制作方針が、音響へ最もはっきり表れています。

    見せずに、音だけを通過させる

    上空を戦闘機が低空飛行し、敵を威嚇する「ショウ・オブ・フォース」の場面があります。

    画面に戦闘機はほとんど映りません。

    見えるのは、家の中にいる兵士と、舞い上がる砂埃です。

    巨大な軍事力は、轟音と振動としてだけ通過します。

    敵も見えない。

    味方の航空戦力も見えない。

    攻撃も救援も、まず音としてやって来る。

    見せないことと、聞かせることが、本作では表裏一体になっています。

    タイトルにある「実弾の音だけで観客を閉じ込める」という感覚は、ここから生まれました。

    まとめ|ドラマの深みより、体験の純度を選んだ映画

    冒頭の問いに戻ります。

    人間の恐ろしさまでは描き切れていない、という私の物足りなさは、欠点なのでしょうか。それとも、作り手の狙いなのでしょうか。

    調べた限り、明らかに狙いでした。

    悪意を体現する人物を置かない。

    隊員の背景や内面を詳しく説明しない。

    戦争の大義や政治的な結論も語らない。

    すべては、当事者の記憶だけから、その日の戦闘を再構成するという方針の帰結です。

    本作は、恐怖の置き場所を変えています。

    『シビル・ウォー』では、人間の顔と悪意が恐怖を作りました。

    本作では、どこから来るか分からない銃弾の音と、何もできずに待つ時間が恐怖を作ります。

    その移し替えの精度において、本作は文句なしに一級です。

    戦闘の緊張だけを取れば、私がこれまで観た戦争映画の中でも突出しています。

    それでも、赤いサングラスの男と向かい合うときのような、人間そのものが怖いという時間はありません。

    ラストのイラク人家族によって、米兵の側にあった暴力が照らし返されるという読みはできます。

    しかし、それは体験が終わった後に届く反省です。

    体験の最中に観客を捕まえる、対面する恐怖とは異なります。

    つまり本作は、ドラマとしての深みと引き換えに、戦闘体験の純度を選んだ映画です。

    記憶を失った戦友へ、その日を返す。

    退役軍人が、自分の経験について話し始めるきっかけを作る。

    その目的からすれば、人物を物語として膨らませなかったことは、欠点ですらないのでしょう。

    ただ、『シビル・ウォー』のあの場面に、劇映画としての凄みを感じた観客——私もその一人です——には、感情の残り方が少し違う作品に映るはずです。

    観るなら、音響のよい劇場か、それに近い設備を勧めます。

    この映画の核心は、画面より先に耳へ届くからです。

    参考資料

  • 映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』|嘘つきの夢を35mmフィルムで焼き付ける

    2025年公開の『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』(Marty Supreme)を観終わったとき、頭に残った感想は二つでした。

    ティモシー・シャラメの熱演がすごい。そして、サフディ兄弟らしいギラギラした演出がよかった。

    映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』

    ところが、この感想を記事にしようと調べ始めて、すぐに手が止まりました。本作は、サフディ兄弟の共同監督作ではありません。兄のジョシュ・サフディが単独で監督した長編で、単独作としては2008年の『The Pleasure of Being Robbed』以来、17年ぶりの2本目です。

    弟のベニー・サフディとは、2024年初頭に別々の道を歩むことが報じられました。ベニーも同じ2025年に、『スマッシング・マシーン』を単独で監督しています(Wikipedia)。

    それでも、私の目には本作が確かに「サフディ兄弟の映画」に見えました。

    だとすれば、私が感じた「サフディ兄弟らしさ」の正体は何だったのでしょうか。

    この記事では、シャラメの熱演と、ギラギラした演出という二つの第一印象を出発点に、その正体を作り手たちの発言から確かめていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の中盤、主人公が日本行きを目指すようになるあたりまでの展開に触れます。

    結末と、そこに至る終盤の展開には触れません。

    あらすじ|靴屋で働く23歳が、卓球で「何者か」になろうとする

    舞台は1952年のニューヨーク。

    23歳のマーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)は、いとこの靴屋で働きながら、卓球の世界チャンピオンになる夢を追っています(映画.com)。

    当時のアメリカでは、どれだけ卓球が強くても、それだけで生活することはできません。世界選手権への遠征費さえ自分で用意する必要があります。

    つまり、夢を追っても一円にもならないという条件が、物語の最初から示されているのです。

    マーティは、嘘と口八丁で金と味方をかき集め、世界選手権に乗り込みます。しかし、ロンドンで日本人選手のエンドウに敗北。この敗戦をきっかけに、日本で開催される大会でエンドウを倒すことが、新たな目標になります。

    ところが、引退した映画女優ケイ・ストーン(グウィネス・パルトロウ)との不倫や、卓球協会とのトラブルが重なり、マーティは選手資格も金も失いかけます。

    それでも彼は、日本への渡航費を集めるために奔走し続けます(日本公式サイト)。

    公式サイトのキャッチコピーは、次のようなものです。

    女たらしで嘘つきで自己中。だけど卓球の腕前だけはピカ一。

    その言葉どおり、本作は簡単には応援できない主人公を、149分にわたって追いかける映画です。

    テーマ|夢は孤独な者のためのもの

    世界一になっても、実際には何も起こらない

    監督のジョシュ・サフディは、Dazedのインタビューで、本作の核心をはっきりと言葉にしています。

    卓球世界一になっても、実際には何ももたらさない。自分が特別だと感じられる、偉大さの感覚だけだ。

    さらに、こうも語っています。

    夢は孤独な者のためのものだ。残りの人生をひとりで生きたいのか、と自問しなければならない。

    本作は、夢を追うスポーツ映画の形をしています。しかし、実際に描いているのは、夢が与えてくれる「自分は特別だ」という感覚と、そのために失われていく人間関係です。

    世界一になった先に、富や安定した生活があるわけではありません。残るのは、自分が特別な人間だと信じられる瞬間だけです。

    そのために何を犠牲にするのか。それでも夢を追うのか。

    これは、監督自身が作品の土台に据えた問いです。

    自分を売り込み、神話を作る

    サフディは、マーティが絶えずハッタリを重ねる理由を、戦後アメリカの生き方と結びつけて説明しています。

    夢のためには、自分を売り込まなければならない。人を味方につける一瞬一瞬が生死を分ける。

    さらに、マーティのように成功を目指す者は「神話を作らなければならない」とも語っています(前掲Dazed)。

    この「神話を作る」という言葉は、映画の成り立ちそのものにも重なります。

    本作の着想源は、実在の卓球選手マーティ・ライズマンが1974年に発表した回顧録『The Money Player』です。ただし、実際の出来事を忠実に再現した伝記映画ではなく、その人生に「緩やかに基づく」作品とされています(Wikipedia)。

    実在の選手を素材にしながら、事実そのものを再現するのではなく、一人の男の神話を作り上げる。

    映画の作り方自体が、マーティの自己神話化と重なっているのです。

    また、Aishのインタビューでサフディは、ユダヤ系であるマーティの過剰な野心の背景に、ホロコースト後のユダヤ系アメリカ人の意識を置いたと語っています。

    「あの水準の不安が、マーティの人生の岩盤にある」という言い方で、彼の焦りを個人の性格だけではなく、世代が抱えた経験から説明しているのです。

    日本の観客に向けられた、戦後の視線

    日本の観客として見逃せないのは、マーティが最終的に目指す場所が日本であることです。

    サフディは前掲のDazedで、アメリカ占領軍が日本国憲法の草案作成に関わった戦後の経緯に触れ、当時のアメリカの影響力を「より穏やかな形の植民地主義」と表現しています。

    マーティが日本人選手エンドウを追う物語の背後には、対等ではなかった戦後の日米関係が意識的に置かれているということです。

    1952年のアメリカ人が、日本を目指す。

    その物語を、2020年代の日本人が観る。

    この構図は、本作を日本で観るからこそ生まれる面白さだと思います。

    キャラクター造形|全員がマーティの夢を測る物差しになる

    マーティ・マウザー|後ろ盾のない個人主義

    サフディは、マーティについて次のように語っています。

    マーティには誰もいない。後ろ盾はレイチェルひとり。これは、アメリカ的個人主義の何と声高な表現だろう。

    (前掲Dazed)

    孤立こそが、この主人公の設計図です。

    ティモシー・シャラメを起用した理由も具体的です。サフディは、初めてシャラメが話す姿を見たとき、「彼はじっとしていられなかった」と語っています。

    役に合わせて俳優を変えるというより、シャラメ本人がもともと持っていた、落ち着きのない過剰なエネルギーを見込んだキャスティングでした。

    その熱演には、長い準備期間の裏づけもあります。

    シャラメは撮影の約6年前から、卓球コーチの指導を断続的に受けていました。「見栄えがよく、正確に見える水準まで引き上げてもらった」と、本人が語っています

    本作に批判的な批評でも、シャラメが卓球の習得に注いだ努力や、競技場面の説得力については評価されています。

    意見が分かれるのは、熱演しているかどうかではありません。その熱演によって描かれたマーティを、観客がどう受け止めるかです。

    ケイ・ストーン|「偉大さ」のその後を生きる人

    グウィネス・パルトロウが演じるケイ・ストーンは、引退した映画女優であり、マーティの不倫相手です(ABC News)。

    ケイは、かつて「偉大さ」の側にいた人物です。しかし、いまはその場所から降りています。

    自分が特別な存在であるという感覚を追い続けるマーティの隣に置かれると、彼女はマーティにありうる未来のひとつに見えます。

    夢の絶頂を過ぎた人間は、その後をどう生きるのか。

    ケイという人物は、その問いをマーティのすぐそばに置いています。

    レイチェル・ミズラー|唯一の味方という試金石

    オデッサ・アザイオンが演じるレイチェルは、サフディ自身が「後ろ盾はレイチェルひとり」と呼ぶ、マーティの唯一の支え手です。

    「夢は孤独な者のためのもの」という監督の言葉が本当かどうかは、結局、このたったひとりの味方との関係によって測られます。

    彼女は、本作の感情面を支える重要な人物です。その関係がどこへ向かうのかは結末に関わるため、ここでは触れません。

    一方、脇役の描き方については批判もあります。

    In Review Onlineは、初期のサフディ作品に見られた脇役への親密な視線が、本作では薄くなっていると指摘しています(In Review Online)。

    人物の厚みをマーティ一人に集中させた構成は、本作への評価が分かれる理由のひとつです。

    映画技法|「ギラギラ」の設計図

    撮影|顔の真ん前に居座るカメラ

    私が「ギラギラした演出」と感じたものの正体は、スタッフの発言からかなり具体的に確認できます。

    撮影監督は、『セブン』や『アンカット・ダイヤモンド』を手がけたダリウス・コンジです。

    コンジは、The Film Stageのインタビューで、「物語は顔によって語られる」と明言しています。

    そのために、遠くから被写体を大きく写す望遠レンズと、横長の画面を作る古いアナモフィックレンズを組み合わせ、「文字どおり顔の真ん前にいる」ような画面を作ったと語っています。

    卓球の試合さえ、コンジにとっては顔を描くための「乗り物」にすぎません。

    シャラメの熱演が強く印象に残るのは、映画そのものが、主演の顔にすべてを賭けているからです。

    フィルムの選択も徹底しています。

    Kodakの公式ブログによると、本作は全編をKODAK VISION3 500T 5219という35mmフィルムで撮影しています。

    さらに、現像時に感度を上げて粒子を強く見せる増感現像を行い、画面のざらつきを際立たせました。

    博物館から借り出したシネマスコープ用カメラや、360ミリの超望遠レンズまで使用したとされています。

    1950年代の古典的な画面と、現代的な過剰さが同居する。

    私が感じた「ギラつき」の映像面での正体は、この作り方にあります。

    音楽|1952年の物語に流れる1980年代の音

    本作では、1952年を舞台にした物語に、1980年代の音楽が意図的に重ねられています。

    サフディは、この時代錯誤を、マーティが時代の先を行っていたことの表現だと説明しています。

    さらに、映画全体が、60歳になったマーティの視点から語られる回想であるという仕掛けも明かしています(前掲Dazed)。

    コンジも、監督とともに「音楽と音響は1980年代的、あるいは現代的にし、撮影はヴィンテージにする」という対比を設計したと語っています(前掲The Film Stage)。

    画面は1950年代。音は、その数十年先。

    この時代のずれた組み合わせが、観客を落ち着かせない高揚感を生んでいます。

    音楽を手がけたのは、サフディ作品の常連であるダニエル・ロパティン、別名Oneohtrix Point Neverです。

    本作のギラつきは、画面だけではなく、音によっても作られていました。

    演出|偶発性が起きるように仕込む

    サフディは、「台本にないことが、いつでも起こりうる」状態を現場に作るため、キャスティングと撮影のタイミングに徹底的にこだわったと語っています(前掲Dazed)。

    コンジも、サフディについて「切迫感と執着が特別だ」と評し、納得できない場面を決して手放さない姿勢を証言しています(前掲The Film Stage)。

    画面のどこで何が起こるか分からない緊張感は、偶然生まれたものではありません。

    撮影、音楽、演出の三方向から意図的に組み立てられています。

    反対意見|同じ「ギラギラ」を欠点と見る読み

    私は本作の過剰さを美点として受け取りました。

    しかし、同じものを欠点と見る評価もあります。

    The Arts Fuseのスティーヴ・エリクソンは、本作を「没入体験ではあっても、自己陶酔的なアンチヒーローの分析にはなっていない」と批判しています(The Arts Fuse)。

    シャラメの魅力が、マーティの反社会的な行動を見やすいものにしてしまい、彼のナルシシズムを批評するのではなく、結果として肯定しているという読みです。

    同じ過剰さを、私は映画的な快楽として受け取り、エリクソンは倫理的な欠点として受け取ったことになります。

    どちらの評価に傾くかは、観客がマーティという人物と、どの程度の距離を保てるかにも左右されるのでしょう。

    まとめ|「サフディ兄弟らしさ」の正体

    冒頭の問いに戻ります。

    ジョシュ・サフディの単独監督作であるにもかかわらず、なぜ私は「サフディ兄弟らしい」と感じたのでしょうか。

    答えの少なくとも半分は、スタッフリストにありました。

    共同脚本と編集のロナルド・ブロンスタイン、音楽のダニエル・ロパティン、撮影のダリウス・コンジ、キャスティングのジェニファー・ヴェンディッティ。

    『アンカット・ダイヤモンド』の中核を担ったスタッフの多くが、本作にも参加しています(Wikipedia)。

    私が「兄弟らしさ」と呼んでいたもののかなりの部分は、実際には、この制作チームが生み出してきたものだったわけです。

    一方で、変化もあります。

    In Review Onlineは、初めて時代物に取り組み、大きな予算を使ったことで、カメラが従来よりも引き気味になり、初期作品にあった焦燥感は薄くなったと指摘しています(前掲In Review Online)。

    これまでの「らしさ」が、そのまま保存されているわけではありません。作品の規模が大きくなった代わりに、失われたものもあるという見方です。

    それでも、顔に密着するカメラ、時代錯誤の音楽、偶発性が起きるように設計された現場。その組み合わせは、私が「サフディ兄弟らしい」と呼びたくなるギラギラした感触を、確かに画面に残しています。

    その中心で燃えているのが、6年をかけて卓球を身につけたシャラメの、じっとしていられないエネルギーです。

    「サフディ兄弟らしい」という私の第一印象は、監督名だけを見れば不正確でした。

    しかし、あの過剰な映画を作ってきたチームの続投作という意味では、まったく外れていたわけでもありません。

    いまは、そう考えています。

    嘘つきの男が作った神話が、どこへたどり着くのか。

    ぜひご自身の目で、このギラつきに巻き込まれながら確かめてください。

    参考資料

  • 映画『スマッシング・マシーン』|最強の男が、負け方を覚えるまで

    正直に書きます。

    私はこの映画を、肉体では無敵のプロレスラーが、家族とともに病と闘う物語だと思っていました。予告編を観て、勝手にそう思い込んでいたのです。

    ところが、まったく違いました。

    2025年公開の『スマッシング・マシーン』(The Smashing Machine)が描くのは、マーク・ケアーという実在の総合格闘家です。格闘技ファンの間ではよく知られた人物だそうですが、私は格闘技をまったく知りません。ケアーの名前も、本作で初めて知りました。

    映画『スマッシング・マシーン』

    そこで、いつもの三つの切り口から観ることにしました。テーマ、キャラクター造形、映画技法です。

    この記事では、格闘技の知識がゼロの視点から本作を読み解きます。あわせて、「予備知識なしで観ても楽しめる映画なのか」という疑問にも答えます。

    先に結論を書くと、まったく問題ありません。むしろ本作は、格闘技を知らない観客も入っていけるように作られています。

    監督・脚本・編集はベニー・サフディ。『グッド・タイム』や『アンカット・ダイヤモンド』を兄ジョシュと共同監督してきた人物です。2024年に兄弟が別々の道を歩み始め、本作がベニーにとって初の単独長編監督作となりました(ジョシュ・サフディは2025年『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』を監督)。その作品で、ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)を受賞しています。

    製作はA24。日本では2026年5月15日に、ハピネットファントムの配給で公開されました(日本公式サイト)。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心まで扱います。

    結末だけでなく、エンドクレジット前のエピローグにも触れます。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|無敗の王者が、敗北を受け入れるまで

    物語は1997年に始まります。

    マーク・ケアー(ドウェイン・ジョンソン)は、アメリカの総合格闘技団体UFCで無敗を誇る王者です。やがて主戦場を、日本の総合格闘技イベントPRIDEへと移していきます。

    恋人のドーン(エミリー・ブラント)と暮らすケアーは、穏やかで物腰の柔らかい男です。

    しかし、戦い続ける身体は限界に近づいていました。ケアーは鎮痛剤への依存を深め、1999年、敗北を喫した翌朝に薬物の過剰摂取で倒れます(英語版Wikipedia)。

    リハビリ施設に入ったケアーは、復帰に向けて再起します。一方、ドーンとの関係は、支え合いと衝突の間で揺れ続けます。やがて二人は別れ、ドーンは自殺未遂に至ります。

    動揺を抱えたまま日本での試合に臨んだケアーは、惨敗します。

    そして2000年、PRIDEのグランプリ大会。優勝するのはケアーではなく、彼が励まし続けた盟友マーク・コールマンです。

    ケアーは敗者としてシャワー室に立ち、笑みを浮かべながら、その結果を受け入れます。

    エピローグには、現在のマーク・ケアー本人が登場します。映画で描かれた敗北の10日後、彼がドーンと結婚したことも字幕で明かされます。

    テーマ|勝利のカタルシスを、最初から捨てている

    敗北を受け入れる物語

    あらすじを読んで、気づいた方もいると思います。

    この映画には、スポーツ映画の定番である「最後の勝利」がありません。

    主人公は最後の大会で優勝しません。優勝するのは友人のほうです。主人公は負けたまま、それでも笑って物語を終えます。

    日本版のキャッチコピーは、「“最強の男”が敗北の果てに踏み出す魂の一歩」です(日本公式サイト)。

    宣伝の段階から、本作は勝つ物語ではなく、敗北を受け入れる物語だと告げていたことになります。

    サフディ監督は、観客に持ち帰ってほしいものを次のように語っています。

    人生は大丈夫だ、ということ。楽観でも共感でもいい。それを自分の毎日に持ち出してほしい。

    Forbes

    「病気との闘いに勝つ話」を予想していた私の思い込みは、二重に外れていました。

    ケアーが向き合うのは、私が想像したような病気ではなく、鎮痛剤への依存や、自分自身の弱さです。そしてこの映画は、そもそも「勝つこと」を最終的な目標にしていません。

    負けても人生は続く。その事実を受け入れることが、本作における勝利なのです。

    無敵の身体と、壊れやすい内面

    監督がケアーという人物に惹かれた理由は、はっきり語られています。

    あれほど傷つきやすく、物腰の柔らかい人間が、同時に、リングに入れば5秒で相手を破壊できるマシンでもある。

    Forbes

    この矛盾は、主演俳優にも重ねられています。

    サフディはジョンソンについて、一見すると無敵の大男に見えるが、内側はとても壊れやすい人物だと語っています(同記事)。

    「ザ・ロック」ことドウェイン・ジョンソンは、元プロレスラーの映画スターです。振り返ってみると、私が予告編から「無敵のプロレスラーの物語」を連想したのは、ケアーではなく、ジョンソンのイメージに引っ張られていたからでしょう。

    本作は、その思い込みごと崩していきます。

    最強に見える男の内側を開くこと。それはケアーの物語であると同時に、ドウェイン・ジョンソンという俳優のイメージを解体する試みでもありました。

    格闘技を知らない観客も想定されている

    私のような観客は、この映画にとって想定外ではないようです。

    サフディ監督は、試合場面の位置づけを次のように説明しています。

    リングの中の彼らを見る前に、人としての彼らに観客をつなげたかった。そうすれば、実際に試合を見るときに、まったく違う視点で見ることになる。

    ABCニュース

    つまり本作は、試合の再現よりも、試合の前後にある生活や感情を優先しています。

    格闘技の予備知識は、この映画を観るための条件ではありません。テーマとキャラクターと技法から観るという私の方法は、結果的に、監督が用意した入り口から作品に入っただけでした。

    キャラクター造形|負ける男、支える人、勝つ友人

    マーク・ケアー|5秒で人を破壊できる、優しい男

    本作のケアーは、強さではなく、優しさを芯に持つ人物として描かれています。

    米国の批評サイトMashableのレビューは、ケアーが子どもに自分の仕事を説明する場面における「優しい身体性」を、ジョンソンの演技の白眉として挙げています(Mashable)。

    巨大な身体を小さく折り畳むようにして、穏やかに語りかける男。その同じ身体が、リングに上がれば相手を打ち倒します。

    強さと優しさを一つの身体に共存させた人物造形が、「無敵の身体と壊れやすい内面」という本作のテーマを、そのまま背負っています。

    ドーン・ステイプルス|支えであり、傷つけ合う相手でもある

    エミリー・ブラントが演じるドーンは、ケアーの恋人です。

    二人の関係は、単純な「選手を支える家族」としては描かれません。

    互いに支え合いながら、同時に傷つけ合う。ドーンはケアーの依存と回復に深く関わりながら、彼女自身もまた追い詰められていきます。

    サフディはブラントの起用について、『オッペンハイマー』で仕事をした経験に加え、ジョンソンとの間にすでに友情があったことを理由に挙げています。この二人を演じるためには、「深い愛と友情」が必要だったと説明しています(Forbes)。

    一方、Mashableはドーンを「報われない役」と評し、人物像が類型的だと批判しています。

    ケアーの内面が丁寧に描かれる一方で、ドーンがなぜそこまで追い詰められたのかは、十分に掘り下げられていません。彼女が一人の人物というより、ケアーの不安定さを映す存在にとどまっているように見える点は、本作の弱さでしょう。

    マーク・コールマンとバス・ルッテン|敵であり、友でもある人たち

    本作で、恋人との関係と同じくらい印象に残るのが、格闘家同士の友情です。

    盟友マーク・コールマンは、ケアーのライバルであり、依存からの回復を促す友人でもあります。

    最後の大会で優勝するのはコールマンです。敗者となったケアーが、勝者となった友人を祝福する。その構図が、この映画の結論になっています。

    サフディ監督は、リングでは戦う者同士が、その外では深い友情を保っているという矛盾に惹かれたと語っています(Forbes)。

    配役にも、興味深い仕掛けがあります。

    ケアーを指導するコーチ、バス・ルッテンを演じているのは、バス・ルッテン本人です。当時実際にケアーを指導していた人物が、四半世紀後の映画で自分自身を演じています(DiscussingFilm)。

    映画技法|本物を混ぜて、信じさせる

    別人になるための顔と、その代償

    ジョンソンは本作で、特殊メイクによって別人の顔になっています。

    担当したのは、特殊メイクアップアーティストのカズ・ヒロ。23個の顔面パーツを、毎日4時間かけて装着したそうです(Screen Daily)。

    ジョンソン本人は、この変身を次のように振り返っています。

    キャリアを通じて「お前は絶対に別人には見えない」と言われてきた。今は、誰かの皮膚の中にいるということの意味が分かる。

    Screen Daily

    ただし、このメイクには批判もあります。

    Mashableは、メイクによって眉の上に影が生まれ、ジョンソンの目が隠れてしまうと指摘しました。繊細な感情表現を見せる映画でありながら、肝心の目が見えにくい場面がある、という批判です(Mashable)。

    変身の完成度と、感情表現を妨げる危険性。同じメイクが正反対の評価を受けているのは、この映画の性格をよく表しています。

    本作は、派手なスペクタクルではなく、男の顔に浮かぶ感情を見せようとする映画です。だからこそ、顔を変える特殊メイクの効果と限界が、大きな論点になります。

    対戦相手は、本物の格闘家

    試合場面の説得力は、配役によって支えられています。

    コールマン役は、元Bellator王者のライアン・ベイダー。対戦相手のイーゴリ・ボブチャンチン役は、ボクシングの統一世界ヘビー級王者オレクサンドル・ウシクです。日本からは石井慧も出演しています。

    サフディ監督は、この起用方針を次のように語っています。

    彼らは非俳優ではない。初めての俳優なだけだ。

    DiscussingFilm

    同じインタビューで監督は、試合と人間関係の両方を誠実に描くためには、本物の経験者が必要だったとも説明しています。

    格闘技を知らない私にも、リング上の身体の重さは画面から伝わってきました。

    俳優に格闘家らしい動きを覚えさせるのではなく、実際に戦ってきた身体を撮る。その選択が、観客に不足している予備知識を、映像そのもので補っています。

    記録映像のような画面

    本作は主に16mmフィルムで撮影され、一部に70mmとVHSの映像が混ぜられています(英語版Wikipedia)。

    原案となったのが2002年のHBOドキュメンタリーであることを考えると、粒子の粗い画面は、当時の記録映像の質感を引き継ぐための選択に見えます。

    この点について、監督本人による明確な説明は確認できませんでした。ここは私自身の解釈です。

    なお、編集もサフディ監督自身が担当しています。兄ジョシュとの共同制作で担っていた役割を、本作では一人で引き受けたことになります。

    まとめ|期待と違ったことが、この映画の証明だった

    冒頭の思い込みに戻ります。

    「無敵のプロレスラーが病気と闘う感動作」という私の予想は、外れました。

    実際に描かれていたのは、鎮痛剤への依存、壊れていく恋人との関係、そして敗北を受け入れようとする男の姿です。

    本作は批評面で高く評価されました。ヴェネチア国際映画祭では監督賞を受賞し、ジョンソンはキャリア初のゴールデングローブ賞ノミネートを果たしています。

    一方、興行では大きく苦戦しました。製作費5,000万ドルに対し、世界興行収入は2,110万ドル。公開週末の成績は、ジョンソン主演作として最低だったと報じられています(英語版Wikipedia)。

    興行不振の理由を、作品と観客の期待のずれだけで説明することはできません。

    ただし、「ザ・ロックの映画」から連想される派手な娯楽作と、実際の静かで内省的な作品との間に、距離があった可能性はあります。少なくとも、予告編からまったく違う映画を想像した私は、その距離を実感した観客の一人です。

    それでも、格闘技の予備知識がない私が置き去りにされることはありませんでした。

    本作には、敗北を受け入れるというテーマ、強さと優しさを同居させたキャラクター造形、本物の格闘家や記録映像の質感を取り入れた映画技法という、三つの入り口があります。

    監督自身が、リング上の選手を見せる前に、まず一人の人間として観客とつなげようとしているからです。

    最強の男が見せてくれるのは、勝ち方ではありません。

    負けても立ち上がり、人生を続ける方法です。

    予告編から抱いた思い込みを裏切られたことは、結果的に、この映画が狙いどおりに作られていることの証明でした。

    参考資料

  • 映画『エディントンへようこそ』|正義を争う町で、AIだけが前へ進む

    私がこの映画を観てまず思い出したのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』でした。あの作品で感じた「現代のアメリカにおけるリベラルの迷走」を、2025年公開の『エディントンへようこそ』(Eddington)でも感じたからです。

    映画『エディントンへようこそ』

    監督は『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』のアリ・アスター。舞台はCOVID-19パンデミック初期、2020年5月のニューメキシコ州の架空の町エディントンです。マスクを着けるか着けないかで隣人同士が憎み合った、あの息苦しい時期を正面から扱った映画で、日本では2025年12月に公開されました

    ただ、観終えてしばらく経って記憶に残っているのは、政治の場面ではありませんでした。町の外れで、誰にも邪魔されずに建っていくAIデータセンターです。この記事では、リベラルの迷走という入口から、この映画が最後に観客へ見せるものまでを、テーマ、人物、技法の順にたどります。

    ネタバレについて

    この記事は作品の核心的な仕掛けまで踏み込みます。結末で何が起こるかという具体的な出来事は書きませんが、終盤が何を意味するのか——この争いの勝者は誰なのか——には触れます。場面の描写は物語中盤(町長選の過熱と陰謀論の拡散)までを前提にしています。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|マスクをめぐる口論が、町長選になる

    2020年5月、ニューメキシコ州の小さな町エディントン。喘息の持病がありながらマスク着用義務を拒む保守派の保安官ジョー・クロス(ホアキン・フェニックス)は、スーパーマーケットでマスクを求められたことをきっかけに、感染対策の徹底とIT企業の誘致を進めるリベラル派の町長テッド・ガルシア(ペドロ・パスカル)と衝突し、対抗馬として町長選への出馬を宣言します。

    ジョーの家庭では、妻ルイーズ(エマ・ストーン)が過去の傷を抱えたまま、ネットの陰謀論配信者ヴァーノン(オースティン・バトラー)の動画にのめり込んでいきます。同居する義母ドーンも陰謀論に熱中している。町ではBLM抗議デモが始まり、SNSにはデマが流れ続けます。そしてその騒ぎの外側では、砂漠の地下水を大量に使うAIデータセンター「SolidGoldMagikarp」の建設が静かに進んでいきます。

    テーマ|対立は入口で、勝者は別の場所にいる

    リベラルの迷走という第一印象を支える場面は、序盤から続きます。テッド町長が掲げるのは科学、公衆衛生、経済発展という反論しにくい看板です。しかしその正しさは住民の生活の実感から浮いていて、町の未来のためと語られるデータセンターの誘致は、住民への節水要請と同じ時期に進んでいきます。デモに参加する高校生ブライアンについては、監督自身が「イデオロギーで動いているのではない。共同体を探していて、ガールフレンドがほしいだけの普通の子だ」と説明しています(TIME)。正義を掲げる運動に、正義以外の動機で人が集まってくる。この描き方は英語圏の批評でも大きな論点になっています

    ただし、この映画が批判するのはリベラルだけではありません。アスターはインタビューで「どの登場人物のことも裁かず、できる限り理解しようとすることが重要だった」と語り、彼らを「世界を案じるあまり、疑心暗鬼に陥った人々」と呼んでいます。全員が「何かが決定的におかしい」と感じているのに、何がおかしいのかについては誰とも一致しない。マスクを拒むジョーが訴える「個人の自由」も、この映画の中では町を動かす力になりません。

    では、この争いの勝者は誰なのか。ここについて監督は、解釈の余地をあまり残していません。TIMEのインタビューでアスターはこう言っています——「唯一の明白な勝者はデータセンターです」「あの物語も登場人物たちも、いまではただの学習データです。この映画自体が学習データなのです」。町の人々が言い争っている間に、その言い争いの記録だけが、AIを育てる材料として積み上がっていく。データセンターの名前「SolidGoldMagikarp」が、実在の大規模言語モデルの挙動を狂わせることで知られる単語(Glitch Token)から取られていることは、Gizmodoが解説しています。私はこの命名を、人間たちの騒ぎを機械の側から眺めたときの冷たさの表現として受け取りました。

    キャラクター造形|正義を信じる四人と、見られない一人

    監督が「誰も裁かない」と語っているとおり、主要人物は誰も分かりやすい悪役として書かれていません。その上で、それぞれの信じる正義がどう空回りするかは、人物ごとにはっきり描き分けられています。

    ジョー・クロス|信念が身体を裏切らせる保安官

    ジョー・クロスは、荒野に法と秩序をもたらす昔ながらの保安官の役を、自分で自分に割り当てているように見えます。しかし手作りの選挙ポスターは不器用で、演説は噛み合わない。喘息の身体はマスクを必要としているのに、信念がそれを拒ませる。身体に必要なものを信念が退けてしまうこの一点に、ジョーという人物の行き詰まりがよく表れています。

    テッド・ガルシア|正しさが人を遠ざける町長

    テッド・ガルシアは、データと制度で町を良くできると信じる政治家です。書類の上では、彼はいつも正しい。しかしその正しさを住民の実感に届く言葉で説明できないため、置き去りにされた人たちはかえって陰謀論の側へ流れていきます。善意の政治家が、話の通じる相手を減らしていく。この映画で最も苦い部分だと私は思います。

    ルイーズとヴァーノン|受け止められなかった痛みの行き先

    ルイーズとヴァーノンの関係は、同じ苦さを家庭の中で見せます。傷を抱えたルイーズは自室で人形を作り続けますが、夫のジョーはその痛みに向き合おうとしません。代わりに配信者ヴァーノンが「あなたの痛みには犯人がいる」という分かりやすい物語を差し出します。家族が受け止めなかった痛みの受け皿を、ネットの煽動者が先に用意してしまう。この順番の残酷さが、丁寧に描かれています。

    ホームレスの男|誰にも見られない一人

    そして、私がこの映画で最も重要だと考えるのは、クリフトン・コリンズ・Jr演じるホームレスの男です。右も左もプラカードを掲げて怒鳴り合うデモのすぐ横で、この男が路上に倒れていても、誰も足を止めません。全国ニュースの争点に夢中な人たちが、目の前の一人を見ていない。リベラルの迷走という私の第一印象に、いちばん静かな形で答えてくれた場面でした。

    映画技法|まぶしすぎる昼と、スマホだけが光る夜

    撮影監督のダリウス・コンジはLos Angeles Timesのインタビューで、屋外を「けばけばしいほど明るく——色もコントラストも飛びかけるほど明るく、それでもまだ足りないくらいに」撮ることを狙ったと語っています。実際、真昼の砂漠は目が痛くなるほど白い。その対極に置かれるのが夜の場面で、人物の顔はしばしばスマートフォンの画面の光だけに照らされます。昼は明るすぎて見えず、夜は画面の中しか見えない。登場人物たちが互いを見られなくなっていく過程が、私には光の設計そのものとして映りました。

    ジョーとテッドが向き合う場面の画づくりは、西部劇の決闘によく似ています。ただし、二人の背景に見えるのは荒野ではなく、データセンターの工事現場です。音楽(ボビー・クルリック、ダニエル・ペンバートン)も、西部劇を思わせる勇壮な金管の下に、低く持続する電子音を敷いています。少なくとも私の耳には、人物たちの対立の下で、別の何かが休みなく稼働し続けている音として聞こえました。

    こうした画面づくりの背景には、監督自身の取材があります。アスターは脚本執筆にあたり、「Twitterで複数のプロフィールを作り、それぞれ別のアルゴリズムを育てて、あとで使うためにスクリーンショットを撮りためていた」と語っています(Den of Geek)。劇中のSNSの描写が誇張に見えないのは、この実際の観察が下敷きにあるからでしょう。

    まとめ|決闘の外で、建ち続けるもの

    『ワン・バトル・アフター・アナザー』と本作、続けて観たこの2本は、私の中では「リベラルの迷走」というひとつの主題でつながりました。ただし本作は、それを笑って消費できる他人事としては描いていません。マスク論争に熱くなった人も、それを冷めた目で眺めていた人も、その言動の記録ごとAIの材料になっていた——という視点が最後に待っているからです。

    批評家の評価は割れています。登場人物全員を見下した映画だという批判もあります。それでも私は、「どちらの正義が正しいか」ではなく「その争いで誰が利益を得たのか」へ問いを移したところに、この映画の価値があると考えます。リベラルの迷走を確認するつもりで観に行き、帰り道では自分がスマートフォンを見ている時間のことを考えていた。私にとってはそういう映画でした。

    参考資料