『時には懺悔を』が扱うのは、重い障がいのある子どもを育てることです。ただし、私はこの映画を障がい児の子育てに限った話だとは思いませんでした。子どもを愛しているから何でも耐えられるわけではない。逃げたい日もあれば、自分の選択が正しかったのか分からなくなる日もある。程度の違いはあっても、こうした迷いは子育て全般に通じるものだと思います。

だからといって、本作を現在の日本における子育て事情への批判に限定するのも違います。子どもを育てることに、誰にでも当てはまる正解はありません。親だから愛せる、愛しているなら育てられる、育てられないなら親失格だ。そのような単純な答えを、本作は一つずつ崩していきます。
重い題材を支えているのが、キャラクター造形です。主要人物は、それぞれ子どもとの関係に傷や失敗を抱えています。誰か一人が正しく、別の誰かが間違っているわけではありません。観ている側が一人を理解しかけると、別の人物の言葉がその判断を揺さぶります。その繰り返しが、きれいごとでは済まない子育てを描いていました。
目次
ネタバレについて
この記事では物語の中盤まで触れます。殺人事件と誘拐事件の真相、登場人物が最後に下す決断には触れません。
あらすじ|二つの事件が傷ついた家族を結びつける
探偵の米本洋一(佐藤二朗)が殺されます。元同僚の探偵・佐竹三雄(西島秀俊)は、探偵見習いの中野聡子(満島ひかり)とともに米本の足取りを調べ始めます。やがて二人は、9年前に起きた新生児誘拐事件と、重い障がいのある少年・新(しんすけ)を育てる明野哲夫(宮藤官九郎)に行き着きます。
佐竹は家族から離れ、酒に逃げています。聡子も娘との関係を失っています。明野は新の介護に明け暮れ、尋津民恵(黒木華)は過去の選択を抱えたまま暮らしています。探偵ものとして始まった調査は、他人の秘密を暴くだけでは終わりません。佐竹と聡子も、見ないようにしてきた家族の問題へ引き戻されていきます。
テーマ|親を正しいか間違っているかで分けない
愛情があっても子育ては苦しい
子どもを愛していれば、親はどんな苦労にも耐えられる。その考えは美しいのですが、現実の子育てを説明するには足りません。食事をさせ、体調を確かめ、眠れない夜を越える。毎日の世話で、親は身体と時間を使います。とりわけ介助が欠かせない子どもを育てる場合、愛情と負担は相反するものではありません。愛していても苦しいし、苦しいと感じたからといって、愛情がないとは限りません。
本作はこの矛盾を、明野と新の暮らしを通して具体的に見せます。明野は立派な父親として紹介されません。言動は粗く、感情的で、過去の行動にも問題があります。その一方で、新の身体の動かし方や好みを理解し、日々の世話を続けています。正しい人間だから育てられるのではない。欠点のある人間が、それでも毎日必要なことをしている。この描き方があるため、介護が献身的な愛の物語だけになりません。
民恵を責めれば答えが出るわけではない
民恵は、親ならこうするはずだという期待から外れた人物です。しかし、民恵を悪い母親と決めれば、作品の難しさは消えてしまいます。育てると決めたあと、実際に生活を背負うのは誰なのか。周囲が命の大切さを語っても、日々の介助を代わってくれるとは限りません。
民恵を演じた黒木華は、出産や養育には母親本人だけでなく家族も関わるため、民恵を簡単には責められないと話しています。黒木華と宮藤官九郎のインタビューを読むと、映画が民恵に正しい答えを言わせようとしていないことがよく分かります。本作が問うのは、民恵の選択に賛成できるかどうかだけではありません。自分が負わない苦労について、外から何が正しいかを言い切れるのかという問いも含まれています。
懺悔しても過去は消えない
題名にある「懺悔」は、罪を告白して許してもらうためだけのものではないと思います。過去の選択は取り消せません。傷つけた相手との関係も、ひと言謝れば元に戻るわけではありません。それでも、自分が何をしたのかを認めなければ、別の選択をすることもできません。
中島哲也監督は、登場人物たちが新と出会って変わるとしても、それは「ちょっとだけ」だと説明しています。CINEMOREの監督インタビューでも、佐竹の抱える問題がすぐ解決するわけではないと語っています。この小ささが大切です。本作は、大きな感動によって人生がすべて好転する話ではありません。自分の過ちから目をそらさず、途絶えていた関係を少しだけ結び直そうとする。そのための最初の動きが懺悔なのでしょう。
キャラクター造形|善意にも無責任さが混じる
佐竹は暗さの中に期待を残している
西島秀俊が演じる佐竹は、子育ての暗い部分を担っているように見えます。亡くなった息子に向き合えなかった後悔を抱え、妻や娘とも距離ができています。酒に逃げ、他人にも自分にも期待しない態度を取っています。
ただし、佐竹は絶望だけを表す人物ではありません。明野と新を調べ続けるうちに、彼が強く反応しているのは、自分の過去と似たものを見てしまうからだと分かります。本当に何も期待していないなら、怒る必要も、他人の家庭へこれほど執着する必要もありません。佐竹の冷たさには、まだ家族を諦めきれない気持ちが隠れています。
映画化に際して、中島監督は原作の設定を変え、障がいのある子どもを佐竹自身の息子にしました。監督は、佐竹が事件を調べる理由を明確にし、捜査の中で自分の傷と向き合う物語にするためだったと説明しています。中島哲也監督のインタビューにあるこの改変によって、事件の調査と佐竹の家族の問題が一つに結びつきました。
聡子の希望は、民恵の負担を引き受けるものではない
満島ひかりが演じる聡子は、佐竹とは対照的です。感情を表に出し、新のために動こうとします。初めは、聡子が希望を代表し、佐竹が暗さを代表しているように見えました。しかし、聡子も無条件に正しい人物ではありません。私は、聡子の踏み込み方には少し無責任なところがあると感じました。
聡子が民恵に何かを求めても、実際に新を育てることになるのは民恵です。毎日の介助を担うのも、その選択によって生活が変わるのも聡子ではありません。子どものためを思う気持ちが本物でも、負担を引き受けない人の善意は、当事者にとって圧力になりえます。「命は大切だ」と言うことと、その命を日々支えることの間には、大きな隔たりがあります。
それでも聡子が民恵から離れられないのは、民恵の中に自分を見ているからだと思います。聡子自身も娘との関係に傷を抱えています。民恵に向けた言葉は、そのまま自分に向けた問いでもあるのでしょう。民恵にもう一度子どもと向き合ってほしいと願うことで、自分にも娘との関係をやり直せる可能性があることを確かめようとしている。民恵は聡子にとって、自分の後悔を映す鏡になっています。
だからこそ、聡子がどこまで踏み込んでよいのかという疑問は残ります。本作は、善意があれば他人の家庭に介入してよいとは断言していません。監督によれば、聡子は民恵との会話で自分の考えを押しつけず、最後には民恵本人が決めることだと考え、踏みとどまります。聡子の希望は、正解を教えることではありません。踏み込みすぎる危うさを抱えながらも、相手を一人にしないために話し続けることにあります。
明野を理屈だけで善人か悪人かと決めつけることはできない
宮藤官九郎が演じる明野は、本作で最も白黒をつけにくい人物です。短絡的で、感情を人にぶつけます。過去の行動を理屈で説明しようとしても、納得できる答えにはなりません。しかし、新の世話をする姿からは、長い時間を一緒に過ごした人にしか持てない知識がうかがえます。
中島監督は約20年前に原作を読んだときから、明野役には宮藤官九郎しか考えていなかったそうです。ほかの役で想定していた俳優が年月とともに変わる中、宮藤だけは変わりませんでした。Little Birdの監督インタビューでは、技術だけで演じれば単にひどい男になる役でも、宮藤なら人間の弱さや脆さを残せると説明しています。
宮藤は撮影前に、新を演じるしんすけの寝返りを支える方法などを学びました。ところが、しんすけを前にすると自然に優しい顔になってしまい、中島監督から、その段階ではまだ優しくしないように言われたそうです。mi-molletのインタビューにあるこの話は、明野の難しさをよく表しています。明野は最初から無私の愛で新を育てたわけではありません。世話を繰り返すうちに生まれた親密さと、消えない身勝手さが同居しています。
民恵は「正しい母親」になれなかった
黒木華が演じる民恵は、苦悩を分かりやすく言葉にする人物ではありません。表情や沈黙から、過去の選択を現在まで引きずっていることが伝わります。民恵を理解することと、民恵の行動を正しいと認めることは同じではありません。責めないことと、何も問わないことも違います。
黒木は役を演じるとき、「この人ならこんなことはしない」と決めつけず、まず台本に書かれた行動を受け入れると話しています。mi-molletのインタビューで語られたこの姿勢が、民恵を単なる冷たい母親にしなかったのでしょう。理解しがたい選択をした人にも、その人なりの恐れや事情がある。民恵の表情は、観客が出しかけた判決を何度も止めます。
新を大人の救いだけにしない
新は、傷ついた大人を立ち直らせるためだけに置かれた存在ではありません。食べ、笑い、声を出し、不快なときには身体で反応します。周囲の大人が新をどう解釈するかとは別に、新自身の生活が続いています。この当たり前のことを画面に残した点が重要です。
新を演じたしんすけをはじめ、本作には個別の配慮が必要な子どもが20人以上出演しました。子どもたちは保護されるだけの存在ではなく、一人ひとりが俳優として撮影に参加しています。岩崎学園の発表によると、スペシャルニーズスーパーバイザーの安田一貴が配役の段階から加わり、姿勢や抱き方への配慮、体調や安全の確認を支援しました。
映画技法|過去の後悔が現在へ割り込む
過去と現在を会話の途中でつなぐ
映像技法の中で最も印象に残ったのは、過去と現在が交差する編集です。登場人物が現在の出来事を話している途中で画面が過去へ移り、過去の場面での動作やせりふが、現在の会話へつながります。回想を独立した説明として挟まないため、過去の出来事が、すでに終わったものには見えません。登場人物の中では、今も続いている問題として感じられます。
この編集は、探偵が事件を調べる物語にも合っています。新しい事実が見つかるたびに、過去の出来事の意味が変わります。同時に、佐竹や聡子の反応も変わります。調べているのは他人の過去なのに、掘り起こされるのは自分たちの後悔でもある。その二つが画面の切り替えによって重なります。
外から眺める視点を観客にも持たせる
前半では、佐竹と聡子が明野と新の生活を離れた場所から観察します。観客も二人と同じように、何をしているのか分からないまま親子を眺めます。介助の知識を持たなければ、手際のよい動作が乱暴に見えることもあります。断片だけを見れば、明野を危険な人物だと判断することもできます。
しかし、同じ動作を見続けるうちに、そこには新の身体に合わせた手順があると分かります。映画は、明野をどのように撮るかによって、外から家庭を裁くことの危うさを観客にも体験させます。これは聡子の問題にもつながります。見ることと、分かることは同じではありません。分かったつもりで踏み込めば、善意でも相手を追い詰めます。
安全な撮影環境が俳優の表情を守る
障がいのある子どもたちを実際に撮影現場へ迎えるなら、当事者を起用したという事実だけで満足することはできません。安全に参加できる環境が必要です。本作では、撮影現場だけでなく移動中も、医療上の緊急事態に対応できる体制が組まれました。家族や医療スタッフがカメラの外で待機し、中島監督は子どもの体調を優先して撮影を長引かせないようにしました。西島秀俊のインタビューからも、準備に多くの時間と人手をかけたことが分かります。
こうした体制は、作品の外側にある美談ではありません。子どもが疲れ切る前に撮ること、慣れないスタッフが不用意に近づかないこと、本人が安心できるように、家族の近くで撮ること。その条件があったからこそ、しんすけの笑顔や声を無理に引き出すことなく、画面に残せたのでしょう。人物を一つの答えで割り切らない本作の姿勢は、撮影方法にも表れています。
まとめ|正しさよりも責任の重さを見つめる
『時には懺悔を』には、理想の親は登場しません。佐竹は家族から逃げ、聡子は自分が責任を負わない領域に踏み込み、明野は身勝手さを残したまま新を育て、民恵は「母親なら当然できる」とされる役割を果たせません。だからこそ、私はこの映画を子育て全般に通じる話として受け取りました。親になることは、正しい答えを選び続けることではないからです。
聡子の善意には、最後まで危うさがあります。民恵に向き合うことで自分の後悔を見つめ直しているのだとしても、民恵の人生を使って自分を救おうとしてよいのかという疑問は消えません。しかし、その疑問を残したことが本作の良さでもあります。聡子を希望の側に、佐竹を暗さの側に置くだけなら、もっと簡単な映画になっていたでしょう。実際には、希望の側にも無責任さがあり、暗さの側にも捨てきれない期待があります。
子どもを愛せなかった人を断罪するだけでも、育て続けた人を聖人にするだけでも、子育ての重さは伝わりません。誰も完全には正しくない。それでも、何を引き受け、誰と関係を結び直すのかは選ばなければならない。本作のキャラクター造形は、その答えの出ない問いを最後まで支えていました。