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  • 映画『プッシャー3』|幸福なギャングはいない

    はじめに|ミケルセン祭の最終作に、ミケルセンはいない

    2026年5月1日、「北欧の至宝 マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」の特別企画として、『プッシャー』三部作の4Kデジタル修復版が劇場公開されました。

    ミケルセンの長編映画デビュー30周年を記念した上映です。私はこの機会に、三部作をすべて観ました。

    本作はその最終作にあたる、2005年公開の『プッシャー3』(原題:I’m the Angel of Death: Pusher 3)です。

    映画『プッシャー3』

    面白いのは、ミケルセンの記念上映を締めくくるこの映画に、当のミケルセンが出演していないことです。

    主役は、第1作で主人公フランクを追い詰めた麻薬王ミロ。演じるのはズラッコ・ブリッチです。

    シリーズで最も怖かった男が、最終作ではカメラに追われる側へ回ります。

    三部作を観終えて、私に残ったのは「このシリーズを通して、監督は何を描きたかったのだろうか」という問いでした。

    その答えの入り口は、まさに「なぜ最後の主役がミロなのか」にあると思います。

    この記事では、その問いを軸に最終作を振り返ります。第1作第2作についてはそれぞれ単独のレビューを書いているため、この記事は三部作の総括に重心を置きます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心と結末まで踏み込みます。終盤の殺害や死体処理、ラストシーンにも具体的に触れるため、未見の方はご注意ください。

    あらすじ|麻薬王の最悪の一日

    コペンハーゲンの麻薬王ミロ(ズラッコ・ブリッチ)は、初老に差しかかっています。

    自身も薬物依存を抱え、薬物依存者の自助グループに通いながら、断薬5日目を迎えていました。

    この日は、娘ミレナ(マリネラ・デキク)の25歳の誕生日です。ミロは50人分の料理を作ることになっています。

    ところが、同じ日に麻薬の仕入れで問題が起きます。

    注文したヘロインの代わりに届いたのは、1万錠のエクスタシーでした。扱い方の分からないミロは、若い売人ムハンマド(アイヤス・アガク)に販売を任せます。

    しかし、ムハンマドは商品を持ったまま姿を消します。

    代金を支払えないミロは、仕入れ元のアルバニア人グループに逆らえなくなり、人身売買の取引に場所を貸すことになります。

    売られようとしていた少女は、一度逃げようとします。ミロは彼女を捕まえますが、その後、少女が売人から熱湯をかけられるのを見ると、ハンマーで男を殴り殺します。

    さらに、戻ってきたアルバニア人の男も殺害します。

    ミロは、かつての用心棒で、いまは飲食店を営むラドヴァン(スラヴコ・ラボヴィッチ)を呼び出します。二人は一晩かけて死体を解体し、処分します。

    夜が明けるころ、ミロは娘の家へ戻ります。

    娘と短い会話を交わした後、空になったプールの前で、ひとり煙草を吸う。

    映画はそこで終わります。

    抗争も成り上がりもありません。描かれるのは、老いた麻薬王の最悪の一日だけです。

    テーマ|幸福なギャングはいない

    監督自身が語った三部作の結論

    この三部作で何を描きたかったのか。

    その問いには、監督ニコラス・ウィンディング・レフン自身の言葉で答えることができます。

    2026年の再上映に合わせたインタビューで、レフンは三部作をこう総括しています。

    幸福なギャングなどというものは存在しない。

    そして、登場人物たちは皆、追い詰められた人間であり、物語の最後には全員が負けるのだと語っています。

    Screen Slate

    レフンが興味を持っていたのは、犯罪そのものではありません。

    犯罪的な環境の中で生きる人々が、どのような状況に置かれ、どう行動するのか。その姿を描くことでした。

    だから、このシリーズには犯罪映画につきものの華やかさがありません。

    出世も、仲間同士の結束も、破滅の美学もない。

    実際、3本の結末を並べると、レフンの言葉どおりです。

    第1作のフランク(キム・ボドゥニア)は、恋人に金を持ち逃げされ、追っ手が迫る夜にひとり取り残されます。

    第2作のトニー(マッツ・ミケルセン)は、赤ん坊を連れて裏社会の外へ踏み出します。しかし、その先で生活を立て直せるかは分かりません。

    そして第3作のミロは生き延びますが、そのために二人を殺し、死体を解体し、何事もなかったように日常へ戻ります。

    誰も勝たないことが、三部作を貫く結論です。

    レフンは別のインタビューで、こうも語っています。

    私が興味を持ったのは、登場人物たちの傷つきやすさだった。

    犯罪や暴力よりも、人間の傷つきやすさの方が恐ろしいのだと説明しています。

    Salon

    このシリーズの恐怖は、銃や血の量だけから生まれるものではありません。

    追い詰められた人間がどんな選択をするのか。その顔を逃げずに映すことから生まれています。

    そして、その視点が最も徹底されているのが第3作です。

    なぜ最後の主役がミロなのか

    レフンが、ミロを最後の主人公に選んだ理由を一言で説明した発言は、調べた範囲では見つかりませんでした。

    ただし、レフンは2026年のインタビューで、第3作によって三部作全体が収まるべき場所に収まったと振り返っています。

    第3作を完成させたことで、ようやくこの世界から離れられると感じたそうです。

    Screen Slate

    なぜ、ミロを主役にすると三部作が完成するのでしょうか。

    第1作のミロは、恐怖の源でした。

    にこやかに料理を振る舞いながら、返せない借金を論理的に数え上げる。主人公フランクにとっては、逃げ道を一つずつ塞いでくる絶対的な存在です。

    ところが第3作では、カメラがそのミロから離れません。

    すると、麻薬王という肩書の内側から、断薬の集会に通い、娘の誕生日料理に追われ、慣れない商品を持て余す男が現れます。

    若い売人には軽んじられ、新しい取引相手には従属を迫られる。

    第1作で追い詰める側だったミロも、視点を変えれば、フランクやトニーと同じ「必死な人々」の一人でした。

    「幸福なギャングはいない」という命題は、この世界の頂点にいるように見えた人物にも幸福がないことを示して、初めて例外のない結論になります。

    最終作の主役がミロだったのは、私には三部作の答えを言い切るための選択に見えました。

    老いと時代遅れ

    第3作には、前の2作にはなかった主題があります。

    老いです。

    届いたエクスタシーをどう売ればよいのか、ミロには分かりません。若い売人のムハンマドに頼るしかなく、そのムハンマドからは「自分こそコペンハーゲンの王だ」と挑発されます。

    取引相手も変わっています。

    ミロより若いアルバニア人たちは、彼を対等な相手として扱いません。借金を理由に、人身売買の片棒を担ぐよう命じます。

    かつてコペンハーゲンの裏社会で恐れられていた男が、商品にも人間関係にもついていけなくなっている。

    ミロは、王の座から引きずり下ろされたわけではありません。

    しかし、自分が慣れ親しんだ世界の方が、少しずつ消え始めています。

    三部作を並べると、第1作は若さと焦り、第2作は父になることへの迷い、第3作は老いと時代遅れの映画です。

    犯罪の世界で生きる人間の一生が、3人の主人公に振り分けられているようにも見えます。

    キャラクター造形|麻薬王を人間に戻す

    ミロ(ズラッコ・ブリッチ)——王ではなく、仕事に追われる商売人

    第3作で描かれるミロの一日は、仕事に追われる商売人の一日です。

    商品の仕入れに失敗し、販売を任せた若者が戻らず、代金の回収に追われる。その合間に、娘の誕生日パーティーの料理を作らなければなりません。

    第1作のミロは、客に手料理を振る舞うことで、自分の余裕と力を示していました。

    ところが第3作では、その料理を食べた部下たちが次々と腹を壊します。

    かつて強さを示していた振る舞いが、いまでは失敗の一つになる。同じ料理という行為を使って、ミロの衰えが描かれています。

    断薬集会の場面も重要です。

    麻薬を売ってきた男が、自分も麻薬をやめられない人間として輪の中に座っている。

    売る者と依存する者が、最後の主人公の中で重なります。

    ただし、本作はミロを善人として描き直すわけではありません。

    人身売買に嫌悪感を示しながらも、少女が逃げれば捕まえる。彼女が熱湯で痛めつけられると怒り、売人を殺しますが、その後は死体を解体して犯罪の痕跡を消します。

    善人でも悪人でもなく、その場その場で自分に都合のよい判断をする。

    第1作で恐怖の記号だったミロを、人間の矛盾を抱えた人物へ戻すのが本作です。

    それを成立させているのが、ズラッコ・ブリッチの演技です。

    断薬中の苛立ち、娘に振り回される父親の気弱さ、若い売人に軽く扱われる屈辱、ハンマーを手にした瞬間の冷たさ。

    ブリッチは、恐怖と滑稽さと哀愁を、一つの場面の中で行き来します。

    レフンは、ブリッチについて「何でもできる俳優」だと語っています(Reverse Shot)。

    第1作では場面をさらう脇役だった俳優が、最終作では三部作全体を締めくくる顔になりました。

    ラドヴァン——堅気になった男の一晩だけの再登板

    第1作でミロの取り立てを担っていたラドヴァンは、本作では裏社会を離れ、飲食店を経営しています。

    第1作で語っていた夢を実現し、堅気の生活を手に入れた人物です。

    終盤、ミロはそのラドヴァンを呼び戻します。

    ラドヴァンは最初、犯罪の世界には戻らないと拒みます。それでも旧知のミロを見捨てられず、一晩だけ昔の仕事を引き受けます。

    二人は、殺害した男たちの死体を解体します。

    ラドヴァンの手つきには、ためらいがありません。肉を切り分け、袋に詰め、排水口へ流す。

    暴力を見せ場ではなく、後始末の労働として描いてきたこのシリーズの、行き着いた先です。

    また、この場面は、裏社会を抜けることの難しさも示しています。

    店を持ち、生活を変えても、過去の関係までは消せない。

    第2作のトニーが乗ったバスの先にも、同じ問題が待っているのかもしれません。

    ミレナ——麻薬王が頭の上がらない相手

    娘のミレナは、父を麻薬王として扱いません。

    料理の内容に注文をつけ、パーティーの準備を急がせ、必要なものがあれば当然のように父を動かします。

    裏社会では恐れられている男が、家庭では娘に振り回されている。

    この落差が、本作の可笑しさを生んでいます。

    同時に、ミロが完全に孤独な人間ではないことも分かります。

    彼は娘を大切に思い、誕生日のために大量の料理を作る。少女に娘の誕生日ケーキを渡す場面では、目の前の少女と自分の娘が一瞬重なって見えます。

    しかし、娘への愛情があるからといって、彼がしてきたことが帳消しになるわけではありません。

    人を愛することと、人を壊す仕事を続けることが、同じ人物の中で共存しています。

    ムハンマドとアルバニア人たち——ミロを古くする若者たち

    若い売人ムハンマドは、自分を「コペンハーゲンの王」と呼び、ミロに敬意を求めます。

    第1作でフランクが恐れていた麻薬王は、いまでは若者から軽口をたたかれる存在です。

    アルバニア人たちも、ミロを以前のような権力者として扱いません。

    借金を盾にして、自分たちの仕事を手伝わせる。ミロの店を使い、彼に飲み物を運ばせます。

    彼らはミロよりも新しい世代ですが、より幸福なわけではありません。

    金と暴力で相手を支配しようとする点では、かつてのミロと変わらない。

    ミロが老いても、この環境は次の人間によって引き継がれていきます。

    「幸福なギャングはいない」という結論は、古い世代だけに向けられたものではありません。

    映画技法|最悪の一日を撮る

    一日に圧縮された時間

    第1作は約一週間、第2作は数日、そして第3作は、ほぼ一日の物語です。

    シリーズが進むにつれて、描かれる時間は短くなっていきます。

    しかし、時間が短くなった分だけ、出来事の密度は高くなります。

    娘の誕生日パーティーと麻薬取引が同じ日に重なり、ミロは家庭と裏社会を何度も往復します。

    料理をしながら電話で販売状況を確認し、客に挨拶した直後に借金の交渉へ向かう。

    犯罪は、日常から切り離された特別な事件ではありません。

    誕生日の料理と同じ日の仕事として進んでいきます。

    犯罪を日常の労働として描くシリーズの視点が、一日の構成によってさらに強くなっています。

    料理と死体——同じ台所仕事として撮る

    本作は、料理の映画でもあります。

    パーティーのために肉を切り、鍋を火にかけ、食材を運ぶ。終盤では、同じような台所で死体を切り分けます。

    包丁を使い、肉を吊るし、切ったものを袋へ詰める。

    死体の解体は、特殊な殺人者の儀式ではありません。調理や食肉処理と同じ、手順のある作業として進みます。

    レフンは『プッシャー3』を、三部作の中で個人的に最も優れた作品だと評価しています。

    最も実験的で、最も解放感があり、最も過激だからだと説明しています(Reverse Shot)。

    ただし、解体場面の目的は、単に観客を驚かせることではありません。

    レフンは、犯罪や暴力が格好よいものとして売り直されることへの反発から、あえて人間性を奪うような場面を撮ったと語っています。

    死体が肉と骨へ変わっていくところまで見せることで、暴力から爽快感や格好よさを取り除いたのです。

    その過激な場面の後に置かれるのが、夜明けの静けさです。

    ミロは娘の家へ戻り、短い会話を交わします。そして空のプールを見つめながら、ひとりで煙草を吸う。

    地獄のような後始末を終えても、日常は何事もなかったように続きます。

    この落差が、三部作の最後の画面になっています。

    まとめ|全員が負けても、人間は残る

    冒頭の問いに戻ります。

    『プッシャー』三部作を通して、何が描かれていたのか。

    答えは、レフン自身の言葉にあります。

    幸福なギャングは存在しない。最後には全員が負ける。

    第1作は、返せない借金によって逃げ道を失うフランクの映画でした。

    第2作は、父に認められたいトニーが、自分の子どもを引き受けるまでの映画でした。

    そして第3作は、二人を追い詰める側だったミロもまた、老いと借金と依存に追われていることを明らかにします。

    一番怖かった男が、一番惨めな一日を過ごす。

    だからこそ、第3作で三部作全体が収まるべき場所に収まったという、レフンの言葉にも納得できます。

    勝者のいない三部作を観て、それでも観てよかったと思えるのは、負けていく人々が最後まで人間として描かれているからだと思います。

    恐怖の対象だったミロにも、断薬の誓いがあり、娘への愛情があり、若い世代に追い越される焦りがあります。

    だからといって、彼の罪が軽くなるわけではありません。

    善人へと救済するのではなく、悪人にも人間の顔があることを見せる。

    犯罪映画の格好よさを手放した先に、人間の顔だけが残ります。

    ミケルセンの記念上映の最終作に、ミケルセンはいない。

    しかし三部作を締めくくるには、ミロの顔が必要でした。

    可能であれば、3本を続けて観ることをおすすめします。

    参考資料

  • 映画『プッシャー』|映画学校を蹴った24歳が撮ったデビュー作

    2026年5月1日から、「北欧の至宝 マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」の特別企画として、『プッシャー』三部作の4Kデジタル修復版が劇場公開されました。マッツ・ミケルセンの長編映画デビュー30周年を記念した上映です(公式サイト/配給シンカ)。

    私はこの機会に、三部作をまとめて観ました。

    その第1作が、1996年公開の『プッシャー』(Pusher)です。

    映画『プッシャー』

    監督はニコラス・ウィンディング・レフン。24歳で映画学校への入学を辞退して制作に踏み出した、長編デビュー作でした。そしてマッツ・ミケルセンにとっても、本作が映画デビュー作です。

    観て驚いたのは、そのミケルセンが主役ではなく、しかも中盤で物語から退場してしまうことでした。

    今でこそ「北欧の至宝」と呼ばれる俳優です。しかし本作の主人公は、キム・ボドゥニア演じる麻薬密売人フランク。ミケルセンが演じるトニーは、その相棒にすぎません。

    考えてみれば、不思議なことではありません。ミケルセンにとっても映画デビュー作なのだから、最初から主演を任されるとは限らない。

    それでも、出番の少ないトニーが強烈に記憶に残ります。

    この記事では、この驚きを入り口に、レフンのデビュー作としての本作の成り立ちと、脇役でありながら主演を食ってしまうトニーの人物造形を見ていきます。

    三部作の全体像は続編のレビューに譲り、ここでは第1作だけを論じます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心と結末まで踏み込んでいます。トニーの退場や幕切れにも具体的に触れるため、未見の方はご注意ください。

    あらすじ|返せない借金と、狭くなる逃げ道

    舞台はコペンハーゲン。フランク(キム・ボドゥニア)は麻薬の売人です。原題の「Pusher」は、英語で麻薬の売人を指します。

    フランクは相棒のトニー(マッツ・ミケルセン)と下品な与太話を交わしながら、麻薬を売って暮らしています。

    その日常が、一件の大口取引によって崩れます。

    取引の最中に警察が踏み込み、フランクは預かっていた麻薬を失います。残ったのは、セルビア人の麻薬王ミロ(ズラッコ・ブリッチ)への多額の借金だけでした。

    そこから描かれるのは、フランクにとって最悪の一週間です。

    返済期限が迫るなか、フランクは金をつくるために友人を殴り、恋人のヴィク(ローラ・ドライスベイク)を裏切ります。さらに、警察に情報を漏らしたのではないかと疑ったトニーを、バットで滅多打ちにします。

    しかし、どれだけ暴力を振るっても状況は好転しません。

    最後にはヴィクにも金を持ち逃げされ、ミロの手下が迫るなか、フランクはひとり取り残されます。

    テーマ|幸福なギャングはいない

    華やかな裏社会を描かない

    レフンは2026年のインタビューで、本作の人間観を一言で表しています。

    幸福なギャングなどというものは存在しない
    (There’s no such thing as a happy gangster)

    Screen Slate

    同じインタビューで、レフンは犯罪そのものには興味がなく、犯罪的な環境に置かれた人々が、与えられた状況のなかでどう生きるかに興味があったと語っています。

    ギャング映画につきものの華やかさは、本作にはありません。

    成り上がりも、仲間同士の固い結束も、様式化された銃撃戦もない。あるのは返せない借金と、一日ごとに狭くなっていく逃げ道だけです。

    裏社会に生きることは、自由になることではありません。むしろ、暴力と金に縛られ、選択肢を失っていくことなのです。

    転落は、選択の積み重ねとして起きる

    フランクは、最初から破滅を望んでいるわけではありません。

    特別に残虐な悪人でもない。むしろ、決断を先送りし続ける男です。

    友人との関係を守るか、金を取り立てるか。恋人と逃げるか、借金を返すか。トニーを信じるか、裏切り者として制裁するか。

    その分かれ道に立つたび、フランクは目の前の危機を乗り切るために、人間関係を切り捨てます。

    一つひとつの判断には、彼なりの理由があるのでしょう。しかし、その選択を重ねた結果として、フランクは誰にも頼れない状態へ追い込まれていきます。

    本作の転落は、決定的な一度の過ちではありません。

    小さな選択を繰り返した末に、気づけば逃げ道がなくなっている。その過程こそが、「幸福なギャングはいない」という言葉の中身なのだと思います。

    結末も、同じ考え方で作られています。

    フランクが殺されるところも、逃げ切るところも描かれません。映画は、すべてを失った男の顔で止まります。

    破滅という結果を見せるのではなく、そこへ至るまでに何を捨てたのかを見せる。だからこそ、あの幕切れには重さがあります。

    作品の成り立ち|映画学校を蹴った24歳

    本作の荒々しさは、その成り立ちと切り離せません。

    レフンは24歳のとき、デンマーク国立映画学校への入学を認められていました。しかし入学を辞退し、出願のために作った短編を長編映画へ発展させる道を選びます。

    それが『プッシャー』です。

    2026年のインタビューで、レフンはこの決断を、24歳だからこそ持てた傲慢さによるものだったと振り返っています。

    しかも、長編映画の監督実績が一つもない状態で、約70万ドルの政府助成を獲得しました。

    本人によれば、実績欄がほとんど白紙の申請書で、大金を求めたようなものだったそうです。それが認められたのは、今振り返っても信じられないほど幸運だったと語っています(Screen Slate)。

    映画学校で技術を身につけてから撮るのではなく、先に映画を撮ってしまう。

    レフンは第1作について、楽器の演奏方法を知らないままアルバムを作るようなものだったとも話しています。技術より先にあったのは、態度と反抗心でした。

    その無謀さがなければ、この映画は存在しなかったでしょう。

    同時に、経験の乏しさを隠そうとしなかったことが、本作の生々しさにつながっています。デビュー作ならではの未完成さが、欠点ではなく映画の力になっているのです。

    キャラクター造形|脇役が、主演を食う

    トニー(マッツ・ミケルセン)——「RESPECT」のタトゥーと虚勢

    私が最も驚いた人物、トニーから見ていきます。

    トニーは主役ではありません。米国の映画メディアColliderも、第1作の主演はキム・ボドゥニアであり、ミケルセンの出番はファンが期待するほど多くないと指摘しています(Collider)。

    しかも中盤には、警察に情報を漏らしたのではないかと疑われ、フランクからバットで滅多打ちにされて退場します。

    恐ろしいのは、その疑いが本当だったのか、最後まではっきりしないことです。

    真相が分からないまま、制裁だけが実行される。それがフランクとトニーの生きる世界です。

    ところが、この脇役が一番記憶に残ります。

    剃り上げた後頭部に彫られた「RESPECT」の文字。全身を覆う威嚇的なタトゥー。落ち着きなくまくし立てる話し方。大げさな身ぶり。

    Colliderはトニーを、実際には度胸がないため、外見でそれを過剰に補おうとしている男だと評しています。

    尊敬という言葉を自分の頭に彫って歩く男は、裏を返せば、誰からも尊敬されていない男です。

    虚勢を張れば張るほど、その下にある弱さが見えてしまう。

    同記事は、フランクがトニーと並ぶと、かえって気弱に見えるとも指摘しています。出番では主演に及ばなくても、画面に現れた瞬間の存在感では負けていません。

    脇役が主演を食ってしまう瞬間が、確かに残っています。

    監督だけは、スターになることを見抜いていた

    キャスティングの経緯を知ると、この配役はさらに興味深く見えてきます。

    ミケルセンはダンサーとして活動した後、当時は演劇学校の最終学年に在籍していました。まだ映画には一本も出演していません。

    オーディションでミケルセンを見つけたレフンは、後にこう振り返っています。

    この男が、もっと大きな存在になるのは明らかだった
    (it was a no brainer that this guy was made for something bigger)

    Screen Slate

    主演のボドゥニアは、当時すでにデンマークで成功していた俳優でした。映画初出演のミケルセンが相棒役に回ったのは、順当な配役だったのでしょう。

    ただし、レフンだけは最初から、この新人が脇役では終わらないことを感じ取っていました。

    そして、その予感は現実になります。

    第1作でバットに殴られて退場したトニーは、8年後の続編で主人公として帰ってくるのです。その物語については、『プッシャー2』のレビューに書きました。

    フランク(キム・ボドゥニア)——金を選び続けて孤立する男

    主演のボドゥニアが演じるフランクは、トニーとは対照的です。

    トニーのように、外見で自分を大きく見せようとはしません。口数は少なく、表情も乏しい。そのぶん、追い詰められていく過程が顔の変化だけで伝わってきます。

    序盤、トニーと与太話をしているときの緩んだ顔と、終盤の顔。同じ人物とは思えないほど遠く離れています。

    フランクの転落は、選択の積み重ねです。

    友人との関係も、恋人ヴィクとの関係も、金が必要になれば後回しにする。そのたびに、彼の周囲から人がいなくなっていきます。

    最後に残るのは、敵に囲まれ、誰にも助けを求められない一人の男です。

    トニーが虚勢の男なら、フランクは先送りの男です。

    どちらも本当は強くないのに、強い者として振る舞わなければ、この世界では生きていけない。大声で弱さを隠すトニーと、無表情で現実から目をそらすフランク。

    二人を並べることで、裏社会に生きる人間の弱さが、異なる方向から見えてきます。

    ミロ(ズラッコ・ブリッチ)——笑顔で逃げ道を塞ぐ借金取り

    フランクを追い詰めるミロも、典型的なギャング映画の悪役とは異なります。

    むやみに怒鳴らない。最初から暴力を振りかざすこともない。それどころか、手料理を振る舞いながら、にこやかに借金の話をします。

    しかし、その丁寧さの裏には、いつでも暴力へ移れる気配があります。

    声を荒らげる悪役よりも、礼儀正しく話しながら逃げ道を塞いでくるミロの方が、はるかに怖い。

    フランクにとってミロは、殴り合って倒せる相手ではありません。借金という論理によって、少しずつ行動の自由を奪っていく存在です。

    「幸福なギャングはいない」という本作の世界で、一見すると最も余裕があり、幸福そうに振る舞っているのがミロだという皮肉も効いています。

    もちろん、その内側に何があるのかは、第3作『プッシャー3』で描かれることになります。

    映画技法|デビュー作の条件が、そのまま様式になる

    手持ちカメラが映す「生活圏」としての裏社会

    本作の撮影は、手持ちカメラが中心です。

    カメラは記録映画のように人物を追いかけ、コペンハーゲンの街や狭い部屋、バーの内部を歩き回ります。

    そこで映し出される裏社会は、映画のために作り込まれた舞台ではありません。登場人物たちが実際に寝起きし、金を稼ぎ、暴力を振るっている生活圏に見えます。

    人物を決めの構図で格好よく見せる撮り方とは、方向が逆です。

    フランクが街を移動すれば、カメラもその後を追う。借金に追われる一週間を、観客も同じ目線の高さで走らされます。

    逃げ道が狭くなっていく息苦しさの少なくない部分は、この撮り方から生まれていると感じました。

    映画俳優になる前の顔

    キャスティングも、この生々しさを支えています。

    主演のボドゥニアはすでに知られた俳優でしたが、ミケルセンにとっては初めての映画です。ミロを演じたズラッコ・ブリッチも、飲食店で働きながら実験演劇に参加していたところを、オーディションで見いだされました。

    レフン自身も、長編映画を撮ったことがありません。

    映画監督になる前のレフンが、映画スターになる前のミケルセンとブリッチを撮っている。その未完成さが、コペンハーゲンのチンピラたちの危うさと重なります。

    本作は、経験や予算の不足を、洗練された映像で覆い隠そうとはしません。

    手持ちカメラの揺れも、暗い画面も、俳優たちの荒々しい演技も、そのまま作品の様式にしてしまう。

    映画学校を蹴った24歳の傲慢さは、画面の上では、生々しい犯罪映画として実を結んでいます。

    まとめ|「大役はもらえない」の、その先

    冒頭の驚きに戻ります。

    「北欧の至宝」マッツ・ミケルセンは、映画デビュー作では主役ではなく、物語の途中で退場する脇役でした。

    主演は当時すでに成功していたボドゥニア。映画初出演のミケルセンは、その相棒役です。順当な配置だったのでしょう。

    ところが『プッシャー』三部作は、後からその配置を裏返していきます。

    第2作ではトニーが主人公となり、第3作ではミロが主人公になる。第1作でフランクの周囲に置かれていた人物たちが、続編では物語の中心に移り、それぞれが抱えていた孤独を見せていきます。

    だから、三部作を一挙上映で観ることには、単なる回顧以上の面白さがありました。

    第1作では脇役だった新人が、「もっと大きな存在になる」という監督の予感を、続く作品のなかで実現していく。その過程を、観客は数本の映画を通して目撃できます。

    『プッシャー』単体で観ても、選択の積み重ねによって転落していく男の一週間として、力のある犯罪映画です。

    しかし私にとっては、それだけではありません。

    映画学校を蹴った24歳の監督が、まだ何者でもなかった俳優を見つけた映画。そして「北欧の至宝」の最初の姿が、「RESPECT」と頭に彫った虚勢だらけのチンピラだったという、幸福な驚きの一本になりました。

    参考資料