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  • 映画『サンキュー、チャック』|「なぜ」を説明するスティーブン・キング

    スティーブン・キングは『書くことについて』で、『ザ・スタンド』の結末について語っています。

    物語の最後、人間は過ちから学ぶのかと問われた登場人物は、「わからない」と答えます。キングは、もっと明快な言葉を探したそうです。しかし、自分でも信じていない教訓を置くことはできなかった。

    原文では、こう書いています。

    Sometimes the book gives you answers, but not always.

    物語が答えを与えることもある。しかし、いつもそうとは限らない。

    映画『サンキュー、チャック』

    キングは、物語に答えがないとき、作者の都合でそれらしい結論を付け加えません。テーマが十分に伝わっていれば、そこから何を読み取るかは読者に委ねればよいと考えています。

    この創作論を踏まえると、「キングは説明しない作家だ」という私の見方は、少し言い換える必要があります。

    キングは、説明すること自体を避けているわけではありません。物語の中に存在しない答えを、無理に作らないのです。

    化け物がなぜ存在するのか。町がなぜ呪われているのか。キングのホラーでは、そうした核心が明かされないことがあります。説明がないからこそ、理解できないものが恐怖として残る。

    ところが、『サンキュー、チャック』(The Life of Chuck)は違いました。

    本作では、「なぜそれが起きているのか」が物語の核心そのものです。世界がなぜ終わるのか。チャックとは誰なのか。街中に掲げられた感謝の言葉は、何を意味しているのか。

    映画は、これらの疑問に答えます。

    観ながら思い出したのは、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』『スタンド・バイ・ミー』でした。ホラーではないキング原作の映画に共通する何かが、本作にもあります。

    それは何なのか。

    この記事では、『書くことについて』で語られたキングの創作論を手がかりに、「ファンタジー作家としてのスティーブン・キング」という言葉に、自分なりの定義を与えてみます。

    原作は、キングが2020年の中編集『If It Bleeds』に収めた同名中編です。監督・脚本・編集はマイク・フラナガン。主演はトム・ヒドルストン。2024年9月のトロント国際映画祭でプレミア上映され、最高賞にあたる観客賞を受賞しました(英語版Wikipedia)。

    日本では2026年5月1日に、ギャガと松竹の配給で公開されました。上映時間は111分です(映画.com)。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心まで扱います。

    第3幕で提示される謎の正体、つまり映画の種明かしと結末に触れます。本作は、謎を知らずに観るかどうかで体験が大きく変わる作品です。未見の方は、鑑賞後にお読みください。

    あらすじ|世界の終わりから、少年時代へ

    本作は三つの幕を、時間をさかのぼる順番で語ります。

    最初に描かれる第3幕では、世界が終わりつつあります。

    カリフォルニアが海に沈み、インターネットが機能を停止し、夜空から星が消えていく。そんな中、街頭の看板やテレビに、謎の広告があふれ始めます。

    「チャールズ・クランツ。素晴らしき39年をありがとう」

    学校教師のマーティ(キウェテル・イジョフォー)は、元妻で看護師のフェリシア(カレン・ギラン)と再会します。二人は、誰も知らない「チャック」への感謝が世界を覆っていく異常を見つめます。

    やがて明かされるのは、この世界そのものの正体です。

    崩壊している世界は、脳腫瘍で死につつある39歳の会計士、チャック・クランツ(トム・ヒドルストン)の内側に存在する宇宙でした。

    チャックが死ぬから、彼の中にあった世界も終わっていくのです。

    第2幕は、その9か月前。

    出張先の路上で、チャックはドラマーの演奏に足を止めます。ビートに誘われるまま、見知らぬ女性と踊り始める。人生で最も輝いた数分間です。

    最後に描かれる第1幕は、チャックの少年時代です。

    両親を亡くしたチャック(ベンジャミン・パジャック)は、祖父母に育てられます。祖母からダンスを、祖父から会計士として生きる堅実さを受け継ぎます。

    そして、祖父が固く封印していた屋根裏の小塔に入り、自分の未来の死を目にします。

    それでも少年は、こう宣言します。

    私は素晴らしい。素晴らしくある資格がある。私は多数を含んでいる——。

    その言葉で、映画は終わります。

    テーマ|答えることと、教訓にすることは違う

    逆順の三幕が、謎に答えていく

    第3幕だけを観れば、本作は説明のない終末映画です。

    なぜ世界は壊れているのか。チャックとは誰なのか。なぜ誰も知らない男への感謝が、街中に掲げられているのか。

    ホラーであれば、この「なぜ」は最後まで放置され、理解できないこと自体が恐怖として機能したかもしれません。

    しかし本作は、残りの二幕をまるごと答えに使います。

    世界の終わりという結果を先に見せ、そこからチャックの人生という原因へさかのぼっていく。謎を提示したあとに、人生ひとつぶんの答えを差し出す構造です。

    重要なのは、この構造がフラナガン監督による脚色ではなく、キングの原作にもともと備わっていたことです。

    原作の中編も、三つの幕を逆順に配置しています。各幕には「Thanks, Chuck」「Buskers」「I Contain Multitudes」という題が付けられています(英語版Wikipedia)。

    フラナガンは、映画化にあたって変えたくなかったものとして、真っ先に構成を挙げています。構成を変えることは「選択肢になかった」と語りました(Collider)。

    つまり、「なぜ」への答えを物語の中心に置いたのは、映画版の工夫ではありません。キング自身の設計です。

    『書くことについて』の言葉を借りるなら、この物語はキングに答えを与えたのでしょう。

    ただし、本作が答えるのは、世界が終わる仕組みです。

    人は何のために生きるのか。何を成し遂げれば、人生に価値が生まれるのか。そうした問いに、ひとつの教訓を与えるわけではありません。

    世界がなぜ終わるのかは説明する。

    しかし、人生をどう生きるべきかは決めつけない。

    答えることと、教訓にすることは違います。

    答えの中心にある、ホイットマンの一行

    本作が差し出す答えの中心にあるのは、ウォルト・ホイットマンの詩『ぼく自身の歌』の一節です。

    私は多数を含んでいる。

    人は誰でも、記憶と経験からできた宇宙をひとつ、内側に抱えている。だから一人の人間が死ぬとき、ひとつの宇宙が終わる。

    第3幕で描かれる黙示録は、この一行を文字どおり映像にしたものです。

    大切な人を亡くしたとき、私たちは「世界が終わったようだ」と言います。それは通常、喪失の大きさを表す比喩です。

    本作は、その比喩を現実の出来事として画面に映します。

    ここで示される答えは、科学的な説明ではありません。

    脳腫瘍によって幻覚を見ている、という話でもなければ、チャックが特別な超能力を持っている、という話でもありません。

    一人の人間の内側には、ひとつの世界がある。

    本作は、その感覚をファンタジーによって事実に変えています。

    不思議な出来事は起きます。しかし、その不思議は観客を怖がらせるためのものではありません。一人の平凡な男の39年間に、「宇宙ひとつぶんの重さ」を与えるために使われています。

    説明しても、意味は観客に残される

    本作は、世界の正体を明かします。

    それでも、すべてを説明し切るわけではありません。

    なぜ、チャックの中にこの世界があるのか。人間の意識は本当に宇宙なのか。マーティやフェリシアは、どのようにチャックの記憶と結び付いているのか。

    こうした仕組みを、映画は論理的に解説しません。

    物語上の謎には答えますが、その答えが何を意味するかは、観客に委ねています。

    『書くことについて』でキングは、『ザ・スタンド』には読者へ教えるべき「教訓」がないと述べています。テーマが十分にはっきりしていれば、読者がそこから自分なりの結論を導けばよいという考えです。

    『サンキュー、チャック』も同じです。

    映画が示すのは、平凡な一人の人間にも、世界ひとつぶんの記憶と経験があるというイメージです。

    そのイメージを、人生の肯定と受け取るのか。死の恐怖を和らげる物語と受け取るのか。あるいは、あまりに周到に設計された感動だと感じるのか。

    そこから先は、観客の側に残されています。

    「ファンタジー作家キング」の定義

    ここで、冒頭に挙げた三つの作品に戻ります。

    『ショーシャンクの空に』と『スタンド・バイ・ミー』の原作は、キングの中編集『恐怖の四季』(1982年)に収録されています。

    英語版Wikipediaによれば、キングは「ホラーしか書けない作家だと思われること」を懸念し、超自然現象を中心としない中編をまとめることで、意識的に別の顔を示そうとしました(Wikipedia)。

    つまり、「非ホラーのキング」は、偶然生まれた側面ではありません。キング自身が長く書き続けてきた、もうひとつの作家性です。

    本作も中編集に収められた非ホラー中編の映画化です。その意味では、『ショーシャンクの空に』や『スタンド・バイ・ミー』と同じ棚に置くことができます。

    ただし、並べてみると違いもあります。

    『スタンド・バイ・ミー』と『ショーシャンクの空に』には、超自然的な要素がほとんどありません。一方、『グリーンマイル』と本作には、はっきりと不思議な出来事が登場します。

    したがって、これらの作品を結ぶものは、超自然現象の有無ではありません。

    私の定義はこうです。

    不思議な出来事が、恐怖ではなく、人間の内側にある重さを目に見えるものにするために使われていること。

    『グリーンマイル』の奇跡は、人間の尊厳を描くためにあります。本作の黙示録は、一人の男の人生に宇宙ひとつぶんの重さを与えるためにあります。

    怖がらせる道具にもなり得る不思議を、死の受容や人生の肯定へ向けて使う。

    それが、本作を観て私が考えた「ファンタジー作家としてのスティーブン・キング」です。

    フラナガン監督も、キングのホラーが機能するのは、登場人物への強い共感があるからだと語っています。また、優れたキング作品の中心にいるのはモンスターではなく、それに向き合う人々だと説明しています(TheWrap)。

    ホラーでも、ファンタジーでも、キングの物語の中心には人間への共感があります。

    その共感を恐怖へ向ければホラーになる。

    死の受容や人生の肯定へ向ければ、本作のようなファンタジーになる。

    同じ作家の、二つの顔です。

    キャラクター造形|一人の男を、宇宙として描く

    三人のチャック

    チャックの39年間は、三人の俳優によって演じ分けられます。

    少年期のベンジャミン・パジャック、青年期のジェイコブ・トレンブレイ、成人期のトム・ヒドルストンです。

    主人公は英雄ではありません。職業は会計士です。

    堅実な仕事を続けながら、幼い頃に覚えたダンスへの情熱を胸の奥にしまっている。その平凡な人生が、第3幕では宇宙まるごとの重さで扱われます。

    平凡な男の内側にも宇宙がある。

    三人の俳優がひとつの人生を演じる構成は、「私は多数を含んでいる」という言葉を、人物造形の側から支えています。

    マーティとフェリシア|観客の「なぜ」を代弁する二人

    第3幕の視点人物は、チャック本人ではありません。

    学校教師のマーティと、看護師のフェリシアです。

    二人は、日常の仕事を持つ普通の人間として世界の終わりを経験します。観客と同じ場所に立ち、観客と同じように「なぜ」と問い続ける役回りです。

    種明かしのあとで振り返ると、二人はチャックの内側にある世界の住人だったことが分かります。

    謎を見つめていた人物が、実は答えを構成する一部でもあった。

    この二重性が、第3幕の終末とチャックの人生を結び付けています。

    そして二人にも、それぞれの仕事や関係や後悔があります。

    チャックの中にいる人物たちもまた、単なる背景ではありません。彼ら自身が複数の記憶と感情を抱えています。

    チャックの中に世界があり、その世界に生きる人々の中にも、それぞれの世界がある。

    「私は多数を含んでいる」という言葉は、入れ子のように広がっていきます。

    祖父母|会計とダンス、禁止と継承

    祖父アルビー(マーク・ハミル)は、チャックに会計士としての堅実さを教えます。同時に、屋根裏の小塔を「入ってはいけない場所」として封印します。

    祖母サラは、チャックにダンスの喜びを教えます。

    数字と身体。堅実さと歓喜。禁止と継承。

    チャックの内側にある「多数」は、祖父母それぞれから受け継いだものによって形作られているように見えます。

    屋根裏の小塔は、自分の死を予見する場所です。

    祖父は、死を見ないように扉を閉ざします。

    チャックは、その扉を開け、自分の死を知ります。

    それでも生きる。

    死を知らなかったから人生を肯定できたのではありません。死を知ったあとでも、自分には素晴らしくある資格があると宣言する。

    祖父の禁止と少年チャックの選択の対比が、映画の結末を形作っています。

    映画技法|幕ごとに顔を変え、最後にひとつの人生になる

    三つの幕、三つのジャンル

    第3幕は終末映画です。

    第2幕は、ミュージカルのような路上のダンス。

    第1幕は、少年の成長譚です。

    幕が変わるたびに、映画はジャンルの顔を変えます。

    一見ばらばらに見える三つの物語が、最後には「一人の人生」として統合される。この構成そのものが、「私は多数を含んでいる」という言葉の反復にも見えます。

    世界の終わりも、路上のダンスも、少年時代の記憶も、すべてがチャックという一人の人間の中にある。

    映画の形式そのものが、作品のテーマを体現しています。

    第2幕のダンス|説明できないものを、身体で見せる

    映画の感情的な頂点は、世界の正体が明かされる瞬間ではありません。

    物語の真ん中に置かれた、数分間のダンスです。

    死の9か月前、チャックは路上で演奏するドラマーのビートに誘われ、見知らぬ女性と踊ります。

    大きな伏線も、どんでん返しもありません。ただ踊るだけの場面です。

    原作でも、この幕は「Buskers(大道芸人たち)」として独立しています(英語版Wikipedia)。

    なぜ、この数分間に価値があるのか。

    映画は説明しません。

    人生の価値は大きな達成ではなく、何気ない瞬間に宿るのだと、台詞で教えることもしません。

    ただ、踊るチャックを見せます。

    ここでは、説明するキングではなく、読者や観客に意味を委ねるキングが現れます。

    偶然始まったダンス。見知らぬ人と呼吸が合った瞬間。忘れていた身体の喜び。

    それが何を意味するのかは、観客が自分の経験を重ねて考えるしかありません。

    世界の仕組みには答える。

    しかし、生きる喜びは説明しない。

    第2幕のダンスは、本作における二つの姿勢の境目に置かれています。

    語りと「織物」

    ナレーションを担当するのは、ニック・オファーマンです。

    原作の地の文を思わせる語りが全編を包み込み、映画に読み聞かせのような手触りを与えています(英語版Wikipedia)。

    フラナガンは、原作の構成を守りながら、映画にしかできない表現を加えることについて、「より豊かなタペストリーを作る機会になった」と語っています(Collider)。

    早い段階で何気なく映ったものが、後の幕で別の意味を持つ。

    最初に観たときには世界の終わりにしか見えなかったものが、チャックの少年時代を知ったあとでは、一人の人生の記憶に見えてくる。

    逆順の構成は、謎を解くためだけの仕掛けではありません。

    同じ映像の意味を、後から変えるための仕掛けです。

    観客は時間をさかのぼりながら、世界の終わりを、一人の人生へと読み替えていきます。

    反対意見|答えを示しすぎているのではないか

    本作の評価は、大きく分かれています。

    トロント国際映画祭では観客賞を受賞し、Washington Postは年間ベスト作品のひとつに挙げました。

    一方で、Varietyは厳しく批判し、New York Timesの批評家も、原作を映像化したこと自体に疑問を示しました。いずれも英語版Wikipediaの受容節で確認したもので、原文についてはペイウォールなどのため確認できていません。

    私が本作の美点として挙げた「なぜに答えること」は、そのまま批判の対象にもなります。

    答えが用意されているということは、感動へ導く設計図が見えやすいということでもあるからです。

    世界の終わりも、ホイットマンの詩も、祖父母との生活も、路上のダンスも、すべてがチャックの人生を肯定する方向へ配置されています。

    そこに感動する観客もいれば、作り手の意図が透けて見えると感じる観客もいるでしょう。

    『書くことについて』でキングは、テーマが十分に伝われば、読者が自分なりの結論を出せばよいと書いています。

    その基準で考えると、本作は少し親切すぎるのかもしれません。

    世界の正体を明かし、詩の意味を映像化し、ナレーションで物語を包み込む。観客が別の結論へ進まないように、何重にも道筋が敷かれているようにも見えます。

    「私は多数を含んでいる」という映画でありながら、受け取り方をひとつにまとめすぎている。

    そう感じる人がいても不思議ではありません。

    ただし、第2幕のダンスだけは、最後まで説明されません。

    チャックがなぜ踊ったのか。あの数分間が、彼の人生でどれほど大きな意味を持ったのか。

    映画は結論を述べず、身体の動きだけを残します。

    本作が単なる教訓話にならずに済んでいるのは、この説明できない時間が真ん中に置かれているからだと思います。

    まとめ|この物語は、キングに答えを与えた

    冒頭の話に戻ります。

    スティーブン・キングは、説明しない作家なのではありません。

    物語に答えがないとき、信じてもいない答えを書かない作家です。

    『ザ・スタンド』では、人間が過ちから学ぶのかという問いに、「わからない」と答えました。

    一方、『サンキュー、チャック』では、世界がなぜ終わるのかという問いに答えます。

    一人の男が死ぬからです。

    その男の中には、記憶と経験からできた宇宙があったからです。

    ただし、キングは、人生をどう生きるべきかという教訓までは用意しません。

    平凡な仕事。祖父母から受け継いだもの。閉ざされた屋根裏。偶然始まったダンス。

    それらをどう受け取るかは、観客に残されています。

    『ショーシャンクの空に』『スタンド・バイ・ミー』『グリーンマイル』、そして『サンキュー、チャック』。

    これらに共通するのは、超自然現象の有無ではありません。

    不思議な出来事や物語の仕掛けが、人間の内側にある重さを見えるものにするために使われていることです。

    それが、私の考える「ファンタジー作家としてのスティーブン・キング」です。

    同じ人間への共感を、恐怖へ向ければホラーになる。

    死の受容や人生の肯定へ向ければ、本作のようなファンタジーになる。

    「サンキュー、チャック」という邦題の一言は、映画を観終えた私たちが、平凡なひとつの人生に向かって告げる言葉になっています。

    参考資料

  • 映画『ランニング・マン』|原作に忠実な再映画化、その代償と価値

    2025年公開の『ランニング・マン』(The Running Man)は、スティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で1982年に発表した小説『バトルランナー』の、二度目の映画化です。

    監督はエドガー・ライト、主演はグレン・パウエル。日本では2026年1月30日に、東和ピクチャーズの配給で公開されました(Wikipedia日本語版)。

    1987年のアーノルド・シュワルツェネッガー主演版が、原作を大きく作り替えた映画だったのに対し、今回は原作への忠実さを打ち出した再映画化です(Wikipedia英語版)。

    本作を観て私が抱いた感想は、「エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい」というものでした。

    では、この「もう少し」の正体は何だったのでしょうか。

    単なるないものねだりなのか。それとも、映画の設計そのものに理由があるのか。

    監督と原作者の発言をたどりながら、考えていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、逃亡が本格化する物語の中盤までに触れます。

    結末と、そこへ至る終盤の展開は伏せています。未見の方も、物語の前提とゲームの仕組みを知る程度の内容としてお読みいただけます。

    あらすじ|娘の薬代のために、死のゲームへ

    舞台は、富裕層と貧困層にはっきり分断された近未来のアメリカです。

    ベン・リチャーズ(グレン・パウエル)は職を失い、幼い娘の治療費にも困っています。

    彼が賞金を目当てに応募するのが、国営テレビ局の人気リアリティショー「ランニング・マン」です。

    その実態は、殺人ハンターに30日間追われ続ける、命がけのゲームでした。

    生き延びれば巨額の賞金。捕まれば死です(Wikipedia日本語版)。

    リチャーズの逃亡は、全国へ中継されます。

    あらすじとして必要なのは、ここまでです。

    テーマ|2025年に現実が追いついた小説

    「想像もできなかった未来」に、現実がたどり着いた

    原作の物語は、2025年に設定されています。

    キングは英国映画協会(BFI)の対談で、『ランニング・マン』を書いた当時、2025年はあまりにも遠い未来で、頭の中で捉えることすらできなかったと振り返っています(BFI Sight and Sound)。

    その2025年に、二度目の映画化が公開されました。

    原作の設定年と映画の公開年が重なったのは偶然かもしれません。しかし、この一致は、本作の意味を考えるうえで重要です。

    ライト監督は同じ対談で、原作の先見性について語っています。

    小説が描いたのは、「ランニング・マン」という一つの番組だけではありません。複数の番組を抱え、人々の生活全体を包み込むテレビネットワークでした。

    リアリティショーや配信サービスが日常になった現在だからこそ、この小説は現実味を持って迫ってきます。

    ライト監督が、いま原作に忠実な映画化へ取り組んだ理由も、そこにあったのだと思います。

    貧しい人間の死を、毎晩の娯楽に変える

    劇中の「ランニング・マン」は、貧しい男の命がけの逃亡を、毎晩の娯楽として放送します。

    本作の諷刺が向けられているのは、ゲームの残酷さだけではありません。

    人間の苦痛を映像に変え、視聴率や広告収入を生み出し、それを観客が消費し続ける仕組みそのものです。

    人が死ぬことよりも、それを番組として成立させてしまう社会のほうが恐ろしい。

    本作は、そうした世界を描いているように見えます。

    原作の「獰猛なユーモア」を選ぶ

    私の感想に直接つながるのが、映画全体の語り口です。

    ライト監督は原作について、「非常に陰惨なディストピア小説だが、獰猛なユーモアも持っている」と語っています(Film Stories)。

    ディストピアとは、管理や格差によって人間の自由が奪われた、暗い未来社会を描く物語です。

    ライト監督は参照作品として、『未来世紀ブラジル』や『ニューヨーク1997』を挙げています。

    悪夢のような社会を描きながら、娯楽映画として観客を走らせる。その方向を目指したと説明しています。

    つまり、本作が選んだ笑いは、『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』で見せた軽妙なギャグとは違います。

    悲惨な社会を、冷たく突き放して笑うブラックユーモアです。

    監督自身の笑いを付け加えるよりも、原作に備わっていた獰猛な笑いを生かすことが優先されています。

    原作者キングの承認

    完成した映画について、キングは明確に満足を示しています。

    BFIの対談では、「結果的に物事は本当にうまくいった。私の天使はエドガー・ライトだった」とまで語りました(BFI Sight and Sound)。

    脚本上の変更点についても、キング本人が承認したことが記録されています(Wikipedia英語版)。

    本作が掲げた「原作への忠実さ」は、宣伝上の言葉だけではありません。

    少なくとも原作者は、この再映画化を自分の小説に沿った作品として受け入れています。

    キャラクター造形|走る者、売る者、追う者

    本作の登場人物は、追われる者、それを見世物として売る者、そして追う者に分けられます。

    その役割自体が、作品のテーマを表しています。

    ベン・リチャーズ|等身大の逃亡者

    1987年版のリチャーズは、冤罪で追われる屈強な警官でした。

    最初から、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる強い男だったのです。

    一方、本作のリチャーズは、原作に沿った普通の労働者です。

    職を失い、娘の薬代に困り、賞金を得るために番組へ参加します。

    ライト監督は原作の魅力として、物語の視点が最初から最後までリチャーズに張り付いていることを挙げています(Film Stories)。

    観客を安全な場所に置かず、追われる側の視界へ引きずり込む。

    映画版にも、この構えが受け継がれています。

    グレン・パウエルについては、スターらしい存在感と、普通の人間らしさを同時に持っていると評価する批評があります(Gizmodo)。

    賞金のために走らされる労働者という役に、その両面がよく合っています。

    ダン・キリアンとボビー・T|メディアの二つの顔

    ジョシュ・ブローリン演じるダン・キリアンは、番組のプロデューサーです。

    コールマン・ドミンゴ演じるボビー・Tは、番組の司会者です。

    キリアンは、貧しい人間の死を視聴率と利益へ変える、経営側の顔です。

    ボビー・Tは、それを歓声と興奮へ変える、演出側の顔です。

    とりわけボビー・Tは、本作のブラックユーモアを最も強く背負う人物です。

    人が殺されるゲームを、明るく陽気な番組として盛り上げる。

    その司会ぶりこそ、映画の諷刺を最も分かりやすく示しています。

    エヴァン・マッコーン|社会のどこまでも追ってくる暴力

    リー・ペイスが演じるエヴァン・マッコーンは、リチャーズを追うハンターの中心人物です。

    1987年版のハンターは、地下アリーナの中で戦う、プロレスラーのような見世物の悪役でした。

    本作のマッコーンは違います。

    国中を移動しながらリチャーズを追跡する、本物の殺し屋として描かれます。

    暴力は、番組の舞台の中だけに存在するのではありません。

    社会のどこへ逃げても追ってきます。

    ゲームの舞台が全国へ広がったことと、ハンターの造形は対応しています。

    映画技法|逃亡の空間と、1987年版への目配せ

    地下アリーナから、全国規模の逃亡劇へ

    1987年版は、ゲームを地下アリーナという限られた空間に閉じ込めていました。

    一方、ライト版は原作に沿い、アメリカ全土を舞台にした逃亡劇として作られています。

    セットとロケーションは170カ所に及び、撮影は2024年11月から2025年3月まで、ロンドン、グラスゴー、ブルガリアで行われました(Film StoriesWikipedia英語版)。

    アリーナの外へ出れば安全、という世界ではありません。

    街も家も道路も、すべてが番組の舞台になります。

    社会全体がメディアに監視され、生活のあらゆる場所が見世物に変えられている。

    本作の広い空間設計は、その世界観を映像として成立させています。

    「ライトらしさ」は、笑いよりもリズムにある

    撮影監督は、『お嬢さん』などのパク・チャヌク監督作品や、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』で知られるチョン・ジョンフンです。

    音楽はスティーヴン・プライス、編集は長年ライト監督と組んできたポール・マクリスが担当しています(Wikipedia英語版)。

    本作では、ライト監督らしいギャグが前面には出てきません。

    それでも、監督らしさが失われたわけではありません。

    逃走と追跡を途切れさせず、場面を次々につないでいく速度感。音楽と映像を合わせながら、観客を前へ押し続ける編集。

    本作でライトらしさを探すなら、笑いの数よりも、このリズムにあるのだと思います。

    100ドル紙幣になったシュワルツェネッガー

    1987年版の主演、アーノルド・シュワルツェネッガーは、本作では劇中の100ドル紙幣の肖像として登場します。

    本人も、主演のグレン・パウエルに全面的な支持を伝えたと報じられています(Wikipedia英語版)。

    かつての主演俳優を、紙幣の顔として登場させる。

    これは単なるファンサービスではないように見えます。

    金のために人間が命を賭けて走る世界で、過去の勝者は通貨の象徴になっている。

    1987年版への目配せを、本作の金と権力の諷刺に組み込んだ演出です。

    まとめ|足りないのではなく、種類が違った

    冒頭の感想に戻ります。

    エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい。

    ここまで考えてみると、本作に笑いが足りなかったわけではありません。

    本作が選んだのは、ライト監督の過去作で見られた軽妙なギャグではなく、原作に備わっていた冷たく獰猛な諷刺でした(Film Stories)。

    『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』の笑いと、バックマン名義の原作にある笑いは、同じ「ユーモア」という言葉ではまとめきれません。

    私が感じた物足りなさの正体は、笑いの量ではなく、種類の違いでした。

    ライト監督のユーモアが減ったというより、今回ライト監督が選んだユーモアが、私の期待していたものとは違ったのです。

    この感想は、批評の分布とも重なっています。

    Rotten Tomatoesの批評家支持率は61%で、総評では、創意に富んだアクション映画を作ってきた監督の高い基準には届かないものの、滑らかな走りは保っていると評価されました(Wikipedia英語版)。

    製作費1億1,000万ドルに対し、世界興行収入は参照時点で6,900万ドルでした。

    批評と興行の両方で、大きな成功を収めたとは言いにくい結果です。

    一方、前半の勢いとパウエルの演技を評価し、問題は主に終盤の構成にあるとする好意的な批評もあります(Gizmodo)。

    本作の評価は、ユーモアだけで決まるものではありません。

    原作への忠実さを選んだ結果、監督固有の軽妙さが薄くなった。

    私はいま、それを単純な欠点ではなく、選択に伴う代償として捉えています。

    2025年という設定年に現実が追いついたその年に、原作の獰猛さを、獰猛なまま映画にする。

    その判断には、確かな価値がありました。

    その価値を認めたうえで、それでも「もう少し欲しかった」という感想は、正直なものとして残しておきます。

    参考資料