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  • 映画『プレデター:バッドランド』|最強の狩人はいかにして獲物になったか

    2025年公開の『プレデター:バッドランド』(Predator: Badlands)は、1987年の第1作から続くシリーズで初めて、プレデターを主人公に据えた映画です。

    日本では2025年11月7日に公開されました(20世紀スタジオ公式サイト)。

    監督は、『プレイ』(2022)でシリーズを立て直したダン・トラクテンバーグです。

    映画『プレデター:バッドランド』

    本作の出発点について、監督はこう語っています。

    シリーズで、まだやられていないことを考えていた。「どうしてプレデターはいつも負けるのか」という思いがあった。

    TheWrap

    私の感想は、一行で言えます。

    プレデターが狩られる側なのが新しい。

    ところが調べていくと、「プレデターが狩られる」という出来事そのものには、シリーズ内に前例があると気づきます。

    それでも本作は新しい。

    では、その新しさの正体は何なのでしょうか。

    この記事では、テーマ、キャラクター造形、映画技法の三つから確かめていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、結末まで扱います。

    父との決着、デクが持ち帰る戦利品、ラストカットの意味にも触れるため、未見の方はご注意ください。

    あらすじ|「弱者」と呼ばれた狩人

    プレデター——劇中の種族名ではヤウージャ——の母星で、一族の長ニョールは、最も小柄な息子デク(ディミトリアス・シュスター=コローマタンギ)を「弱者」と見なします。

    ニョールは長男クウェイに、弟を殺すよう命じます。

    しかし、クウェイは従いません。

    密かに弟を鍛え、宇宙船で逃がします。その代償として、クウェイは父に殺されます。

    一人になったデクは、戦士としての証を立てるため、父さえ恐れる不死身の捕食者カリスクを狩ろうとします。

    カリスクが生息しているのは、あらゆる動植物が獲物を狙う「死の惑星」ゲンナです。

    そこでデクは、探査中に大破し、下半身を失ったシンセのティア(エル・ファニング)と出会います。

    シンセとは、人間そっくりに作られた人造人間です。

    ゲンナには、ウェイランド・ユタニ社も調査隊を送り込んでいました。目的は、カリスクが持つ再生能力です。

    部隊を指揮するのは、ティアと同型の「姉妹」機テッサ。エル・ファニングが二役を演じています。

    デクは、カリスクの居場所を知るティアと手を組みます。

    旅の途中では、小さな生物バッドが二人に懐きます。しかし、バッドの正体は、デクが狙うカリスクの子どもでした。

    やがてデクとティアは、ウェイランド・ユタニ社の基地に囚われます。

    デクは一度逃げ出しますが、ティアとバッド、そして捕獲されたカリスクを助けるために戻ります。

    カリスクは最終的に命を落としますが、デクはティアとバッドを救い、テッサを倒します。

    母星へ帰還したデクは、テッサの頭部を戦利品として父に差し出します。

    しかしニョールは、デクを一族へ迎え入れようとしません。

    父子は一騎打ちとなり、デクが勝利します。デク自身は父にとどめを刺さず、自分にはすでに別の氏族があると宣言します。

    その直後、成長したバッドがニョールを殺します。

    デクが選んだ氏族は、ティアとバッドです。

    そしてラストでは、巨大なヤウージャの船が接近します。

    ティアに誰の船なのかと聞かれたデクは、母のものだと答えます。

    テーマ|「狩られる側」は三重になっている

    一族に狩られ、惑星に狩られ、企業に狩られる

    トラクテンバーグは、本作の前提を明確な「反転」として考えています。

    物語の中心にある前提を反転させたかった。今回はプレデターが別の惑星にいて、さまざまなものから狩られる側になり、生き延びるために知恵を使わなければならない。

    Gizmodo

    ただし、本作でデクが「狩られる側」になる構造は一つではありません。

    私には、三重に見えました。

    最初にデクを狩るのは、自分の一族です。

    父の掟では、弱い者は一族に不要です。デクは狩人として認められる以前に、排除されるべき獲物として扱われます。

    物語の最初の敵が、異星の怪物ではなく父親であることは、本作の性格をよく表しています。

    次に、惑星そのものがデクを狩ります。

    ゲンナでは、巨大な生物だけでなく、草や樹木まで獲物を殺そうとします。

    これまで人間を圧倒してきたプレデターが、食物連鎖の上位に立てない世界です。

    そして最後に、企業がデクを狩ります。

    ウェイランド・ユタニ社にとって、カリスクは再生能力を持つ研究資源です。

    デクもまた、回収して調査すべき未知の生物にすぎません。

    ヤウージャの狩りには、少なくとも戦士としての誇りや儀礼があります。

    一方、企業の捕獲には、相手への敬意がありません。生き物はすべて、利益を生む資源として扱われます。

    同じ「狩り」でも、デクと企業では意味が異なります。

    前例との違い——新しいのは出来事ではなく視点

    プレデターが人間に狩られ、敗れること自体は、本作が初めてではありません。

    1987年の第1作では、終盤にダッチが泥と罠を使い、追う者と追われる者の関係を反転させます。

    『プレイ』では、人間側の主人公ナルーが、プレデターの習性を理解して狩り切ります。

    つまり、出来事としての「狩られるプレデター」は、すでに描かれていました。

    本作で初めてなのは、その経験をプレデター自身の内側から描くことです。

    トラクテンバーグは、デクからこれまでのプレデターが持っていた有利な条件を奪い、その状態で何ができるのかを見たかったと語っています(SYFY Wire)。

    さらに、怪物であるプレデターを、どうすれば観客が応援できる主人公にできるのかを考えたと説明しています(TheWrap)。

    ただし、視点を移すだけでは、観客は怪物の内側へ入れません。

    プレデターが何を考え、何を恐れ、何を選ぶのかを理解するための通路が必要です。

    本作は、その通路を言葉と表情によって作りました。

    この点については、映画技法の章で改めて触れます。

    力の定義を書き換える——単独の証明から氏族へ

    デクがゲンナへ向かう目的は、カリスクを一人で狩り、父に強さを認めさせることです。

    つまり、物語の始まりでは、デクも父の価値観を受け入れています。

    弱者と呼ばれたことには反発していても、「一人で強い獲物を倒せば価値を証明できる」という掟そのものは疑っていません。

    ところが、ティアと行動し、バッドとの関係を築くうちに、力の意味が変わっていきます。

    ティアは、地球の狼を例に出します。

    狼は単独ではなく群れで狩りをし、群れの長は仲間を守る。

    この話を聞いたデクは、兄クウェイが自分を守るために父へ逆らったことを思い出します。

    それまでデクは、兄が自分を助けたことを、弱者への同情として受け止めていました。

    しかし、見方を変えれば、クウェイは一族で最も強い行動を選んだとも言えます。

    自分の安全より、守るべき相手を優先したからです。

    終盤、デクは一度脱出したにもかかわらず、ティアとバッドを助けるためにウェイランド・ユタニ社の基地へ戻ります。

    一人でカリスクを倒すことより、仲間を助けることを選ぶ。

    ここで、デクの考える強さは、単独の戦闘能力から、氏族を守る力へ変わります。

    父の掟を捨てても、狩りは捨てない

    本作の面白いところは、デクがヤウージャの文化を全面的に否定するわけではないことです。

    彼はカリスクを狩るという最初の目的を手放します。

    しかし、狩りそのものをやめたわけではありません。

    テッサを倒し、その頭部を戦利品として持ち帰ります。

    父との戦いにも勝ちます。

    デクが変えたのは、狩るという行為ではなく、誰を狩るのかという基準です。

    父の掟では、弱い者が獲物です。

    デクの新しい基準では、自分の氏族を脅かす者が獲物になります。

    ただし、父との決着は単純な「殺さないことで超える」という形ではありません。

    デク自身は、敗れた父にとどめを刺しません。父から一族へ戻るよう言われても拒み、自分には別の氏族があると宣言します。

    しかし、その直後にバッドが父を殺します。

    したがって、これは非暴力による解決ではありません。

    それでも、デクが父の首を自分の戦利品にせず、父の氏族へ戻らなかったことには意味があります。

    父を殺してその地位を奪うのではなく、父の一族そのものから離れる。

    その選択によって、デクは父の価値観の中で最強になるのではなく、別の価値観を持つ氏族を作ります。

    「それはもうプレデターではない」のか

    本作の評価が分かれるとすれば、最大の争点はここでしょう。

    怪物に感情移入させることは、怪物の魅力を損なうのではないか。

    プレデターは、本来、正体や感情が分からないからこそ恐ろしい存在でした。

    言葉を話し、家族に傷つけられ、仲間を作り、成長する主人公にすれば、これまでの恐怖は失われます。

    英紙Guardianのピーター・ブラッドショーは、人間化され、共感の対象となったプレデターについて、「それはもはやプレデターではない」と批判しました(Rotten Tomatoes Editorial)。

    トラクテンバーグも、この懸念は理解していたようです。

    「プレデターの精神科医をご紹介します」ということをやっているわけではない。牙を抜いているわけでもない。

    TheWrap

    監督が強調しているのは、プレデターを善良な人間のように作り替えたわけではない、ということです。

    デクは最後まで戦士です。

    問題を話し合いで解決するのではなく、敵を狩り、頭部を戦利品として持ち帰ります。

    仲間を得たからといって、暴力を捨てるわけではありません。

    本作は、プレデターを飼い慣らされた怪物へ変えたのではなく、狩る目的を自分で選ぶ怪物へ変えています。

    私は、そこに本作を支持できる線があると思います。

    PG-13という新しい入口

    この論争と結びついているのが、本作のレーティングです。

    本作は、実写の単独『プレデター』映画として初めて、全米でPG-13指定となりました。

    トラクテンバーグは、これまで『スター・ウォーズ』やマーベル作品を中心に観てきた若い観客にとって、より獰猛なSF映画への入口にしたかったと説明しています(TheWrap)。

    対象年齢を広げ、会話のできる主人公と相棒、かわいらしい小動物を置く。

    この選択だけを見れば、シリーズを家族向けに薄めたようにも見えます。

    しかし、人間が登場しないため、流れる血の色も異なります。

    その条件を利用して、アクションの激しさ自体は保っています。

    牙を抜かずに入口を広げる。

    その難しい調整を試みた作品でもあります。

    キャラクター造形|「規格外」たちが役割を分け合う

    デク|獲物の側から、狩りを学び直す主人公

    デクは、一族の基準では「弱者」であり、排除されるべき獲物です。

    一方、本人は狩人として認められたいと願っています。

    狩る者になりたいという欲望と、狩られる側の経験。

    その両方を一人で生きるのが、この主人公です。

    本作は、シリーズで初めて、プレデター自身の成長を物語の中心へ置きました。

    デクは、最初から優れた狩人ではありません。

    父や兄ほど大きくなく、装備も十分ではない。ゲンナの環境にも圧倒されます。

    だからこそ、観客はデクが何を学び、どう戦い方を変えるのかを追うことができます。

    最初は、一人で勝つことだけが強さだと考えている。

    最後には、氏族を守ることを強さとして選ぶ。

    この線が明確に通っているため、怪物が主人公でも、物語の方向を見失いません。

    ティアとテッサ|同じ機体から分かれた二つの生き方

    ティアは、探査中に下半身を失い、役に立たないものとして置き去りにされたシンセです。

    デクから見れば、壊れた道具にすぎません。

    しかし、ゲンナの生態を知り、会話ができるティアは、デクが生き延びるために欠かせない存在になります。

    トラクテンバーグは、人間ではなくシンセを相棒に選んだ理由について、プレデターと人間を組ませれば、人間側が物語の主役になってしまうと考えたと説明しています。

    そのうえで、壊れたC-3POを背負うチューバッカのような組み合わせを発想しました(TheWrap)。

    画面上でも、この二人は変わった姿になります。

    小柄なヤウージャの背中に、半身しかないシンセが括り付けられる。

    一体では不足している二人が、文字どおり組み合わさることで一人前に動きます。

    本作が描く「単独より氏族」という考えを、そのまま絵にしたような組み合わせです。

    一方、テッサはウェイランド・ユタニ社への忠誠を選びます。

    ティアと同じ機体でありながら、自分を会社の所有物として扱い、命令の遂行を最優先する。

    ティアは、壊れたことで会社の論理から外れ、自分の意思を持ち始めます。

    テッサは、壊されないために会社の論理へ従い続けます。

    同じ顔から、二つの生き方が分かれていく。

    この対比は、父の掟に従うヤウージャと、そこから離れるデクの関係にも重なります。

    クウェイとニョール|掟に背いた兄と、掟そのものの父

    クウェイは、父の掟へ最初に背いた人物です。

    弟を殺せと命じられながら、デクを鍛えて逃がします。

    そして、弟を守ったために父から殺されます。

    デクが最後に作る新しい氏族は、クウェイの選択の続きでもあります。

    弱い者を切り捨てるのではなく、守る。

    その考えを最初に行動で示したのは、デクではなく兄でした。

    一方のニョールは、最後まで変化しません。

    弱者は殺す。

    強い者だけが生き残る。

    狩りは一人で行う。

    ニョールは一人の父親である以上に、ヤウージャの古い掟そのものを体現する人物です。

    だから、デクが父に勝つだけでは、物語は終わりません。

    父の氏族へ戻ることを拒み、ティアとバッドを自分の氏族として選ぶ必要があります。

    カリスクとバッド|「究極の獲物」の正体

    カリスクは、不死身の頂点捕食者です。

    デクにとっては、自分の強さを証明するための「究極の獲物」でした。

    しかし実際のカリスクは、子どもを守る親でもあります。

    企業から捕獲され、再生能力を利用されようとする被害者でもあります。

    デクが狩ろうとした相手は、デク自身と同じく、より大きな力から狩られる側でした。

    この鏡像によって、狩りの意味がさらに書き換えられます。

    バッドは、その転換を起こす存在です。

    旅の途中で懐いてきた小さな生物が、カリスクの子どもだった。

    デクは、知らないうちに獲物の家族と氏族を作っていました。

    狩る側と狩られる側を分けていた境界が、ここで崩れます。

    そして最後には、バッドがデクの父を殺します。

    一族から獲物とされたデクが、自分の獲物だった生物の子と新しい氏族を作る。

    本作の反転が、最もはっきり表れる人物配置です。

    映画技法|反転を支える技術

    字幕付きのヤウージャ語|怪物に言葉を与える

    本作最大の技法的な挑戦は、プレデターを話す主人公にすることでした。

    デクたちは劇中、言語学者ブリットン・ワトキンスが構築したヤウージャ語を話します。

    観客は、その会話を字幕で読みます(Los Angeles Times)。

    これまでの作品でも、プレデターは人間の声をまねたり、断片的な音を発したりしてきました。

    しかし、自分たちの言語で会話し、その内容を観客が理解するのは本作が初めてです。

    ワトキンスは、過去作で使われた喉の奥の音をもとに、ヤウージャの口や喉の構造に合う発音体系を作りました。

    唇を持たないため、人間のような「マ」「バ」「ファ」といった音を使わない。

    文法や文字も含め、実際に運用できる言語として設計されています。

    怪物の映画が、字幕で異文化の会話を読む映画になる。

    この言語が、「狩られる側の内面」を成立させる土台になっています。

    ただし、設定の説明が物語を圧迫しないようにも配慮されています。

    トラクテンバーグは、続編が世界設定の細部ばかりに夢中になることを避け、あくまでデクの物語へ集中したかったと語っています(Collider)。

    スーツと表情|共感のための物理的な条件

    デクを演じるディミトリアス・シュスター=コローマタンギは、実際にクリーチャースーツを着て撮影へ参加しています。

    身体の動きは俳優の芝居を使い、顔はデジタル技術によって拡張されています。

    デザインには、シリーズ第1作からクリーチャー制作に携わってきたアレック・ギリスが参加しました。

    当初は、特殊メイクやアニマトロニクスだけで表情を作る方法も試されました。

    しかし、細かな感情を伝えるには、デジタル技術を組み合わせる方が適していると判断されます(Collider)。

    従来のプレデターは、表情を読めないことが恐怖につながっていました。

    本作では反対に、表情を読み取れることが必要です。

    兄を失った悲しみ。

    父への怒り。

    ティアへの不信と、そこから生まれる信頼。

    怪物を観客に応援してもらうには、感情が見えなければなりません。

    本作は、シリーズの象徴だった顔を作り替えることで、その条件を満たしています。

    惑星ゲンナ|環境そのものが反転を演出する

    ゲンナについて、トラクテンバーグはこう語っています。

    草の葉から樹木、動植物まで、すべてが本当に死をもたらすと感じられるようにしたかった。

    SlashFilm

    刃物のような草。

    獲物を捕らえる植物。

    身体を武器として使える生物。

    画面のあらゆる場所に、捕食の仕組みが組み込まれています。

    これまでのプレデターは、異なる惑星へ現れ、現地の環境や生物を利用して人間を狩ってきました。

    本作のデクは、逆に、知らない環境から狩られます。

    最強の狩人も、ゲンナの食物連鎖では一つの生物にすぎません。

    ところが終盤になると、デクは惑星の生態を理解し、それを武器として使い始めます。

    現地の生物を装備として利用し、植物の性質を戦いへ組み込む。

    トラクテンバーグも、デクが惑星そのものを自分の武器にしていくと説明しています(Gizmodo/io9)。

    環境を力で支配するのではなく、理解し、適応する。

    デクの成長が、アクションの方法として表現されています。

    砂嵐の父子決戦|力比べを見せない選択

    クライマックスの父子対決は、砂嵐の中で行われます。

    トラクテンバーグは、VFXチームに対し、戦いをはっきり見せるのではなく、濁り、ざらついた映像にしたいと指示しました。

    VFX統括のシェルドン・ストップサックも、砂嵐がデクによる父への逆転を成立させる重要な要素だったと説明しています(Gizmodo)。

    ニョールは、デクより大きく、強く、優れた装備を持っています。

    正面から力比べをすれば、デクに勝ち目はありません。

    そこでデクは、砂嵐によって父の視界と装備の優位を奪います。

    力を見せつける決闘ではなく、環境を利用した知恵の戦いです。

    最後の戦いまで、デクは父と同じ強さを目指しません。

    父とは異なる方法で勝つ。

    この演出が、本作の主題をアクションとして回収しています。

    まとめ|狩られた者だけが、狩りの意味を選び直せる

    冒頭の感想に戻ります。

    プレデターが狩られる側なのが新しい。

    この感想は、監督の語る「前提の反転」と重なっていました。

    ただし、調べて分かったのは、新しいのは「狩られる」という出来事そのものではないということです。

    第1作でも『プレイ』でも、プレデターは人間から狩られ、敗れています。

    本作が初めて描いたのは、その経験をプレデター自身の内側から見ることでした。

    字幕で読める言葉。

    読み取れる表情。

    弱者として一族から排除され、惑星と企業から獲物として狙われる主人公。

    これらがそろったことで、観客は初めて、狩られるプレデターの側へ立つことができます。

    そして本作は、狩られる経験を通過したデクに、狩りの意味を選び直させます。

    弱い者を狩って、自分の強さを証明するのではない。

    氏族を脅かす者と戦い、仲間を守る。

    デクはヤウージャの狩りを捨てたわけではありません。

    狩りの対象と目的を、自分で決めるようになったのです。

    父の掟から始まった物語が、最後に母の船の到来で終わる。

    デクが作った新しい氏族は、早くも次の脅威へ直面します。

    プレデターは、もう単に人間に敗れる怪物ではありません。

    かといって、牙を抜かれた親しみやすい怪物でもない。

    狩られる側を知った狩人。

    その第三の像を作り出したことが、本作の新しさの正体だと思います。

    参考資料

  • 映画『ランニング・マン』|原作に忠実な再映画化、その代償と価値

    2025年公開の『ランニング・マン』(The Running Man)は、スティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で1982年に発表した小説『バトルランナー』の、二度目の映画化です。

    監督はエドガー・ライト、主演はグレン・パウエル。日本では2026年1月30日に、東和ピクチャーズの配給で公開されました(Wikipedia日本語版)。

    1987年のアーノルド・シュワルツェネッガー主演版が、原作を大きく作り替えた映画だったのに対し、今回は原作への忠実さを打ち出した再映画化です(Wikipedia英語版)。

    本作を観て私が抱いた感想は、「エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい」というものでした。

    では、この「もう少し」の正体は何だったのでしょうか。

    単なるないものねだりなのか。それとも、映画の設計そのものに理由があるのか。

    監督と原作者の発言をたどりながら、考えていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、逃亡が本格化する物語の中盤までに触れます。

    結末と、そこへ至る終盤の展開は伏せています。未見の方も、物語の前提とゲームの仕組みを知る程度の内容としてお読みいただけます。

    あらすじ|娘の薬代のために、死のゲームへ

    舞台は、富裕層と貧困層にはっきり分断された近未来のアメリカです。

    ベン・リチャーズ(グレン・パウエル)は職を失い、幼い娘の治療費にも困っています。

    彼が賞金を目当てに応募するのが、国営テレビ局の人気リアリティショー「ランニング・マン」です。

    その実態は、殺人ハンターに30日間追われ続ける、命がけのゲームでした。

    生き延びれば巨額の賞金。捕まれば死です(Wikipedia日本語版)。

    リチャーズの逃亡は、全国へ中継されます。

    あらすじとして必要なのは、ここまでです。

    テーマ|2025年に現実が追いついた小説

    「想像もできなかった未来」に、現実がたどり着いた

    原作の物語は、2025年に設定されています。

    キングは英国映画協会(BFI)の対談で、『ランニング・マン』を書いた当時、2025年はあまりにも遠い未来で、頭の中で捉えることすらできなかったと振り返っています(BFI Sight and Sound)。

    その2025年に、二度目の映画化が公開されました。

    原作の設定年と映画の公開年が重なったのは偶然かもしれません。しかし、この一致は、本作の意味を考えるうえで重要です。

    ライト監督は同じ対談で、原作の先見性について語っています。

    小説が描いたのは、「ランニング・マン」という一つの番組だけではありません。複数の番組を抱え、人々の生活全体を包み込むテレビネットワークでした。

    リアリティショーや配信サービスが日常になった現在だからこそ、この小説は現実味を持って迫ってきます。

    ライト監督が、いま原作に忠実な映画化へ取り組んだ理由も、そこにあったのだと思います。

    貧しい人間の死を、毎晩の娯楽に変える

    劇中の「ランニング・マン」は、貧しい男の命がけの逃亡を、毎晩の娯楽として放送します。

    本作の諷刺が向けられているのは、ゲームの残酷さだけではありません。

    人間の苦痛を映像に変え、視聴率や広告収入を生み出し、それを観客が消費し続ける仕組みそのものです。

    人が死ぬことよりも、それを番組として成立させてしまう社会のほうが恐ろしい。

    本作は、そうした世界を描いているように見えます。

    原作の「獰猛なユーモア」を選ぶ

    私の感想に直接つながるのが、映画全体の語り口です。

    ライト監督は原作について、「非常に陰惨なディストピア小説だが、獰猛なユーモアも持っている」と語っています(Film Stories)。

    ディストピアとは、管理や格差によって人間の自由が奪われた、暗い未来社会を描く物語です。

    ライト監督は参照作品として、『未来世紀ブラジル』や『ニューヨーク1997』を挙げています。

    悪夢のような社会を描きながら、娯楽映画として観客を走らせる。その方向を目指したと説明しています。

    つまり、本作が選んだ笑いは、『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』で見せた軽妙なギャグとは違います。

    悲惨な社会を、冷たく突き放して笑うブラックユーモアです。

    監督自身の笑いを付け加えるよりも、原作に備わっていた獰猛な笑いを生かすことが優先されています。

    原作者キングの承認

    完成した映画について、キングは明確に満足を示しています。

    BFIの対談では、「結果的に物事は本当にうまくいった。私の天使はエドガー・ライトだった」とまで語りました(BFI Sight and Sound)。

    脚本上の変更点についても、キング本人が承認したことが記録されています(Wikipedia英語版)。

    本作が掲げた「原作への忠実さ」は、宣伝上の言葉だけではありません。

    少なくとも原作者は、この再映画化を自分の小説に沿った作品として受け入れています。

    キャラクター造形|走る者、売る者、追う者

    本作の登場人物は、追われる者、それを見世物として売る者、そして追う者に分けられます。

    その役割自体が、作品のテーマを表しています。

    ベン・リチャーズ|等身大の逃亡者

    1987年版のリチャーズは、冤罪で追われる屈強な警官でした。

    最初から、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる強い男だったのです。

    一方、本作のリチャーズは、原作に沿った普通の労働者です。

    職を失い、娘の薬代に困り、賞金を得るために番組へ参加します。

    ライト監督は原作の魅力として、物語の視点が最初から最後までリチャーズに張り付いていることを挙げています(Film Stories)。

    観客を安全な場所に置かず、追われる側の視界へ引きずり込む。

    映画版にも、この構えが受け継がれています。

    グレン・パウエルについては、スターらしい存在感と、普通の人間らしさを同時に持っていると評価する批評があります(Gizmodo)。

    賞金のために走らされる労働者という役に、その両面がよく合っています。

    ダン・キリアンとボビー・T|メディアの二つの顔

    ジョシュ・ブローリン演じるダン・キリアンは、番組のプロデューサーです。

    コールマン・ドミンゴ演じるボビー・Tは、番組の司会者です。

    キリアンは、貧しい人間の死を視聴率と利益へ変える、経営側の顔です。

    ボビー・Tは、それを歓声と興奮へ変える、演出側の顔です。

    とりわけボビー・Tは、本作のブラックユーモアを最も強く背負う人物です。

    人が殺されるゲームを、明るく陽気な番組として盛り上げる。

    その司会ぶりこそ、映画の諷刺を最も分かりやすく示しています。

    エヴァン・マッコーン|社会のどこまでも追ってくる暴力

    リー・ペイスが演じるエヴァン・マッコーンは、リチャーズを追うハンターの中心人物です。

    1987年版のハンターは、地下アリーナの中で戦う、プロレスラーのような見世物の悪役でした。

    本作のマッコーンは違います。

    国中を移動しながらリチャーズを追跡する、本物の殺し屋として描かれます。

    暴力は、番組の舞台の中だけに存在するのではありません。

    社会のどこへ逃げても追ってきます。

    ゲームの舞台が全国へ広がったことと、ハンターの造形は対応しています。

    映画技法|逃亡の空間と、1987年版への目配せ

    地下アリーナから、全国規模の逃亡劇へ

    1987年版は、ゲームを地下アリーナという限られた空間に閉じ込めていました。

    一方、ライト版は原作に沿い、アメリカ全土を舞台にした逃亡劇として作られています。

    セットとロケーションは170カ所に及び、撮影は2024年11月から2025年3月まで、ロンドン、グラスゴー、ブルガリアで行われました(Film StoriesWikipedia英語版)。

    アリーナの外へ出れば安全、という世界ではありません。

    街も家も道路も、すべてが番組の舞台になります。

    社会全体がメディアに監視され、生活のあらゆる場所が見世物に変えられている。

    本作の広い空間設計は、その世界観を映像として成立させています。

    「ライトらしさ」は、笑いよりもリズムにある

    撮影監督は、『お嬢さん』などのパク・チャヌク監督作品や、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』で知られるチョン・ジョンフンです。

    音楽はスティーヴン・プライス、編集は長年ライト監督と組んできたポール・マクリスが担当しています(Wikipedia英語版)。

    本作では、ライト監督らしいギャグが前面には出てきません。

    それでも、監督らしさが失われたわけではありません。

    逃走と追跡を途切れさせず、場面を次々につないでいく速度感。音楽と映像を合わせながら、観客を前へ押し続ける編集。

    本作でライトらしさを探すなら、笑いの数よりも、このリズムにあるのだと思います。

    100ドル紙幣になったシュワルツェネッガー

    1987年版の主演、アーノルド・シュワルツェネッガーは、本作では劇中の100ドル紙幣の肖像として登場します。

    本人も、主演のグレン・パウエルに全面的な支持を伝えたと報じられています(Wikipedia英語版)。

    かつての主演俳優を、紙幣の顔として登場させる。

    これは単なるファンサービスではないように見えます。

    金のために人間が命を賭けて走る世界で、過去の勝者は通貨の象徴になっている。

    1987年版への目配せを、本作の金と権力の諷刺に組み込んだ演出です。

    まとめ|足りないのではなく、種類が違った

    冒頭の感想に戻ります。

    エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい。

    ここまで考えてみると、本作に笑いが足りなかったわけではありません。

    本作が選んだのは、ライト監督の過去作で見られた軽妙なギャグではなく、原作に備わっていた冷たく獰猛な諷刺でした(Film Stories)。

    『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』の笑いと、バックマン名義の原作にある笑いは、同じ「ユーモア」という言葉ではまとめきれません。

    私が感じた物足りなさの正体は、笑いの量ではなく、種類の違いでした。

    ライト監督のユーモアが減ったというより、今回ライト監督が選んだユーモアが、私の期待していたものとは違ったのです。

    この感想は、批評の分布とも重なっています。

    Rotten Tomatoesの批評家支持率は61%で、総評では、創意に富んだアクション映画を作ってきた監督の高い基準には届かないものの、滑らかな走りは保っていると評価されました(Wikipedia英語版)。

    製作費1億1,000万ドルに対し、世界興行収入は参照時点で6,900万ドルでした。

    批評と興行の両方で、大きな成功を収めたとは言いにくい結果です。

    一方、前半の勢いとパウエルの演技を評価し、問題は主に終盤の構成にあるとする好意的な批評もあります(Gizmodo)。

    本作の評価は、ユーモアだけで決まるものではありません。

    原作への忠実さを選んだ結果、監督固有の軽妙さが薄くなった。

    私はいま、それを単純な欠点ではなく、選択に伴う代償として捉えています。

    2025年という設定年に現実が追いついたその年に、原作の獰猛さを、獰猛なまま映画にする。

    その判断には、確かな価値がありました。

    その価値を認めたうえで、それでも「もう少し欲しかった」という感想は、正直なものとして残しておきます。

    参考資料