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    映画『ヒンド・ラジャブの声』|戦場では善意も届かない

    2025年公開の『ヒンド・ラジャブの声』(The Voice of Hind Rajab)は、パレスチナ赤新月社の緊急通報センターから、ガザで続く戦争を描いた映画です。画面に戦闘はほとんど映りません。登場人物たちは事務所にいて、電話を受け、何本もの電話をかけ、救急車を出す許可を待ち続けます。

    なんとも救いのない映画でした。いや、救いのない世界を描いた映画です。助けを求める少女の声は届いている。居場所も分かっている。救助しようとする人たちもいる。それでも、救急車はすぐには向かえません。必要なものがそろっているように見えるのに、人命を救うという当然の行動だけが許されないのです。

    『ブラックホーク・ダウン』『ウォーフェア 戦地最前線』は、兵士のいる場所から戦闘の恐ろしさを描いていました。銃弾や爆発がどこから来るか分からない。判断が少し遅れれば仲間が死ぬ。その切迫感を、戦場にいる兵士の身体を通して伝える映画です。

    本作が描くのは、そこから少し離れた場所です。しかし、安全な後方ではありません。戦闘に参加していない救助者まで、軍事力によって時間と行動を支配されています。武器を持つ者だけが戦争の当事者になるのではない。助けに行きたくても行けない人も、戦争の中に閉じ込められています。

    ネタバレについて

    この記事では中盤までの展開と、作品のもとになった救助活動に触れます。映画の結末は伏せます。

    あらすじ|電話の向こうに救助を待つ少女がいる

    2024年1月29日、パレスチナ赤新月社の緊急通報センターに、ガザ市から救助を求める電話が入ります。車内に取り残されたのは、6歳のヒンド・ラジャブです。周囲では銃撃が続き、電話回線も安定しません。

    職員たちはヒンドとの通話を切らないようにしながら、現在地を確かめ、救急車を向かわせようとします。しかし、救急車が軍の管理する地域へ入るには、安全な経路と通行許可が必要です。職員が電話をかけても、その場で許可が出るわけではありません。別の組織を経由して返事を待つ間にも、時間だけが過ぎていきます。

    舞台はほぼ緊急通報センターの事務所に限られます。電話の向こうにいるヒンドの姿も見えません。それでも、何が起きているのかは声で分かります。見えないから恐怖が弱まるのではなく、見えないまま聞き続けなければならないことが、本作の苦しさになっています。

    テーマ|善意があっても人命は救えなかった

    救助を妨げる仕組みも戦争の一部です

    赤新月社の職員たちは、何もしていないわけではありません。ヒンドの話を聞き、位置を調べ、救急車と連絡を取り、安全に通れる経路を確保しようとします。全員が自分の役割を果たそうとしています。しかし、その努力はすぐには救助に結びつきません。

    救急車を出せばよいではないかと思います。ところが、許可を得ないまま救急隊員を向かわせれば、その隊員まで攻撃を受ける危険があります。ヒンドを待たせることはできない。一方で、救助する側の命も軽く扱えない。この二つを両立させる方法がないまま、決断の責任だけが赤新月社に残されます。

    ここで人命を左右しているのは、職員たちの能力や熱意ではありません。安全な経路を誰が決めるのか。救急車の通行を誰が許可するのか。武器を持たない救助者には、その決定権がありません。戦争は人を直接攻撃するだけでなく、助けようとする人の行動まで止めます。本作では、許可を待つ時間そのものが暴力として描かれています。

    同じ目的でも一つにはなれません

    職員たちの目的は、ヒンドを救うことです。それでも、職員たちの判断は同じになりません。ヒンドとの通話を続ける人、救急車を手配する人、組織の責任者として手順を守る人、追い詰められた職員を支える人では、目の前にある責任が違います。

    今すぐ救急車を出すべきだという主張はもっともです。しかし、安全を確認せずに救急隊員を送り出せないという判断にも理由があります。通話を続けることは必要ですが、声を聞いているだけでは現場へ近づけません。どの役割も必要なのに、どの役割もそれだけではヒンドを救えない。その状態が、職員たちを衝突させます。

    善意があれば人は一つになれる、という話にはなりません。切迫した状況では、それぞれが善意に基づいて異なる行動を選びます。そして、どの行動を選んでも誰かの命を危険にさらします。同じ目的を持つ人たちが一つになれないことまで含めて、この映画は救いがありません。

    善意があってもヒンドは救えませんでした

    救助者の善意に意味がなかった、とまで言うつもりはありません。ヒンドを一人にしないために通話を続けたことも、救急車を出そうと動いたことも、音声を記録として残したことも軽視できません。

    しかし、結果だけを見れば、善意があっても人命は救えませんでした。軍事力と許可の仕組みの前で、救助につながらなかったからです。事情を説明することと、結果を婉曲に書くことは違います。「救う意思はあったが行動に移せなかった」で止めれば、救助を待っていた側から見た現実が薄くなります。理由が何であっても、助けは来なかった。その事実が本作の中心にあります。

    キャラクター造形|四人の違いが救助の行き詰まりを表す

    ラナはヒンドを一人にしません

    ラナ・ハッサン・ファキフ(サジャ・キラニ)は、ヒンドとの通話を続けます。電話の相手を落ち着かせ、短い言葉を返し、通話が途切れないように声をかけます。電話の向こうにいる少女を、処理すべき一件の通報ではなく、一人の人間として受け止める役割です。

    ただし、通話を続けることは救助そのものではありません。ラナはヒンドの声を間近に感じながら、現場までの距離を縮められません。声を聞くことと助けることの間にある断絶が、ラナの表情と沈黙に表れています。

    オマールは待つことに耐えられません

    オマール・A・アルカム(モタズ・マルヒース)は、許可を待ち続ける状況に怒りをぶつけます。彼の主張は単純です。子どもが助けを求めているのだから、今すぐ救急車を向かわせるべきだ。観客が最初に抱く気持ちを、オマールが言葉と行動で表します。

    しかし、責任者の許可を無視すれば、救急隊員の命を危険にさらします。オマールが間違っているとは言えません。手順を守る側も間違っているとは言い切れません。正しい選択ができないのではなく、正しい選択肢そのものが残されていないのです。

    マフディは救助者の命にも責任を負います

    責任者のマフディ・M・アルジャマル(アメル・フレヘル)は、手順と職員の安全を守ろうとします。彼の冷静さは無関心ではありません。救急車を出せば、乗っている救急隊員の命にも責任を負うことになります。

    オマールから見れば、マフディは動かない人です。マフディから見れば、オマールは救急隊員の危険を軽視しています。二人の対立は性格の違いだけではありません。救助する人の命まで危険にさらされる環境が、同じ組織の中に対立を生んでいます。

    ニスリーンは職員が仕事を続けられるように支えます

    ニスリーン・ジェリース・カワス(クララ・フーリ)は、ヒンドだけでなく、通話を担当する職員の状態にも目を配ります。救助を求める声を長時間聞き続ければ、受ける側も平静ではいられません。それでも通話を切らず、必要な確認を続けなければなりません。

    救急車を運転する人だけが救助者なのではありません。電話の相手を落ち着かせる人も、その職員が仕事を続けられるように支える人も必要です。ニスリーンの存在によって、戦場から離れた事務所にも別の苦痛があると分かります。

    主要な四人を演じたのは、いずれもパレスチナ人の俳優です。カウテール・ベン・ハニア監督は、実在する職員と外見だけでなく、気質も近い俳優を探しました。実在の職員への取材をもとに脚本を書き、本人たちにも内容を確認してもらっています。公式プレスキット

    映画技法|見えない戦場を声で描く

    電話の声は実際の記録です

    本作が『THE GUILTY ギルティ』に近いのは、電話の向こう側を見せず、通話を受ける人の反応から事件を描く点です。どちらも限られた室内を舞台にし、見えない場所で起きていることを音から想像させます。

    ただし、本作の声は俳優が演じたものではありません。電話から聞こえるヒンドの声には、実際の通話記録が使われています。監督が赤新月社から提供を受けた音声は、70分を超えていました。公式プレスキット

    実在した子どもの声を劇映画に使う以上、強烈だから使えばよいとは言えません。監督はヒンドの母親に意思を確認し、反対された場合は映画を作らないつもりだったと述べています。母親と家族、赤新月社の同意を得たことは、この方法を考えるうえで欠かせない事実です。それでも、本人が亡くなったあとに残された声を、観客の緊張を高めるために使ってよいのかという疑問は消えません。

    俳優も撮影中に初めて声を聞きました

    俳優たちは通話記録にある言葉を一言ずつ覚えましたが、撮影が始まるまでヒンドの実際の声を聞きませんでした。撮影中にヘッドセットを通して初めて声を聞き、その場で生まれた反応をカメラが捉えています。監督は通常の劇映画のように感情を細かく指示するのではなく、ドキュメンタリーを撮るときの方法を取り入れました。GQ JAPANの監督インタビュー

    そのため、画面に映る涙や動揺は、役を演じた結果だけではありません。俳優自身が声を聞いたときの反応も重なっています。この方法には、実際の声に触れた人間の反応を記録できる強さがあります。一方で、俳優の反応が観客に「ここで苦しむべきだ」と促しているようにも見えます。実録と演技が重なることで、本作は記録映画にも通常の劇映画にも収まらない作品になっています。

    音声のノイズまで残しています

    音響スタッフは、技術的には除去できるノイズをあえて残し、ヒンドの声を聞きやすく加工しませんでした。Cinema Femmeの監督インタビュー 電話回線の乱れは、鑑賞の邪魔になるものとして消されていません。声が途切れ、聞き取りにくくなること自体が、現地の状況を伝えます。

    音が鮮明でないからこそ、観客は聞き流せません。次の言葉を聞き取ろうとし、回線が切れないか気にします。映像を見るときよりも、耳を澄ませてしまいます。助けを求める声が確かに届いているのに、救助にはつながらない。本作では、音声がその矛盾を最も直接的に伝えています。

    職員は事務所から出られず、待つしかありません

    映画の全編は一つの事務所で撮影され、戦場の暴力は画面の外に置かれています。監督は、暴力的な映像よりも、助けを待つ時間や恐怖、助けが来ないときの沈黙に集中するため、この方法を選んだと説明しています。監督声明

    カメラが現場へ行かないため、観客にも状況を確かめる手段がありません。職員が電話から得た情報だけを受け取り、許可の返事を一緒に待ちます。戦場を映さない演出は、残酷な映像を避けるためだけのものではありません。見えていない場所を軍が支配し、事務所にいる人々には待つことしか許されない状況を、観客にも経験させます。

    まとめ|救いのない世界では善意も人命を救えない

    『ヒンド・ラジャブの声』には、善意を持つ人が何人も登場します。ヒンドとの通話を続ける人がいる。救急車を手配する人がいる。職員の安全を守ろうとする人がいる。それでも、人命を救うことはできません。

    戦争という圧倒的な悪意の前では、善意があっても人命は救えない。本作を観て残ったのは、その救いのなさでした。軍事力を持つ側が経路と時間を支配すれば、救助者の熱意や勇気だけではその支配に抗えません。善意が足りなかったのではなく、善意が人命の救助に結びつかない状況が作られていました。

    映画もまた、起きたことを変えられません。記録を残し、世界へ伝えることはできても、それは救助の代わりにはなりません。だからこそ、本作は希望を簡単に語りません。声が届いても救えなかったという事実を、そのまま観客に突きつけます。戦場を映さずに戦争を描いたこの映画が恐ろしいのは、誰かが助けを求めていることを知りながら、世界が動かなかった時間を見せるからです。

    参考資料