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  • 書評|アップルは中国という沼にはまったのか、ほかに道はなかったのか|”Apple in China” by Patrick McGee

    書評|アップルは中国という沼にはまったのか、ほかに道はなかったのか|”Apple in China” by Patrick McGee

    iPhone はどこで作られているか

    世界で売れるスマートフォンのうち、アップル製は5台に1台です。ところが、スマートフォン産業全体の営業利益のうち、8割前後をアップルが得ています。

    この利益の割合は調査会社の推計で、年によって上下します。ただし、台数の割合と利益の割合がかけ離れていることは変わりません。

    この差を生んできたのが、中国にある生産設備です。iPhone の組み立ての9割は中国で行われています。この数字は、本書が刊行された2025年5月の時点で広く使われていた推計です。

    なぜ9割が中国なのか。人件費が安いから、というのがよく聞く答えです。パトリック・マクギーの『Apple in China』(Scribner、2025年5月)は、冒頭でその答えを否定します。

    Apple in China

    著者は Financial Times の記者で、2019年から2023年までアップルを担当しました。本書は200件を超える取材にもとづいています。取材相手は、アップルの役員と技術者です。現職の人も、退職した人もいます。経営陣の回顧録ではなく、現場の側から書かれた記録です。

    中国が製造能力をどう身につけたかを論じた本に、ダン・ワンの『Breakneck』があります。マクギーの本は同じ過程を、1社の内側から見たものです。

    アップルが中国に置いたもの

    アップルは中国に注文を出したのではありません。設備を据え、人を送り込みました。注文は納品で終わりますが、据えた設備と送った人は現地に残ります。

    2012年、アップルの中国での売上は、小売だけで200億ドルを超えていました。それでも中国政府の見方は厳しいものでした。中国企業との合弁が一件もなかったからです。同じ時期、サムスンは35件の合弁を持っていました。

    そこでアップルは、中国政府の言い分をひっくり返す説明を用意しました。合弁はない。しかし数百の工場に人を送って現地の工員を鍛え、自社の水準まで品質を引き上げ、世界最大の生産規模まで押し上げたのは自分たちだ——そう主張したのです。

    この説明を裏づける材料を作るために、8人の幹部が中国に送られました。本人たちは冗談で「八人組」と呼び合っていました。

    アップルが中国で事業を始めたのは1993年です。それから20年以上、中国に住む幹部は一人もいませんでした。

    この8人が自社の生産網の規模を調べました。算出されたのが、年間550億ドルという額です。2015年ごろの集計で、もともとは中国政府に見せるために作られたものでした。

    問題は、この550億ドルに何が含まれているかです。著者はアジア・ソサエティーの対談で内訳を説明しています。

    一つ目はアップルストアの建設費で、金額としてはわずかです。二つ目は他社の生産ラインに据える機械で、これが最も大きい費目です。三つ目は人件費です。

    三つ目には説明が要ります。アップルの生産網では、受託先に雇われた300万人が働いています。なかには8週から16週で辞めていく人もいます。そうした短期の働き手の賃金まで訓練費に計上している、と著者は言います。

    そして、入っていないものがあります。部材の代金です。著者はこう明言しています。——チップもアルミも数えていない。iPhone に組み込む部品の購入額は1ドルも入っていない。

    二つ目の費目である機械を見ると、この550億ドルの中身が分かります。その代表が CNC 工作機械です。コンピュータが刃物の動きを制御して、金属のかたまりを削り、部品の形にする装置です。板金を曲げたり、溶かした金属を型に流し込んだりする方法に比べ、はるかに高い精度で加工できます。2008年の MacBook Air は、アルミのかたまりから主要な部材を削り出す構造でした。この機械なしには作れない製品です。

    この機械は1台100万ドルを超えます。アップルは1万台を買い、中国の工場に据えました。著者によれば、1万台で止まったのは、それ以上は市場になかったからです。アップルは作られる分をほぼ買い占め、数年にわたってこの機械が他社に渡らない状態を作りました。

    ただし、その工場はアップルのものではありません。代金を払ったのはアップルですが、据えた先は他社の生産ラインでした。動かす工員も他社の社員です。アップルはそこへ技術者を数千人送り込み、自社の求める精度が出せるようになるまで教えました。

    ですから、この額は安い労働力を買った金額ではありません。賃金の安い国なら、当時もほかにありました。中身は、1台100万ドルの機械の代金と、それを扱えるようになるまで人を訓練する費用です。工賃として払われたのではなく、現地に製造の技術を根づかせるために使われました。550億ドルは、こうした支出の1年分です。アップルはこれを毎年重ねてきました。

    沼にはまるとはどういうことか

    著者が副題の capture で言っているのは、中国がアップルを捕らえた、ということです。本稿の見出しでは、その状態を「沼にはまる」と言い換えました。

    では、捕らえられたとはどういう状態でしょうか。ポッドキャストの Summation で、著者は自分の本の主張を短くまとめています。——アップルは中国に依存しすぎている。副題の「捕獲」はその意味だ。中国の外では iPhone を作れない。

    これは程度の話ではありません。著者はサンフランシスコのコモンウェルス・クラブで、さらに踏み込んで語っています。——アップルには代替案がない。中国が輸出許可を取り消したらどうなるのか。報道がどう伝えていようと、インドで iPhone を作れる見込みはない。

    インドでの組み立ては伸びています。2024年は約3600万台、2025年は約5500万台です。2025年の台数は、iPhone 全体の4分の1にあたります。著者はそれを承知のうえで、見込みはないと言い切ります。台数の話ではないからです。

    別の対談で、聞き手はこう言っています。——インド製と表示された iPhone も中身のほとんどは中国製で、最後の数本のネジをインドで締めているだけではないか。著者はそのとおりだと答えています。インドの生産網はまだ層が薄く、幅も狭いからです。

    中国政府の締め付けも強まりました。政府は、取引先に中国企業を増やすよう求めました。中国国内では iPhone で使える機能に制限をかけ、利用者のデータは国有のデータセンターに置くよう義務づけました。

    売り先としての中国も無視できません。アップルは中国市場で、現地の IT 大手を上回る利益を上げています。作る場所としても売る場所としても、アップルは中国を手放せなくなっています。

    そして当のアップルが、この関係をさらに深める約束をしています。2016年5月、ティム・クックは共産党権力の中枢である中南海へ向かいました。そこで結ばれた覚書は、5年間で総額2750億ドル超を中国に投じるという内容でした。当時の年間550億ドルの水準を、5年続ける規模です。

    ただし、この2750億ドルは覚書に明記された数字ではありません。報じた The Information が、内容から積み上げた推計です。

    この覚書が結ばれたのは、ドナルド・トランプがアメリカ第一を掲げて選挙戦を戦い、アップル製品の不買を呼びかけていた時期です。この約束を記者会見で発表していれば、アップルは致命傷を負っただろう、と著者は言います。

    設備を据え、人を送り、市場を広げる。その一つ一つが、中国から離れられない理由を増やしていきました。本書が描くのは、その20年です。

    ほかに道はあったのか

    本書の見立てを疑う声は、刊行直後から出ています。それも細部への異議ではなく、アップルが中国の製造業を育てたという見立て自体に向けられたものです。反論は大きく二つあります。

    一つ目は、そもそも捕らえられてなどいない、という見方です。

    米ジョージア工科大学でインターネット政策を研究するミルトン・ミューラーは、本書に正面から反論しています。——本書が並べた事実からは、アップルが中国国家に捕らえられたという結論は出てこない。アップルも中国の電子機器メーカーも、どちらも利益を得た。技術が移ったことで独占ではなく新しい競争が生まれ、中国の労働者の賃金も上がった。

    ミューラーは、原因の所在についても別の見方をとります。貿易を混乱させたのは米国政府の政策だ、というのです。経済を安全保障の問題として扱うようになったのは政府であって、企業を責めるのは筋が通らない、と言います。

    この指摘が突いているのは、結論ではなく前提です。捕らえられていないのなら、「ほかに道はあったのか」という問い自体が立ちません。本稿の見出しも、その上に立っています。

    それでも問います。崩れうる前提だと承知のうえで問えば、本書の見立てのどこが強く、どこが弱いのかが見えてくるからです。

    550億ドルという数字を、ミューラーは逆の意味に取ります。政府の産業政策より民間企業の投資のほうが良い結果を出した証拠だと読みます。同じ事実から正反対の結論が出てきます。

    二つ目は、その数字は本当にアップルのものか、という見方です。

    陳静は中国科学技術大学の研究者で、専門は科学技術コミュニケーションです。本書に対しては、具体的な反論を書いています。——アップルの取引先は、8割超が中国に工場を持っている。550億ドルも、2008年以降にのべ2800万人を訓練したという数字も、生産網全体を合算したものだ。アップル単独の功績ではない。それをアップルの投資額として示すのは過大な計上である。

    陳静は、「アメリカが中国を作った」という見立て自体も、西側に偏ったものとして退けます。そのうえで、アップルも中国も、この関係から得るものがあったと述べます。

    著者はこの批判に直接は答えていません。刊行から5か月後、アジア・ソサエティーの対談で550億ドルの中身を自分から説明しました。先に見た、建設費・機械・人件費の三つです。

    著者が明かしたのは550億ドルの費目であって、その支出を誰が行ったかではありません。三つ目の人件費は、受託先に雇われた300万人に支払われた賃金です。雇っているのも払っているのも、アップルではありません。

    つまり内訳の開示は、陳静への反論になっていません。むしろ、陳静の言う合算がどこで起きているのかを具体的に示しています。著者の側から読めば、部材費すら入れずにこれだけ投じた、という証拠になります。批判者の側から読めば、他社が払った人件費がアップルの投資額に繰り入れられている、という証拠になります。

    陳静はこうも書いています。アップルにインドで同じことができるものなら、やらせてみればいい、と。この一言は、インドでは作れないという著者の断言と真っ向から対立します。

    争われているのは、550億ドルが誰の支出なのかという点です。決着していないのは、アップルにほかの道があったのかという問いです。本書にも書評にも、その答えはありません。答えられる材料がないからです。

    分かっているのは順序だけです。1996年、アップルは倒産寸前でした。1998年の iMac は韓国でもウェールズでも作られていました。中国に製造を移したのは2003年です。そのころの中国は、ほかの多くの会社がすでに生産を委託していた場所でした。

    つまり、中国が唯一の道だったわけではありません。分かれ目は、中国へ行ったかどうかではなく、一国にどこまで深く依存したかです。争点は、同じ事実を捕獲と見るか、互いに利のあった取引と見るかにあります。

    依存はどう生まれるか

    本書がもっとも克明に描くのは、依存が生まれていく過程です。アップルは規模と速さを得るために、設備を据え、技術者を送って作り方を教えました。教えられた側が作れるようになると、その周りに下請けが集まります。

    設備は移せますし、機械は買えます。移すことも買うこともできないのは、部品業者や工員が一帯に集まっている状態と、その人たちが身につけた技能です。作れる場所が一つしか残らなくなったところで、その国の政府が条件を出してきます。

    この技能には名前があります。プロセス・ナレッジです。手順書には書き出せず、現場で人から人へしか受け渡せない知識を指します。

    倒産寸前の会社が製造を外に出しました。MacBook Air を作るために、CNC 工作機械を1万台買って中国の工場に据えました。中国で売り続けるために、現地の取引先を増やしました。どの段階でも、そのときの判断は正しいものでした。にもかかわらず、20年たってみると、アップルは中国の外で iPhone を作れなくなっていました。

    これはアップルだけの話ではありません。同じことは、工場を持たない会社にも起きます。ある業務を長く外に出していると、発注側はいつのまにか、その仕事の中身が分からなくなります。分からなければ、価格も納期も相手の言うとおりになります。誰も間違った判断をしていないのに、交渉の材料だけがなくなっています。

    自社に置き換えて、いくつか問いを立ててみます。いま、ある仕事を外に出すとして、任せられる相手は何社あるでしょうか。1社しかないのなら、それはいつ1社になったのでしょうか。

    止めた工程はないでしょうか。止めたときは、効率化として説明されたはずです。いま同じことを、もう一度始められるでしょうか。

    外に出した仕事について、相手の見積もりが妥当かどうかを自社で判断できるでしょうか。その仕事を長く担ってきた人が辞めたとき、引き継ぎ書に書けなかったものは何だったでしょうか。

    引き継ぎ書に書けなかったもの、それがプロセス・ナレッジです。どこにも記録が残らないので、失っても気づきません。

    答えは書きません。会社によって違いますし、私が知っているのは本書に書かれたことだけです。

    この本を勧めるかどうか。勧めます。設備がどう運ばれ、技術者が何を教え、工場の側が何を身につけたのか。そこまで具体的に書いた記録は、ほかにありません。

    現場をどう描いたかについては、本書の見立てに批判的な評者も正確さを認めています。米国では、経済報道を対象とした書籍賞を受けました。

    同じ主題を国の側から扱ったダン・ワンの『Breakneck』は、別の記事で取り上げました。

    「なぜそうなったか」の説明は、先に見たとおりまだ議論の途中です。それでも、自社に「これがないと回らない」ものがあると感じているなら、読む価値があります。

    なお、本稿執筆時点で邦訳は出ていません。英語版は米国の Scribner 刊、448ページです。

    参考リンク

  • 書評|中国はエンジニアが動かし——その見立ては当たっているか|”Breakneck: China’s Quest to Engineer the Future” by Dan Wang

    書評|中国はエンジニアが動かし——その見立ては当たっているか|”Breakneck: China’s Quest to Engineer the Future” by Dan Wang

    中国の現場で著者が見たもの

    2021年の夏、上海で暮らしていたダン・ワンは、都市生活の閉塞感から離れるため、友人2人と自転車の旅に出ます。向かったのは、中国南西部の貴州省でした。貴州には昔からの言い回しがあります。「雨の降らない日が3日と続かず、平らな土地は3尺もなく、3枚の銀貨を持つ家もない」。それほど貧しい土地だ、という意味です。著者によれば、中国で4番目に貧しい省です。本書『Breakneck』は、この貴州への旅から始まります。

    "Breakneck: China's Quest to Engineer the Future" by Dan Wang

    ところが5日間走ってみると、道路はよく整備され、自転車で移動するには申し分のない環境でした。世界有数の高さを持つ橋が、貴州には45本ほどあります。大規模なデータセンターも建設され、高速鉄道も開通しました。かつて交通の便が悪かった地域から、市場や上海のような大都市へアクセスしやすくなっています。建設した時点では「どこにも通じていない橋」であっても、やがてその先に経済活動が生まれる。著者はそう説明します。

    ただし、代償もあります。貴州省をはじめとする地方政府は、こうしたインフラ建設で生じた巨額の債務を抱えています。橋によって生まれる経済活動だけでは、その返済を十分に賄えていません。

    著者が中国へ渡ったのは2017年初めです。調査会社ガベカル・ドラゴノミクスのテクノロジー・アナリストとして、香港に2年、北京に2年、上海に2年。2023年に中国を離れるまでの6年間を過ごしました。本書は、その間の見聞をもとに書かれています。

    著者が最も気に入った都市は上海でした。地下鉄網が充実し、市内の多くの場所から駅へ容易にアクセスできる。旧フランス租界の並木道が残り、公園も増え続けている。公園の数は、2020年の約500か所から2025年には約1,000か所になりました。

    著者は、こうした変化をサンフランシスコやロサンゼルスでの生活と対比します。米国の都市で目にする変化は、近所の店が入れ替わるといった程度にとどまる。一方、中国では過去40年、あるいは直近10年だけを見ても、都市の景観や交通網が目に見えて変化してきた。その環境で暮らしていると、「次も変わるだろう」という感覚を持つようになる。

    著者が中国で強く感じたのは、経済統計だけでは捉えにくい、この変化への期待でした。

    エンジニア国家と法律家社会

    著者が中国での6年間から持ち帰ったのは、現地の印象だけではありません。中国と米国の違いを捉えるための、一つの仮説です。

    米国のフーバー研究所での講演で、著者はその問題意識を次のように説明しています。今後数十年にわたって重要になる米中関係を、私たちは社会主義対資本主義、新自由主義対専制主義といった政治思想の言葉で捉えがちです。しかし、こうした概念の意味も歴史のなかで変化してきました。そこで、少し違う角度から両国を見てみようというわけです。

    著者が提示するのが、中国は「エンジニア国家(engineering state)」であり、米国は「法律家社会(lawyerly society)」であるという対比です。

    米国側の見立ては、エズラ・クラインとデレク・トンプソンの共著『Abundance』が米国の競争力低下の理由として論じたものと重なります。

    根拠の一つとして挙げるのが、政治指導者の経歴です。中国の最高意思決定機関である政治局常務委員会では、ある時期、9人の委員全員が工学の学位を持っていました。しかも、彼らが学んだのはソ連型の工学です。土木、機械、熱工学、水利など、ダムや発電所を実際に建設・運用するための分野でした。そうした教育を受けた人々が、国家の意思決定を担っていた。

    一方の米国について、著者は「大統領を目指すなら、まずイェール・ロースクールへ行く必要があるように見える」と冗談めかして表現します。初代ジョージ・ワシントンからエイブラハム・リンカーンまで、最初の16人の大統領のうち13人が法律家でした。直近10人の大統領では5人がロースクールを卒業しています。上院にも法律家出身者が多くいます。

    著者は、この違いを政策姿勢にも結びつけます。エンジニアは、社会の問題に対して何かをつくることで答えようとする。景気が悪化すれば橋や鉄道を建設し、新たな事業を立ち上げる。それに対して法律家は、権利、手続き、規制、訴訟を通じて事業に歯止めをかける。著者によれば、米国で後者の力が強まったのは1960年代以降です。環境影響評価などの制度が整備され、大規模な開発計画は幾重もの手続きを経なければ進まなくなりました。

    貴州の橋や上海の公園は、この見方に従えば、「まず建設する」ことを重視する政治体制から生まれたものとして理解できます。

    ただし、著者自身も、この仮説だけで中国を説明できるとは考えていません。著者は、中国を専制国家として理解することもできると述べ、その政治体制が決定的な影響を与えていることも認めています。「エンジニア国家」は、中国を見るための一つの視点にすぎない。文字どおりの分類としてではなく、両国の違いを考えるための枠組みとして使ってほしいとも説明しています。

    そのうえで、著者はエンジニア国家の利点を評価します。インフラが整備され、都市が変化し続けること自体には大きな価値がある。

    もちろん、相応の負担も伴います。コンクリートの生産は環境に負荷をかけ、三峡ダムのような大規模事業では膨大な数の住民が移転を余儀なくされました。それでも、生活環境が継続的に改善される社会では、「未来は現在より良くなる」という期待を持ちやすい。著者は、とりわけカリフォルニアの人々が、その感覚をもう少し取り戻してもよいのではないかと語っています。

    原子力発電所、橋、高速道路といったインフラを建設してきたことは、中国共産党が体制への支持を維持する基盤の一つにもなりました。政府が人々の求めるものを実際に提供してきた、と説明できるからです。

    社会をエンジニアリングするとどうなるか

    問題は、エンジニアリングの対象がインフラだけにとどまらないことです。同じ発想が社会そのものに向けられると、事態は大きく変わります。

    フーバー研究所での講演で、著者はエンジニア国家の利点を説明したあと、こう続けています。

    中国の問題は、社会のエンジニアもいることです。彼らはどうしても、人を建材の一つのように扱ってしまう。好きなように壊し、組み直してよいものとして扱ってしまうのです。

    (引用の訳は本稿の書き手によるものです。以下も同じです)

    著者が例として挙げるのは、少数民族への収容政策、宗教・文化への介入、戸籍制度、一人っ子政策、ゼロコロナです。一人っ子政策とゼロコロナは、ともに政策目標そのものが数字で表現されています。

    子どもは1人。感染者はゼロ。

    数値目標が絶対化され、その達成過程で生じる個人への影響が後景に退いた。著者はそこに、社会を工学的な最適化の対象として扱う発想を見ています。

    なかでも本書が詳しく扱うのが、一人っ子政策です。始まりは1970年代末でした。毛沢東の死後、中国の指導者となった鄧小平は、人口増加が経済発展を妨げることを懸念していました。

    そこへ登場したのが、ミサイルの制御工学を専門とし、サイバネティクスにも詳しい軍事科学者の宋健です。宋健は、ミサイルの軌道を数式で導くのと同じように、人口の推移もモデル化して思いどおりに動かせると考えました。そこから導き出されたのが、夫婦1組につき子ども1人という解でした。著者は、この発想を「エレガントな解」と表現しています。

    しかし、数式として簡潔であることと、社会政策として妥当であることは別です。中国の公式統計によれば、35年間で3億件を超える中絶が行われ、1億人の女性と2,500万人の男性が不妊手術を受けました。この数字には自発的なものも含まれ、強制された件数だけを示しているわけではありません。それでも、この政策が極めて大規模に実施されたという事実に変わりはありません。著者は、取り締まりがとりわけ農村部の女性に集中したとして、これを人道上の惨事と呼んでいます。

    著者の問題提起は、国家能力そのものに向かいます。人口を数理的な最適化問題として捉える発想があり、そこから導かれた政策を社会全体へ強制できる行政の力もあった。だからこそ一人っ子政策は実行できたのです。国家能力は、高ければ高いほどよいとは限らないのではないか。中国で6年間暮らした結果、著者は「国家能力が過剰になる場合もある」と考えるようになったと述べています。

    中国政治と経済を扱うポッドキャストChinaTalkでは、著者はさらに踏み込んでいます。中国共産党は、一人っ子政策によって「4億人の出生を回避した」と主張してきました。しかし著者によれば、この推計を受け入れない人口学者は少なくありません。中国の出生率は、一人っ子政策が始まる以前の1970年代からすでに急速に低下していました。一人っ子政策が出生率をさらに押し下げた効果は限られていた。それでいて甚大な人権侵害を伴った。そう評価する研究者もいると著者は紹介しています。

    「エンジニア国家」という言葉は、中国のインフラ建設能力を説明するだけではありません。インフラを数値目標によって設計する発想と、人口や社会を同じ最適化の対象として扱う発想。この二つが同じ政治体制のなかで共存しうることも、この言葉は示しています。著者は、中国の強さを説明するために提示した枠組みを、そのまま中国の危うさを説明するためにも使っています。

    評価は割れている

    本書の現地報告は、書評でもおおむね高く評価されています。人的犠牲を正面から書いている点を評価する評者も少なくありません。議論が分かれるのは、「エンジニア国家と法律家社会」という枠組みです。中国の建設力と米国の停滞を、本当に指導層の職業的背景から説明できるのか。主な反論は三つあります。

    第一は、歴史からの反論です。経済学者でブログ「Noahpinion」を書くノア・スミスは、法律家が政治の中心にいた19世紀から20世紀の米国が、実際には膨大なインフラを築き、数々の産業を生み出したことを指摘します。大陸横断鉄道、フォード、GM、州間高速道路、郊外住宅。当時から政治指導層には法律家が多くいましたが、建設や工業化は止まりませんでした。

    米国の政治評論誌The Republicのメアリー・ジュリア・コックも、同じ問題を歴史から指摘します。19世紀前半に米国を訪れ、『アメリカのデモクラシー』を書いたトクヴィルは、すでに法律家を米国で最も有力な階級の一つとして描いていました。トクヴィルが訪れたのは、米国が急速に工業化していた時期でもあります。だとすれば、1960年代以降に米国の建設能力が変化したとしても、「法律家が政治の中心にいること」だけでは説明できません。

    第二は、発展段階からの反論です。発展途上の国では、成長のために資源を動員し、インフラを整備する必要があります。一方、豊かになった国では、既存の資源をどう配分し、権利や環境をどう調整するかが重要になります。この変化は、政治家が工学部出身か法学部出身かとは関係なく起きるのではないか。スミスは、これは豊かな国に共通する現象かもしれないと指摘します。

    英国の書評誌Literary Reviewに寄稿した経済学者リンダ・ユーも、本書が最も説得力を持つのは、現代中国を19世紀末の米国と比較する部分だと評価しています。主要国がサービス業中心の経済へ移行するにつれて建設や製造の比重が低下するのであれば、中国と米国の違いは国家の性格ではなく、経済発展の段階によるものかもしれません。

    第三は、東アジアの他国からの反論です。これは「エンジニア国家」という仮説に、最も厳しい問いを突きつけます。

    経済学者タイラー・コーエンは著者との対談で、製造業に強く、質の高い社会基盤を築いてきた他の東アジア諸国を挙げました。台湾、韓国、シンガポールです。これらの国や地域では、必ずしもエンジニア出身の政治家が統治してきたわけではありません。シンガポールのリー・クアンユーも法律家でした。

    コーエンは、こう問いかけます。

    シンガポールは、挙げた国の中でおそらく最もうまくやっています。中国よりはるかに豊かで、中国に手本を与えました。効いているのがエンジニアだと考えるべき理由は何でしょうか。東アジアであること、そしてこれらの地域に付随するいくつもの事実のほうではないのですか。

    著者は、日本の指導層にも法律家が多いと応じ、香港を統治していた英国の官僚も例に挙げます。そのうえで、中国が近隣の東アジア諸国よりはるかに大規模な成果を上げてきたこと自体が、エンジニアという要因の重要性を示していると主張します。

    これに対してコーエンは、一人あたりの指標を持ち出します。

    中国ははるかに、はるかに貧しいのです。一人あたりの製造業生産では、これらの国のほうがずっとうまくいっています。

    この論点では、コーエンの指摘には説得力があります。中国の人口は台湾のおよそ60倍、日本の11倍あります。国家の統治方法が経済的な成果につながっているかを測るのであれば、人口規模の影響を強く受ける総量だけでなく、一人あたりの成果を見る必要があります。

    著者はその後、総量による比較を続けるのをやめ、説明の軸を変えます。中国の特徴は、共産党が作り上げた官僚制度と、そのなかで官僚に作用するインセンティブから説明できるのではないか。著者はそう述べています。

    さらに、東アジア諸国との違いを「社会そのものをエンジニアリングする度合い」に求めます。出生数を抑制する政策は、日本、韓国、台湾にもありました。しかし、中国ほど強制的な政策を農村部まで徹底した国はありません。感染症対策も東アジア各国で行われましたが、中国のゼロコロナ政策ははるかに強力でした。

    つまり著者は、中国を近隣諸国と分けるものを、単純な「建設能力」から、国家が社会へ介入する強度へと置き換えて説明します。これは、本稿で先に見た一人っ子政策やゼロコロナの議論とつながっています。

    中国の特殊性は、インフラを建設する能力だけではなく、同じ工学的な発想を社会や人間にまで適用できる国家能力にある。そう考えれば、「エンジニア国家」という枠組みには、なお説明力が残ります。ただし、少なくとも「中国が近隣諸国より多くを成し遂げたのだから、エンジニア出身の指導者が原因だ」という論証は弱くなります。

    重要なのは、こうした批判をしている評者たちも、本書そのものを低く評価しているわけではないことです。コーエンは本書をその年の最良の一冊かもしれないと評価し、スミスも中心的な仮説には疑問を呈しながら、重要で刺激的な本として推薦しています。

    仮説には疑問がある。しかし、本は読む価値がある。本書への評価は、この二つが両立したものになっています。

    もう一つの説明——プロセス・ナレッジ

    ここまで見てきたように、「エンジニア国家と法律家社会」という仮説には有力な反論があります。ただし、著者は以前から、中国の製造業の強さについて別の説明も提示してきました。自身のサイトに掲載した長い論考「技術はどう育つか」(How Technology Grows)で論じている、プロセス・ナレッジ(process knowledge)です。この議論では、政治指導者の職業的背景は問題になりません。

    著者は、技術的な知識を大きく三つに分けます。一つ目は、道具や機械そのものに組み込まれている知識です。料理なら、鍋、フライパン、コンロにあたります。二つ目は、文章として記録できる知識です。料理ならレシピです。そして三つ目は、文章だけでは十分に伝えられず、実際の作業を繰り返すことで身につく知識です。

    設備の整った厨房と詳細なレシピを与えられても、料理経験のない人が熟練した料理人と同じものを作れるわけではありません。製造業でも同じです。半導体のウェハーをどう保管するか。クリーンルームへどう持ち込むか。工程ごとの微妙な条件をどう調整するか。こうした知識の多くは、実際に製造を続けるなかで蓄積されます。

    これがプロセス・ナレッジです。マニュアルや設計図だけでは完全には記録できず、現場の技術者や労働者の経験として蓄積される知識や技能を指します。

    そして、この知識は製造を続けることでしか維持できません。工場がなくなり、人が離れれば、設備や設計図だけでなく、そこに蓄積されていたプロセス・ナレッジも失われていく。

    著者は、この見方を米国の製造業にも当てはめます。製造拠点を海外へ移転すると、単に工場や雇用が失われるだけではありません。量産時の問題を解決する経験や、生産規模を拡大する際の知識も失われます。自動化装置や工作機械に強い国の多くが、製造業を国内に残してきた国でもあるのは偶然ではない、と著者は考えます。製品を設計する技術者が、実際の製造工程と継続的に接することができるからです。

    著者はこの考え方から、中国の今後についても比較的強気です。経済ニュース番組Odd Lotsでは、中国経済には多くの問題があり、成長も鈍化していると認めたうえで、それでも製造業と技術は進歩し続ける可能性が高いと述べています。すでに膨大なプロセス・ナレッジが蓄積され、それを維持するための投資も続いているからです。

    中国の経済は減速していますし、経済にも政治にもあらゆる問題があります。それでも彼らは製造と技術では前に進み続けます。製造のプロセス・ナレッジを持っていて、それを押し進める投資も持っているからです。

    すでに起きている例として著者が挙げるのが、自動車産業です。中国メーカーの競争力向上によって、ドイツをはじめとする欧州の自動車産業が圧力を受けている。今後、その影響は東アジアの他国や米国にも広がる可能性があると著者は予測します。

    軍事や安全保障については専門外だと断ったうえで、より明確に見えているリスクとして、西側諸国の製造業への影響を挙げています。中国の技術力が高まり続ければ、米国中西部や欧州各地の製造業がさらに縮小し、それが政治的な問題にも発展する可能性がある、という見方です。

    では米国はどうすべきなのか。著者が最初に挙げるのは、プロセス・ナレッジへの投資です。半導体だけでなく、EV用バッテリーや電子部品などについても、国内で実際に製造を続け、暗黙知を蓄積する能力を高める必要があると主張します。

    ここで重要なのは、この説明には「国家がエンジニア的かどうか」という条件が出てこないことです。問われているのは、製造を続けているか、その経験が蓄積されているか、そのための投資が継続しているかです。「エンジニア国家」という議論が統治者の属性に注目していたのに対し、プロセス・ナレッジの議論は、生産現場に蓄積される経験へ焦点を移しています。

    ただし、これによって政治や制度の問題が消えるわけではありません。著者自身が重要な条件として挙げているのが、「投資が継続すること」です。中国では、国有銀行、地方政府、産業政策がその投資を支えています。何に長期的な資金を投入するかは、国家の制度や政策と切り離せません。

    また、プロセス・ナレッジは台湾や韓国にも蓄積されています。したがって、この概念だけでは「なぜ中国が他の東アジア諸国と異なるのか」までは説明できません。

    それでも、中国の製造業の強さを説明するという目的に限れば、プロセス・ナレッジのほうが「エンジニア国家」という大きな仮説より説得力があります。射程が狭いからです。エンジニア国家という仮説は、橋、高速鉄道、都市開発、製造業、さらには社会政策までを、一つの枠組みで引き受けようとします。一方、プロセス・ナレッジが答えるのは、製造業に強い国はなぜその強さを維持しやすいのか、という問いだけです。対象を絞っているぶん、歴史や他国の事例とも整合させやすくなっています。

    結び

    本書は、中国で何が起きているのかを知るうえで、高い価値があります。著者は2017年から2023年まで中国に住み、都市や工場を訪ねながら、その変化を自分の目で見てきました。貴州の山間部から上海まで、現地で見聞きしたことの記述が、本書の最も強い部分です。この点については、「エンジニア国家と法律家社会」という仮説に批判的な評者からも高く評価されています。

    一方、その経験を説明するための中心的な仮説については、十分に実証されたとは言い難いでしょう。米国は歴史的に法律家が多い社会でありながら、大規模な工業化を実現しました。台湾、韓国、シンガポールは、エンジニア出身の政治指導者を必要とせず、強い製造業とインフラを築いています。そして、中国と米国の違いは、指導者の出身分野ではなく、経済発展の段階によるものだという説明も成り立ちます。

    したがって、「エンジニア国家と法律家社会」は結論として受け入れるより、中国と米国の違いを考えるための仮説として読むほうがよいでしょう。本書に最も鋭い疑問を投げかけたコーエン自身が、同時に本書を強く推薦していることも、その読み方を裏づけています。

    書評で繰り返し指摘されている弱点もあります。一つは、「では米国は何をすべきなのか」という処方箋が十分に具体化されていないことです。もう一つは、中国についての記述に比べ、米国側の分析が薄いことです。米国の停滞を説明する決定的な答えを求めると、物足りなさが残るかもしれません。

    ただし、プロセス・ナレッジという考え方には、本書を離れても応用できる価値があります。自社の製造や技術にも、次のような問いを当てはめてみることができます。

    自社は現在も、重要な製品を自ら作り、その工程を手元に残しているでしょうか。この10年で外部へ移した工程はないでしょうか。その工程を長年担ってきた人が退職したとき、設備や手順書には残らない知識まで一緒に失われていないでしょうか。書かれたものはすべて残っているのに、以前と同じ品質や効率では作れなくなっていないでしょうか。

    こうした問いへの答えは、企業ごとに異なります。外部から簡単に判断できるものでもありません。しかし、本書を読み終えたあとに残るものとしては、「中国はエンジニア国家なのか」という大きな命題より、こうした具体的な問いのほうが実用的かもしれません。

    本稿執筆時点で邦訳は出ていません。英語版は米国のW. W. Nortonと英国のAllen Laneから2025年8月に刊行されました。288ページです。

    中国語を使いながら現地で6年間暮らした著者が、中国の都市、工場、政策をどう見たのか。その記録を読みたいのであれば、十分に面白い本です。逆に、「米国はなぜ作れなくなったのか」という問いに明確な答えを求めるなら、期待には届かないかもしれません。本書の価値は、その答えそのものより、中国と米国を見るための新しい仮説を提示し、それを検証する材料を大量に与えてくれることにあると思います。

    参考リンク