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  • 映画『ナースコール』|人間らしくあり続けることが、英雄的である

    観終わって最初に浮かんだのは、ごく素朴な感想でした。

    「看護師さんって、本当に大変だ」

    気の利いた批評の言葉ではありません。ところが調べてみると、その素朴な感想こそ、作り手が観客に抱かせたかったものでした。

    2025年公開の『ナースコール』(Heldin)は、スイスの映画作家ペトラ・フォルペが監督・脚本を務めた、スイス・ドイツ合作映画です。ベルリン国際映画祭でワールドプレミア上映され、第98回アカデミー賞国際長編映画賞のスイス代表としてショートリスト入りしました日本では2026年3月6日に公開されています

    主演は『ありふれた教室』のレオニー・ベネシュ。人手不足の病棟で遅番を務める看護師フロリアを演じます。

    物語が描くのは、彼女の一度の勤務だけです。病棟の日常を大きく外れるような事件は起きません。

    一人の看護師が出勤し、働き、勤務を終える。ただそれだけの話です。それでも本作は、緊張感のある一本のドラマとして成立しています。

    この記事では、なぜ「ただの一勤務」が映画になるのかを考えます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語中盤の、フロリアが重大なミスを犯すあたりまでに触れます。その後の展開と結末には触れません。

    あらすじ|遅番の始まり

    舞台は、人手不足に陥っている州立病院の外科病棟です。

    プロ意識の高い看護師フロリアが、遅番のシフトに入ります。

    この日は、同僚と二人で26人の患者を受け持ち、さらに実習生の指導まで任されています

    患者への対応。絶え間なくかかってくる電話。鳴り続けるナースコール。

    フロリアは有能で、感じがよく、手際もいい。次々と舞い込む仕事を、一つずつ落ち着いて片づけていきます。

    しかし、やるべきことは減りません。要求は積み重なり、次第に時間が足りなくなっていきます。

    そして極限の忙しさの中で、フロリアは投薬ミスを犯してしまいます。

    ここから先は、劇場で確かめてください。

    テーマ|「人手不足」を、頭ではなく身体で分からせる

    観客にも、遅番を一緒に働かせる

    フォルペ監督は、本作で目指したものをはっきりと言葉にしています。

    インタビューでは、観客にもフロリアと一緒に一度の勤務を乗り切ったような感覚を味わってほしかった、と語っています。

    「人手不足」は、ニュースで聞き慣れた言葉です。しかし、その四文字だけでは、現場で何が起きているのかまでは伝わりません。

    この映画は、言葉でしか知らなかった人手不足を、身体で分かる現実に変えます。

    私が抱いた「とにかく看護師さんって大変だ」という感想は、映画に狙いどおり働かされた結果だったわけです。

    原題は「英雄」。人間らしくあり続けることが英雄的

    邦題の『ナースコール』に対して、ドイツ語の原題Heldinは「女性の英雄」を意味します。

    しかし、フロリアが派手な功績を挙げるわけではありません。誰かを劇的に救って拍手を浴びるような物語でもありません。

    むしろ印象に残るのは、感情を表に出す余裕もないまま、目の前に積み上がる仕事をひたすら処理していく姿です。

    では、この映画は彼女の何を「英雄的」と呼んでいるのでしょうか。

    フォルペは、スイスのインタビューで、どれほど追い詰められてもフロリアが人間らしさを失わないことこそ英雄的なのだ、と説明しています。

    これは、私が劇場で感じたこととも重なります。

    フロリアが機械のように仕事を処理し続けるだけなら、本作は医療現場の忙しさを再現するだけの映画になっていたかもしれません。

    けれど、彼女は機械にはなりません。余裕を失いながらも、患者の不安をくみ取り、目の前の人に向き合おうとします。

    その人間らしさが時折こぼれ出るからこそ、病棟の日常がドラマになります。

    極限の忙しさの中でも、患者を一人の人間として扱おうとすること。

    この映画が「英雄的」と呼ぶのは、その姿勢です。

    原案は、現役看護師の手記

    この映画には、土台となった本があります。

    ドイツの現役看護師マデリン・カルヴェラーゲによる手記『私たちの職業が問題なのではない。問題は環境だ』です。

    フォルペは、読み始めてわずか5分で心拍数が上がったと語っています。その切迫感が、本作の撮り方を考える出発点になりました。

    カルヴェラーゲ自身も、看護監修として映画に参加しています。

    手記の題名は、そのまま本作の主張でもあります。

    フロリア個人に問題があるわけではない。看護師という仕事に問題があるわけでもない。問題なのは、その仕事を取り巻く環境です。

    フォルペは、別のインタビューで、コロナ禍には誰もが看護師に拍手を送り、その仕事の大切さを思い出したのに、やがてまた忘れてしまった、と話しています。

    当たり前の事実をあらためて突きつける映画が必要なのは、私たちがその当たり前をすぐに忘れてしまうからです。

    キャラクター造形|誰も悪くないのに、時間が足りない

    フロリア|有能な人が崩れるから、環境の問題だと分かる

    ベネシュ演じるフロリアは、意欲にあふれ、機嫌よく職場にやって来る有能な看護師です。

    この有能さこそ、人物造形の要です。

    ベネシュは、インタビューで、やる気もあり、気分よく働き始めた人物が、目の前の現実によって次第に追い詰められていく役だと説明しています。

    もし主人公が未熟な新人なら、観客は起きたことを「本人の能力不足」として片づけられてしまいます。

    最初から疲れ切った人物であれば、「燃え尽きた看護師の物語」になるでしょう。

    そうではなく、有能で前向きで、仕事にも十分慣れている人物が崩れていく。だからこそ、原因が本人ではなく、置かれている環境にあることが分かります。

    フォルペがベネシュを起用した理由も、この狙いと結びついています。

    配給資料によれば、監督がベネシュに感じたのは、動作がごく自然に見える軽やかさと、看護の所作をバレエのように滑らかにこなせる身体性でした。

    10年もその仕事を続けてきたように見える人が、それでも持ちこたえられなくなる。

    だからこそ、怖いのです。

    患者と家族|もっともな要求が積み重なり、圧力になる

    この映画のうまいところは、患者やその家族を悪役にしていないことです。

    入院している人は不安です。家族は心配です。一つひとつの要求を見れば、どれももっともなものです。

    病院にいる患者も、その家族も大変なのだということは、観ていればよく分かります。

    しかし、一つひとつは正しい要求でも、すべてを引き受ければ、看護師一人が使える時間を超えてしまいます。

    この映画の敵は、特定の患者でも家族でもありません。

    誰も悪くないまま、もっともな要求だけが積み上がり、現場を押しつぶしていく。その状況そのものが敵です。

    だから観客は、誰かを責めるのではなく、「世話をする側にも限界がある」という当たり前の事実へと導かれます。

    同僚と実習生|一人は、二つの部屋に同時にいられない

    遅番を一緒に回す同僚と、フロリアが指導しなければならない実習生は、人手不足を具体的な数の問題として見せる存在です。

    フォルペは、インタビューで、一人の人間が同時に二つの部屋へ行けないのは、考えてみれば単純な話だと語っています。

    二つのナースコールが同時に鳴れば、どちらかを待たせるしかありません。

    誰かが怠けているわけでも、判断を間違えているわけでもない。ただ、人の数と仕事の数が合っていない。

    この映画の緊張のほとんどは、その単純な事実から生まれています。

    映画技法|看護をダンスとして撮り、勤務をスリラーにする

    流れるカメラ

    フォルペは、看護師の動きをアスリートにたとえています。

    インタビューでは、カートを引きながら絶えず動き続ける看護師の運動量に驚かされ、その動きを流れるようなカメラでたたえたかったと語っています。

    撮影を担当したのは、ユーディット・カウフマンです。

    『ありふれた教室』でもベネシュを撮影しており、本作は同じ主演と撮影監督による再タッグとなりました。

    カウフマンは本作で、撮影技術に特化した国際映画祭カメリマージュの最高賞、金蛙賞を受賞しています

    ベネシュは、インタビューで、カウフマンとともに冒頭の長回しを入念にリハーサルしたと明かしています。

    序盤のフロリアは、病棟の中を滑らかに動き回ります。まだ仕事の流れが途切れず、一つのダンスとして続いている状態です。

    しかし、病棟への圧力が高まるにつれて、そのリズムは少しずつ崩れていきます。

    私が序盤で「機械のように淡々としている」と感じた手際の良さは、実際にはダンスのように振り付けられたものでした。

    最初に滑らかな動きを見せておくからこそ、それが乱れていく後半が効いてきます。

    ほぼリアルタイムで進む一勤務

    物語は、遅番の一勤務にほぼ限定されています。上映時間は91分で、撮影も実在の病院で行われました

    フロリアの私生活を説明する場面や、状況を整理するための回想は、ほとんどありません。

    観客はフロリアと同じ時間の中に置かれ、彼女と同じように、次のナースコールに追い立てられます。

    観客にもフロリアの遅番を一緒に乗り切らせる。

    その監督の狙いを、構成そのものが支えています。

    社会問題をスリラーの文法で描く

    フォルペは、この題材をジャンル映画の言葉で説明しています。

    ドイツのインタビューでは、看護の人手不足を犯罪サスペンスになぞらえ、その「犯罪」とは看護師たちが置かれている労働環境のことだと語っています。

    さらに、いつもどおりに始まった勤務でも、病棟にかかる負担が限界を超えればホラーに変わる、この映画は実のところアクション映画なのだ、とも話しています。

    社会問題を扱う映画は、正しさを伝えることを優先するあまり、観客に我慢を求めてしまうことがあります。

    本作は逆です。

    まずスリラーのように観客を追い詰める。そのうえで、その緊張を生んでいるのが、銃でも殺人鬼でもなく、ただ人手が足りないという現実だと気づかせます。

    観終わった後に、「とにかく看護師さんって大変だ」という感想が身体に残る。

    それは、本作が社会問題をスリラーとして描いたからこそだと思います。

    「ただそれだけの話」であること

    正直に言えば、本作は「ただそれだけの話」です。

    一人の看護師が出勤し、働き、勤務を終える。筋だけをたどれば、それ以上のことは起きません。

    批評も、この点では分かれています。

    英語版Wikipediaの集計によれば、Rotten Tomatoesでは96%が好意的に評価している一方、Metacriticは69点です。

    ガーディアンのピーター・ブラッドショーは5点満点の3点を付け、登場人物が歩きながら会話を重ねていくタイプのドラマだと評しました。

    起伏の大きな物語を期待すると、物足りなさが残るかもしれません。

    ただ、私はこの「それだけ」こそ、本作が意識して選んだものだと受け取りました。

    大きな事件を加えれば、映画としては派手になるでしょう。しかし、そのぶん「特別な一夜の物語」になってしまいます。

    この映画が描こうとしているのは、特別な夜ではありません。明日も、どこかの病院で繰り返される普通の勤務です。

    大事件が起きない映画がドラマとして成立しているのは、事件の代わりに、時間が足りないことそのものをサスペンスに変えているからです。

    まとめ|当たり前の事実を、身体で分からせる映画

    『ナースコール』は、難しい解釈を求める映画ではありません。

    観れば分かります。看護師さんは大変です。

    しかし、その「観れば分かる」を成立させるために、周到な準備が重ねられています。

    現役看護師の手記を土台にする。主演俳優は看護の動作をダンスのように身につける。カメラはその動きを追い、物語は一度の勤務から外へ出ない。

    観客を素朴な感想へと着地させるために、すべてが組み立てられています。

    原題の「英雄」という言葉は、大げさに聞こえるかもしれません。

    しかし、まったく時間が足りない夜に、それでも目の前の一人に人間として向き合おうとすることを英雄的と呼ぶなら、この題名は正確です。

    コロナ禍で看護師に送った拍手を忘れてしまった私たちに、この映画は91分間の遅番を一緒に働かせます。

    その勤務を終えた後では、「看護師さんって大変だ」という言葉の重さが変わっているはずです。

    参考資料