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  • 映画『バックルームズ』|過去は歪んだ部屋となって残り続ける

    映画『バックルームズ』|過去は歪んだ部屋となって残り続ける

    2026年公開の『バックルームズ』(Backrooms)は、無限に続く部屋を題材にしたホラー映画です。蛍光灯が低く鳴り、古びた壁紙とカーペットに覆われた部屋がどこまでも続きます。そこには生活の痕跡があるのに、人が暮らすための場所には見えません。私はこの地下の構造体を見ながら、過去の不完全な複製が蓄積した場所なのではないかと思いました。

    ただし、過去は元の形では残っていません。家具は壁や床に埋まり、標識は誤った向きに設置され、扉は人が通るには不自然な大きさになっています。思い出すたびに細部が失われていく記憶のように、現実にあった物が歪んで保存されているのです。

    同時に、この構造体には現代美術のインスタレーションを思わせるところがありました。インスタレーションとは、物を並べるだけでなく、展示された空間そのものを作品にする表現です。『バックルームズ』では、登場人物だけでなく観客も異様な空間の内側に置かれます。怪物が現れる前から、部屋そのものを見ているだけで落ち着きません。

    ネタバレについて

    この記事では物語の中盤までに触れます。結末には触れません。

    あらすじ|地下の壁の向こうに無限の部屋が現れる

    1990年、北カリフォルニアで家具店を営むクラーク(キウェテル・イジョフォー)は、仕事にも私生活にも行き詰まっています。ある日、店の地下にある壁の隙間から、建物の広さでは説明できない空間を見つけます。その先にあったのは、黄色い壁紙に囲まれ、蛍光灯に照らされた部屋でした。廊下を曲がっても階段を下りても、似ているようで少しずつ違う部屋が続きます。

    クラークは危険を感じながらも、空間の寸法を測り、地図を作り始めます。クラークの担当セラピストであるメアリー(レナーテ・レインスヴェ)は、その執着を止めようとします。しかし、彼女もまた幼いころに失った家の記憶を抱えていました。やがてメアリーはクラークを追い、地下の構造体へ入っていきます。

    テーマ|過去を調べ続けるうちに現在から離れていく

    過去は元の形のまま戻らない

    構造体の奥へ進むほど古い時代に近づいていくのではないか。私は観ながら、そう考えました。映画の中で年代順の規則が説明されるわけではありません。それでも、地下へ下りる動きは過去をさかのぼる感覚と重なります。現在の建物から離れるほど、そこにある家具や標識が元の形を失い、過去の不確かな複製のように見えるからです。

    ケイン・パーソンズ監督は、本作が置き去りにされた過去と、もう存在しない過去へ戻りたいという願いを扱っていると説明しています。美術を担当したダニー・バーメットも、奥へ進むほど現実から複製された物が曖昧になり、元の形を失うように作ったと話しています。A24のプレスノート美術監督へのインタビューを踏まえると、私にはこの場所が、過去をそのまま保管するのではなく、不完全な複製として残す場所に見えます。

    思い出は、過ぎた時間を正確に再現してくれません。取り戻そうとするほど、足りない部分を自分で補うことになります。だからこそ、見覚えがあるのに何の場所か分からない部屋は不気味です。懐かしさは安心だけではなく、自分が何を忘れたのか分からない怖さも連れてきます。

    説明を求めることが逃避に変わる

    クラークは構造体を恐れながら、測定をやめません。地図を作れば理解できると思っているからです。しかし、彼が調べるほど、現実の仕事や人間関係は遠ざかります。理解しようとする態度は理性的に見えますが、本作ではそれが現在へ戻らないための口実にもなっています。

    異空間は、クラークとメアリーの心が生んだ幻ではありません。二人とは別の場所でも調査が進められています。それでも二人が自分の過去を構造体に重ねてしまうのは、意味の分からないものを前にすると、自分の知っている説明に当てはめたくなるからでしょう。恐ろしいのは、正体が分からないことだけではありません。一度与えた説明に納得し、その場所から離れられなくなることです。

    キャラクター造形|二人は別の方法で過去に縛られている

    クラークは歪んだ空間に安らぎを求める

    クラークは、建築家になる夢にも結婚にも失敗し、家具店の経営にも苦しんでいます。現実では、彼の選択が間違っていたかもしれないと認めなければなりません。ところが構造体の中では、測るべき部屋が次々と現れます。答えが出ない限り、彼は調べ続けることができます。

    パーソンズ監督によれば、人工物に関心を持つクラークは、異空間へ入ると頭が冴えたように感じます。しかし、その安堵は回復ではありません。変わらなくてもよい場所へとどまることで、現実の苦しみを忘れているだけです。A24のプレスノートで語られたこの人物像は、歪んで保存された過去をクラークが心地よく受け取っているように見えた理由を説明してくれます。

    クラークにとって構造体は、失敗を突きつけない場所です。同じような部屋を巡っている限り、進めないことを誰にも責められません。彼が迷路に夢中になる姿には、過去を理解したい気持ちと、現在を変えたくない気持ちが同居しています。

    メアリーは他人を助ける方法を自分には使えない

    メアリーは、過去に取ったのと同じ行動を繰り返す状態から抜け出す方法を患者に説いています。ところが、自分も幼いころに失った家を忘れられません。他人の問題を言葉で整理する仕事をしながら、自分の過去には同じ方法を使えないのです。

    彼女がクラークを追って構造体へ入ることを、過去の受容とも拒絶とも簡単には決められません。助けようとしているのはクラークなのか、自分自身なのか。その境目も曖昧です。メアリーはクラークより冷静に見えますが、説明を必要としている点では彼と変わりません。クラークは空間を測り、メアリーは人の心を言葉で整理します。どちらも、理解できれば前へ進めると信じています。

    そのため、二人は単純な対照にはなっていません。クラークが過去の中に居場所を作ろうとする一方で、メアリーは過去を処理する方法を探しています。しかし、方法を探し続けること自体が、過去から離れない理由にもなります。二人の違いよりも、その共通点のほうが本作の怖さにつながっています。

    映画技法|実物の迷路が空間そのものを作品にする

    歪んだ家具が記憶の不確かさを形にする

    壁に埋まった家具、逆向きの標識、小さすぎる扉。どれも現実にある物ですが、配置や向き、大きさが間違っています。観客は何が間違っているのかすぐに理解できても、なぜそうなったのかは説明できません。このわずかなずれが、よく知っている場所へ戻ったはずなのに、記憶と一致しない感覚を生みます。

    私はこの構造体を、巨大なインスタレーションのように感じました。絵画のように正面から眺めるのではなく、人が中を歩き、距離や音や物の配置を身体で受け取る作品です。本作でも、登場人物が部屋の中を移動することで、家具の大きさや天井の低さ、出口の見つからなさが伝わります。構造体は物語の背景ではありません。人物がどこへ歩き、何を見失うかを決める存在です。

    俳優も迷う実物セットが閉塞感を生む

    この感覚を支えたのが、実際に組まれた巨大なセットです。製作陣は四つの撮影所にまたがる約3万平方フィートの迷路を作り、スタッフが迷わないよう毎日地図を用意しました。さらに、3万2,000平方フィートの壁紙と2万7,000平方フィートのカーペットを使い、撮影の都合で壁を取り外せる構造にはしませんでした。出演者と撮影隊も限られた出入り口から中へ入り、迷路を歩いて撮影しています。A24のプレスノートSony Cineによる撮影監督への取材には、その規模と撮影方法が記されています。

    メアリーを演じたレナーテ・レインスヴェは、セットの中で正気を失うのではないかと少し心配になり、一人では歩きたくなかったと振り返っています。GamesRadar+のインタビューからも、閉塞感が演技だけで作られたものではないことが分かります。俳優の身体が実際に迷路へ置かれたからこそ、出口を探す視線や歩く速度に切実さが生まれています。

    16歳の試作が長編映画の空間へ育つ

    パーソンズは16歳のとき、BlenderとAfter Effectsを使った映像効果の試作として、9分間の短編を作りました。公開後の2週間で2,000万回再生され、それが長編映画の出発点になりました。長編を監督した当時、パーソンズは20歳で、A24史上最年少の長編監督となりました。企画を売り込んだ時点で、彼は異空間の全体をBlenderで作っていました。A24のプレスノートによれば、画面の中だけにあった迷路が、実物のセットへと発展したことになります。

    若い監督がインターネット上の短編を長編にしたという経歴だけが重要なのではありません。コンピューター上で壁を自由に配置して作った迷路を、俳優が歩ける空間として作り直し、カメラの位置も現実の制約に合わせたことに意味があります。空想の迷路が現実の広さと重さを得たため、観客は構造体を設定として理解するだけでなく、そこへ入った人物の窮屈さまで感じられます。

    まとめ|過去に意味を与えるほど迷路から離れられない

    『バックルームズ』の構造体が何であるかを、一つの答えに決める必要はないと思います。物語の中では独立して存在する異常な空間であり、クラークやメアリーだけの記憶ではありません。それでも、二人がそこに過去を重ねることで、黄色い部屋は個人的な場所へ変わっていきます。

    私には、下へ進むほど古い時代へ近づくように見えました。ただし、そこに残るのは正確な過去ではありません。家具や標識は元の姿から少しずつ歪み、人の記憶も元の出来事から少しずつずれています。クラークはその歪みの中に安らぎを見つけ、メアリーはそこから抜ける方法を探します。けれども、二人とも過去を理解しようとすることをやめられません。

    怪物に襲われる怖さよりも、見覚えのある部屋に居心地のよさを感じてしまうことのほうが、私には恐ろしく思えました。過去を知れば前へ進めるとは限りません。過去に説明を与え続けることで、現在へ戻る理由を失うこともあります。無限に続く構造体の正体は、忘れられない過去そのものではなく、過去を理解し終えるまで動けない人が、いつまでもとどまれる場所なのかもしれません。

    参考資料