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  • 映画『ランニング・マン』|原作に忠実な再映画化、その代償と価値

    2025年公開の『ランニング・マン』(The Running Man)は、スティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で1982年に発表した小説『バトルランナー』の、二度目の映画化です。

    監督はエドガー・ライト、主演はグレン・パウエル。日本では2026年1月30日に、東和ピクチャーズの配給で公開されました(Wikipedia日本語版)。

    1987年のアーノルド・シュワルツェネッガー主演版が、原作を大きく作り替えた映画だったのに対し、今回は原作への忠実さを打ち出した再映画化です(Wikipedia英語版)。

    本作を観て私が抱いた感想は、「エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい」というものでした。

    では、この「もう少し」の正体は何だったのでしょうか。

    単なるないものねだりなのか。それとも、映画の設計そのものに理由があるのか。

    監督と原作者の発言をたどりながら、考えていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、逃亡が本格化する物語の中盤までに触れます。

    結末と、そこへ至る終盤の展開は伏せています。未見の方も、物語の前提とゲームの仕組みを知る程度の内容としてお読みいただけます。

    あらすじ|娘の薬代のために、死のゲームへ

    舞台は、富裕層と貧困層にはっきり分断された近未来のアメリカです。

    ベン・リチャーズ(グレン・パウエル)は職を失い、幼い娘の治療費にも困っています。

    彼が賞金を目当てに応募するのが、国営テレビ局の人気リアリティショー「ランニング・マン」です。

    その実態は、殺人ハンターに30日間追われ続ける、命がけのゲームでした。

    生き延びれば巨額の賞金。捕まれば死です(Wikipedia日本語版)。

    リチャーズの逃亡は、全国へ中継されます。

    あらすじとして必要なのは、ここまでです。

    テーマ|2025年に現実が追いついた小説

    「想像もできなかった未来」に、現実がたどり着いた

    原作の物語は、2025年に設定されています。

    キングは英国映画協会(BFI)の対談で、『ランニング・マン』を書いた当時、2025年はあまりにも遠い未来で、頭の中で捉えることすらできなかったと振り返っています(BFI Sight and Sound)。

    その2025年に、二度目の映画化が公開されました。

    原作の設定年と映画の公開年が重なったのは偶然かもしれません。しかし、この一致は、本作の意味を考えるうえで重要です。

    ライト監督は同じ対談で、原作の先見性について語っています。

    小説が描いたのは、「ランニング・マン」という一つの番組だけではありません。複数の番組を抱え、人々の生活全体を包み込むテレビネットワークでした。

    リアリティショーや配信サービスが日常になった現在だからこそ、この小説は現実味を持って迫ってきます。

    ライト監督が、いま原作に忠実な映画化へ取り組んだ理由も、そこにあったのだと思います。

    貧しい人間の死を、毎晩の娯楽に変える

    劇中の「ランニング・マン」は、貧しい男の命がけの逃亡を、毎晩の娯楽として放送します。

    本作の諷刺が向けられているのは、ゲームの残酷さだけではありません。

    人間の苦痛を映像に変え、視聴率や広告収入を生み出し、それを観客が消費し続ける仕組みそのものです。

    人が死ぬことよりも、それを番組として成立させてしまう社会のほうが恐ろしい。

    本作は、そうした世界を描いているように見えます。

    原作の「獰猛なユーモア」を選ぶ

    私の感想に直接つながるのが、映画全体の語り口です。

    ライト監督は原作について、「非常に陰惨なディストピア小説だが、獰猛なユーモアも持っている」と語っています(Film Stories)。

    ディストピアとは、管理や格差によって人間の自由が奪われた、暗い未来社会を描く物語です。

    ライト監督は参照作品として、『未来世紀ブラジル』や『ニューヨーク1997』を挙げています。

    悪夢のような社会を描きながら、娯楽映画として観客を走らせる。その方向を目指したと説明しています。

    つまり、本作が選んだ笑いは、『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』で見せた軽妙なギャグとは違います。

    悲惨な社会を、冷たく突き放して笑うブラックユーモアです。

    監督自身の笑いを付け加えるよりも、原作に備わっていた獰猛な笑いを生かすことが優先されています。

    原作者キングの承認

    完成した映画について、キングは明確に満足を示しています。

    BFIの対談では、「結果的に物事は本当にうまくいった。私の天使はエドガー・ライトだった」とまで語りました(BFI Sight and Sound)。

    脚本上の変更点についても、キング本人が承認したことが記録されています(Wikipedia英語版)。

    本作が掲げた「原作への忠実さ」は、宣伝上の言葉だけではありません。

    少なくとも原作者は、この再映画化を自分の小説に沿った作品として受け入れています。

    キャラクター造形|走る者、売る者、追う者

    本作の登場人物は、追われる者、それを見世物として売る者、そして追う者に分けられます。

    その役割自体が、作品のテーマを表しています。

    ベン・リチャーズ|等身大の逃亡者

    1987年版のリチャーズは、冤罪で追われる屈強な警官でした。

    最初から、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる強い男だったのです。

    一方、本作のリチャーズは、原作に沿った普通の労働者です。

    職を失い、娘の薬代に困り、賞金を得るために番組へ参加します。

    ライト監督は原作の魅力として、物語の視点が最初から最後までリチャーズに張り付いていることを挙げています(Film Stories)。

    観客を安全な場所に置かず、追われる側の視界へ引きずり込む。

    映画版にも、この構えが受け継がれています。

    グレン・パウエルについては、スターらしい存在感と、普通の人間らしさを同時に持っていると評価する批評があります(Gizmodo)。

    賞金のために走らされる労働者という役に、その両面がよく合っています。

    ダン・キリアンとボビー・T|メディアの二つの顔

    ジョシュ・ブローリン演じるダン・キリアンは、番組のプロデューサーです。

    コールマン・ドミンゴ演じるボビー・Tは、番組の司会者です。

    キリアンは、貧しい人間の死を視聴率と利益へ変える、経営側の顔です。

    ボビー・Tは、それを歓声と興奮へ変える、演出側の顔です。

    とりわけボビー・Tは、本作のブラックユーモアを最も強く背負う人物です。

    人が殺されるゲームを、明るく陽気な番組として盛り上げる。

    その司会ぶりこそ、映画の諷刺を最も分かりやすく示しています。

    エヴァン・マッコーン|社会のどこまでも追ってくる暴力

    リー・ペイスが演じるエヴァン・マッコーンは、リチャーズを追うハンターの中心人物です。

    1987年版のハンターは、地下アリーナの中で戦う、プロレスラーのような見世物の悪役でした。

    本作のマッコーンは違います。

    国中を移動しながらリチャーズを追跡する、本物の殺し屋として描かれます。

    暴力は、番組の舞台の中だけに存在するのではありません。

    社会のどこへ逃げても追ってきます。

    ゲームの舞台が全国へ広がったことと、ハンターの造形は対応しています。

    映画技法|逃亡の空間と、1987年版への目配せ

    地下アリーナから、全国規模の逃亡劇へ

    1987年版は、ゲームを地下アリーナという限られた空間に閉じ込めていました。

    一方、ライト版は原作に沿い、アメリカ全土を舞台にした逃亡劇として作られています。

    セットとロケーションは170カ所に及び、撮影は2024年11月から2025年3月まで、ロンドン、グラスゴー、ブルガリアで行われました(Film StoriesWikipedia英語版)。

    アリーナの外へ出れば安全、という世界ではありません。

    街も家も道路も、すべてが番組の舞台になります。

    社会全体がメディアに監視され、生活のあらゆる場所が見世物に変えられている。

    本作の広い空間設計は、その世界観を映像として成立させています。

    「ライトらしさ」は、笑いよりもリズムにある

    撮影監督は、『お嬢さん』などのパク・チャヌク監督作品や、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』で知られるチョン・ジョンフンです。

    音楽はスティーヴン・プライス、編集は長年ライト監督と組んできたポール・マクリスが担当しています(Wikipedia英語版)。

    本作では、ライト監督らしいギャグが前面には出てきません。

    それでも、監督らしさが失われたわけではありません。

    逃走と追跡を途切れさせず、場面を次々につないでいく速度感。音楽と映像を合わせながら、観客を前へ押し続ける編集。

    本作でライトらしさを探すなら、笑いの数よりも、このリズムにあるのだと思います。

    100ドル紙幣になったシュワルツェネッガー

    1987年版の主演、アーノルド・シュワルツェネッガーは、本作では劇中の100ドル紙幣の肖像として登場します。

    本人も、主演のグレン・パウエルに全面的な支持を伝えたと報じられています(Wikipedia英語版)。

    かつての主演俳優を、紙幣の顔として登場させる。

    これは単なるファンサービスではないように見えます。

    金のために人間が命を賭けて走る世界で、過去の勝者は通貨の象徴になっている。

    1987年版への目配せを、本作の金と権力の諷刺に組み込んだ演出です。

    まとめ|足りないのではなく、種類が違った

    冒頭の感想に戻ります。

    エドガー・ライト監督らしいユーモアが、もう少し欲しい。

    ここまで考えてみると、本作に笑いが足りなかったわけではありません。

    本作が選んだのは、ライト監督の過去作で見られた軽妙なギャグではなく、原作に備わっていた冷たく獰猛な諷刺でした(Film Stories)。

    『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『ホット・ファズ』の笑いと、バックマン名義の原作にある笑いは、同じ「ユーモア」という言葉ではまとめきれません。

    私が感じた物足りなさの正体は、笑いの量ではなく、種類の違いでした。

    ライト監督のユーモアが減ったというより、今回ライト監督が選んだユーモアが、私の期待していたものとは違ったのです。

    この感想は、批評の分布とも重なっています。

    Rotten Tomatoesの批評家支持率は61%で、総評では、創意に富んだアクション映画を作ってきた監督の高い基準には届かないものの、滑らかな走りは保っていると評価されました(Wikipedia英語版)。

    製作費1億1,000万ドルに対し、世界興行収入は参照時点で6,900万ドルでした。

    批評と興行の両方で、大きな成功を収めたとは言いにくい結果です。

    一方、前半の勢いとパウエルの演技を評価し、問題は主に終盤の構成にあるとする好意的な批評もあります(Gizmodo)。

    本作の評価は、ユーモアだけで決まるものではありません。

    原作への忠実さを選んだ結果、監督固有の軽妙さが薄くなった。

    私はいま、それを単純な欠点ではなく、選択に伴う代償として捉えています。

    2025年という設定年に現実が追いついたその年に、原作の獰猛さを、獰猛なまま映画にする。

    その判断には、確かな価値がありました。

    その価値を認めたうえで、それでも「もう少し欲しかった」という感想は、正直なものとして残しておきます。

    参考資料