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  • 映画『センチメンタル・バリュー』|語れない父娘を支える人物の配置

    2025年公開の『センチメンタル・バリュー』(Affeksjonsverdi)は、ヨアキム・トリアー監督の長編6作目です。

    第78回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。第98回アカデミー賞では、作品賞・監督賞・脚本賞を含む8部門で計9ノミネートを果たし、国際長編映画賞を受賞しました。ノルウェー映画としては初の快挙です(カンヌ国際映画祭公式サイトアカデミー賞公式サイト)。

    さらに、レナーテ・レインスヴェ、ステラン・スカルスガルド、エル・ファニング、インガ・イブスドッテル・リッレオースという主要キャスト4人全員が、演技部門の候補になっています。

    映画『センチメンタル・バリュー』

    観終えて最初に浮かんだ感想は、「キャラクター造形が素晴らしい」でした。

    ただ、この一言だけでは、演技がうまい、人物がよく書けている、という以上のことを言えていません。

    では、その素晴らしさは何によって生まれているのでしょうか。

    この記事では、人物同士の「配置」、人物を作る「方法」、そして人物たちの記憶を抱える「家」という三つの層に分けて考えます。

    日本では、2026年2月20日にギャガ配給で公開されました(日本公式サイト)。

    ネタバレについて

    この記事では、結末の意味まで踏み込みます。

    劇中映画の内容や、登場人物が隠している過去、ノーラの自殺未遂にも触れます。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|15年ぶりの父と、一本の脚本

    オスロの古い生家で、舞台俳優のノーラと、歴史家の妹アグネスは母親を亡くします。

    葬儀に姿を現したのは、15年前に家族のもとを去った映画監督の父グスタフでした(日本公式サイト)。

    彼が持ってきたのは、新作映画の脚本と、ノーラへの主演依頼です。

    映画の題材は、この家で自ら命を絶ったグスタフの母カリンでした。

    ノーラは出演を拒みます。

    グスタフは、フランスの映画祭で出会ったハリウッドスター、レイチェル・ケンプを代役に起用し、企画を進めます。

    ところがレイチェルは、役の本質に自分が届いていないことに気づき、自ら降板します。

    やがて父の脚本を読んだノーラは、出演を決意します。

    そして、グスタフの映画の撮影が始まります。

    テーマ|語られないことの空白

    言葉の代わりとしての映画

    トリアーは本作について、家族の中にある「語られないことの空白」をなぞろうとした映画だと説明しています(InSession Film)。

    グスタフは、家族と直接向き合えません。

    娘との関係を修復したいという気持ちも、母親の死を題材にした脚本と主演依頼という、仕事の形でしか表せない。

    英国の映画誌Little White Liesは、彼を「仕事以外の方法では、根本的に自分を語れない父親」と要約しています(Little White Lies)。

    グスタフにとって映画は、自己表現の手段であると同時に、家族との唯一の連絡手段でもあります。

    だから本作が問うているのは、映画が言葉の代わりになれるのか、ということだと思います。

    直接は語れない父親の思いを、娘は映画を通して受け取ることができるのか。

    物語全体が、その可能性と限界を探っています。

    三世代にわたる傷の継承

    物語の底には、第二次世界大戦の記憶があります。

    グスタフの母カリンは、戦時中にナチス占領軍から拷問を受け、戦後、この家で自ら命を絶ちました。

    アグネスは後に、祖母が残した証言記録を発見します。そこで初めて、家族の傷が一人の問題ではなく、世代を越えて受け継がれてきたものだと分かります。

    トリアーも、世代間で受け継がれる悲しみについて、「継承された悲嘆の真実が、映画の中に現れていてほしい」と語っています(InSession Film)。

    祖母の傷は、息子であるグスタフへ渡ります。

    グスタフはその傷を、家族ではなく映画へ向けました。その結果、娘たちは父親の不在という別の傷を抱えます。

    そしてノーラもまた、自分の苦しみを誰にも語れず、自ら命を絶とうとした過去を隠しています。

    語られなかった傷が、形を変えながら次の世代へ渡っていく。

    本作の家族関係を理解するうえで、戦争の記憶は背景ではなく、物語の出発点です。

    ノルウェー国内には、この戦争の層こそ本作の核心であるにもかかわらず、十分に論じられていないと指摘する映画研究者もいます(Aftenposten)。

    答えをひとつに絞らない構え

    一方でトリアーは、映画の主題を一つの結論へまとめることを避けています。

    イデオロギーによって限定された映画を作らないよう、最善を尽くしている。行動として豊かで、手触りのある映画にし、異なる人が異なるものを持ち帰れるようにしたい。

    InSession Film

    本作は、「芸術が家族を和解させる物語」と要約することもできます。

    しかし、映画はそこまで単純な結論には進みません。

    グスタフが良い父親に生まれ変わるわけではなく、過去の傷が消えるわけでもない。映画を一緒に撮ったからといって、家族が完全に修復されるとも限りません。

    届いたものはある。

    けれども、すべてが解決したわけではない。

    その手前で止まる抑制が、結末の作り方にもつながっています。

    キャラクター造形|4人がテーマを分担する

    私が感じた「キャラクター造形の素晴らしさ」を、ここで具体的に考えます。

    優れているのは、それぞれの人物が細かく書き込まれていることだけではありません。

    4人が、物語の異なる位置へ正確に配置されていることです。

    トリアー自身も、人物同士のバランスを本作で最も誇りに思う点の一つに挙げています。

    この物語は、多くの人物から成り立っている。脚本から編集まで、私が最も誇りに思うことの一つは、登場人物たちを互いに向けて均衡させ、全体として一つの物語にしたことだ。

    Script Magazine

    共同脚本のエスキル・ヴォクトとの執筆も、物語を先に考えるのではなく、「姉妹というアイデア」と「レナーテ・レインスヴェという俳優」から始まったといいます。

    人物が物語に先行していたのです。

    以下、4人がテーマのどの位置を受け持っているのかを見ていきます。

    ノーラ|語れなさを最も深く抱えた人

    ノーラは、舞台の上では他人の言葉を語れるのに、自分の傷は誰にも語れない俳優です。

    開演直前に舞台へ立てなくなり、劇場の中を逃げ回り、周囲に「叩いて正気に戻して」と頼むパニック発作の場面は、その矛盾を凝縮しています。

    症状は深刻ですが、劇場内をさまよう動きには、どこか喜劇的なところもある。

    レインスヴェは、あの場面で身体的なコメディを演じることを楽しんだと語っています(AwardsWatch)。

    悲しみだけに閉じず、可笑しさを混ぜることで、ノーラは「傷ついた娘」という記号ではなくなっています。

    彼女には、誰にも打ち明けていない自殺未遂の過去があります。

    そして父親の脚本を読んだとき、そこに書かれた行為が、自分だけが知っているはずの過去と重なっていることに気づきます。

    グスタフが事実を知って書いたわけではありません。

    それでも、父親が創作を通して、偶然にも娘の傷へ触れていた。

    その発見が、ノーラが出演を受け入れる転機になります。

    父親による芸術を介した接近を拒む位置から、受け取る位置へ。

    4人の中で最も大きく動くのがノーラです。

    ノルウェー公共放送NRKの批評は、レインスヴェが『わたしは最悪。』とはまったく異なる役を演じ、「外面の奥にある、はっきりとしたメランコリー」を見せていると評しました(NRK Filmpolitiet)。

    グスタフ|映画でしか語れない父

    グスタフは、「芸術でしか語れない人間」の極にいます。

    家族に対しては不器用で、自己中心的です。娘たちが何を求めているのかも、ほとんど理解していません。

    ところが映画作りの中では、人間の感情の細部へ届くことができる。

    9歳の孫への誕生日プレゼントにDVDを選ぶ場面は、笑いを誘います。

    しかし、その可笑しさによって、彼が家族の現在からどれほど取り残されているかも正確に伝わります(Little White Lies)。

    英国のTime Outは、グスタフを「不快だが、彼なりに愛情深い。カリスマ的に賢明でありながら、同時に愚か者でもある」と評しています(Time Out)。

    善い父親でも、単純な悪い父親でもない。

    娘を傷つけた事実と、娘を愛していることが同時に存在します。

    スカルスガルドは、トリアーの撮影現場では、俳優が生きた人物を共に作る自由を与えられると語っています(NRK)。

    脚本に書かれた父親像を一方的に演じるのではなく、俳優も人物の共作者になる。

    グスタフの矛盾を簡単に整理しない生々しさは、そうした作り方から生まれているように見えます。

    アグネス|家を愛せる側の痛み

    妹のアグネスは、ノーラの対照として置かれています。

    トリアーは、アグネスは生家に懐かしさと喜びを感じている一方、ノーラはそうした感情を拒んでいると説明しています(InSession Film)。

    アグネスは家庭を持ち、4人の中では最も安定しているように見えます。

    しかし、父親との過去に傷がないわけではありません。

    子どものころ、グスタフの映画に出演した経験があります。撮影中の父親は、普段とは違い、自分に心を開いてくれているように見えました。

    だからこそ、その記憶は幸福であると同時に、今もアグネスを揺さぶります。

    父親とつながるためには、映画に出演する必要があったのではないか。

    その疑問が残っているからです。

    また、歴史家であるアグネスは、祖母カリンの証言記録を発見し、家族の傷の起点を調べる役割も担います。

    ノーラが傷を身体で抱える人物なら、アグネスは資料を読み、過去に言葉を与える人物です。

    職業の設定そのものが、テーマと結びついています。

    Time Outは、彼女を「よりうまく人生へ適応しているように見えるが、父親の映画に使われた子ども時代の記憶に深く動揺している人物」と要約しています(Time Out)。

    レイチェル|外から来た代役が照らすもの

    エル・ファニング演じるレイチェル・ケンプは、ノーラが拒んだ役を引き受けるハリウッドスターです。

    彼女が出演することで、映画に大手配信会社の出資が決まります。

    グスタフにとってレイチェルは、娘の代役であると同時に、映画を実現するための資金を呼び込む存在でもあります。

    しかしレイチェルは、単なる「理解の浅いハリウッドスター」としては描かれません。

    真摯に役へ向き合い、ノルウェー語を学び、ノーラの人生を理解しようとする。

    それでも最後には、この役は自分が演じるべきものではないと気づき、自ら降ります。

    その誠実な撤退によって、グスタフの脚本が何を求めていたのかが明らかになります。

    必要だったのは、有名な俳優でも、技術的に優れた俳優でもありません。

    この家族の傷を、自分のものとして抱えている人物でした。

    外部から来たレイチェルを置くことで、ボルグ家の3人にしか分からないものの輪郭が、かえってはっきりします。

    レイチェルは家族の外にいるからこそ、家族の物語が誰のものなのかを照らす人物です。

    変わらない父と、受け取り方を変えた娘

    4人の配置を踏まえると、本作の和解が独特な形をしていることに気づきます。

    グスタフは最後まで、語り方を変えません。

    直接謝ることも、家族に向かって自分の感情を説明することもできない。映画でしか語れないままです。

    変わるのはノーラの側です。

    姉妹で父親の脚本を読み、そこに自分たちの知っているグスタフとは異なる、傷つきやすさと共感を見つけます。

    父親が別人になったわけではありません。

    娘が、父親の不完全な言葉を別の回路で受け取れるようになった。

    変わらない父親を、変わった娘が受け取る。

    私には、この構図こそが、ありふれた和解劇との違いを生んでいるように見えました。

    映画技法|人物を支える技術の選択

    35mmフィルムと「顔」

    人物の印象は、脚本と演技だけで作られたものではありません。

    撮影方式の選択も、それを下から支えています。

    本作は35mmフィルムで撮影されました。

    撮影監督のカスパー・トゥクセンは、その理由を次のように説明しています。

    顔とポートレートが、この映画の大きな要素だった。肌を美しく描くうえで、フィルム以上のものはないと私たちは考えている。

    Kodak

    この映画では、人物が感情を言葉で説明しません。

    だからこそ、顔に浮かぶわずかな変化が重要になります。

    ノーラの不安、グスタフの後悔、アグネスの戸惑い、レイチェルの気づき。

    語られないものを受け取るために、観客は人物の顔を見続けることになります。

    劇中に挿入されるグスタフの過去の映画は、古いズームレンズを使い、本編とは異なる質感で撮影されています(同上)。

    現在の家族の顔と、グスタフが過去に作った映画の顔。

    撮影方法を変えることで、現実と作品内作品の距離も表現されています。

    俳優に反応するカメラ

    トゥクセンは、カメラと人物の関係について、すべてが登場人物から切り離されず、つながっていると感じられることが重要だったと語っています(The Film Stage)。

    手持ちカメラでは、俳優の演技に集中し、その動きに小さく反応する。

    一方では、台車を使った滑らかな移動や、かっちりと構図を決めたショットも使う。

    感情が揺れている場面と、家族が決められた位置へ押し込められている場面とで、カメラの動き方も変わります。

    トゥクセンは、自分の役割を「演技が観客にどう受け取られるかを試す、最初の観客のようなもの」とも表現しています(Kodak)。

    カメラがまず、俳優の演技を受け取る。

    人物の生々しさは、演技を決められた構図へ押し込むのではなく、カメラ側が反応する撮り方にも支えられています。

    家というもうひとりの登場人物

    映画は、ノーラが小学生のころに書いた作文の朗読から始まります。

    「物になったつもりで書く」という課題に対して、彼女が選んだのは家でした。

    家が感情を持つ存在として語られ、その中で暮らし、死んでいった複数の世代が、同じ構図をつないだ編集で映し出されます。

    トリアーは、この家を、ほとんど実体を持った登場人物のように扱ったと語っています(InSession Film)。

    家には、祖母カリンの死が残っています。

    グスタフが家族を撮った記憶があり、ノーラとアグネスが育った時間がある。

    家族が語れなかったことを、家だけがすべて見ています。

    撮影監督のトゥクセンによれば、トリアーは最初のロケハンで家の中を歩いた時点で、家を捉える長回しの構想をすでに持っていました(The Film Stage)。

    この映画では、物語に合う家を後から探したのではありません。

    家と出会ったことから、物語の形が見えてきたのです。

    終盤、グスタフは映画の製作資金を得るために家を売ります。

    そして撮影所には、その家を再現したセットが建てられます。

    本物の家を手放し、記憶を再現した偽物の家で映画を撮る。

    原題の「Affeksjonsverdi」は、市場価格とは別に、持ち主が物へ感じる愛着上の価値を意味します。

    家の愛着上の価値を金へ換え、その金で家の複製を作る。

    この展開によって、タイトルの意味が最も鋭い形で表れます。

    結末|無言の長回しが完成させるもの

    ラストシーンは、劇中映画の撮影です。

    家を再現したセットの中でノーラが演じ、グスタフはカメラのレンズ越しに娘を見つめます。

    視線は交わされますが、和解の言葉はありません。

    父親が謝罪し、娘が許すという対話は、最後まで描かれません。

    二人がつながることができるのは、やはり映画を通してだけです。

    これを和解と読むこともできます。

    一方で、映画の中でしか成立しない、限られたつながりと読むこともできる。

    トリアーは、どちらか一方へ結論を決めません。

    「語れない家族」を描いてきた映画が、最後も語らせないまま終わる。

    キャラクター造形の素晴らしさは、この結末の抑制によって完成していると思います。

    まとめ|三つの層でできた「素晴らしさ」

    冒頭の感想に戻ります。

    この映画のキャラクター造形の素晴らしさは、三つの層でできていました。

    一つ目は、人物の配置です。

    傷を語れないノーラ。映画でしか語れないグスタフ。過去を調べ、家を愛するアグネス。外から家族の輪郭を照らすレイチェル。

    4人が異なる位置を受け持つことで、同じテーマを複数の角度から見ることができます。

    二つ目は、人物を作る方法です。

    俳優を共作者として扱い、演技にカメラが反応する。35mmフィルムで顔を捉え、語られない感情を表情から受け取らせる。

    三つ目は、人物を包む家です。

    三世代の傷と記憶を保存し、本物から映画のセットへ姿を変えながら、家族の歴史を見守り続けます。

    もちろん、別の見方もあります。

    Little White Liesは、登場人物が観客からもどかしい距離に置かれていると批判しました。またノルウェーでは、トリアーの美へのこだわりが、映画の真実の探求を覆い隠しているという議論もあります(Little White LiesAftenposten)。

    ただ、その距離は、語れない人々を、語れないまま描くために必要なものだったのではないでしょうか。

    私はそう考えています。

    『センチメンタル・バリュー』は、家族について語ることの難しさを、すべて語らせないことで描いた映画でした。

    キャラクター造形が素晴らしい。

    観終えたときのこの感想は、調べれば調べるほど、作り手たちが最も力を注いだ場所を正確に指していたのだと分かりました。

    参考資料

  • 映画『プレデター:バッドランド』|最強の狩人はいかにして獲物になったか

    2025年公開の『プレデター:バッドランド』(Predator: Badlands)は、1987年の第1作から続くシリーズで初めて、プレデターを主人公に据えた映画です。

    日本では2025年11月7日に公開されました(20世紀スタジオ公式サイト)。

    監督は、『プレイ』(2022)でシリーズを立て直したダン・トラクテンバーグです。

    映画『プレデター:バッドランド』

    本作の出発点について、監督はこう語っています。

    シリーズで、まだやられていないことを考えていた。「どうしてプレデターはいつも負けるのか」という思いがあった。

    TheWrap

    私の感想は、一行で言えます。

    プレデターが狩られる側なのが新しい。

    ところが調べていくと、「プレデターが狩られる」という出来事そのものには、シリーズ内に前例があると気づきます。

    それでも本作は新しい。

    では、その新しさの正体は何なのでしょうか。

    この記事では、テーマ、キャラクター造形、映画技法の三つから確かめていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、結末まで扱います。

    父との決着、デクが持ち帰る戦利品、ラストカットの意味にも触れるため、未見の方はご注意ください。

    あらすじ|「弱者」と呼ばれた狩人

    プレデター——劇中の種族名ではヤウージャ——の母星で、一族の長ニョールは、最も小柄な息子デク(ディミトリアス・シュスター=コローマタンギ)を「弱者」と見なします。

    ニョールは長男クウェイに、弟を殺すよう命じます。

    しかし、クウェイは従いません。

    密かに弟を鍛え、宇宙船で逃がします。その代償として、クウェイは父に殺されます。

    一人になったデクは、戦士としての証を立てるため、父さえ恐れる不死身の捕食者カリスクを狩ろうとします。

    カリスクが生息しているのは、あらゆる動植物が獲物を狙う「死の惑星」ゲンナです。

    そこでデクは、探査中に大破し、下半身を失ったシンセのティア(エル・ファニング)と出会います。

    シンセとは、人間そっくりに作られた人造人間です。

    ゲンナには、ウェイランド・ユタニ社も調査隊を送り込んでいました。目的は、カリスクが持つ再生能力です。

    部隊を指揮するのは、ティアと同型の「姉妹」機テッサ。エル・ファニングが二役を演じています。

    デクは、カリスクの居場所を知るティアと手を組みます。

    旅の途中では、小さな生物バッドが二人に懐きます。しかし、バッドの正体は、デクが狙うカリスクの子どもでした。

    やがてデクとティアは、ウェイランド・ユタニ社の基地に囚われます。

    デクは一度逃げ出しますが、ティアとバッド、そして捕獲されたカリスクを助けるために戻ります。

    カリスクは最終的に命を落としますが、デクはティアとバッドを救い、テッサを倒します。

    母星へ帰還したデクは、テッサの頭部を戦利品として父に差し出します。

    しかしニョールは、デクを一族へ迎え入れようとしません。

    父子は一騎打ちとなり、デクが勝利します。デク自身は父にとどめを刺さず、自分にはすでに別の氏族があると宣言します。

    その直後、成長したバッドがニョールを殺します。

    デクが選んだ氏族は、ティアとバッドです。

    そしてラストでは、巨大なヤウージャの船が接近します。

    ティアに誰の船なのかと聞かれたデクは、母のものだと答えます。

    テーマ|「狩られる側」は三重になっている

    一族に狩られ、惑星に狩られ、企業に狩られる

    トラクテンバーグは、本作の前提を明確な「反転」として考えています。

    物語の中心にある前提を反転させたかった。今回はプレデターが別の惑星にいて、さまざまなものから狩られる側になり、生き延びるために知恵を使わなければならない。

    Gizmodo

    ただし、本作でデクが「狩られる側」になる構造は一つではありません。

    私には、三重に見えました。

    最初にデクを狩るのは、自分の一族です。

    父の掟では、弱い者は一族に不要です。デクは狩人として認められる以前に、排除されるべき獲物として扱われます。

    物語の最初の敵が、異星の怪物ではなく父親であることは、本作の性格をよく表しています。

    次に、惑星そのものがデクを狩ります。

    ゲンナでは、巨大な生物だけでなく、草や樹木まで獲物を殺そうとします。

    これまで人間を圧倒してきたプレデターが、食物連鎖の上位に立てない世界です。

    そして最後に、企業がデクを狩ります。

    ウェイランド・ユタニ社にとって、カリスクは再生能力を持つ研究資源です。

    デクもまた、回収して調査すべき未知の生物にすぎません。

    ヤウージャの狩りには、少なくとも戦士としての誇りや儀礼があります。

    一方、企業の捕獲には、相手への敬意がありません。生き物はすべて、利益を生む資源として扱われます。

    同じ「狩り」でも、デクと企業では意味が異なります。

    前例との違い——新しいのは出来事ではなく視点

    プレデターが人間に狩られ、敗れること自体は、本作が初めてではありません。

    1987年の第1作では、終盤にダッチが泥と罠を使い、追う者と追われる者の関係を反転させます。

    『プレイ』では、人間側の主人公ナルーが、プレデターの習性を理解して狩り切ります。

    つまり、出来事としての「狩られるプレデター」は、すでに描かれていました。

    本作で初めてなのは、その経験をプレデター自身の内側から描くことです。

    トラクテンバーグは、デクからこれまでのプレデターが持っていた有利な条件を奪い、その状態で何ができるのかを見たかったと語っています(SYFY Wire)。

    さらに、怪物であるプレデターを、どうすれば観客が応援できる主人公にできるのかを考えたと説明しています(TheWrap)。

    ただし、視点を移すだけでは、観客は怪物の内側へ入れません。

    プレデターが何を考え、何を恐れ、何を選ぶのかを理解するための通路が必要です。

    本作は、その通路を言葉と表情によって作りました。

    この点については、映画技法の章で改めて触れます。

    力の定義を書き換える——単独の証明から氏族へ

    デクがゲンナへ向かう目的は、カリスクを一人で狩り、父に強さを認めさせることです。

    つまり、物語の始まりでは、デクも父の価値観を受け入れています。

    弱者と呼ばれたことには反発していても、「一人で強い獲物を倒せば価値を証明できる」という掟そのものは疑っていません。

    ところが、ティアと行動し、バッドとの関係を築くうちに、力の意味が変わっていきます。

    ティアは、地球の狼を例に出します。

    狼は単独ではなく群れで狩りをし、群れの長は仲間を守る。

    この話を聞いたデクは、兄クウェイが自分を守るために父へ逆らったことを思い出します。

    それまでデクは、兄が自分を助けたことを、弱者への同情として受け止めていました。

    しかし、見方を変えれば、クウェイは一族で最も強い行動を選んだとも言えます。

    自分の安全より、守るべき相手を優先したからです。

    終盤、デクは一度脱出したにもかかわらず、ティアとバッドを助けるためにウェイランド・ユタニ社の基地へ戻ります。

    一人でカリスクを倒すことより、仲間を助けることを選ぶ。

    ここで、デクの考える強さは、単独の戦闘能力から、氏族を守る力へ変わります。

    父の掟を捨てても、狩りは捨てない

    本作の面白いところは、デクがヤウージャの文化を全面的に否定するわけではないことです。

    彼はカリスクを狩るという最初の目的を手放します。

    しかし、狩りそのものをやめたわけではありません。

    テッサを倒し、その頭部を戦利品として持ち帰ります。

    父との戦いにも勝ちます。

    デクが変えたのは、狩るという行為ではなく、誰を狩るのかという基準です。

    父の掟では、弱い者が獲物です。

    デクの新しい基準では、自分の氏族を脅かす者が獲物になります。

    ただし、父との決着は単純な「殺さないことで超える」という形ではありません。

    デク自身は、敗れた父にとどめを刺しません。父から一族へ戻るよう言われても拒み、自分には別の氏族があると宣言します。

    しかし、その直後にバッドが父を殺します。

    したがって、これは非暴力による解決ではありません。

    それでも、デクが父の首を自分の戦利品にせず、父の氏族へ戻らなかったことには意味があります。

    父を殺してその地位を奪うのではなく、父の一族そのものから離れる。

    その選択によって、デクは父の価値観の中で最強になるのではなく、別の価値観を持つ氏族を作ります。

    「それはもうプレデターではない」のか

    本作の評価が分かれるとすれば、最大の争点はここでしょう。

    怪物に感情移入させることは、怪物の魅力を損なうのではないか。

    プレデターは、本来、正体や感情が分からないからこそ恐ろしい存在でした。

    言葉を話し、家族に傷つけられ、仲間を作り、成長する主人公にすれば、これまでの恐怖は失われます。

    英紙Guardianのピーター・ブラッドショーは、人間化され、共感の対象となったプレデターについて、「それはもはやプレデターではない」と批判しました(Rotten Tomatoes Editorial)。

    トラクテンバーグも、この懸念は理解していたようです。

    「プレデターの精神科医をご紹介します」ということをやっているわけではない。牙を抜いているわけでもない。

    TheWrap

    監督が強調しているのは、プレデターを善良な人間のように作り替えたわけではない、ということです。

    デクは最後まで戦士です。

    問題を話し合いで解決するのではなく、敵を狩り、頭部を戦利品として持ち帰ります。

    仲間を得たからといって、暴力を捨てるわけではありません。

    本作は、プレデターを飼い慣らされた怪物へ変えたのではなく、狩る目的を自分で選ぶ怪物へ変えています。

    私は、そこに本作を支持できる線があると思います。

    PG-13という新しい入口

    この論争と結びついているのが、本作のレーティングです。

    本作は、実写の単独『プレデター』映画として初めて、全米でPG-13指定となりました。

    トラクテンバーグは、これまで『スター・ウォーズ』やマーベル作品を中心に観てきた若い観客にとって、より獰猛なSF映画への入口にしたかったと説明しています(TheWrap)。

    対象年齢を広げ、会話のできる主人公と相棒、かわいらしい小動物を置く。

    この選択だけを見れば、シリーズを家族向けに薄めたようにも見えます。

    しかし、人間が登場しないため、流れる血の色も異なります。

    その条件を利用して、アクションの激しさ自体は保っています。

    牙を抜かずに入口を広げる。

    その難しい調整を試みた作品でもあります。

    キャラクター造形|「規格外」たちが役割を分け合う

    デク|獲物の側から、狩りを学び直す主人公

    デクは、一族の基準では「弱者」であり、排除されるべき獲物です。

    一方、本人は狩人として認められたいと願っています。

    狩る者になりたいという欲望と、狩られる側の経験。

    その両方を一人で生きるのが、この主人公です。

    本作は、シリーズで初めて、プレデター自身の成長を物語の中心へ置きました。

    デクは、最初から優れた狩人ではありません。

    父や兄ほど大きくなく、装備も十分ではない。ゲンナの環境にも圧倒されます。

    だからこそ、観客はデクが何を学び、どう戦い方を変えるのかを追うことができます。

    最初は、一人で勝つことだけが強さだと考えている。

    最後には、氏族を守ることを強さとして選ぶ。

    この線が明確に通っているため、怪物が主人公でも、物語の方向を見失いません。

    ティアとテッサ|同じ機体から分かれた二つの生き方

    ティアは、探査中に下半身を失い、役に立たないものとして置き去りにされたシンセです。

    デクから見れば、壊れた道具にすぎません。

    しかし、ゲンナの生態を知り、会話ができるティアは、デクが生き延びるために欠かせない存在になります。

    トラクテンバーグは、人間ではなくシンセを相棒に選んだ理由について、プレデターと人間を組ませれば、人間側が物語の主役になってしまうと考えたと説明しています。

    そのうえで、壊れたC-3POを背負うチューバッカのような組み合わせを発想しました(TheWrap)。

    画面上でも、この二人は変わった姿になります。

    小柄なヤウージャの背中に、半身しかないシンセが括り付けられる。

    一体では不足している二人が、文字どおり組み合わさることで一人前に動きます。

    本作が描く「単独より氏族」という考えを、そのまま絵にしたような組み合わせです。

    一方、テッサはウェイランド・ユタニ社への忠誠を選びます。

    ティアと同じ機体でありながら、自分を会社の所有物として扱い、命令の遂行を最優先する。

    ティアは、壊れたことで会社の論理から外れ、自分の意思を持ち始めます。

    テッサは、壊されないために会社の論理へ従い続けます。

    同じ顔から、二つの生き方が分かれていく。

    この対比は、父の掟に従うヤウージャと、そこから離れるデクの関係にも重なります。

    クウェイとニョール|掟に背いた兄と、掟そのものの父

    クウェイは、父の掟へ最初に背いた人物です。

    弟を殺せと命じられながら、デクを鍛えて逃がします。

    そして、弟を守ったために父から殺されます。

    デクが最後に作る新しい氏族は、クウェイの選択の続きでもあります。

    弱い者を切り捨てるのではなく、守る。

    その考えを最初に行動で示したのは、デクではなく兄でした。

    一方のニョールは、最後まで変化しません。

    弱者は殺す。

    強い者だけが生き残る。

    狩りは一人で行う。

    ニョールは一人の父親である以上に、ヤウージャの古い掟そのものを体現する人物です。

    だから、デクが父に勝つだけでは、物語は終わりません。

    父の氏族へ戻ることを拒み、ティアとバッドを自分の氏族として選ぶ必要があります。

    カリスクとバッド|「究極の獲物」の正体

    カリスクは、不死身の頂点捕食者です。

    デクにとっては、自分の強さを証明するための「究極の獲物」でした。

    しかし実際のカリスクは、子どもを守る親でもあります。

    企業から捕獲され、再生能力を利用されようとする被害者でもあります。

    デクが狩ろうとした相手は、デク自身と同じく、より大きな力から狩られる側でした。

    この鏡像によって、狩りの意味がさらに書き換えられます。

    バッドは、その転換を起こす存在です。

    旅の途中で懐いてきた小さな生物が、カリスクの子どもだった。

    デクは、知らないうちに獲物の家族と氏族を作っていました。

    狩る側と狩られる側を分けていた境界が、ここで崩れます。

    そして最後には、バッドがデクの父を殺します。

    一族から獲物とされたデクが、自分の獲物だった生物の子と新しい氏族を作る。

    本作の反転が、最もはっきり表れる人物配置です。

    映画技法|反転を支える技術

    字幕付きのヤウージャ語|怪物に言葉を与える

    本作最大の技法的な挑戦は、プレデターを話す主人公にすることでした。

    デクたちは劇中、言語学者ブリットン・ワトキンスが構築したヤウージャ語を話します。

    観客は、その会話を字幕で読みます(Los Angeles Times)。

    これまでの作品でも、プレデターは人間の声をまねたり、断片的な音を発したりしてきました。

    しかし、自分たちの言語で会話し、その内容を観客が理解するのは本作が初めてです。

    ワトキンスは、過去作で使われた喉の奥の音をもとに、ヤウージャの口や喉の構造に合う発音体系を作りました。

    唇を持たないため、人間のような「マ」「バ」「ファ」といった音を使わない。

    文法や文字も含め、実際に運用できる言語として設計されています。

    怪物の映画が、字幕で異文化の会話を読む映画になる。

    この言語が、「狩られる側の内面」を成立させる土台になっています。

    ただし、設定の説明が物語を圧迫しないようにも配慮されています。

    トラクテンバーグは、続編が世界設定の細部ばかりに夢中になることを避け、あくまでデクの物語へ集中したかったと語っています(Collider)。

    スーツと表情|共感のための物理的な条件

    デクを演じるディミトリアス・シュスター=コローマタンギは、実際にクリーチャースーツを着て撮影へ参加しています。

    身体の動きは俳優の芝居を使い、顔はデジタル技術によって拡張されています。

    デザインには、シリーズ第1作からクリーチャー制作に携わってきたアレック・ギリスが参加しました。

    当初は、特殊メイクやアニマトロニクスだけで表情を作る方法も試されました。

    しかし、細かな感情を伝えるには、デジタル技術を組み合わせる方が適していると判断されます(Collider)。

    従来のプレデターは、表情を読めないことが恐怖につながっていました。

    本作では反対に、表情を読み取れることが必要です。

    兄を失った悲しみ。

    父への怒り。

    ティアへの不信と、そこから生まれる信頼。

    怪物を観客に応援してもらうには、感情が見えなければなりません。

    本作は、シリーズの象徴だった顔を作り替えることで、その条件を満たしています。

    惑星ゲンナ|環境そのものが反転を演出する

    ゲンナについて、トラクテンバーグはこう語っています。

    草の葉から樹木、動植物まで、すべてが本当に死をもたらすと感じられるようにしたかった。

    SlashFilm

    刃物のような草。

    獲物を捕らえる植物。

    身体を武器として使える生物。

    画面のあらゆる場所に、捕食の仕組みが組み込まれています。

    これまでのプレデターは、異なる惑星へ現れ、現地の環境や生物を利用して人間を狩ってきました。

    本作のデクは、逆に、知らない環境から狩られます。

    最強の狩人も、ゲンナの食物連鎖では一つの生物にすぎません。

    ところが終盤になると、デクは惑星の生態を理解し、それを武器として使い始めます。

    現地の生物を装備として利用し、植物の性質を戦いへ組み込む。

    トラクテンバーグも、デクが惑星そのものを自分の武器にしていくと説明しています(Gizmodo/io9)。

    環境を力で支配するのではなく、理解し、適応する。

    デクの成長が、アクションの方法として表現されています。

    砂嵐の父子決戦|力比べを見せない選択

    クライマックスの父子対決は、砂嵐の中で行われます。

    トラクテンバーグは、VFXチームに対し、戦いをはっきり見せるのではなく、濁り、ざらついた映像にしたいと指示しました。

    VFX統括のシェルドン・ストップサックも、砂嵐がデクによる父への逆転を成立させる重要な要素だったと説明しています(Gizmodo)。

    ニョールは、デクより大きく、強く、優れた装備を持っています。

    正面から力比べをすれば、デクに勝ち目はありません。

    そこでデクは、砂嵐によって父の視界と装備の優位を奪います。

    力を見せつける決闘ではなく、環境を利用した知恵の戦いです。

    最後の戦いまで、デクは父と同じ強さを目指しません。

    父とは異なる方法で勝つ。

    この演出が、本作の主題をアクションとして回収しています。

    まとめ|狩られた者だけが、狩りの意味を選び直せる

    冒頭の感想に戻ります。

    プレデターが狩られる側なのが新しい。

    この感想は、監督の語る「前提の反転」と重なっていました。

    ただし、調べて分かったのは、新しいのは「狩られる」という出来事そのものではないということです。

    第1作でも『プレイ』でも、プレデターは人間から狩られ、敗れています。

    本作が初めて描いたのは、その経験をプレデター自身の内側から見ることでした。

    字幕で読める言葉。

    読み取れる表情。

    弱者として一族から排除され、惑星と企業から獲物として狙われる主人公。

    これらがそろったことで、観客は初めて、狩られるプレデターの側へ立つことができます。

    そして本作は、狩られる経験を通過したデクに、狩りの意味を選び直させます。

    弱い者を狩って、自分の強さを証明するのではない。

    氏族を脅かす者と戦い、仲間を守る。

    デクはヤウージャの狩りを捨てたわけではありません。

    狩りの対象と目的を、自分で決めるようになったのです。

    父の掟から始まった物語が、最後に母の船の到来で終わる。

    デクが作った新しい氏族は、早くも次の脅威へ直面します。

    プレデターは、もう単に人間に敗れる怪物ではありません。

    かといって、牙を抜かれた親しみやすい怪物でもない。

    狩られる側を知った狩人。

    その第三の像を作り出したことが、本作の新しさの正体だと思います。

    参考資料