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  • 映画『Mr.ノーバディ2』|エンタメに振り切った監督の判断は正しかったのか

    前作がすごく良かったので、期待しすぎてしまったのかもしれません。

    2025年公開の『Mr.ノーバディ2』(Nobody 2)を観終えて、最初に浮かんだ感想は、「全体的にエンターテインメントへ振り切りすぎている」でした。

    本作は、『Mr.ノーバディ』(2021)の4年後を描く続編です。日本では2025年10月24日に公開されました。

    ただ、「振り切りすぎた」と書くだけでは、前作との違いに戸惑っただけの愚痴になってしまいます。

    公開後のインタビューや批評を調べていくと、この違和感を、そのまま映画の失敗と呼んでよいのか分からなくなってきました。

    そこでこの記事では、私の失望を二つの問いに分けて考えます。

    この続編では、前作から何が変わったのか。そして、その変化は誰の、どのような意図によるものだったのか。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の設定から終盤の展開まで触れます。

    未見の方はご注意ください。

    あらすじ|燃やした3,000万ドルの請求書と、家族のバカンス

    主人公ハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)は、前作で燃やした3,000万ドルを返済するため、昼夜を問わず殺しの任務をこなしています

    働き詰めの生活によって、家族との関係は崩壊寸前です。

    ハッチは関係を立て直そうと、妻ベッカ(コニー・ニールセン)や子どもたちを連れ、寂れたリゾート地へバカンスに出かけます。

    ところが、滞在先の水上遊園地で起きた小さなトラブルが、汚職保安官エイベル(コリン・ハンクス)との衝突に発展します。

    騒ぎはやがて、この土地を支配する犯罪組織のボス、レンディーナ(シャロン・ストーン)との全面戦争へと膨らんでいきます。

    終盤には、父デヴィッド(クリストファー・ロイド)や旧知のハリー(RZA)も参戦します。

    休暇を過ごすはずだった場所が、家族総出の戦場になる映画です。

    テーマ|「明るく温かい映画」への意図的な方向転換

    路線変更は事故ではなく、設計だった

    監督は、インドネシア出身のティモ・ジャヤントです。

    『ナイト・カムズ・フォー・アス』など、激しい流血描写を伴うアクション映画で知られる監督で、本作が英語圏での長編監督デビューとなりました。

    前作を監督したイリヤ・ナイシュラーからの交代です。

    その経歴から想像されるのは、前作よりもさらに暗く、激しい続編でしょう。

    ところが、ジャヤント本人が目指したものは正反対でした。

    SYFYのインタビューで、彼は本作について、普段の自分が作る映画よりも「ずっとポジティブで、ずっと温かい映画」にしたかったと語っています。

    彼は、自分の中に二つの面があると説明しています。

    世界が混乱し、暗い場所であることを認める自分。一方で、世界が暗くても、家族がいるなら少しくらい心を温めてもよいはずだと信じる自分です。

    二人の子どもを持ったことで、後者の感覚を映画にしたいと思うようになったといいます。

    つまり、私が「振り切りすぎ」と感じたエンターテインメント路線は、偶然そうなったのではありません。

    監督が意図して選んだ方向でした。

    この事実を知ると、失望の意味が少し変わります。

    本作は、前作の雰囲気を再現しようとして失敗した映画ではありません。最初から前作とは違う映画を目指し、狙った場所に着地した作品です。

    問題は、その方向転換を観客が受け入れられるかどうかです。

    仕事と家庭は両立できるのか

    物語の出発点にあるのは、借金を返すための殺しという「仕事」です。

    ハッチは家族を守るために働いています。しかし、働けば働くほど、家族と過ごす時間は失われていきます。

    殺し屋という設定を外せば、ごく普通の働く親が抱える矛盾です。

    家族のために働いているはずなのに、その仕事によって家族との距離が広がっていく。

    バカンスという舞台は、その矛盾を短い休暇の中に凝縮して見せるために選ばれています。

    AP通信の批評は、本作が親から子へ受け継がれる暴力性まで扱おうとしながら、十分に掘り下げられていないと指摘しています。

    この点について監督や脚本家の明確な発言は確認できなかったため、どこまで意図されたテーマなのかは断定できません。

    ただ、家庭のために始めた暴力が、次の世代にまで影響を与えるという危うさは、物語の中に確かに残っています。

    家族バカンス映画という枠組み

    AP通信の批評は、本作を『ナショナル・ランプーン/ホリデーロード4000キロ』のような、1980年代のアメリカ製家族バカンス映画の系譜で捉えています。

    水上遊園地、観光ボート、田舎町の保安官との小競り合い。

    舞台だけを見れば、のんきな家族コメディです。

    そこへ、手足が飛ぶほどの激しい暴力がなだれ込んできます。

    この落差が、本作の笑いの中心です。

    日本版のキャッチコピーは、次のようなものでした。

    NOBODY, NO VACATION
    何者でもない奴には、バカンスもない。

    前作の「何者でもない奴を、甘くみてはいけない。」と比べると、宣伝の時点ですでにコメディへの衣替えが示されています。

    キャラクター造形|エンタメへの「振り切り」を分担する人々

    ハッチ・マンセル|殺し屋から「働きすぎの父親」へ

    本作への賛否は、ハッチの描き方を受け入れられるかどうかに集約されているように見えます。

    AP通信のマーク・ケネディは、本作に4点満点中1点をつけました。

    今作のハッチについて、「本格的なアクションヒーローと、面白い台詞を与えられていないコメディ要員の中間で立ち往生している」と批判しています。

    さらに、オデンカークをこのシリーズから救い出すべきだとまで書いています。

    一方、Keith & the Moviesの好意的な批評は、5点満点中3.5点をつけています。

    シニカルなアクションスリラーから、ストレートなアクションコメディへ移行したことを評価し、よく作られたアクションと、効果的な笑いを称賛しました。

    批判する側も、支持する側も、見ている変化は同じです。

    ハッチが、暗い過去を持つ謎めいた男から、働きすぎて家族に距離を置かれた、少し間の抜けた父親へと変わったことです。

    この変化を魅力と見るか、前作の面白さを失ったと見るか。

    そこが、本作の評価を分けています。

    レンディーナ|過剰さを一身に引き受ける悪役

    シャロン・ストーン演じるレンディーナは、本作の「振り切り」を最も分かりやすく体現する人物です。

    1点をつけたAP通信の批評でさえ、彼女については、完全なサイコパスとして誰よりも楽しんでいるように見えると認めています。

    好意的なKeith & the Moviesの批評も、意図的に過剰なキャラクターとして評価しながら、少しやりすぎかもしれないと付け加えています。

    つまり、評価の低い批評からも、彼女の存在感そのものは認められています。

    私が「振り切りすぎ」と感じた要素を、最も極端に表現した人物が、映画の見どころとしても成立している。

    これは、私の感想に対する部分的な反証として書き残しておくべきだと思います。

    ベッカ、デヴィッド、ハリー|戦う家族へ

    妻のベッカは、崩壊しかけた家庭の当事者です。

    夫婦関係を立て直すことが、バカンスの目的であり、映画の感情面を支える軸になっています。

    父デヴィッドは、前作で見せた「穏やかな老人がショットガンを持つ」という落差を、今作ではさらにコメディ寄りに広げます。

    ハリーも前作に続き、終盤の戦いへ加わります。

    前作では、それぞれが隠していた顔を見せ合うことに驚きがありました。

    今作では、その秘密はすでに観客に知られています。そのため、驚きよりも「いつもの仲間がそろう楽しさ」が優先されています。

    この変化も、続編がコメディと娯楽性を重視したことの表れです。

    保安官エイベルと遊園地経営者ワイアット・マーティン(ジョン・オーティス)は、田舎町の腐敗を支える中間層として配置されています。

    小さなトラブルから始まり、地方の小悪党を経て、レンディーナという大物へたどり着く。

    物語を段階的に大きくするための階段を担っています。

    映画技法|「軽さ」はどのように作られたのか

    格闘シーンに加えられた茶目っ気

    ジャヤントは、前述のSYFYのインタビューで、格闘場面に意図的に茶目っ気を加えたと語っています。

    前作にあった、暗く苦い犯罪映画のような雰囲気から離れるためです。

    ジャヤントは、これまで切断や大量の流血をためらわずに描くアクション映画を作ってきました。

    本作でも暴力の激しさは変わりません。

    ただし、その技術を恐怖のためではなく、笑いと高揚感のために使っています。

    暴力描写は過激なのに、映画全体の感触は明るい。

    この二つを同居させることが、本作の技法上の挑戦です。

    日本の映倫区分を見ると、本作はR15+で、前作のPG12から引き上げられています

    雰囲気は軽くなったのに、暴力描写は強くなりました。

    このねじれは、本作の方向性をよく表しています。

    バスからダックボートへ|前作の反復と変奏

    中盤の見せ場は、水陸両用の観光ボート、ダックボートでの乱闘です。

    狭い乗り物の中で、大人数を相手に戦う。

    この構図は、前作のバスでの格闘を思い出させます。

    AP通信の批評は、これを新しいアイデアではなく、前作からの派生にすぎないと批判しています。

    たしかに、驚きという点では前作に及びません。

    ただし、通勤に使うバスから、休暇中に乗る観光ボートへ置き換えられたことには意味があります。

    日常からバカンスへという物語の変化を、アクションの舞台でも繰り返しているからです。

    前作の名場面をそのまま再現するのではなく、今作の設定に合わせて作り直した場面とも読めます。

    90分という短さ

    本作の上映時間は90分です。

    前作の92分より、さらに短くなっています。

    好意的な批評は、余計なものを抱えず、短くまとまっていることを長所として挙げています。

    一方、AP通信の批評は、上映時間が短いだけで、記憶には残らないと切り捨てました。

    同じ90分が、「潔い」とも「中身が薄い」とも評価されています。

    この違いは、本作全体への評価と重なります。

    娯楽に徹した映画として受け入れれば、90分はちょうどよい。

    前作のような人物の奥行きや意外性を求めれば、物足りない。

    私は後者に近かったのだと思います。

    まとめ|期待しすぎた夏休み

    最後に、前作との評価の差を数字で確認します。

    英語版Wikipediaのまとめによると、Rotten Tomatoesの批評家スコアは、前作の84%から本作では76%へ下がりました。

    Metacriticは64点から59点へ、公開初日の観客調査CinemaScoreはA−からB+へ下がっています。

    世界興行収入も、前作の5,750万ドルから4,300万ドルへ減少しました。

    76%という数字は、酷評された映画の水準ではありません。全体としては、依然として好意的に受け止められています。

    それでも、主な指標がすべて前作を下回ったのは事実です。

    私の「期待しすぎた」という感覚は、決して珍しいものではなかったようです。

    ただ、調べ終えたいま、失望の原因を映画の出来だけに求めるのは正確ではないと考えています。

    理由は二つあります。

    第一に、路線変更は監督が意図したものであり、本作はその狙いどおりに作られています。

    私が観たのは、前作の再現に失敗した映画ではありません。私が求めていたものとは違う映画を、意図的に作った作品です。

    第二に、前作の魅力には、続編では再現できない部分があります。

    前作には、「ボブ・オデンカークがアクション映画の主演を務める」という意外性がありました。

    主人公についても、観客は彼が何者なのかを知りませんでした。

    しかし、続編では誰もが正体を知っています。観客は、最初からハッチが暴れ出すのを待っています。

    「普通のおっさんが、実は強い」という前作最大の驚きは、同じ方法では二度使えません。

    その代わりに本作が選んだのが、家族バカンス映画の形を借りた、明るく過激なアクションコメディでした。

    その判断が間違っていたとは思いません。

    ただ、私は前作にあった暗さ、意外性、抑え込まれた怒りのほうが好きでした。

    エンターテインメントへの振り切りを楽しんだ人が多いことは、76%という評価が示しています。

    それでも私は、まだ前作の側に立っています。

    期待しすぎた夏休みだった。

    いまのところ、それがこの続編への最も正直な感想です。

    参考資料

    参照日はすべて2026年8月4日です。

  • 映画『Mr.ノーバディ』|「普通のおっさんが実は強い」を本物にするためにボブ・オデンカークがやったこと

    2021年公開の『Mr.ノーバディ』(Nobody)を、私はまったく期待せずに観ました。

    ところが、すごく面白かった。

    普通のおっさんが、実はとんでもなく強い。設定を一行で説明すれば、それだけの映画です。

    監督はイリヤ・ナイシュラー。主演は、『ブレイキング・バッド』『ベター・コール・ソウル』の弁護士ソウル・グッドマン役で知られるボブ・オデンカークです。続編となる『Mr.ノーバディ2』も2025年に公開しています。

    日本では2021年6月11日に東宝東和の配給で公開されました。上映時間は92分、レイティングはPG12です(映画.com)。

    映画『Mr.ノーバディ』

    日本版のキャッチコピーは、次のようなものでした。

    何者でもない奴を、甘くみてはいけない。

    東宝東和公式サイト

    この映画を面白いと感じたのは、私だけではなかったようです。製作費1,600万ドルの中規模作品ながら、世界興行収入は5,750万ドルを記録。米国の観客出口調査CinemaScoreでも、A−という高い評価を得ています(Wikipedia)。

    では、これほど単純な設定の映画が、なぜ面白かったのでしょうか。

    この記事では、その理由を製作の成り立ちと映画技法から考えます。とりわけ注目したいのは、ボブ・オデンカークが「普通のおっさんが実は強い」という設定を成立させるために、何をしたのかです。

    ネタバレについて

    この記事では、主人公の正体と終盤の展開を含め、作品の核心に触れます。

    未見の方はご注意ください。

    あらすじ|バスに乗り遅れ、ゴミ出しに間に合わない男

    ハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)は、妻子と暮らす平凡な中年男性です。

    映画は、彼の変わり映えのしない毎日を、同じカットの反復で見せます。

    バスに乗り遅れる。ゴミ出しに間に合わない。コーヒーを飲む。

    来る週も来る週も、同じことの繰り返しです。

    ある夜、ハッチの自宅に強盗が入ります。彼はゴルフクラブを構えますが、振り下ろしません。

    強盗は逃走。息子は落胆し、駆けつけた警官までが、ハッチに失望したような目を向けます。

    ところが数日後、深夜バスに酔った暴漢の一団が乗り込んでくると、ハッチは席を立ちます。

    そこで映画は、彼の正体を明かします。

    ハッチは、かつて政府機関に所属していた「オーディター」と呼ばれる男でした。組織が表立って処理できない問題を始末する、いわば元暗殺者です。

    バスでの乱闘をきっかけに、ハッチはロシアン・マフィアの首領ユリアン(アレクセイ・セレブリャコフ)との全面戦争へ突入していきます。

    製作の経緯|ジョン・ウィックのチームが始めた映画ではなかった

    『Mr.ノーバディ』は、しばしば「『ジョン・ウィック』の製作陣が手がけたアクション映画」と紹介されます。

    これは事実です。

    脚本は、『ジョン・ウィック』の生みの親であるデレク・コルスタッド。製作には、同シリーズ第1作をクレジットなしで共同監督したデヴィッド・リーチと、彼が率いる製作会社87Northが参加しています(Wikipedia)。

    日本の配給会社である東宝東和も、この人脈を前面に出して宣伝しました(東宝東和公式サイト)。

    ただし、製作の経緯を調べると、順番は私が想像していたものとは逆でした。

    『ジョン・ウィック』のチームが、次のアクション映画の主演にオデンカークを選んだのではありません。

    オデンカークが、自分の物語を映画にするために、『ジョン・ウィック』の人脈を集めたのです。

    出発点は、オデンカーク自身の体験

    企画の出発点には、オデンカークの実体験があります。

    彼はロサンゼルスの自宅に二度、泥棒に入られました。しかし、その場で手を出すことはありませんでした。

    SlashFilmのインタビューで本人は、事態を悪化させないために物理的な抵抗をしなかったこと、そして、その経験から少し恥のような感情が残ったことを語っています。

    その「動けなかった夜」を、映画の物語へと変えたのです。

    オデンカークは題材を脚本家のデレク・コルスタッドに持ち込み、アクション映画の実績を持つ製作陣を集めていきました。

    ナイシュラー監督も、Geek Cultureのインタビューで、次のように語っています。

    私がボブをキャスティングしたのではない。ボブが私を監督としてキャスティングした。

    つまり、本作の中心には最初からオデンカークがいました。

    ナイシュラー自身は、『ジョン・ウィック』の関係者ではありません。全編を一人称視点で撮影したアクション映画『ハードコア』で注目された、ロシア出身の監督です。

    『ジョン・ウィック』と同じ世界の物語なのではないか、というファンの憶測についても、コルスタッドは配給会社が異なることを理由に、実現の可能性は低いと答えています(Wikipedia)。

    「おっさん版ジョン・ウィック」という説明は、映画の雰囲気を伝える入り口としては正しい。

    しかし、本作が生まれた場所は、そこではありません。

    一人の俳優が抱えていた、個人的な感情から始まった映画です。

    テーマ|強さを隠して生きることは、幸福なのか

    「普通」を演じ続けることの限界

    ハッチは、強さを失った男ではありません。

    強さを隠すことを選んだ男です。

    物語の途中で強くなるのではなく、最初から完成した能力を封印しています。

    オデンカークは、VICEのインタビューで、ハッチの状態を「行き過ぎた自己修正」として説明しています。

    危険に満ちた若い時代を送った男が、家庭人になるために自分の欲求を完全に抑え込んだ。しかし、そんな生き方は長続きしない。人生には、いくらかの火花や驚きや冒険を残しておかなければならない、というのです。

    冒頭で繰り返される灰色の毎日は、この「自分を抑え込みすぎた男」の状態を、そのまま映像にしたものです。

    ハッチは暴力を解禁すると、傷つきながらも生気を取り戻していきます。

    この映画で回復するのは、彼の強さではありません。

    自分自身とのつながりです。

    動けなかった夜は、どう映画になったのか

    序盤でハッチがゴルフクラブを振り下ろせない場面は、オデンカーク本人の経験を物語へ置き換えたものです。

    この場面で映画が丁寧に描くのは、ハッチが手を出さなかった理由ではありません。

    その後に向けられる、周囲の視線です。

    息子は父親に失望し、警官も弱腰な男を見るような態度を取ります。ハッチが何を考えていたかとは関係なく、周囲が「何もできなかった男」という評価を積み重ねていくのです。

    オデンカーク本人の中に残った恥が、映画の中では、家族や他人のまなざしによって外側から突きつけられます。

    そして、現実では晴らせなかった感情を、フィクションの中で清算していく。

    本作は、物語だけでなく、企画そのものがその構造で作られています。

    暴力による回復を、信じてよいのか

    一方で、この映画が提供する快感には、当然ながら批判もあります。

    AP通信の批評は、本作を「マッチョな願望充足ファンタジー」と呼び、暴力を気分を高揚させる薬のように扱っていると批判しました(Gulf News掲載のAP評)。

    郊外に暮らす父親が暴力によって男らしさを取り戻す物語を、無条件に楽しんでよいのか。

    そう問う批評です。

    私が感じた「すごく面白かった」という感想の中身は、まさにこの批評が疑っている種類の快感だったと思います。

    本作は、溜め込んだものを一気に吐き出す爽快感を全力で提供します。一方で、その快感を作品の内側から疑う視点は、ほとんどありません。

    それでも、私が楽しんだという事実は変わりません。

    むしろ、この反対意見によって、自分が何に興奮したのかが、はっきりしたように思います。

    キャラクター造形|全員が「見た目と実体の差」を背負っている

    ハッチ・マンセル|強くなるのではなく、隠すのをやめる

    ハッチの能力は、物語が始まった時点ですでに完成しています。

    彼に必要なのは、訓練や成長ではありません。

    強さを隠すのをやめるという決断です。

    「普通のおっさんが、実はすごく強い」という一行は、この構造を表しています。

    強くなっていく過程を見せないからこそ、正体が明らかになった瞬間の落差が大きくなります。

    ベッカ|夫婦関係にも起きる回復

    妻のベッカ(コニー・ニールセン)とハッチの関係は、冷え切ったものとして描かれます。

    オデンカークは、この夫婦の中心にあるのは、失われた自立心や自分らしさを取り戻したいという欲求だと説明しています(SlashFilm)。

    つまり、ハッチが本来の自分を取り戻していく物語は、夫婦関係の回復とも並走しています。

    暴力に戻ることが夫婦の再生につながるという展開には危うさもあります。

    ただ、本作の中では、ハッチが再び自分自身になることと、家族との距離が縮まることが同じ方向に置かれています。

    ユリアン|役割から降りられなかった男

    敵役のユリアンは、ロシアン・マフィアの共有資金「オブシャク」を管理する男です。

    カラオケで歌い踊る陽気さと、ためらいなく人を殺す残虐さが、同じ人物の中に同居しています。

    私には、ユリアンがハッチの裏返しに見えました。

    ハッチは「平凡な家庭人」という役割を脱ぎ捨てることで、生気を取り戻します。

    一方のユリアンは、組織の金庫番という役割から降りられません。その役目に縛られたまま、守っていた金とともに破滅していきます。

    デヴィッドとハリー|ギャップをもう一度見せる二人

    ハッチの父デヴィッドを演じるのは、クリストファー・ロイドです。デヴィッドは元FBI捜査官という設定です。

    義兄弟のハリー(RZA)は、長いあいだ無線から聞こえる声だけで登場します。

    二人は終盤の工場での戦いに加わります。

    老人ホームで暮らしていた父親がショットガンを持ち歩く姿は、「見た目と実体の差」という本作の面白さを、ハッチ以上に分かりやすい形でもう一度見せるものです。

    それぞれが隠していた顔を、家族の前で明かしていく。

    この決戦は、私には銃撃戦の形をした家族の和解にも見えました。

    バスの暴漢たち|師匠が弟子に殴られる

    ハッチが本来の姿を取り戻すきっかけとなる、バスでの乱闘。

    暴漢の一人を演じているのは、スタントマンのダニエル・ベルンハルトです。

    ベルンハルトは、『ジョン・ウィック』第1作で敵役キリルを演じた人物です。さらに本作では、オデンカークを約2年間にわたって鍛えたトレーナーでもあります(Wikipedia)。

    つまり、劇中では師匠が弟子に打ちのめされます。

    『ジョン・ウィック』の人脈は、製作スタッフだけではありません。画面の中、それも主人公に殴られる側にまで入り込んでいました。

    映画技法|「実は強い」を信じさせるための選択

    2年間の訓練、スタントダブルなし、筋肉をつけない

    オデンカークは撮影に向け、約2年間にわたって格闘訓練を受けました。

    さらに、危険な動きを代わりに演じるスタントダブルを、できる限り使わない方針で現場に臨みました。

    本人の言葉は、明快です。

    正直にやろう。スタントダブルなしで。

    Geek Culture

    しかも、アクションスターらしい体を作るために、筋肉で身体を大きくすることはしませんでした。

    「普通のおっさん」に見える体つきを残したまま、動きだけを身につけたのです。

    これは本作にとって、きわめて重要な選択でした。

    筋肉質の俳優が敵を倒しても、意外性はありません。

    しかし、ソウル・グッドマンとして知られる、少し疲れた中年男性が、本人の顔と身体を映したまま本格的に戦えば、観客は驚きます。

    「実は強い」という設定の説得力は、細かな編集で動きを隠すことではなく、オデンカークが実際に動けることによって作られています。

    強いのに、きちんと痛がる

    序盤のバスでの格闘は、ハッチが一方的に敵を倒す場面ではありません。

    殴る。殴られる。刺される。窓から落ちる。

    それでも、最後には勝つ。

    ハッチの強さは、痛みと切り離されていません。

    無傷で敵を片づける無敵のヒーローではなく、苦しみながら勝つ男です。

    この「強いのに痛がる」という配分が、アクションが激しくなった後も、「普通のおっさん」という印象を残し続けます。

    韓国スリラーを意識したトーン

    ナイシュラー監督は、本作を「韓国のスリラー映画のように感じさせたかった」と語っています(Collider)。

    典型的なアメリカ製アクション映画とは、少し違う雰囲気を目指したということです。

    本作では、生々しい暴力と、ふざけたユーモアが同じ画面に共存しています。

    ハッチの妙に丁寧な独白。カラオケ好きのマフィア。ショットガンを楽しそうに撃つ老父。

    暴力的なのに、どこかおかしい。

    その独特の肌触りは、この方針から生まれています。

    ホラー映画の撮影監督が撮る、郊外の不穏

    撮影監督は、『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』を手がけたパヴェウ・ポゴジェルスキです(Wikipedia)。

    ホラー映画で知られる撮影監督を、アクション映画に起用した意外な人選です。

    起用理由について、本人たちの明確な発言は確認できませんでした。ここからは私の印象です。

    平穏に見える郊外の家庭。その奥に隠された別の顔。

    この構図は、日常の中に潜む不穏さを撮ってきたホラー映画の画作りと、相性がよかったのではないでしょうか。

    冒頭の退屈な毎日も、単に平和に見えるのではなく、何かが押し込められているように感じられます。

    まとめ|ジョン・ウィックの模倣ではなく、一人の俳優による清算

    冒頭の問いに戻ります。

    まったく期待していなかった私は、なぜ『Mr.ノーバディ』を、これほど面白いと感じたのでしょうか。

    「おっさん版ジョン・ウィック」という説明は、入り口としては正確です。

    しかし、映画を観終えて振り返ると、別の姿が見えてきます。

    これは、コメディ俳優として知られてきたボブ・オデンカークが、自宅に泥棒が入った夜に動けなかったという経験をもとに、自分の中に残った感情を映画にした作品です。

    そのために、彼は脚本家と製作陣を集め、監督を選び、約2年間かけて身体を鍛えました。

    しかも、筋肉質なアクションスターになるのではなく、「普通のおっさん」の見た目を残したまま、戦える身体を作りました。

    原題のNobodyには、「何者でもない男」という意味があります。

    そして本作は、誰からも強さを期待されていないことを利用して、相手を驚かせる男の物語です。

    観客からアクションを期待されていなかったオデンカークが、2年間の準備でその予想を裏切ったことも、主人公の戦い方と重なっています。

    普通のおっさんが、実はすごく強い。

    この単純な一行を本物にするために、積み重ねられた準備の量。それこそが、この映画の面白さの正体でした。

    何も期待せずに観られるうちに観るのが、いちばん幸福な映画だと思います。

    参考資料