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  • 映画『サブスタンス』|デミ・ムーアでなければ成立しなかった

    ビビッドな原色。左右対称の構図。白く磨き上げられた浴室。

    画面はどこを切り取ってもポップで洗練されています。しかし、そこで起きているのは苛烈なボディ・ホラーです。

    2024年公開の『サブスタンス』(The Substance)を観たとき、まず頭に浮かんだのは「おしゃれなボディ・ホラー」という、少し矛盾した言葉でした。

    映画『サブスタンス』

    監督はフランス出身のコラリー・ファルジャ。本作は第77回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞し、アカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネート。メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞しました。日本では2025年5月にギャガ配給で公開されました

    そして観終えて、何よりうまいと思ったのが配役です。

    主演がデミ・ムーアであること。

    この一点が、派手で悪趣味な画面の奥にある痛みを、本物にしていると感じました。この記事では、その配役を軸に本作を読み解きます。

    ネタバレについて

    この記事は、物語中盤のスー誕生と、交代のルールが崩れ始めるあたりまでを前提に書いています。終盤の展開と結末には触れません。

    あらすじ|50歳の誕生日に、彼女は「上位互換」を注射する

    エリザベス・スパークル(デミ・ムーア)は、かつてハリウッドの頂点にいたスターです。現在はテレビのフィットネス番組で人気を保っています。

    50歳の誕生日、番組幹部のハーヴェイ(デニス・クエイド)から、突然の降板を告げられます。

    理由は年齢。それだけです。

    失意のエリザベスのもとに、「サブスタンス」という謎の薬品の情報が届きます。注射をすれば、「より若く、より美しく、より完璧な、もう一人の自分」が生まれる。

    ただし、二人で一つ。

    意識は1週間ごとに交代しなければならず、そのルールは絶対に守る必要があります。

    エリザベスの背中を破って生まれた若い肉体・スー(マーガレット・クアリー)は、瞬く間に新しいスターになります。そして二人の交代を保っていたルールが、少しずつ崩れ始めます。

    テーマ|敵は鏡の外だけにいない

    敵は業界だけではない

    50歳になった女性を番組から外す幹部。若い肉体だけを求めるテレビ局。女性を消費期限つきの商品として扱う業界。

    外側の敵は、これ以上ないほど分かりやすく描かれています。

    しかし、この映画がより長く、より執拗に見つめるのは、鏡の前に立つエリザベス自身です。

    かつての同級生とのデートを控えた晩、彼女は鏡の前で何度も化粧を直します。

    口紅を塗り、拭き取り、また塗る。服を替え、髪を直し、鏡の中の自分を見つめる。最後には自分の顔を乱暴に汚し、外出そのものを取りやめてしまいます。

    その場には、彼女を侮辱するテレビ局の幹部も、容姿を評価する観客もいません。

    ファルジャ監督はインタビューで、本作が40代を過ごし、50代に近づく女性としての実感から生まれたと語っています。

    また、「自分はこう見えないから十分ではない」という自己嫌悪によって、人は自分自身を牢獄に閉じ込めてしまうとも説明しています。

    社会から押しつけられた美の基準が、いつの間にか自分の声になる。

    この映画で最も恐ろしいのは、業界から排除されることだけではありません。自分自身が、いちばん厳しい審査員になってしまうことです。

    「おしゃれ」は入口であり、罠でもある

    では、なぜこれほど重い題材が、ポップで気持ちのよい画面によって描かれるのでしょうか。

    原色の衣装。幾何学的な廊下。清潔すぎる浴室。広告映像のように磨き上げられた画面は、観客の目を楽しませます。

    スーを捉えるカメラも同じです。若い身体の曲線を強調し、肌を輝かせ、彼女が理想の女性であるかのように撮り続けます。

    観客は、スーが魅力的に見えるよう設計された映像を、気持ちよく眺めます。

    しかし、その視線こそが、エリザベスを追い詰めたものでもあります。

    映画は、女性の身体が消費される仕組みを批判しながら、同時にその身体を見世物として差し出します。この矛盾を風刺と受け取るか、同じ消費を繰り返していると受け取るかによって、評価が分かれるのも当然でしょう。

    私の第一印象だった「おしゃれ」は、単なる装飾ではありませんでした。

    観客を映画の中へ引き込み、自分もまた「見る側」にいると気づかせるための罠だったのです。

    キャラクター造形|三人と、もう一人の自分

    エリザベス|デミ・ムーアという配役の必然

    この役は、デミ・ムーアでなければ成立しなかったと思います。

    ファルジャ監督は主演を探すにあたり、スターシステムの中心にいた経験を持つ、実人生でもアイコンと呼べる俳優を求めていました。

    当初、ファルジャはムーアがこの役を引き受けるとは考えていなかったそうです。しかし、本人と会い、自伝『Inside Out』を読んだことで見方が変わります。

    男性中心の業界で自らキャリアを築き、危険を承知で新しい役に挑み続けてきた。その姿勢に、この作品が求める大胆さを見いだしたのです。

    1990年代のハリウッドで美の象徴として扱われ、その後は容姿の変化を繰り返し話題にされてきた女優が、「若さを失ったことで捨てられる元スター」を演じる。

    映画の中でエリザベスが浴びる視線に、デミ・ムーア本人が歩んできたキャリアが重なります。

    エリザベスの悲しみは、脚本の中だけで作られたものには見えません。ハリウッドがムーアに向けてきた期待や評価までが、画面の中へ入り込んでいるように感じられます。

    私が「配役がうまい」と感じたのは、この重なりがあるからです。

    スー|理想の自分という寄生者

    マーガレット・クアリー演じるスーは、単なる若いライバルではありません。

    エリザベス自身から生まれた、彼女が望んだ理想の自分です。

    だから二人の対立は、世代の異なる女優同士の争いではありません。いまの自分と、こうなりたかった自分との争いです。

    スーが活躍するほど、エリザベスの身体は衰えていきます。理想の自分を輝かせるために、現在の自分を削り続ける。

    誰かと比較して苦しんでいるように見えて、実際には自分で作り上げた理想像に追い詰められている。その心理が、二つの肉体の関係として描かれています。

    スーはエリザベスを苦しめる寄生者であると同時に、エリザベス自身が手放せない夢でもあります。

    ハーヴェイ|業界の有害さを集めた男

    デニス・クエイド演じる番組幹部ハーヴェイは、女性を消費期限つきの商品として扱う業界人の戯画です。

    ハーヴェイという名前は偶然ではありません。

    ファルジャ監督は、デニス・クエイドの役がハーヴェイ・ワインスタインをもとにしているのかと問われ、明確に肯定しています。そのうえで、この人物はワインスタイン一人の再現ではなく、映画業界で目にしてきた有害な振る舞い全般を象徴していると説明しています(Vulture)。

    エリザベスに降板を告げるランチの場面では、ハーヴェイが海老を口いっぱいに頬張る様子が、マクロレンズによって執拗に映されます。

    殻を割る指。飛び散る汁。開いた口。咀嚼する音。

    女性を消費する側の人間が、文字どおり何かを貪り食う姿として描かれています。

    ファルジャによれば、この海老の場面は制作側から「やりすぎだ」と繰り返し短縮を求められた場面でもありました。しかし監督は、人を不快にさせる場面には、残すべき重要な何かがあると考え、譲らなかったそうです。

    ただし、映画はハーヴェイをすべての原因としては扱いません。

    ハーヴェイがエリザベスへ与えた屈辱を、何倍にも増幅して彼女へ向けるのは、鏡の中のエリザベス自身です。

    外側の敵があまりに分かりやすく醜く描かれているからこそ、そこから離れても消えない自己嫌悪の根深さが際立ちます。

    映画技法|言葉ではなく、質感で語る

    台詞ではなく、映像で語る

    ファルジャ監督はインタビューで、台詞を多く書くのではなく、どの映像や象徴によって物語を伝えるかを考えると、自身の脚本スタイルを説明しています。

    その方針は、冒頭から明快です。

    ウォーク・オブ・フェイムに刻まれた「エリザベス・スパークル」の星が、真上からの固定カメラで映されます。

    設置されたばかりの星を人々が取り囲み、写真を撮る。やがて足元の風景になり、踏まれ、汚れ、ひび割れていく。

    台詞を使わず、数分間の映像だけで、スターが祝福され、消費され、忘れられていくまでを見せます。

    シャワーで生まれた誕生シーン

    本作を象徴する、エリザベスの背中からスーが生まれる場面について、監督はシャワーを浴びているときに思いついたと明かしています

    考えることをやめて力を抜いたときに、想像力が断片をつなげてくれるのだといいます。

    スーの誕生も、台詞による説明ではなく、皮膚が裂ける映像と音によって観客に理解させます。

    実物の質感へのこだわり

    その映像を支えているのが、CGIに頼り切らず、実際に作られた造形物を撮影するプラクティカル・エフェクトです。

    本作では、俳優の身体に直接貼り付けるシリコン製の造形パーツ「プロテーゼ」を使った特殊メイクのほか、ボディースーツ、人形、ダミーなどが使われました。なかでも目を引くのが、撮影で使用された劇用血の量です。その総量は約21,000リットルに達したとされています(Wikipedia)。

    これは単なる派手な記録ではありません。『遊星からの物体X』をはじめとする1980年代のボディ・ホラーのように、画面の中へ実物を置き、その質感をカメラで捉えることへのこだわりを示す数字です。

    皮膚の厚み、肉の重さ、体液の粘り。

    そこに実物が存在するからこそ、身体の変化に触れられそうな生々しさがあります。

    音が運ぶ生々しさ

    音も同じ方向を向いています。

    咀嚼音。皮膚が裂ける音。液体が動く音。

    画面から目を逸らしても、耳から身体の感触が入り込んでくる。本作の不快さは、映像だけではなく、音と一体になって作られています。

    まとめ|おしゃれの底に、実在の痛み

    「おしゃれなボディ・ホラー」という第一印象は、入口としては間違っていなかったと思います。

    ポップで洗練された画面は、本作の大きな魅力です。この見た目の快感がなければ、これほど多くの観客を引きつける映画にはならなかったでしょう。

    しかし、その華やかな画面の奥で映画を支えているのは、デミ・ムーアという配役です。

    社会が女性の外見へ向けてきた視線を、長いキャリアの中で受け続けてきた女優が、その視線によって壊されていく元スターを演じる。

    その重なりがあるからこそ、映画がどれほど派手になり、どれほど荒唐無稽になっても、エリザベスの痛みだけは嘘に見えません。

    配役のうまさとは、話題性のある俳優を起用することではありません。

    その俳優が歩んできた人生まで含めて、映画の説得力に変えることです。

    『サブスタンス』は、デミ・ムーアでなければ成立しなかった。

    おしゃれな画面に惹かれて観に行っても構いません。ただし、映画館を出たあと、鏡を見る自分の目が少しだけ変わっているかもしれません。

    参考資料

  • 映画『トゥギャザー』|新しいボディ・ホラー作家の誕生

    ボディ・ホラーと聞いて、まず名前が挙がるのはデヴィッド・クローネンバーグ監督でしょう。しかし近年は、その系譜を受け継ぎながら、独自の表現を切り開く作家が目立っています。

    息子のブランドン・クローネンバーグは、父とは異なる方向へ進んでいます。コラリー・ファルジャ監督の『サブスタンス』も、ボディ・ホラーの新たな代表作と呼ぶにふさわしい一本でした。

    その列に、また一人加わりました。

    2025年公開の『トゥギャザー』(Together)で長編デビューを果たした、オーストラリア出身のマイケル・シャンクスです。

    映画『トゥギャザー』

    本作はサンダンス映画祭2025のミッドナイト部門でプレミア上映され、同年7月末にNEON配給で全米公開されました。主演は、実生活でも夫婦であるデイヴ・フランコとアリソン・ブリー。日本では2026年2月6日にキノフィルムズ配給で公開されました

    新人監督は、ボディ・ホラーというジャンルに何を持ち込んだのか。それが、この記事で考えたいことです。

    ネタバレについて

    この記事は、物語中盤の身体の異変と、二人が切り離しを試みる場面までを前提に書いています。終盤の展開と結末には触れません。

    あらすじ|倦怠期のカップルが、物理的に離れられなくなる

    音楽家として行き詰まったティム(デイヴ・フランコ)と、小学校教師のミリー(アリソン・ブリー)。長年連れ添った二人は、関係が停滞したまま都会を離れ、田舎の一軒家へ移り住みます。

    ある日、森で道に迷った二人は、不気味な地下洞窟で一夜を明かします。その直後から、身体に異変が起こり始めます。

    二人の身体が、目に見えない力によって引き寄せ合う。離れようとすると激痛が走り、皮膚が触れれば癒着し始める。

    くっついたままトイレへ行き、悪戦苦闘しながら服を着替える。滑稽で痛々しい日常が続くなか、ミリーは工具を手にして、物理的に身体を切り離そうとします。

    そして、ミリーの同僚教師ジェイミー(デイモン・ヘリマン)だけが、この現象について何かを知っているような素振りを見せます。

    テーマ|「どこまでが自分か」が、そのまま怪異になる

    監督自身の恐怖から生まれた設定

    この突飛な設定には、監督自身の実感が下敷きにあります。

    シャンクスは15年以上続くパートナーとの関係について、サンダンス公式のインタビューで、「人生のほぼ半分を彼女と過ごしてきた。彼女なしの自分が誰なのか、ほとんど思い出せない」と語っています。

    別のインタビューでも、「どこまでが自分で、どこからが彼女なのか分からない」という感覚に触れています。

    長い関係の中では、自分と相手の境界が少しずつ曖昧になっていきます。本作は、その心理を皮膚の癒着という目に見える現象へ置き換えた映画です。

    シャンクスはFilmmaker Magazineのインタビューで、本作を「誰かに完全に身を委ねることへの、自分の恐れと不安を祝福し、検証する映画」と表現しています。

    愛する相手と人生を共有する喜びと、その中で自分を失うかもしれない恐怖。本作の怪異は、その両方から生まれています。

    怪異は、隠し事を許さない

    面白いのは、身体の異変が単なる災難として描かれていないことです。

    洞窟で一夜を過ごした二人は、互いに隠れてタバコを吸っていたことを知ります。禁煙したはずの二人が、それぞれ相手に嘘をついていたのです。

    大きな喧嘩を避けながら、表面上の平穏を保ってきた二人の関係が、こんな小さな場面から崩れ始めます。

    身体が離れられなくなってからは、ごまかしが通用しません。どこへ行くにも一緒で、嫌でも顔を突き合わせなければならない。それまで後回しにしてきた本音の会話が、怪異によって強制的に始まります。

    二人を苦しめる現象が、同時に対話のきっかけにもなっている。

    その皮肉が、本作を単なる「奇病に襲われるカップルの物語」では終わらせません。

    「ふたりでひとつ」という理想への疑い

    物語が進むと、この現象の背景にある考え方が見えてきます。

    ジェイミーは劇中で、プラトンの『饗宴』に登場するエロスの起源を語ります。かつて人間は一つの身体を持っていたが、神によって二つに引き裂かれ、それ以来、失われた片割れを求め続けているという神話です。

    また、本作の超自然現象には、ギリシャ神話に登場するヘルマプロディトスとサルマキスの泉も影響しているとされています。

    「ふたりでひとつ」「運命の相手」。

    恋愛を語るときに使われる美しい言葉を、文字どおり身体で実現したら、何が起こるのか。本作の怪異は、その思考実験のようにも見えます。

    相手を深く愛することと、相手と同じ存在になることは違います。愛とは一体化なのか、それとも別々の人間として隣にいることなのか。

    身体が癒着していく恐怖の奥に、恋愛をめぐる普遍的な問いが置かれています。

    キャラクター造形|一体化をめぐる三人

    ティム|しがみつく側

    ティムは父の死による傷を抱え、音楽家としてのキャリアも止まったままです。

    都会を離れることも、ミリーとの関係を次の段階へ進めることも、自分から決断したようには見えません。彼にとってミリーは、恋人であると同時に、崩れかけた生活を支える中心でもあります。

    身体の異変が先に強く現れ、ミリーを引き寄せてしまうのがティムの側であることは示唆的です。

    心理的に相手へ依存していた側から、物理的な引力が生まれる。彼のしがみつく気持ちが、そのまま身体の力へ変わったように見えます。

    ミリー|切り離そうとする側

    ミリーは現実的で、異変にも合理的に対処しようとします。

    まず医学的な説明を探し、それでも解決できなければ、工具を使って物理的に切り離すこともためらいません。

    彼女が守ろうとしているのは、自分の身体だけではありません。自分で考え、自分で選び、自分の意思で動ける状態です。

    その抵抗が激しくなるほど、物語は奇病の受難劇ではなく、自分の身体と意思を守るための闘いになっていきます。

    ミリーはティムを愛していないわけではありません。愛しているからこそ、相手と一つの存在になってしまうことを恐れている。その矛盾を、彼女が最も強く引き受けています。

    ジェイミー|「完全な一体化」の伝道者

    デイモン・ヘリマン演じるジェイミーは、穏やかな教師として日常に溶け込みながら、洞窟の秘密を知る人物です。

    彼は、ティムとミリーが恐れている「一つになること」を、完成や祝福として語ります。

    二人にとっては自分を失う恐怖であるものが、ジェイミーにとっては理想です。

    この対置によって、二人の個人的な問題は、愛とは融合なのか、それとも別々の人間として共存することなのかという問いへ広がっていきます。

    映画技法|VFXを自分で作る監督

    シャンクスは映画学校で技術を学んだ監督ではありません。

    サンダンス公式インタビューによると、10代の頃からYouTubeのチュートリアルを見ながら、編集やVFXソフトの使い方を独学してきました。

    本作でも、劇中に登場するVFXショットの多くを自ら手がけたと語っています。

    その経験は、身体が変形する場面によく表れています。

    皮膚が引っ張られ、組織が少しずつ同化していく。映像効果を見せること自体が目的にはならず、触れたときの湿り気や、皮膚の下にある組織の重さまで想像させます。

    監督自身が細部を調整できることが、身体表現の生々しさにつながっているのでしょう。

    色づかいも印象的です。

    近年のホラーでよく見られる、色を抑えた灰色の画面ではありません。色は濃く、影は深い。そのため、血や皮膚の変化が画面から生々しく浮かび上がります。

    音も同様です。皮膚が擦れる音や骨が軋む音が克明に拾われ、画面を直視していなくても、身体に起きていることが伝わってきます。

    そして、映画の説得力を支えているのが、主演二人の関係です。

    フランコとブリーは、実生活でも夫婦です。シャンクスはインタビューで、二人の身体を結合した状態で撮影する日には、トイレへ行くときまで一緒に動く必要があったと明かしています。初対面の俳優同士には、簡単に頼める撮影ではありません。

    長年連れ添った夫婦だけが持つ間合いと、相手の身体に対する遠慮のなさ。それが、倦怠期の気まずい空気にも、くっついたまま悪戦苦闘する場面にも表れています。

    まとめ|体温のあるボディ・ホラー

    デヴィッド・クローネンバーグのボディ・ホラーには、変化していく肉体を冷静に観察するような視線があります。

    『サブスタンス』には、社会への怒りを過剰な身体表現へ変える爆発力がありました。

    マイケル・シャンクスの持ち味は、そのどちらとも異なります。

    本作の恐怖は、テクノロジーや社会制度ではなく、「愛する人と人生を共有すること」そのものから生まれています。

    だから、怪異の合間に交わされる二人の会話には、ロマンティック・コメディのような手触りがあります。身体が激しく変形するほど、二人の関係はかえって正直になっていく。

    怖いのに笑える。気持ち悪いのに、どこか温かい。

    身体の変化から人間関係の本質を暴くという、ボディ・ホラーの伝統を受け継ぎながら、そこに恋愛映画の体温を持ち込んだ新人です。

    『トゥギャザー』を観て、私はボディ・ホラーの新作を追いかける理由が、また一つ増えたと感じました。

    次にマイケル・シャンクスの名前を見かけたら、迷わず観に行くつもりです。

    参考資料