タグ: Ari Aster

  • 映画『エディントンへようこそ』|正義を争う町で、AIだけが前へ進む

    私がこの映画を観てまず思い出したのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』でした。あの作品で感じた「現代のアメリカにおけるリベラルの迷走」を、2025年公開の『エディントンへようこそ』(Eddington)でも感じたからです。

    映画『エディントンへようこそ』

    監督は『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』のアリ・アスター。舞台はCOVID-19パンデミック初期、2020年5月のニューメキシコ州の架空の町エディントンです。マスクを着けるか着けないかで隣人同士が憎み合った、あの息苦しい時期を正面から扱った映画で、日本では2025年12月に公開されました

    ただ、観終えてしばらく経って記憶に残っているのは、政治の場面ではありませんでした。町の外れで、誰にも邪魔されずに建っていくAIデータセンターです。この記事では、リベラルの迷走という入口から、この映画が最後に観客へ見せるものまでを、テーマ、人物、技法の順にたどります。

    ネタバレについて

    この記事は作品の核心的な仕掛けまで踏み込みます。結末で何が起こるかという具体的な出来事は書きませんが、終盤が何を意味するのか——この争いの勝者は誰なのか——には触れます。場面の描写は物語中盤(町長選の過熱と陰謀論の拡散)までを前提にしています。未見の方はご注意ください。

    あらすじ|マスクをめぐる口論が、町長選になる

    2020年5月、ニューメキシコ州の小さな町エディントン。喘息の持病がありながらマスク着用義務を拒む保守派の保安官ジョー・クロス(ホアキン・フェニックス)は、スーパーマーケットでマスクを求められたことをきっかけに、感染対策の徹底とIT企業の誘致を進めるリベラル派の町長テッド・ガルシア(ペドロ・パスカル)と衝突し、対抗馬として町長選への出馬を宣言します。

    ジョーの家庭では、妻ルイーズ(エマ・ストーン)が過去の傷を抱えたまま、ネットの陰謀論配信者ヴァーノン(オースティン・バトラー)の動画にのめり込んでいきます。同居する義母ドーンも陰謀論に熱中している。町ではBLM抗議デモが始まり、SNSにはデマが流れ続けます。そしてその騒ぎの外側では、砂漠の地下水を大量に使うAIデータセンター「SolidGoldMagikarp」の建設が静かに進んでいきます。

    テーマ|対立は入口で、勝者は別の場所にいる

    リベラルの迷走という第一印象を支える場面は、序盤から続きます。テッド町長が掲げるのは科学、公衆衛生、経済発展という反論しにくい看板です。しかしその正しさは住民の生活の実感から浮いていて、町の未来のためと語られるデータセンターの誘致は、住民への節水要請と同じ時期に進んでいきます。デモに参加する高校生ブライアンについては、監督自身が「イデオロギーで動いているのではない。共同体を探していて、ガールフレンドがほしいだけの普通の子だ」と説明しています(TIME)。正義を掲げる運動に、正義以外の動機で人が集まってくる。この描き方は英語圏の批評でも大きな論点になっています

    ただし、この映画が批判するのはリベラルだけではありません。アスターはインタビューで「どの登場人物のことも裁かず、できる限り理解しようとすることが重要だった」と語り、彼らを「世界を案じるあまり、疑心暗鬼に陥った人々」と呼んでいます。全員が「何かが決定的におかしい」と感じているのに、何がおかしいのかについては誰とも一致しない。マスクを拒むジョーが訴える「個人の自由」も、この映画の中では町を動かす力になりません。

    では、この争いの勝者は誰なのか。ここについて監督は、解釈の余地をあまり残していません。TIMEのインタビューでアスターはこう言っています——「唯一の明白な勝者はデータセンターです」「あの物語も登場人物たちも、いまではただの学習データです。この映画自体が学習データなのです」。町の人々が言い争っている間に、その言い争いの記録だけが、AIを育てる材料として積み上がっていく。データセンターの名前「SolidGoldMagikarp」が、実在の大規模言語モデルの挙動を狂わせることで知られる単語(Glitch Token)から取られていることは、Gizmodoが解説しています。私はこの命名を、人間たちの騒ぎを機械の側から眺めたときの冷たさの表現として受け取りました。

    キャラクター造形|正義を信じる四人と、見られない一人

    監督が「誰も裁かない」と語っているとおり、主要人物は誰も分かりやすい悪役として書かれていません。その上で、それぞれの信じる正義がどう空回りするかは、人物ごとにはっきり描き分けられています。

    ジョー・クロス|信念が身体を裏切らせる保安官

    ジョー・クロスは、荒野に法と秩序をもたらす昔ながらの保安官の役を、自分で自分に割り当てているように見えます。しかし手作りの選挙ポスターは不器用で、演説は噛み合わない。喘息の身体はマスクを必要としているのに、信念がそれを拒ませる。身体に必要なものを信念が退けてしまうこの一点に、ジョーという人物の行き詰まりがよく表れています。

    テッド・ガルシア|正しさが人を遠ざける町長

    テッド・ガルシアは、データと制度で町を良くできると信じる政治家です。書類の上では、彼はいつも正しい。しかしその正しさを住民の実感に届く言葉で説明できないため、置き去りにされた人たちはかえって陰謀論の側へ流れていきます。善意の政治家が、話の通じる相手を減らしていく。この映画で最も苦い部分だと私は思います。

    ルイーズとヴァーノン|受け止められなかった痛みの行き先

    ルイーズとヴァーノンの関係は、同じ苦さを家庭の中で見せます。傷を抱えたルイーズは自室で人形を作り続けますが、夫のジョーはその痛みに向き合おうとしません。代わりに配信者ヴァーノンが「あなたの痛みには犯人がいる」という分かりやすい物語を差し出します。家族が受け止めなかった痛みの受け皿を、ネットの煽動者が先に用意してしまう。この順番の残酷さが、丁寧に描かれています。

    ホームレスの男|誰にも見られない一人

    そして、私がこの映画で最も重要だと考えるのは、クリフトン・コリンズ・Jr演じるホームレスの男です。右も左もプラカードを掲げて怒鳴り合うデモのすぐ横で、この男が路上に倒れていても、誰も足を止めません。全国ニュースの争点に夢中な人たちが、目の前の一人を見ていない。リベラルの迷走という私の第一印象に、いちばん静かな形で答えてくれた場面でした。

    映画技法|まぶしすぎる昼と、スマホだけが光る夜

    撮影監督のダリウス・コンジはLos Angeles Timesのインタビューで、屋外を「けばけばしいほど明るく——色もコントラストも飛びかけるほど明るく、それでもまだ足りないくらいに」撮ることを狙ったと語っています。実際、真昼の砂漠は目が痛くなるほど白い。その対極に置かれるのが夜の場面で、人物の顔はしばしばスマートフォンの画面の光だけに照らされます。昼は明るすぎて見えず、夜は画面の中しか見えない。登場人物たちが互いを見られなくなっていく過程が、私には光の設計そのものとして映りました。

    ジョーとテッドが向き合う場面の画づくりは、西部劇の決闘によく似ています。ただし、二人の背景に見えるのは荒野ではなく、データセンターの工事現場です。音楽(ボビー・クルリック、ダニエル・ペンバートン)も、西部劇を思わせる勇壮な金管の下に、低く持続する電子音を敷いています。少なくとも私の耳には、人物たちの対立の下で、別の何かが休みなく稼働し続けている音として聞こえました。

    こうした画面づくりの背景には、監督自身の取材があります。アスターは脚本執筆にあたり、「Twitterで複数のプロフィールを作り、それぞれ別のアルゴリズムを育てて、あとで使うためにスクリーンショットを撮りためていた」と語っています(Den of Geek)。劇中のSNSの描写が誇張に見えないのは、この実際の観察が下敷きにあるからでしょう。

    まとめ|決闘の外で、建ち続けるもの

    『ワン・バトル・アフター・アナザー』と本作、続けて観たこの2本は、私の中では「リベラルの迷走」というひとつの主題でつながりました。ただし本作は、それを笑って消費できる他人事としては描いていません。マスク論争に熱くなった人も、それを冷めた目で眺めていた人も、その言動の記録ごとAIの材料になっていた——という視点が最後に待っているからです。

    批評家の評価は割れています。登場人物全員を見下した映画だという批判もあります。それでも私は、「どちらの正義が正しいか」ではなく「その争いで誰が利益を得たのか」へ問いを移したところに、この映画の価値があると考えます。リベラルの迷走を確認するつもりで観に行き、帰り道では自分がスマートフォンを見ている時間のことを考えていた。私にとってはそういう映画でした。

    参考資料