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  • 映画『プッシャー2』|脇役だった男が、スターになって帰ってきた

    2026年5月1日、「北欧の至宝 マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」の特別企画として、『プッシャー』三部作の4Kデジタル修復版が劇場公開されました。

    マッツ・ミケルセンの長編映画デビュー30周年を記念した上映です。日本では2013年の三部作一挙公開以来、2度目の劇場公開となりました(公式サイト/配給シンカ映画.com)。

    私はこの機会に、三部作を続けて観ました。本作はその第2作です。

    映画『プッシャー2』

    第1作『プッシャー』のレビューに書いたとおり、映画デビュー作でのミケルセンは主役ではありません。主人公フランクの相棒トニーを演じ、物語の半ばで退場します。

    ミケルセン目当てで観たファンとしては、正直なところ肩透かしでした。

    ところが、2004年公開の『プッシャー2』(With Blood on My Hands: Pusher II)では、そのトニーが主人公です。

    『プッシャー』三部作は、作品ごとに主人公が入れ替わります。第1作は麻薬の売人フランク、第2作はその相棒トニー、最終作は麻薬王ミロの映画です。

    前作の脇役だった人物を、次の映画では中心に置く。同じ街を舞台にしながら、別の人物の人生へ入っていく構成です。

    しかし、この形は最初から計画されていたわけではありません。

    監督のニコラス・ウィンディング・レフンには、そもそも続編を作るつもりがなかった。それどころか、続編の企画を嫌っていました。

    一方、8年のあいだにミケルセンはデンマークを代表する人気俳優になっていました。第1作では新人だった脇役が、シリーズの外でスターになり、主役として帰ってきたのです。

    この記事では、そんな本作の成り立ちをたどりながら、父に認められようとするトニーが、自分の子どもを認める側へ回るまでを見ていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の核心と結末まで具体的に扱います。未見の方はご注意ください。

    作品の成り立ち|借金のために作った続編

    「もう一本作るとは考えもしなかった」

    『プッシャー』三部作は、最初から三部作として構想された作品ではありません。

    レフンは2006年のインタビューで、こう語っています。

    もう一本作ることになるとは、考えたこともなかった。こんな形になるとは思いもしなかった。

    Reverse Shot

    続編の話が持ち上がったときの反応は、さらに率直です。

    嫌だった。軽蔑していた。でもそれは、怖かったからだ。

    (同上)

    第1作は、若いレフンが勢いで撮り上げたデビュー作でした。同じ世界へ戻ったとき、前作を超えられなかったらどうするのか。自分の才能を使い果たしていたと気づくことが怖かったのだと、本人は説明しています。

    それでも続編を作らざるを得なかったのは、金銭的な事情があったからです。

    『フィアーX』の失敗と100万ドルの負債

    『プッシャー』の後、レフンは『ブリーダー』などを経て、初の英語作品『フィアーX』を監督します。

    しかし『フィアーX』は興行的に失敗しました。製作費の多くを自ら負担していたレフンと製作会社は、約100万ドルの負債を抱えます。

    当時の困窮について、レフンはこう振り返っています。

    娘が生まれた日、家に帰って、手元にある外貨をかき集めてデンマーク・クローネに両替した。それくらい金がなかった。

    Reverse Shot

    家賃は両親に払ってもらい、妻は出産を迎えていました。

    レフンは、第3作の製作資金が決まるまで借金を返せないと分かっていたとも語っています。つまり『プッシャー2』と『プッシャー3』は、負債を返すために必要な2本でした。

    本作は、作りたくて始めた映画ではありません。

    レフンは後年、『プッシャー2』と『プッシャー3』を金のために作ったと、あっけらかんと認めています。

    ところが、この嫌々始まった続編が、監督としての再出発になります。少数の批評家レビューによる集計ではあるものの、『プッシャー2』はRotten Tomatoesで100%の評価を得ました(Rotten Tomatoes)。

    軽蔑から始まった続編が、監督のキャリアを立て直したのです。

    続編ではなく、別の人物の物語にする

    レフンが続編を作るために見つけた方法は、フランクのその後を描くことではありませんでした。

    第1作を見直したレフンは、そこに家族や友情で結ばれた複数の人物がいることに気づきます。そして『ザ・ソプラノズ』などのテレビシリーズに影響を受け、同じ世界を別の人物から描く構成を考えました。

    本人は『プッシャー2』と『プッシャー3』を、テレビシリーズのように構想し、それぞれを長編映画として撮ったと説明しています(Reverse Shot)。

    フランクの物語を引き延ばすのではなく、前作の脇にいた人物へカメラを向ける。

    続編でありながら、主人公もテーマも変える。この方法によって、単なる二匹目のどじょうになることを避けたのです。

    あらすじ|出所した男は、父に認められたかった

    刑務所から出てきたトニー(マッツ・ミケルセン)は、コペンハーゲンの裏社会で盗難車を扱う父、通称「公爵」(レイフ・スリヴェスター・ピーターセン)のもとへ向かいます。

    トニーは父の仕事を手伝おうとしますが、父は息子を無能だと決めつけ、まともに取り合いません。

    やがてトニーは、かつて関係を持ったシャーロット(アンネ・ソーレンセン)との間に、自分の子どもが生まれていたことを知ります。

    しかし、赤ん坊の抱き方も、父親として何をすればよいのかも分かりません。

    仕事では失敗を繰り返し、父からの評価はさらに下がります。堅気になろうとしても、仕事も金もなく、周囲からは再び犯罪へ引き戻される。

    屈辱が積み重なった末に、トニーは父を刺します。そして赤ん坊を連れ、バスで街を去ります。

    本作が描くのは、出所してからの数日間です。

    大きな計画を実行するわけでも、裏社会で成り上がるわけでもありません。ただ失敗し、見下され、それでも自分の人生を選ぼうとする男を追っていく映画です。

    テーマ|認められたい男が、認める側に回るまで

    父に認められたい息子

    本作は、二つの父子関係によって組み立てられています。

    一つ目は、トニーと彼の父です。

    トニーの行動の多くは、父に認めてもらうためのものです。

    盗んだ高級車を持ち帰るのも、父の仕事を手伝おうとするのも、自分が役に立つ人間だと証明したいからです。

    しかし、父は何をしてもトニーを認めません。

    しかも、父は裏社会の人間です。認めてもらうためには、犯罪者として有能になるしかない。

    父に認められようとすればするほど、まともな生活から遠ざかっていきます。

    トニーの行き詰まりは、「父に認められること」と「裏社会から抜け出すこと」が両立しない点にあります。

    認知されなかった息子

    もう一つの父子関係が、トニーと赤ん坊です。

    こちらの関係では、トニーは認められる側ではありません。子どもの存在を認め、引き受けるかどうかを決める側です。

    父の前では、自分の価値を判断されるのを待つしかなかったトニーが、赤ん坊の前では判断する立場に立たされます。

    もっとも、トニーに父親らしい能力があるわけではありません。

    抱き方も分からない。泣いている理由も分からない。金も仕事もなく、自分の生活すら立て直せていない。

    それでも最後には、赤ん坊を置き去りにしません。

    結末——初めて自分で選ぶ

    トニーは父を刺した後、赤ん坊を連れてバスに乗ります。

    父に認めてもらうことを諦め、自分が誰かを引き受ける側へ回る。

    私にはこれが、トニーが初めて自分の意思で選んだ行動に見えました。

    それまでのトニーは、周囲から言われたことに反応しているだけでした。父に命じられ、仲間に誘われ、失敗すれば言い訳をする。自分から人生の方向を決めたことがありません。

    しかし最後には、父のもとを離れ、赤ん坊を連れて街を出ます。

    行き先も、生活の見通しもありません。父親として成功できる保証もない。

    それでも、父に認められる人生を終わらせることだけは、自分で選びます。

    認められたい男の物語が、誰かを認めることを選んで終わる。本作の核心は、ここにあると思います。

    父親になった監督が撮った結末

    この結末は、当時のレフン自身とも重なります。

    レフンは『プッシャー2』を作ったころに最初の子どもが生まれ、家族を持ったことで、自分の人生や映画の作り方が変わったと語っています。

    それ以前の作品では、破壊や自己崩壊へ向かうことに価値を感じていた。しかし子どもが生まれ、「自分が望むかどうかにかかわらず、人生は続いていく」と考えるようになったそうです(ScreenAnarchy)。

    その変化は、トニーの結末にも表れています。

    父を殺す場面だけを見れば、これまでと同じ暴力の連鎖です。しかし、その後に赤ん坊を連れて街を出る。

    破壊で終わらず、その先に続く人生を残しています。

    借金を返すために作った映画が、結果として父親になることを描いた映画になった。その屈折も、本作の面白さです。

    キャラクター造形|脇役に内面を与える

    トニー(マッツ・ミケルセン)——虚勢の下にあったもの

    第1作のトニーは、後頭部に「RESPECT」とタトゥーを入れ、下品な話をまくし立てる男でした。

    強そうな外見と騒がしさで、自分を大きく見せようとする。しかし実際には度胸がなく、フランクの隣で虚勢を張っているだけです。

    本作でも、その人物像は大きく変わっていません。

    相変わらず判断は浅く、失敗すれば言い訳をする。麻薬を断つこともできず、犯罪者としても有能ではありません。

    ただし、カメラがトニーを追い続けることで、前作では見えなかったものが現れます。

    虚勢の下にあったのは、父に認めてもらいたいという、子どものような飢えでした。

    第1作での騒がしさも、後頭部の「RESPECT」も、自分には価値があると周囲へ訴えるためのものだったと分かります。

    レフンは、犯罪や麻薬そのものではなく、登場人物たちの傷つきやすさに興味があったと語っています。

    私は登場人物たちの傷つきやすさに興味があった。彼らの傷つきやすさのほうが、実際にはずっと恐ろしい。

    Salon

    第1作のトニーは、騒がしい脇役でした。本作は、その騒がしさの奥にあった傷を掘り出します。

    主役化とは、トニーを別人に作り替えることではありません。前作では背景に隠れていた「認められたさ」を、物語の中心へ移すことでした。

    この変化を支えたのが、演じるマッツ・ミケルセンです。

    第1作では映画初出演の新人でしたが、8年後の本作では、すでにデンマークで広く知られる俳優になっていました。脇役だったトニーが主人公として帰ってきた背景には、ミケルセン自身がシリーズの外で成長し、映画全体を背負える俳優になっていたことがあります。

    そしてミケルセンは、本作の演技でボディル賞とロバート賞の主演男優賞を受賞しました(BodilprisenDanish Film Institute)。

    第1作では途中で消えたトニーが、8年後には映画の中心に立つ。

    その変化は、スターになった俳優を目立たせるためのものではありません。ミケルセンの成長を使って、脇役だったトニーの内面を初めて正面から描いた結果なのです。

    父「公爵」——決して認めない男

    トニーの父が物語で果たす役割は、はっきりしています。

    何があっても息子を認めないことです。

    トニーが車を盗んでも、仕事を手伝っても、評価は変わりません。それどころか、失敗するたびに無能さを確認するように侮辱します。

    もし少しでも父がトニーを認めてしまえば、彼はその場にとどまるでしょう。

    決して認めない父だからこそ、トニーは最後に関係そのものを断ち切るしかありません。

    この父親は、単なる冷酷な悪役ではありません。

    トニーがなりたかった犯罪者の完成形でもあります。裏社会で力を持ち、周囲から恐れられ、家族さえ支配する男です。

    その父を殺すことは、父親個人への復讐であると同時に、父のような男になることを諦める行為にも見えます。

    シャーロットと赤ん坊——父子関係の裏返し

    シャーロットと赤ん坊は、トニーと父の関係を裏返すために置かれています。

    トニーは父の前では、認められるのを待つ息子です。

    しかし赤ん坊の前では、子どもの存在を認め、守るかどうかを選ぶ父親です。

    シャーロットもまた、子どもを十分に引き受けているとは言い難い人物です。だからこそ、誰かが選ばなければ赤ん坊は置き去りにされます。

    その役割を引き受けたのが、三部作のなかでも特に頼りないトニーだった。

    立派だから父親になるのではありません。

    誰も引き受けないから、自分が引き受ける。その選択に、本作のかすかな希望があります。

    ミロ——次の主人公

    第1作の麻薬王ミロ(ズラッコ・ブリッチ)は、本作にも短く登場します。

    主人公が交代していく三部作のなかで、作品同士が同じ街の出来事であることを示す存在です。

    フランクの物語からトニーの物語へ移っても、ミロの商売は続いている。誰かが破滅しても、裏社会そのものは変わりません。

    そして最終作では、そのミロが主人公になります。

    これまで他人を追い詰める側だった男が、次は自分の一日を追われることになるのです。

    映画技法|スターを街の中へ埋め戻す

    実際の街の人間が埋める画面

    レフンは主要人物以外の多くの役に、職業俳優ではない人々を起用しました。

    なかには、コペンハーゲンの路上で出会った実際の犯罪者もいたといいます。

    レフンは、画面に正確さがなければ観客はすぐに作り物だと見抜いてしまうと説明しています(Salon)。

    この起用が特に効いているのが、結婚式の場面です。

    宴席を埋めるのは、犯罪映画のために整えられたエキストラではありません。その街に本当に暮らしていそうな顔が並びます。

    誰が俳優で、誰がそうでないのか分からない。

    画面の生々しさは、手持ちカメラだけでなく、そこに映っている人々の顔からも生まれています。

    スターを冴えない男として撮る

    2004年のミケルセンは、すでにデンマークで知られた俳優でした。

    しかし本作は、彼をスターらしく撮りません。

    剃り上げた頭にはタトゥーがあり、着ている服も冴えない。失敗を重ね、父に怯え、赤ん坊を抱けば途方に暮れる。

    格好よく決まる場面は、ほとんどありません。

    スターを主人公に迎えながら、その華を画面から取り除いていく。ミケルセンを特別な存在として浮かび上がらせるのではなく、街の底辺へ埋め戻します。

    裏社会を憧れの対象として描かない三部作の姿勢は、主演俳優の撮り方にも表れています。

    同じ撮り方で、別の人生を追う

    三部作は、手持ちカメラで一人の人物に密着する撮り方を共有しています。

    犯罪組織の全体像を説明するのではなく、その環境の中で右往左往する一人の背中を追う。

    第1作でフランクを追いかけたカメラが、本作ではトニーの後ろを歩きます。

    同じ街で、同じ撮り方を使いながら、見えてくる世界は違います。

    フランクにとって街は、借金によって逃げ道を奪われていく場所でした。トニーにとっては、父に認めてもらうために何度も戻ってしまう場所です。

    主人公を入れ替えることで、裏社会そのものを説明するのではなく、そこに暮らす人間の数だけ異なる行き詰まりがあることを見せています。

    まとめ|脇役だった男が、父親として街を出る

    第1作でミケルセンの出番の少なさに肩透かしを食らったファンにとって、本作は待望の主演作です。

    しかし、単に出番が増えただけの続編ではありません。

    前作で騒がしく虚勢を張っていた脇役の内側に入り、なぜ彼がそこまで「RESPECT」を求めていたのかを描いています。

    その答えは、父に認められたかったからです。

    トニーは犯罪者として成功したいわけではありません。ただ父から、息子として価値があると思ってもらいたかった。

    しかし、その願いを持ち続ける限り、父の支配から抜け出せません。

    最後にトニーは、認めてもらうことを諦めます。そして、自分が赤ん坊を認める側へ回ります。

    この続編自体も、奇妙な経緯で生まれました。

    監督は続編を嫌い、借金を返すために制作を引き受けた。俳優は8年のあいだにスターとなり、古巣へ主人公として帰ってきた。さらに、監督自身も父親になっていました。

    その変化が重なった結果、第1作よりも人間の弱さに踏み込んだ映画が生まれました。

    脇役だったトニーは、スターになったミケルセンとともに主役として帰ってきます。

    そして最後には、父に認められない息子のままではなく、自分の子どもを引き受ける父親として街を出ていきます。

    行く先に希望があるかは分かりません。

    それでも、裏社会の外へ向かうバスに乗ったことだけは確かです。

    さて、三部作は残り1本。

    次は、第1作から登場し続けてきた麻薬王ミロの映画です。『プッシャー3』のレビューに続きます。

    参考資料