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  • 映画『KILL 超覚醒』|邦題が作った期待と本編の設計

    2023年公開の『KILL 超覚醒』(原題:Kill)を、私は「キレのある無双アクション」だと思って観ました。「超覚醒」という邦題から、最強の主人公が力を解放し、敵をなぎ倒していく爽快な映画を想像したからです。

    ところが、実際に観てみると、そういう映画ではありませんでした。

    本作は、走行中の寝台特急を舞台に、特殊部隊員と40人の武装強盗団の死闘を描くインドのアクション映画です。監督・脚本はニキル・ナゲシュ・バート。日本では2025年11月14日に松竹の配給で公開されました(松竹公式サイトWikipedia日本語版)。

    ここで確認しておきたいのは、原題が「Kill」の一語であることです。「覚醒」にあたる言葉は、原題には含まれていません(Wikipedia英語版)。

    「超覚醒」は、日本の配給側が付け加えた言葉です。

    この記事では、私が感じた「期待と違う」という印象の正体を、邦題が作った期待と、本編が目指したものとの違いから考えていきます。

    ネタバレについて

    この記事では、物語の中盤までの展開に触れます。映画の性質が変わる転換点で何が起きるのか、そして結末については伏せています。

    ただし、監督の発言を取り上げる都合上、本作が悲しみを描いた映画であることには繰り返し触れます。まっさらな状態で観たい方は、鑑賞後にお読みください。

    あらすじ|寝台特急に乗り込んだ40人

    インド東部からニューデリーへ向かう寝台特急。

    国家治安部隊(NSG)の隊員アムリトは、望まぬ婚約をさせられた恋人トゥリカを追い、列車に乗り込みます。

    そこへ、40人の武装強盗団が乗客を狙って襲撃を開始。トゥリカの一家も標的となり、アムリトは同僚とともに応戦します(松竹公式サイトWikipedia日本語版)。

    あらすじとして必要なのは、ここまでです。

    逃げ場のない密室。40人の強盗団。少数で立ち向かう特殊部隊員。そして、守るべき恋人。この配置だけを見れば、たしかに無双アクションの舞台に見えます。

    しかし、本作が見せようとしているのは、圧倒的な強さではありません。

    テーマ|アクションは感情の副産物

    監督の言葉から見える設計

    バート監督は、本作について次のように語っています。

    アクションは感情の副産物にすぎない。大事なのは感情のほうだ。

    Fantastic Pavilion

    同じインタビューでは、「悲嘆と罪悪感はとても強い感情であり、この二つが重なると、人の人生に大混乱を引き起こしうる」とも述べています。

    つまり、作り手が中心に置いたのは、覚醒した兵士の強さではありません。悲しみや罪悪感に突き動かされ、暴力へと向かっていく人間の姿です。

    私が期待した「無双の爽快感」は、少なくとも本作が最優先したものではなかったことになります。

    根っこにあるのはラブストーリー

    監督は本作を、「根っこはラブストーリー。ただし、ひねりがある」とも表現しています(The Week)。

    同じ記事では、「列車について考えるとき、私たちはロマンスを考える」と語り、インド映画において列車が恋愛の舞台として親しまれてきたことにも触れています。

    実際、序盤は恋人を追いかける男の物語として進みます。主人公は特殊部隊員ですが、映画はしばらくの間、恋愛映画のような顔をしています。

    その恋愛感情が、やがて別の激しい感情へと変わっていく。アクションは、その変化の先に置かれています。

    土台にある監督自身の体験

    物語の土台には、監督自身の体験があります。

    バート監督は1990年代、学生時代に列車で移動していた際、実際に武装強盗団の襲撃に遭いました。その記憶をもとに、2016年に本作の原案を書いたとされています(Fantastic PavilionWikipedia英語版)。

    襲う側ではなく、襲われる側として列車に乗っていた人が作った映画です。

    そう考えると、暴力を単なる格好いい見せ場にせず、恐怖や痛みを伴うものとして描く姿勢にも納得がいきます。恐怖の記憶から始まった作品に、私は一方的な爽快感を期待していたわけです。

    キャラクター造形|悲嘆が両側に積み上がる

    アムリト|殺すことをためらう特殊部隊員

    主人公アムリトを演じるのは、ラクシャです。

    序盤のアムリトは、特殊部隊員でありながら、人を殺すことをためらう人物として描かれます。

    米国の映画メディアSlashFilmのレビューは、当初のアムリトが感情を抑えながら応戦し、物語の後半で怒りを解放していく構成を指摘しています(SlashFilm)。

    監督はラクシャを起用した理由について、次のように説明しています。

    彼は二人の人間だ。恋に焦がれる男と、事態が悪化したときの怪物的な殺戮マシンだ。

    The Week

    無双アクションの主人公であれば、最初から完成された強さを見せるでしょう。しかし、アムリトは違います。

    彼の暴力性は、もともと備わっていた力が華々しく解放されるのではなく、悲しみによって人間性が壊された結果として現れます。

    そのため、彼の強さは快感の源になりません。むしろ、失ったものの大きさを示す証拠になっています。

    ファニ|敵の側にも悲しみがある

    強盗団の若頭格ファニを演じるのは、ラガヴ・ジュヤルです。

    SlashFilmはファニを、芝居がかった台詞回しで強烈な個性を見せる「1980年代型の悪役」と評しています(SlashFilm)。

    一方で、本作は強盗団を、倒されるためだけの無名の敵としては描きません。彼らの側にも、家族のような結びつきがあります。

    アムリトが団員を殺すほど、強盗団の側にも悲しみと復讐心が積み上がっていくのです。

    監督は、暴力の描き方について次のように語っています。

    私は暴力の帰結を、つまり、それがどちらの側にいても痛みと苦悶をもたらすことを実際に見せた。暴力を虚勢や格好よさとして見ないことが、とても重要だった。

    The Week

    主人公が敵を倒すたびに、観客が単純な快感を得る。無双アクションではおなじみの仕組みです。

    本作は、敵の側にも顔や関係を与えることで、その仕組みを意図的に働きにくくしています。

    トゥリカと乗客たち|暴力に巻き込まれる人々

    トゥリカを演じるのは、ターニャ・マニクタラです。

    彼女は物語の発端であり、アムリトが列車に乗り込む理由そのものでもあります。

    そして列車の乗客たちは、密室で起きる暴力に巻き込まれる市民として配置されています。

    SlashFilmは本作について、韓国映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』のように、乗客たちの間を縫って物語が進んでいく空間の使い方を指摘しています(SlashFilm)。

    守られるべき人々が常に戦いの近くにいるため、暴力は安全な見世物にはなりません。誰かが戦うたびに、その周囲には巻き添えになる人々がいます。

    映画技法|痛みを伝えるための画作り

    密室の制約が生む工夫

    バート監督は、列車を舞台にしたアクションについて、次のように語っています。

    設定や場所は変えられない。変えられるのは、一つひとつの殺しの見せ方だけだ。

    The Week

    SlashFilmのレビューも、消火器や折りたたみテーブルなど、車内にある物を利用した殺陣の連続を評価しています(SlashFilm)。

    ただし、こうした工夫は、華麗さを生むためのものというより、苦闘を見せるための道具に見えます。

    広い場所を自由に動き回ることはできません。逃げ場のない通路で、目の前にある物をつかみ、相手を殴るしかない。列車の狭さが、そのまま戦いの痛さにつながっています。

    傷を省略しない

    バート監督は傷の表現について、「血と傷をVFXで強調した。傷が本物に見えなければ、観客の体験が損なわれてしまう」と述べています(Fantastic Pavilion)。

    また、「観客が乗客として列車に乗り合わせ、悲劇をくぐり抜けているように感じてほしかった」とも語っています(The Week)。

    戦えば傷つき、その傷は簡単には消えません。当たり前のことですが、爽快な無双アクションは、しばしばこの当たり前を省略することで成立しています。

    本作は、それを省略しません。

    傷は残り、登場人物は消耗し、戦いが続くほど体の動きも鈍くなっていきます。だからこそ、敵を倒す手際のよさよりも、戦い続ける苦しさのほうが印象に残ります。

    歌と踊りを排した105分

    松竹公式サイトに掲載された推薦コメントでも、本作には「歌も踊りも無い」ことが強調されています(松竹公式サイト)。

    インド映画でよく見られる歌や踊りの場面を入れず、上映時間を105分に絞った構成です。

    SlashFilmは本作を、インドネシアの密室アクション映画『ザ・レイド』の列車版と評しています(SlashFilm)。

    『ジョン・ウィック』のように、敵を倒す手際のよさや主人公の圧倒的な技量で魅せる映画ではありません。むしろ『ザ・レイド』のように、傷つき、消耗しながら戦い抜く映画です。

    この違いが、私の感じた「期待とのズレ」を最もよく説明していると思います。

    期待とのズレ|「超覚醒」と「Kill」のあいだ

    松竹の宣伝では、本作を「エクストリーム・ノンストップ・アクション」と紹介し、『ジョン・ウィック』シリーズを「も凌駕するとてつもない衝撃作」と位置づけています(松竹公式サイト)。

    この宣伝文句と「超覚醒」という邦題を組み合わせて見れば、主人公の力が解放される快感を中心とした映画を想像するのは自然です。少なくとも、私はそう受け取りました。

    しかし、本編は監督の言葉どおり、悲しみに突き動かされた人間が暴力へと向かっていく、痛みの強いアクションとして設計されています。

    私が感じたズレは、本編の欠点ではありません。邦題や宣伝が作った期待と、作品そのものが目指したものとの距離にあったのだと思います。

    もちろん、配給側がなぜ「超覚醒」という言葉を選んだのかは、確認できた資料からは分かりません。そのため、命名の意図について断定することはできません。

    また、アクションの質が低いわけでもありません。

    米国のレビュー集計サイトRotten Tomatoesでは、106件のレビューに基づく支持率が90%となっており、批評面では高く評価されています(Wikipedia英語版)。

    「アクションにキレがない」のではありません。「無双の爽快感を目指していない」のです。

    この二つは、分けて考える必要があります。

    まとめ|何を期待するかで印象が変わる

    「超覚醒」という言葉から無双アクションを期待した私にとって、本作は期待どおりの映画ではありませんでした。

    しかし、その違和感を分解していくと、問題は作品の出来ではなく、原題「Kill」の一語に「超覚醒」という言葉を加えた邦題との距離にありました。

    殺すことをためらう主人公。敵の側にも積み上がる悲しみ。戦うほど増えていく傷。どれも、爽快さを生むためではなく、暴力の痛みを残す方向へ向かっています。

    これから観る方には、主人公が力を解放するパワーアップものではなく、狭い列車の中で、人間が悲しみによって壊れていくアクション映画として観ることをおすすめします。

    期待を少し整えてから観れば、本作が目指したものは、より真っすぐに届くはずです。

    参考資料

  • 映画『Mr.ノーバディ』|「普通のおっさんが実は強い」を本物にするためにボブ・オデンカークがやったこと

    2021年公開の『Mr.ノーバディ』(Nobody)を、私はまったく期待せずに観ました。

    ところが、すごく面白かった。

    普通のおっさんが、実はとんでもなく強い。設定を一行で説明すれば、それだけの映画です。

    監督はイリヤ・ナイシュラー。主演は、『ブレイキング・バッド』『ベター・コール・ソウル』の弁護士ソウル・グッドマン役で知られるボブ・オデンカークです。続編となる『Mr.ノーバディ2』も2025年に公開しています。

    日本では2021年6月11日に東宝東和の配給で公開されました。上映時間は92分、レイティングはPG12です(映画.com)。

    映画『Mr.ノーバディ』

    日本版のキャッチコピーは、次のようなものでした。

    何者でもない奴を、甘くみてはいけない。

    東宝東和公式サイト

    この映画を面白いと感じたのは、私だけではなかったようです。製作費1,600万ドルの中規模作品ながら、世界興行収入は5,750万ドルを記録。米国の観客出口調査CinemaScoreでも、A−という高い評価を得ています(Wikipedia)。

    では、これほど単純な設定の映画が、なぜ面白かったのでしょうか。

    この記事では、その理由を製作の成り立ちと映画技法から考えます。とりわけ注目したいのは、ボブ・オデンカークが「普通のおっさんが実は強い」という設定を成立させるために、何をしたのかです。

    ネタバレについて

    この記事では、主人公の正体と終盤の展開を含め、作品の核心に触れます。

    未見の方はご注意ください。

    あらすじ|バスに乗り遅れ、ゴミ出しに間に合わない男

    ハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)は、妻子と暮らす平凡な中年男性です。

    映画は、彼の変わり映えのしない毎日を、同じカットの反復で見せます。

    バスに乗り遅れる。ゴミ出しに間に合わない。コーヒーを飲む。

    来る週も来る週も、同じことの繰り返しです。

    ある夜、ハッチの自宅に強盗が入ります。彼はゴルフクラブを構えますが、振り下ろしません。

    強盗は逃走。息子は落胆し、駆けつけた警官までが、ハッチに失望したような目を向けます。

    ところが数日後、深夜バスに酔った暴漢の一団が乗り込んでくると、ハッチは席を立ちます。

    そこで映画は、彼の正体を明かします。

    ハッチは、かつて政府機関に所属していた「オーディター」と呼ばれる男でした。組織が表立って処理できない問題を始末する、いわば元暗殺者です。

    バスでの乱闘をきっかけに、ハッチはロシアン・マフィアの首領ユリアン(アレクセイ・セレブリャコフ)との全面戦争へ突入していきます。

    製作の経緯|ジョン・ウィックのチームが始めた映画ではなかった

    『Mr.ノーバディ』は、しばしば「『ジョン・ウィック』の製作陣が手がけたアクション映画」と紹介されます。

    これは事実です。

    脚本は、『ジョン・ウィック』の生みの親であるデレク・コルスタッド。製作には、同シリーズ第1作をクレジットなしで共同監督したデヴィッド・リーチと、彼が率いる製作会社87Northが参加しています(Wikipedia)。

    日本の配給会社である東宝東和も、この人脈を前面に出して宣伝しました(東宝東和公式サイト)。

    ただし、製作の経緯を調べると、順番は私が想像していたものとは逆でした。

    『ジョン・ウィック』のチームが、次のアクション映画の主演にオデンカークを選んだのではありません。

    オデンカークが、自分の物語を映画にするために、『ジョン・ウィック』の人脈を集めたのです。

    出発点は、オデンカーク自身の体験

    企画の出発点には、オデンカークの実体験があります。

    彼はロサンゼルスの自宅に二度、泥棒に入られました。しかし、その場で手を出すことはありませんでした。

    SlashFilmのインタビューで本人は、事態を悪化させないために物理的な抵抗をしなかったこと、そして、その経験から少し恥のような感情が残ったことを語っています。

    その「動けなかった夜」を、映画の物語へと変えたのです。

    オデンカークは題材を脚本家のデレク・コルスタッドに持ち込み、アクション映画の実績を持つ製作陣を集めていきました。

    ナイシュラー監督も、Geek Cultureのインタビューで、次のように語っています。

    私がボブをキャスティングしたのではない。ボブが私を監督としてキャスティングした。

    つまり、本作の中心には最初からオデンカークがいました。

    ナイシュラー自身は、『ジョン・ウィック』の関係者ではありません。全編を一人称視点で撮影したアクション映画『ハードコア』で注目された、ロシア出身の監督です。

    『ジョン・ウィック』と同じ世界の物語なのではないか、というファンの憶測についても、コルスタッドは配給会社が異なることを理由に、実現の可能性は低いと答えています(Wikipedia)。

    「おっさん版ジョン・ウィック」という説明は、映画の雰囲気を伝える入り口としては正しい。

    しかし、本作が生まれた場所は、そこではありません。

    一人の俳優が抱えていた、個人的な感情から始まった映画です。

    テーマ|強さを隠して生きることは、幸福なのか

    「普通」を演じ続けることの限界

    ハッチは、強さを失った男ではありません。

    強さを隠すことを選んだ男です。

    物語の途中で強くなるのではなく、最初から完成した能力を封印しています。

    オデンカークは、VICEのインタビューで、ハッチの状態を「行き過ぎた自己修正」として説明しています。

    危険に満ちた若い時代を送った男が、家庭人になるために自分の欲求を完全に抑え込んだ。しかし、そんな生き方は長続きしない。人生には、いくらかの火花や驚きや冒険を残しておかなければならない、というのです。

    冒頭で繰り返される灰色の毎日は、この「自分を抑え込みすぎた男」の状態を、そのまま映像にしたものです。

    ハッチは暴力を解禁すると、傷つきながらも生気を取り戻していきます。

    この映画で回復するのは、彼の強さではありません。

    自分自身とのつながりです。

    動けなかった夜は、どう映画になったのか

    序盤でハッチがゴルフクラブを振り下ろせない場面は、オデンカーク本人の経験を物語へ置き換えたものです。

    この場面で映画が丁寧に描くのは、ハッチが手を出さなかった理由ではありません。

    その後に向けられる、周囲の視線です。

    息子は父親に失望し、警官も弱腰な男を見るような態度を取ります。ハッチが何を考えていたかとは関係なく、周囲が「何もできなかった男」という評価を積み重ねていくのです。

    オデンカーク本人の中に残った恥が、映画の中では、家族や他人のまなざしによって外側から突きつけられます。

    そして、現実では晴らせなかった感情を、フィクションの中で清算していく。

    本作は、物語だけでなく、企画そのものがその構造で作られています。

    暴力による回復を、信じてよいのか

    一方で、この映画が提供する快感には、当然ながら批判もあります。

    AP通信の批評は、本作を「マッチョな願望充足ファンタジー」と呼び、暴力を気分を高揚させる薬のように扱っていると批判しました(Gulf News掲載のAP評)。

    郊外に暮らす父親が暴力によって男らしさを取り戻す物語を、無条件に楽しんでよいのか。

    そう問う批評です。

    私が感じた「すごく面白かった」という感想の中身は、まさにこの批評が疑っている種類の快感だったと思います。

    本作は、溜め込んだものを一気に吐き出す爽快感を全力で提供します。一方で、その快感を作品の内側から疑う視点は、ほとんどありません。

    それでも、私が楽しんだという事実は変わりません。

    むしろ、この反対意見によって、自分が何に興奮したのかが、はっきりしたように思います。

    キャラクター造形|全員が「見た目と実体の差」を背負っている

    ハッチ・マンセル|強くなるのではなく、隠すのをやめる

    ハッチの能力は、物語が始まった時点ですでに完成しています。

    彼に必要なのは、訓練や成長ではありません。

    強さを隠すのをやめるという決断です。

    「普通のおっさんが、実はすごく強い」という一行は、この構造を表しています。

    強くなっていく過程を見せないからこそ、正体が明らかになった瞬間の落差が大きくなります。

    ベッカ|夫婦関係にも起きる回復

    妻のベッカ(コニー・ニールセン)とハッチの関係は、冷え切ったものとして描かれます。

    オデンカークは、この夫婦の中心にあるのは、失われた自立心や自分らしさを取り戻したいという欲求だと説明しています(SlashFilm)。

    つまり、ハッチが本来の自分を取り戻していく物語は、夫婦関係の回復とも並走しています。

    暴力に戻ることが夫婦の再生につながるという展開には危うさもあります。

    ただ、本作の中では、ハッチが再び自分自身になることと、家族との距離が縮まることが同じ方向に置かれています。

    ユリアン|役割から降りられなかった男

    敵役のユリアンは、ロシアン・マフィアの共有資金「オブシャク」を管理する男です。

    カラオケで歌い踊る陽気さと、ためらいなく人を殺す残虐さが、同じ人物の中に同居しています。

    私には、ユリアンがハッチの裏返しに見えました。

    ハッチは「平凡な家庭人」という役割を脱ぎ捨てることで、生気を取り戻します。

    一方のユリアンは、組織の金庫番という役割から降りられません。その役目に縛られたまま、守っていた金とともに破滅していきます。

    デヴィッドとハリー|ギャップをもう一度見せる二人

    ハッチの父デヴィッドを演じるのは、クリストファー・ロイドです。デヴィッドは元FBI捜査官という設定です。

    義兄弟のハリー(RZA)は、長いあいだ無線から聞こえる声だけで登場します。

    二人は終盤の工場での戦いに加わります。

    老人ホームで暮らしていた父親がショットガンを持ち歩く姿は、「見た目と実体の差」という本作の面白さを、ハッチ以上に分かりやすい形でもう一度見せるものです。

    それぞれが隠していた顔を、家族の前で明かしていく。

    この決戦は、私には銃撃戦の形をした家族の和解にも見えました。

    バスの暴漢たち|師匠が弟子に殴られる

    ハッチが本来の姿を取り戻すきっかけとなる、バスでの乱闘。

    暴漢の一人を演じているのは、スタントマンのダニエル・ベルンハルトです。

    ベルンハルトは、『ジョン・ウィック』第1作で敵役キリルを演じた人物です。さらに本作では、オデンカークを約2年間にわたって鍛えたトレーナーでもあります(Wikipedia)。

    つまり、劇中では師匠が弟子に打ちのめされます。

    『ジョン・ウィック』の人脈は、製作スタッフだけではありません。画面の中、それも主人公に殴られる側にまで入り込んでいました。

    映画技法|「実は強い」を信じさせるための選択

    2年間の訓練、スタントダブルなし、筋肉をつけない

    オデンカークは撮影に向け、約2年間にわたって格闘訓練を受けました。

    さらに、危険な動きを代わりに演じるスタントダブルを、できる限り使わない方針で現場に臨みました。

    本人の言葉は、明快です。

    正直にやろう。スタントダブルなしで。

    Geek Culture

    しかも、アクションスターらしい体を作るために、筋肉で身体を大きくすることはしませんでした。

    「普通のおっさん」に見える体つきを残したまま、動きだけを身につけたのです。

    これは本作にとって、きわめて重要な選択でした。

    筋肉質の俳優が敵を倒しても、意外性はありません。

    しかし、ソウル・グッドマンとして知られる、少し疲れた中年男性が、本人の顔と身体を映したまま本格的に戦えば、観客は驚きます。

    「実は強い」という設定の説得力は、細かな編集で動きを隠すことではなく、オデンカークが実際に動けることによって作られています。

    強いのに、きちんと痛がる

    序盤のバスでの格闘は、ハッチが一方的に敵を倒す場面ではありません。

    殴る。殴られる。刺される。窓から落ちる。

    それでも、最後には勝つ。

    ハッチの強さは、痛みと切り離されていません。

    無傷で敵を片づける無敵のヒーローではなく、苦しみながら勝つ男です。

    この「強いのに痛がる」という配分が、アクションが激しくなった後も、「普通のおっさん」という印象を残し続けます。

    韓国スリラーを意識したトーン

    ナイシュラー監督は、本作を「韓国のスリラー映画のように感じさせたかった」と語っています(Collider)。

    典型的なアメリカ製アクション映画とは、少し違う雰囲気を目指したということです。

    本作では、生々しい暴力と、ふざけたユーモアが同じ画面に共存しています。

    ハッチの妙に丁寧な独白。カラオケ好きのマフィア。ショットガンを楽しそうに撃つ老父。

    暴力的なのに、どこかおかしい。

    その独特の肌触りは、この方針から生まれています。

    ホラー映画の撮影監督が撮る、郊外の不穏

    撮影監督は、『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』を手がけたパヴェウ・ポゴジェルスキです(Wikipedia)。

    ホラー映画で知られる撮影監督を、アクション映画に起用した意外な人選です。

    起用理由について、本人たちの明確な発言は確認できませんでした。ここからは私の印象です。

    平穏に見える郊外の家庭。その奥に隠された別の顔。

    この構図は、日常の中に潜む不穏さを撮ってきたホラー映画の画作りと、相性がよかったのではないでしょうか。

    冒頭の退屈な毎日も、単に平和に見えるのではなく、何かが押し込められているように感じられます。

    まとめ|ジョン・ウィックの模倣ではなく、一人の俳優による清算

    冒頭の問いに戻ります。

    まったく期待していなかった私は、なぜ『Mr.ノーバディ』を、これほど面白いと感じたのでしょうか。

    「おっさん版ジョン・ウィック」という説明は、入り口としては正確です。

    しかし、映画を観終えて振り返ると、別の姿が見えてきます。

    これは、コメディ俳優として知られてきたボブ・オデンカークが、自宅に泥棒が入った夜に動けなかったという経験をもとに、自分の中に残った感情を映画にした作品です。

    そのために、彼は脚本家と製作陣を集め、監督を選び、約2年間かけて身体を鍛えました。

    しかも、筋肉質なアクションスターになるのではなく、「普通のおっさん」の見た目を残したまま、戦える身体を作りました。

    原題のNobodyには、「何者でもない男」という意味があります。

    そして本作は、誰からも強さを期待されていないことを利用して、相手を驚かせる男の物語です。

    観客からアクションを期待されていなかったオデンカークが、2年間の準備でその予想を裏切ったことも、主人公の戦い方と重なっています。

    普通のおっさんが、実はすごく強い。

    この単純な一行を本物にするために、積み重ねられた準備の量。それこそが、この映画の面白さの正体でした。

    何も期待せずに観られるうちに観るのが、いちばん幸福な映画だと思います。

    参考資料