映画『シンプル・アクシデント/偶然』|暴力シーンが出てこないのに怖い

映画『シンプル・アクシデント/偶然』

2025年公開の『シンプル・アクシデント/偶然』(UN SIMPLE ACCIDENT)を観て、まず思ったのは、「権力って怖いな」ということでした。

ジャファル・パナヒ監督が描くイラン。かつて自分たちを苦しめたかもしれない看守らしき男。けれど、その男が本当に本人なのかは分かりません。顔を見た記憶がないからです。

普通の復讐映画なら、敵が誰なのかは最初からはっきりしています。観客は主人公と同じ相手を憎み、その復讐が成功するかどうかを見守ります。

ところが本作では、その前提が崩れています。

本当にこの男なのか。もし人違いならどうするのか。被害者であることは、正しく相手を裁けることと同じなのか。

この不確かさが、映画全体を覆っています。

しかも、拷問そのものはほとんど映りません。それでも怖い。なぜ怖いのかを考えると、パナヒが描いているのは暴力そのものよりも、暴力が終わったあとも人の感覚や判断の中に残り続けるものだからだと思います。

※本稿は物語の中盤までに触れます。事件の結末には触れません。

あらすじ|顔を知らない復讐相手

かつて不当に投獄され、拷問を受けたワヒドは、現在は自動車修理工として働いています。

ある夜、車の故障で工場を訪れた男の歩く音を聞き、ワヒドは凍りつきます。その足音は、自分を苦しめた看守のものに思えたからです。

ワヒドは男を拘束します。しかし、すぐに問題が生じます。

彼は収監中、目隠しをされていました。看守の顔を見たことがありません。覚えているのは、声、匂い、歩き方、義足らしき足のきしむ音だけです。

捕まえた男は人違いだと訴えます。

ワヒドは確信を持てず、同じ人物に拷問された元囚人たちを訪ねます。やがて一台のバンに、復讐したい者、確かめたい者、慎重になる者、そして拘束された男が乗り込みます。

車内は、過去の被害を語り、容疑者を同定し、処遇を決めようとする臨時の法廷になります。

テーマ|権力は人から「確証」まで奪う

この映画の中心にあるのは、復讐してよいかどうかだけではありません。

もっと怖いのは、権力による暴力が、人から正しく判断するための材料まで奪ってしまうことです。

ワヒドたちは、拷問されたことを覚えています。身体の痛みも、その後の人生が壊されたことも忘れていません。

しかし、相手の顔は知りません。

自分を傷つけた人物を告発したくても、その人を視覚的に確認できない。証言しようとしても、残っているのは音や匂いの断片だけです。

ジャファル・パナヒは、目隠しされた尋問では聴覚がもっとも鋭くなり、本作の“moving engine”は音でなければならなかったと説明しています。Dazedの監督インタビューを読むと、この設定がサスペンスのためだけに考えられたものではないことが分かります。

国家は人を拘束し、拷問するだけではありません。

誰に何をされたのかを証明する手段まで奪う。被害者を、確信はあるのに証拠を持てない状態へ置く。

その結果、被害者は二重に苦しみます。

一度目は、権力から暴力を受けたときです。二度目は、その暴力を正しく告発したり、相手を特定したりできないときです。

ワヒドたちは真実を知りたい。しかし、自分たちに残された感覚は断片的です。声は似ている。足音も似ている。身体的な特徴も一致するように思える。それでも、決定的な確証にはなりません。

この映画では、独裁的な権力が人の身体だけでなく、知覚や記憶の条件まで支配していたことが見えてきます。

だから怖いのです。

画面に権力者が大勢登場するわけではありません。警察の組織や刑務所の内部も詳しく描かれません。それでも、権力がどのように人の中へ残るかは、ワヒドたちの迷いを通じて伝わってきます。

復讐する側も、権力の形をまねてしまう

本作が単純な体制批判で終わらないのは、被害者たちの行動もまた危うく描かれているからです。

彼らは不当に拘束され、自由を奪われ、拷問されました。その怒りには理由があります。

しかし、彼らが男を拘束し、証拠が不十分なまま有罪か無罪かを決めようとするとき、かつて自分たちを傷つけた側と似た位置へ立ってしまいます。

相手を自由に動けない状態にする。十分な手続きなしに尋問する。自分たちの記憶を根拠に裁こうとする。

もちろん、国家による組織的暴力と、傷つけられた個人の復讐を同じものとして扱うべきではありません。力の規模も、責任も異なります。

それでもパナヒは、被害者であれば何をしても正しいとは描きません。

PBS NewsHourのインタビューで、パナヒは自分を「political filmmaker」ではなく「social filmmaker」と呼び、人物を単純に善人と悪人へ分ける映画は作らないと語っています。

この発言は、本作を考える上で重要です。

看守らしき男が悪人で、元囚人たちが善人だと整理すれば、話は分かりやすくなります。しかし本作が見せるのは、暴力を受けた人が、その暴力の形式から完全には自由になれないという現実です。

権力が怖いのは、上から命令する者がいるからだけではありません。

権力のやり方が、傷つけられた側の判断や行動の中にも残りうるからです。

キャラクター造形|同じ被害でも、答えは一つではない

本作の人物たちは、同じ看守らしき人物に苦しめられた可能性があります。

しかし、同じ経験をしたからといって、全員が同じ答えを出すわけではありません。

パナヒは、登場人物たちは特定の実在人物をそのまま再現したものではなく、刑務所で実際に聞いた複数の体験を組み合わせた人物だと説明しています。カンヌ国際映画祭のプレスキットによれば、人物はフィクションですが、彼らが語る出来事には実際の囚人たちの経験が反映されています。

そのため、彼らは復讐をめぐる異なる立場を示すための記号であると同時に、傷の残り方が一人ずつ違う人間として描かれています。

ワヒド|普通の市民が復讐者になる

ワヒドは、英雄的な反体制活動家ではありません。

パナヒによれば、彼は政治活動をしていたわけではなく、未払い賃金を求めただけの労働者として設定されています。それでも逮捕され、収監され、人生を変えられました。

ここに、この映画の怖さがあります。

特別なことをした人だけが狙われるのではない。普通に働き、生活している人も、ある日、権力の対象になりうる。

ワヒドは、国家暴力を受ける前から復讐心に満ちた人物だったわけではありません。普通の市民だった人間が、過去の音を聞いた瞬間に復讐者へ変わる。

彼を動かすのは思想というより、身体に残った記憶です。

だからこそ、その行動は危うくても簡単には否定できません。彼の怒りを批判する前に、なぜそこまで追い込まれたのかを考えざるをえません。

シヴァ|判断を急がないための視線

シヴァは、ほかの人物よりも一歩引いて状況を見ています。

彼女も被害を受けています。怒る理由も、復讐を望む理由もあります。それでも、目の前の男が本当に加害者なのか、証拠は十分なのかを考え続けます。

彼女は、単純な許しを代表しているのではありません。

相手を許す前に、まず正しく判断できるのかを問う人物です。

ワヒドやハミドの怒りが物語を前へ動かす一方、シヴァの保留は映画が暴走するのを止めます。

すぐに結論を出さないことは、弱さにも見えます。しかし、確証を奪われた社会では、判断を急がないこと自体が抵抗になる場合があります。

ハミド|復讐したい気持ちを薄めない

ハミドは、復讐への衝動をもっとも強く表す人物です。

彼の存在があることで、映画は「暴力はいけません」という安全な結論へ逃げません。

長い時間を奪われ、身体や人生を傷つけられた人に対して、冷静になれ、許せ、と簡単に言えるのか。

ハミドの怒りは、映画の倫理を不安定にします。しかし、その不安定さが必要なのだと思います。

もし全員が理性的で、話し合いによってすぐに復讐を思いとどまるなら、国家暴力が残した傷の深さは伝わりません。

ハミドは、許しが正しいと分かっていても、そこへ到達できない人間の身体を引き受けています。

ゴルロフと新郎|始まるはずの人生へ過去が割り込む

結婚の装いをしたゴルロフと新郎が、復讐の一行へ加わる姿には、黒いユーモアがあります。

人生の新しい段階へ進もうとしている二人が、過去の暴力に呼び戻される。

結婚式は未来の象徴です。しかし彼らの時間には、収監と拷問の記憶が入り込んでいます。

ここには、国家暴力が一時的な出来事ではなく、その後の生活や人間関係まで占領し続けることが表れています。

二人は笑いを生む人物でもありますが、その可笑しさは軽さではありません。祝福されるはずの時間と、復讐の時間が同じ車内に入ってしまう。その不釣り合いさが、この社会の異常さを伝えています。

エグバル|顔のない権力

拘束されたエグバルは、一人の人物でありながら、国家暴力の匿名性を背負っています。

序盤では、彼の顔よりも足や歩き方が重要です。ワヒドにとって彼は、まず「きしむ音」として現れます。

パナヒは、エグバルをほかの人物とは異なるスケールで撮り、なるべく一人でフレームに置くことを意識したと説明しています。

この演出によって、エグバルは一人の悪役として簡単には読めません。

彼は本当に加害者なのか。家族を持つ普通の男なのか。過去を隠しているのか。誰かの記憶を誤って投影されているだけなのか。

画面にいるのに、人物としてはつかめない。

そのつかめなさが、顔を隠して暴力を行う権力の性質と重なります。

映画技法|暴力を映さず、暴力の記憶を聞かせる

本作の恐怖を作っている最大の要素は、音です。

拷問の回想シーンを詳しく見せる代わりに、歩く音、呼吸、声の調子、沈黙が使われます。

音は現在の出来事でありながら、過去を一瞬で呼び戻します。

ワヒドが男の歩く音を聞いたとき、観客にはその音が本当に同じなのか判断できません。それでも、ワヒドの身体が反応することで、その音が彼にとってどれほど決定的なのかは分かります。

ここで重要なのは、観客にも確証が与えられないことです。

私たちはワヒドの記憶を信じたい。しかし、音だけで人を特定してよいのかという疑いも残ります。

音は証拠のように扱われながら、最後まで完全な証拠にはなりません。

だから、音が鳴るたびに緊張が生まれます。

車内は、裁判所であり、収容所でもある

パナヒ作品には車がよく登場します。

本作でも、人物たちの多くは一台のバンに集められます。パナヒは、秘密撮影では車がカメラを隠しやすく、安全な撮影空間になると説明しています。また、本作では撮影隊と機材が少数の車に収まる規模で制作されました。

しかし、車は制作上便利だっただけではありません。

ワヒドたちは車に乗り、街を移動しながら、男を尋問し、証言を聞き、処遇を話し合います。

そこには裁判官も弁護士もいません。正式な手続きもありません。

車内は、被害者たちが自分たちだけで正義を作ろうとする臨時法廷になります。

同時に、拘束された男にとっては、逃げられない収容空間です。

かつて国家によって自由を奪われた人々が、今度は別の人物を狭い空間へ閉じ込める。

車内の窮屈さは、復讐の倫理的な窮屈さと重なっています。

同じフレームに入ることの緊張

パナヒは、登場人物たちが対立しながらも、次第に同じフレームへ収まるよう撮影したと語っています。

これは単に人数が増えていくからではありません。

ワヒド、シヴァ、ハミド、ゴルロフたちは、それぞれ異なる記憶と判断を持っています。復讐したい者と、慎重になる者が同じ画面にいる。

映画は、どちらか一方を正しい側として切り離しません。

一つの画面の中で、怒りと疑い、憎しみと同情を共存させます。

そのため、観客も簡単に立場を決められません。

ショットが続く間、誰かの主張が完全に勝つことはなく、異なる感情が画面の中に残ります。

暴力的な出来事を見せなくても怖いのは、私たちがこの対立から逃げられないからです。

派手な恐怖ではなく、判断の遅れを見せる編集

本作には、一般的なスリラーのような速いカットや派手な音楽が多用されているわけではありません。

それでも緊張が切れません。

編集を担当したアミール・エトミナンは、人物ごとに場面のリズムを変えながら組み立てたと説明しています。The Creditsのインタビューを読むと、恐怖が出来事の大きさよりも、会話の間や判断の遅れから生まれていることが分かります。

誰かが質問する。男が答える。ほかの人物が疑う。沈黙が続く。

この繰り返しが、観客に考える時間を与える一方、確信へ到達することを妨げます。

一つひとつの反応がわずかにずれるため、場面全体が不安定になります。

秘密撮影が生んだ現実の身体

本作の出演者には、映画俳優としての経験が多くない人物も含まれています。

パナヒは、俳優を選ぶ上で重要なのは「body and face」だと語っています。整えられた演技よりも、その人が持つ身体や顔が役に合っていることを重視したのです。

そのため、画面には英雄的な反体制活動家ではなく、生活を続けてきた普通の人々の身体が残ります。

歩き方、座り方、声の出し方に、芝居らしい誇張が少ない。

国家暴力を経験した人物が、政治的な主張を伝えるための記号ではなく、生活をしている人間に見えるのは、このキャスティングの効果です。

またパナヒは、キャストが望むならクレジットから名前を外すつもりだったものの、全員が名前を出すことを選んだとカンヌ国際映画祭のプレスキットで語っています。

イランで無許可の映画制作に参加し、名前を公表することには危険があります。

それでも全員が名前を残すことを望んだ。

この事実を知ると、作品への参加自体が、画面の外で行われた意思表示でもあったことが分かります。

まとめ|権力が消えたあとも、権力の形は残る

『シンプル・アクシデント/偶然』を観て、ボクは「権力って怖いな」と思いました。

その感想は、間違っていなかったと思います。

ワヒドたちを苦しめたのは、国家と結びついた権力です。人を理由なく拘束し、目隠しをし、拷問し、その後の人生まで壊す。

しかし、この映画を振り返ると、もっと怖いものが見えてきます。

権力による暴力が終わった後も、その形式が被害者の中に残り続けることです。

顔を見せずに人を傷つける。確証を与えない。相手を拘束し、自分たちだけで裁く。

ワヒドたちは国家と同じ存在ではありません。彼らは被害者です。その怒りには十分な理由があります。

それでも、復讐しようとするとき、かつて自分たちを傷つけた仕組みに近づいてしまう。

ここに、本作の本当の怖さがあると思います。

暴力シーンが出てこないのに怖いのは、暴力が画面の外にあるからではありません。

暴力がすでに終わった出来事として扱われず、人物の耳や記憶や判断の中で動き続けているからです。

そして私たち観客も、男が本当に加害者なのか確信を持てないまま、誰を信じ、どこまで復讐を認めるのかを問われます。

パナヒは、自分を政治映画の監督ではなく、社会を描く監督だと語っています。

確かに本作は、イランの体制を告発するだけの映画ではありません。

権力によって傷つけられた人々が、その後をどう生きるのか。怒りをどこへ向けるのか。正義を求めながら、別の暴力へ踏み込まずにいられるのか。

その困難を描く社会映画です。

権力者が怖い。それは当然です。

しかし、権力者が目の前から消えても、そのやり方が人の中に残り続ける。

『シンプル・アクシデント/偶然』は、そのことを暴力シーンに頼らず、音と沈黙と迷いによって見せる映画でした。

参考資料