映画『スーパーガール』|ミリー・オールコックはいるのに、スーパーガールが立ち上がらない

2026年公開の『スーパーガール』(Supergirl)を観て、最初に残ったのは「思った以上に、スーパーガールのキャラクターが立っていない」という感想でした。

ミリー・オールコックは、決して存在感のない俳優ではありません。むしろ、目つきや立ち姿には、スーパーマンとはまるで違うヒーローになりそうな気配があります。ところが映画を一本観終えても、その気配が決定的な人物像に変わったとは感じられませんでした。カーラ・ゾー=エルがどんな傷を抱え、なぜ投げやりになり、何をきっかけに他人のために動くのか。説明はあります。演出上の意図も見えます。それでも、「この人物をもっと観たい」という強い引力までは生まれませんでした。

Supergirl

もう一つの肩透かしは、クリプト・ザ・スーパードッグです。前作『スーパーマン』を観て、あの犬をもう一度たっぷり観られると期待した犬好きは、私を含めて少なくなかったはずです。しかし、クリプトの出番は思ったほど多くありません。物語上は重要でも、スクリーン上ではほとんど相棒映画になっていない。この差はかなり大きいです。

北米を含む興行成績が厳しいと聞いても、「まあ、そうだろうなあ」と思ってしまいました。ただし、本作を単に「主人公も犬も物足りない失敗作」と片づけるのも違います。映画が何を目指したのかは、かなりはっきりしています。問題は、その狙いが一本の映画として十分な力を持ったかどうかです。

ネタバレについて
物語の中盤までに触れます。結末の具体的な展開は伏せます。

あらすじ|完成したヒーローではなく、逃げ続けるカーラの旅

カーラ・ゾー=エルは、地球で育った従弟のスーパーマンとは違い、滅びゆくクリプトンの記憶を持っています。愛情深い家庭で育ち、人間社会に居場所を得たクラークに対して、カーラには故郷を失った記憶と、生き残ってしまった者の重さがあります。

本作のカーラは、その傷を正面から引き受けてはいません。酒を飲み、荒れた生活を送り、「スーパーガール」という役割からも距離を取っています。そこへ、家族を奪われた少女ルーシー・メアリー・ノールが現れます。二人はクレムを追い、複数の惑星を巡る旅に出ますが、その旅は単純な勧善懲悪ではありません。復讐を望むルーシーと、同じような喪失を抱えながら責任から逃げてきたカーラが、互いを映す構図になっています。

つまり本作は、最初から完成しているヒーローの活躍を見せる映画ではありません。傷ついた人物が、他者との関係を通じて、ようやく責任を引き受けようとするまでの映画です。

テーマ|未完成なヒーローを描くことと、主人公が立たないことは同じではない

ジェームズ・ガンは、スーパーマンが愛情深い両親に育てられたのに対し、スーパーガールは崩壊する惑星で人々の死を見ながら育った人物だと説明しています。クレイグ・ギレスピー監督も、クリプトンとアルゴ・シティでの経験を、カーラの自己破壊的な性格の根に置いています。ミリー・オールコック自身も、カーラをサバイバーズ・ギルトを抱えた人物として語っています。こうした製作側の発言を見るかぎり、本作の中心が「喪失を抱えた人間は、どうやって他者への責任を引き受けるのか」にあることは明確です。

この方向性は悪くありません。スーパーマンと同じ力を持つ女性を登場させ、性格だけを少し乱暴にした程度では、新しいヒーローにはなりません。カーラにはクラークとは異なる過去があり、異なる倫理があり、異なる形の希望が必要です。本作が、彼女を最初から正しくて明るいヒーローとして描かなかったこと自体は、むしろ妥当だと思います。

ただし、ここで区別すべきことがあります。

「未完成な人物を描くこと」と、「人物像が映画の中で十分に立ち上がらないこと」は同じではありません。

カーラが酒に逃げること、身なりに無頓着であること、他人との距離を取ることは分かります。故郷の記憶が彼女を傷つけていることも分かります。しかし、それらはカーラを説明する要素であって、必ずしもカーラという人物の魅力にはなっていません。彼女が何を嫌い、何に反応し、どんな場面で思わず他人を助けてしまうのか。傷の説明を超えた、その人固有の行動や選択が、もう少し必要でした。

本作は、カーラがまだスーパーガールになり切っていないことを意図的に引っぱります。作曲家クラウディア・サーンによれば、監督は彼女が本当にヒーローとして立ち上がるまで、主題音楽を正面から鳴らさない方針を取っていました。スーツを着ることも、音楽が完成することも、人物の成長と連動させているわけです。

狙いは理解できます。しかし、観客は意図ではなく、目の前にある映画を観ます。完成を遅らせる時間が長いほど、その途中にいるカーラ自身が魅力的でなければなりません。本作では、その「途中のカーラ」を支える場面が足りませんでした。未完成だから面白いのではなく、未完成な状態にも固有の面白さが必要なのです。

キャラクター造形|ミリー・オールコックの力を、映画が受け止め切れていない

ミリー・オールコックは、カーラの苛立ちや投げやりな態度を、分かりやすい反抗期のようには演じていません。表情を大きく動かさず、他人を拒絶するような沈黙を置き、ヒーローらしい爽快感を簡単には与えない。その選択は、カーラをクラークの派生キャラクターにしないために必要だったと思います。

それでもキャラクターが立ち切らないのは、オールコックの演技より、彼女を取り囲むドラマの弱さに原因があるように見えます。Rotten Tomatoesの批評家総評も、オールコックには力がある一方、映画がその勢いに見合う冒険を用意できていないという趣旨です。APのレビューも、彼女のパンク・ロック的な精神に映画が追いついていないと評価しています。

この指摘は、私の違和感に近いものでした。

カーラは荒れている。傷ついている。責任から逃げている。設定としては十分です。しかし、ルーシーとの会話も、クレムとの対立も、カーラの意外な面を次々に引き出すほど強くありません。そのため、演技には細かな表情があっても、映画全体では「不機嫌で投げやりなスーパーガール」という最初の印象から大きく広がらないのです。

ルーシー|カーラの過去を映す鏡

ルーシーは、単なる同行者ではありません。家族を奪われ、復讐を望む彼女は、カーラが過去に戻ったような存在です。カーラがルーシーを守ろうとすることは、かつて救えなかった人々に対する罪悪感の裏返しでもあります。

この関係は、本作のテーマを支える重要な軸です。ただ、二人の関係が感情的に深まる過程は、物語上の役割ほど豊かには感じられませんでした。ルーシーがカーラを変えるという構図は分かるのですが、「なぜこの二人だから変われたのか」という固有性が弱い。復讐を望む少女と、傷を抱えた大人の旅という骨格は強いだけに、もう少し二人の会話や小さな衝突に時間を使ってほしかったところです。

クレム|人物ではなく、復讐を進めるための装置

クレムは、カーラとルーシーの怒りを一つの方向へ向ける敵です。しかし、敵役としての人格や思想が薄いため、対立が深まりません。

もちろん、本作の本当の敵はカーラ自身の自己破壊的な衝動だ、と読むことはできます。クレムが単純であるほど、焦点はカーラの内面に戻るという理屈です。ただ、内面の葛藤を強く見せるには、外側の対立も強くなければなりません。クレムが装置にとどまることで、カーラの選択にも十分な重さが乗らなかったように思います。

スーパーマン|完成形ではなく、カーラにはまぶしすぎる「正常さ」

スーパーマンは、カーラが目指すべき完成形として置かれているわけではありません。同じクリプトン人でも、二人は育った環境が違います。

地球の家庭で愛され、人間社会に居場所を作ったクラークに対して、カーラは故郷が滅びる過程を記憶しています。クラークの善性は彼女の手本であると同時に、簡単には到達できない「正常さ」です。カーラがクラークのようになれないのは、性格が悪いからではなく、持っている記憶が違うからです。

この対比は面白いのですが、映画の中心で十分に掘り下げられたとは言いにくいです。カーラを新しいDCユニバースの重要人物にするなら、クラークとの差を設定として説明するだけでなく、二人が同じ事件にどう違う判断を下すのかまで見せてほしくなります。

クリプト|物語の中心と、画面に映る時間は別物

クリプトは、カーラにとって失われた故郷との具体的なつながりです。日本公式サイトでは、監督の言葉として「この映画の心臓部」と紹介されていました。物語上の意味だけを見れば、確かに重要です。

しかし、観客が期待していたのは象徴としての重要性だけではありません。前作『スーパーマン』でクリプトを好きになった観客は、カーラとの関係や、二人が一緒に行動する場面をもっと観たかったはずです。

「重要なキャラクターであること」と「出番が多いこと」は同じではありません。本作は前者を選びましたが、宣伝や前作から後者を期待した観客には、物足りなさが残ります。犬好きとしては、クリプトが物語を動かす理由になるだけでなく、カーラの性格を引き出す相棒になってほしかった。彼女が人間には見せない顔を、クリプトの前だけで見せる。そんな場面が増えれば、カーラの人物像ももっと立体的になったと思います。

映画技法|ざらついた世界は、カーラの傷を映している

本作で最も説得力があったのは、世界の手触りです。

宇宙を舞台にした大作でありながら、画面は磨き上げられた未来世界には見えません。汚れ、煙、汗、強い光、使い込まれた乗り物が残り、カーラ自身も「美しく完成したヒロイン」としては撮られていません。ギレスピー監督は、撮影に踏ん張りや汚れた感じを求め、カーラの身体も、旅の途中で身なりを整える余裕のない人物として扱ったと説明しています。

この方針はテーマとよく合っています。カーラは、スーツを着れば即座に完成するヒーローではありません。傷や疲れを抱えた身体が先にあり、ヒーローの記号は後から追いついてきます。画面のざらつきは、その未完成さを視覚化しています。

さらに興味深いのは、本作がCGだけに頼らず、かなりの空間や小道具を実物で作っていることです。The Creditsの監督インタビューThe Nerds of Colorのセット訪問記事によれば、実物の車両や特殊メイク、セットに加え、手描きの背景まで使われています。

これは単なる撮影裏話ではありません。カーラは、故郷を失い、どこへ行っても完全には属せない人物です。その彼女を、つるつるしたCG空間ではなく、触れられそうな場所に立たせることで、喪失や疲労が抽象的な設定ではなくなります。少なくとも美術と撮影は、カーラを「宇宙を飛ぶ超人」より「居場所を失った身体」として見せようとしていました。

音楽も同じ方向を向いています。Dolby Creator Labの作曲家インタビューによれば、主題は最初から完成形で提示されません。カーラがスーパーガールとして立ち上がるまで、旋律も断片にとどまります。

ただし、この演出は作品の長所であると同時に、弱点にもなりました。ヒーローの完成を映像でも音楽でも遅らせるなら、観客は長いあいだ「まだ完成していない人物」と付き合うことになります。その時間を支えるだけの会話、葛藤、関係性が足りないため、意図的な遅延が、単なる盛り上がりの不足に見えてしまうのです。

まとめ|今後に期待したいが、期待するには次の一歩が必要

『スーパーガール』は、やりたいことの分からない映画ではありません。

スーパーマンとは異なる過去を持つカーラを、粗く、傷つき、責任から逃げる人物として描く。復讐を望む少女との旅を通じて、他者を救うことの意味を引き受けさせる。ざらついた美術や、完成を遅らせる音楽によって、ヒーローになる前の不安定な時間を見せる。方向性は一貫しています。

それでも、私にはスーパーガールのキャラクターが十分に立ったとは感じられませんでした。

これは、カーラが未完成だからではありません。未完成なカーラを魅力的に見せるだけの場面が足りなかったからです。ミリー・オールコックの表情や身のこなしには可能性があります。しかし、その可能性を引き出す会話、敵、相棒との関係、そして彼女自身の意外な選択が弱い。映画は「どんな傷を持つ人物か」は説明しましたが、「この人物だから次も観たい」と思わせるところまでは届きませんでした。

クリプトについても同じです。物語上の重要性は理解できます。けれど、犬好きが観たかったのは象徴ではなく、カーラとクリプトが一緒にいる時間でした。その期待に応えないなら、二人の旅を中心に、もっと強い感情のドラマが必要でした。

興行収入が厳しい結果になったのも、残念ではありますが意外ではありません。

それでも、ミリー・オールコックをカーラ役に選んだことまで失敗だったとは思いません。むしろ、彼女が持つ荒さや不機嫌さを、次の作品でどう生かすかが重要です。必要なのは、キャラクターの方向転換ではなく、そのキャラクターを押し上げる脚本と関係性です。

だから結論は、やはり「今後に期待……と思いたい」になります。

期待はしています。ただし、次も未完成なままでよいという意味ではありません。次にカーラが登場するときには、傷の説明ではなく、彼女にしかできない選択を見せてほしい。クリプトを含め、他者との関係の中でしか見えない顔をもっと見せてほしい。

そのとき初めて、ミリー・オールコックのスーパーガールは、本当に一人のヒーローとして立ち上がるのだと思います。

参考資料