
『SIRAT シラート』を観た直後の感想は、なんだかよくわからない、不思議な映画だったというものでした。
砂漠の真ん中で巨大なスピーカーが組み立てられ、低音に揺さぶられながら人々が踊っています。そこへ、場違いに見える父と息子が現れ、行方不明になった娘を探し始めます。ここまでは、レイヴ文化を背景にした捜索劇やロードムービーに見えます。ところが映画は、観客が期待する「娘はどこにいるのか」という問いを中心に進んでくれません。会話による説明も少なく、人物の過去も十分には明かされない。音と砂埃と身体の動きが、物語より先に迫ってきます。
自分が何の前知識も持たずに観たことも、戸惑いの理由ではあったと思います。後から調べてみると、監督のオリヴェル・ラクスは本作を “a rite of passage”――通過儀礼――と呼び、観客に自分の内側を見つめさせる映画だと説明していました。また、タイトルの「Sirât」は、イスラーム伝承で地獄と楽園のあいだに架かる橋を指します。Festival de Cannes
この背景を知ると、映画の輪郭は確かに見えやすくなります。ただし、本作を「監督の宗教観を理解すれば解ける映画」と考えるのも違うように思います。『SIRAT シラート』は、宗教的な意味を物語として説明する映画ではありません。むしろ、観客を理解の手前に置き、低音、荒れた道、沈黙、疲労、恐怖によって、ひとつの“道”を身体で通らせようとする映画です。
※本稿は物語の中盤までに触れます。終盤の展開と結末は伏せています。
あらすじ|娘を探す旅が、別の道へ変わっていく
ルイスは息子のエステバンを連れ、モロッコ南部の山中で開かれているレイヴを訪れます。二人が探しているのは、数か月前に姿を消した娘であり姉のマルです。ルイスは参加者に写真を見せて回りますが、手がかりは得られません。
やがて軍によって会場からの退去を命じられると、レイヴァーの一団は、さらに奥地で開かれる別の集まりを目指して移動を始めます。娘がそこにいる可能性に賭けたルイスとエステバンも、彼らの車列についていきます。
ここから映画は、失踪者を追う捜索劇から、荒れた土地を進むロードムービーへ変わります。しかし、目的地へ近づくほど謎が解けていくわけではありません。むしろ道は不確かになり、登場人物たちが何を信じ、誰を守り、何を手放すのかが試されていきます。
テーマ|「道」は答えへ進むためにあるのではない
「Sirât」は、日常的には道や進路を意味します。同時にイスラームの終末論では、地獄の上に架かり、楽園へ向かう者が渡る橋の名でもあります。オリヴェル・ラクスは公式プレスキットで、この道が物理的であると同時に “metaphysical, or spiritual”――形而上的、あるいは精神的――なものだと説明しています。Festival de Cannes Press Kit
この題名を知ると、映画のロードムービーとしての形が、そのまま宗教的な比喩になっていることが分かります。ただし、ルイスたちが進む道は、正しい者が報われる分かりやすい試験ではありません。目的地へ向かうというより、人物たちが持っていた役割や思い込みを削ぎ落としていく道です。
ルイスは、娘を見つけるという明確な目的を持って旅に入ります。しかし映画は、彼の願いを世界の中心には置きません。砂漠は彼の事情に配慮せず、車は故障し、道は途切れ、外の世界からは不穏な情報が断片的に届きます。人間の目的と、世界の無関心が並べられているのです。
ラクスは現代社会を、死を生活の中心から追い出した “deeply thanatophobic society”――死を極端に恐れる社会――と表現しています。映画は、人間が遠ざけてきた死や喪失を、再び目の前へ置く場所になりうるというのが、彼の考えです。公式プレスキット
この発言を踏まえると、本作の苛酷さは単なるショック演出ではありません。死を安全な物語の外側へ隔離してきた観客に、それがいつでも生の隣にあると感じさせるための設計です。ラクスは映画の評価について、好きか嫌いかより “Did it move something?”――何かを動かしたか――を重視すると語っています。AP News
だからこそ、『SIRAT シラート』は「何を言いたい映画なのか」を一文で説明しにくいのだと思います。映画は死を受け入れよという教訓を述べるのではなく、観客が安定した足場を失う状況を作ります。意味を理解する前に、身体が緊張し、低音に圧迫され、道の危険を感じる。その経験そのものを、ラクスは通過儀礼と呼んでいるのでしょう。
一方で、宗教だけを鍵にすると、本作のもう一つの柱であるレイヴ文化が見えにくくなります。ラクスはダンスフロアを “sacred, ceremonial place”――聖なる儀礼の場所――と呼び、身体には家族や世代から受け継いだ傷が記憶されていると語っています。MUBI
ここでは、イスラームの橋、巡礼、レイヴのトランス、身体によるカタルシスが同じ映画の中に置かれています。宗教的な象徴を現代の若者文化に当てはめただけではありません。既存の宗教や家族制度の外側にも、人が集まり、身体を同期させ、互いを支える儀礼が生まれうるのではないか。本作は、その可能性をレイヴァーたちの共同体に見ています。
キャラクター造形|血縁の家族と、選ばれた家族
ルイス|観客と同じく、外から来た人
ラクスはルイスを、死を遠ざけた快適な社会に生きる「普通の人間」、つまり観客の側にいる人物として説明しています。彼は砂漠にもレイヴ文化にも属していません。娘の写真を手に会場を歩く姿は、周囲の自由な身体から明らかに浮いています。
セルジ・ロペスの演技も、この外部者としての位置を支えています。ルイスは多くを語らず、レイヴァーたちを理解しようと積極的に振る舞うわけでもありません。顔や身体には疲労と警戒が残り、彼の視線はつねに娘の手がかりを探しています。
しかし、旅が続くにつれて、彼は自分の目的だけでは進めなくなります。車列の一員として助けを受け、逆に他者を助ける必要も生じます。ルイスが変化するとすれば、それは宗教的真理に目覚めるというより、自分とは異なる共同体のケアに身を預けざるを得なくなることです。
その意味で、ルイスは「信じる人物」ではなく、「自分で管理できないものを受け入れられるか試される人物」です。娘を探す父という役割を持って映画に入った彼が、道の上で一人の傷つきやすい人間に戻されていきます。
エステバン|旅を現実につなぎとめる存在
エステバンについて、監督がテーマ上の役割を詳しく説明した一次資料は、今回の調査では確認できませんでした。ここからは作品からの解釈です。
エステバンは、ルイスの旅を純粋な自己探求にさせない人物です。マルは不在であり、父の記憶と目的を動かす存在です。それに対してエステバンは、今ここで食事をし、眠り、安全を確保しなければならない存在です。
ルイスは、失った娘を探すことと、目の前にいる息子を守ることのあいだに置かれます。この二つは同じ父性愛から始まっているように見えますが、必ずしも同じ方向を向きません。前へ進む決断が、エステバンを危険に近づけることもあるからです。
このねじれによって、ルイスは単純な「娘を諦めない立派な父」にはなりません。目的への執着と、現在の責任が衝突する人物として描かれます。映画が父の決断を詳しく説明しないため、観客には理解しにくさも残ります。しかし、その理解しにくさ自体が、ルイスを英雄ではなく、判断を誤りうる普通の人間にしています。
マル|人物ではなく、不在として残る娘
マルは物語を始動させる存在ですが、本人の輪郭はほとんど与えられません。彼女がなぜ家族から離れ、何を求めてレイヴを巡っていたのかも、映画は丁寧には説明しません。
失踪者を探す物語として見れば、この扱いは物足りなく映ります。探される女性が、父の変化のための装置にとどまっているという批判も成立します。
一方で、本作の中心が失踪の謎ではなく、探す側が道の上で変化することにあると考えれば、マルの不在は意図的です。彼女は答えを持つ人物ではなく、家族の内部に開いた穴です。その穴を埋めようとするルイスの行為が、別の共同体と死の感覚へ彼を導きます。
レイヴァーたち|身体で示される別の共同体
レイヴァーたちは、最初は名前も背景も分からない集団として現れます。ところが、旅が始まると、彼らが互いの身体や車、食事、危険を細かく気遣っていることが見えてきます。
ラクスは、彼らを血縁の外側にある “familia escogida”――選ばれた家族――として捉えています。Vogue España 彼らは自由を叫ぶ台詞によって価値観を示すのではありません。手を貸すこと、待つこと、壊れたものを直すこと、踊ることによって共同体を表します。
特に砂漠で人々が踊る場面では、個々の事情は説明されません。それでも、傷や欠損を含むそれぞれの身体が同じ音に同期することで、言葉とは別の結びつきが生まれます。ラクスがレイヴを儀礼と呼ぶ理由が、最も分かりやすく現れる場面です。
ここで映画は、血縁家族を否定してレイヴ共同体を理想化しているわけではありません。ルイスとエステバンの関係は消えませんし、レイヴァーたちも完全な聖人ではありません。ただ、家族とは血のつながりだけで成立するのか、他者をケアする反復によっても作られるのかという問いが、二つの集団の並置から浮かび上がります。
映画技法|意味より先に、身体へ届く映画
冒頭のスピーカー|儀礼空間を建てる
本作は、人物の紹介より先に巨大なスピーカーが組み立てられる様子を映します。重い機材が運ばれ、積み上げられ、ケーブルがつながれていきます。これはレイヴの準備であると同時に、この映画が観客に作用するための装置を設営する場面でもあります。
このオープニングのレイヴは、撮影用に振り付けられた群衆場面ではなく、実際に三日間続いたレイヴでした。撮影条件として、音楽を止めない約束があったとラクスは説明しています。MUBI
そのため、踊る人々の動きには、映画のために用意された演技とは異なる持続があります。誰か一人が中心になるのではなく、集団全体が低音によって動かされている。映画の冒頭で主役になるのは、ルイスでもレイヴァーでもなく、音そのものです。
ただし、そのリアルな音響が、撮影現場の音をそのまま使用したものではない点も興味深いです。音響チームは群衆の声や機材音をバルセロナで再構築し、ヨーロッパ各地の話者の声を録音して、多言語の集団に聞こえるよう重ねました。TheWrap
つまり本作のリアリズムは、偶然を記録しただけではありません。実在のレイヴが持つ熱気を素材にしながら、観客の皮膚に届く音へ緻密に作り直されています。ラクスが「この映画を skin で観てほしい」と語った通り、音は背景ではなく、物語を進める力になっています。
Super 16の粒子|砂漠を美しい風景にしない
撮影監督マウロ・エルセは、本作をSuper 16mmで撮影しました。粒子の見える映像は、砂漠を滑らかな観光映像にはしません。乾燥した地面、古い車、汗や埃が、ざらついた物質として画面に残ります。
エルセは、長回しと抑制されたカメラによって “immersive and sometimes strangely heightened experience”――没入的で、ときに奇妙なほど高められた経験――を作ろうとしたと説明しています。Kodak
カメラは危険を予告するために細かく切り返したり、人物の感情をクローズアップで説明したりしません。風景の中に人間と車を置き、その小ささを見せます。砂漠は心情を美しく映す背景ではなく、人間の都合を削っていく力として撮られています。
道を進む車列の画面では、観客も先を見通せません。何が待っているかを編集が教えてくれないため、移動そのものに緊張が生まれます。この「見えなさ」は物語の情報不足と同じです。観客は人物と同様に、十分な地図を持たずに進むことになります。
音楽と編集|レイヴの高揚が別のものへ変わる
カンディン・レイの音楽は、レイヴ場面を本物らしく見せるだけのものではありません。冒頭では身体を解放する反復として鳴っていたビートが、旅の進行とともに異なる響きを持ちはじめます。
一定のリズムは安心を生みます。同じ音に身体を合わせることで、個人は集団へ入ることができます。しかし、その反復が荒れた風景や不穏な状況と結びつくと、音は高揚と不安の両方を生みます。
ラクスは、イメージを知性で説明しすぎると「死んだイメージ」になると語っています。本作の編集も、出来事の意味を整理するより、音の持続や沈黙への切り替えによって観客の状態を変えます。説明が省かれているのは、単に脚本が薄いからではありません。観客が考える前に反応する時間を残すためです。
もちろん、この方法がすべての観客に成功するとは限りません。意味の輪郭が曖昧なまま衝撃だけが重なると感じる人もいるでしょう。実際、The Guardianは、映画が提示した哲学的・感情的な約束を十分に果たしていないと批判しています。一方、The New Yorkerは、極限状況でも残る人間の思いやりに作品の力を見ています。
この評価の違いは、本作の曖昧さを「観客が入る余地」と考えるか、「意味を作る責任の放棄」と考えるかの違いでもあります。
まとめ|宗教観を知っても、完全には「わからない」
『SIRAT シラート』を観たとき、自分には何を見せられているのか、うまくつかめませんでした。後からタイトルの意味やラクスの発言を知ると、その不思議さの理由はかなり理解できます。
この映画の道は、目的地へ到着するための道ではありません。人間が自分の力では管理できないものに触れ、持っていた役割や確信を削られていく道です。レイヴは享楽的な背景ではなく、傷を持つ身体が集まり、別の家族を作る儀礼として置かれています。死は物語を盛り上げる材料ではなく、現代社会が見えない場所へ追いやってきたものを、観客の前へ戻すためにあります。
そう考えると、「監督の宗教観が色濃く反映されている」という理解は間違っていません。ただし、本作はイスラームの教義を説明する宗教映画ではありません。イスラームの橋のイメージ、レイヴのトランス、共同体によるケア、身体に残る傷、世界が崩れつつあるという感覚を、一つの通過儀礼にまとめた映画です。
そして、背景を調べたからといって、すべてが明快になったわけでもありません。
マルがどのような人物なのか。ルイスの選択をどこまで理解できるのか。映画が描くレイヴ共同体は現実を捉えているのか、それとも理想化しているのか。観客を揺さぶる衝撃は、人物や思想の深さにつながっているのか。こうした疑問は残ります。
しかし、もしかすると『SIRAT シラート』は、疑問を解消するための映画ではないのでしょう。ラクスが求めているのは、観客が正しい解釈を持ち帰ることではなく、安定した場所から一度外へ出されることです。
自分が最初に抱いた「なんだかよくわからない」という感覚も、作品を見誤った結果だけではありませんでした。物語による説明より、音と身体と道を優先する映画に対して、ごく自然に生まれた反応だったのだと思います。
宗教的な背景を知ることで、この映画が何をしようとしていたかは見えてきます。それでも、完全には分からない。その残り方まで含めて、『SIRAT シラート』という映画なのかもしれません。
参考資料
- SIRÂT|Festival de Cannes
- Sirât English Press Kit|The Match Factory / Festival de Cannes
- Line in the Sand: Oliver Laxe on Sirât|MUBI
- Oliver Laxe knows “Sirât” has given him a reputation to live up to|AP News
- Oliver Laxe, director de “Sirat”|Vogue España
- Death, Faith and Dancing: “Sirât” Director Breaks Down the “Ceremonial Space” of Raves|TheWrap
- How the All-Female “Sirât” Sound Team Built a Scary, Oscar-Nominated Sonic World|TheWrap
- KODAK Super 16mm proves a sure-fire winner for DP Mauro Herce|Kodak
- Sirât: Oliver Laxe’s thrilling desert parable lets the music take control|Sight and Sound
- “Sirāt” Is a Harrowing, Exhilarating Dance of Death|The New Yorker
- Sirât review – rave in the desert leads to exasperating quest in the sands of Morocco|The Guardian