映画『Michael/マイケル』|世代によって、受け取り方は変わりそう

映画『Michael/マイケル』

『Michael/マイケル』を観ていて、何度も「よくできている」と思いました。

ジャファー・ジャクソンは、声の出し方から立ち姿、指先の動きまで研究しています。衣装も照明も、過去の映像で見たマイケル・ジャクソンに驚くほど近い。スタッフがどれだけ時間と労力をかけたのかも、画面から伝わってきます。

それでも、ボクには違和感が残りました。

ジャファーがどれほど長くダンスを練習しても、マイケル本人に追いつけるはずはありません。むしろ再現の精度が上がるほど、目の前にいるのが本人ではないことを意識してしまいます。

ボクが『ボヘミアン・ラプソディ』をそれほど好きではなかったのも、同じ理由です。似ている。こだわりも分かる。パフォーマンスとしても優れている。それでも、本物ではありません。

『Michael/マイケル』は、この音楽伝記映画につきまとう問題を、かつてないほど大きな規模で見せる作品でした。

※本稿は物語の中盤までに触れます。結末の具体的な展開には触れません。

あらすじ|家族のスターから、一人の芸術家へ

映画は、幼いマイケルが兄たちとジャクソン5として活動を始めるところから、ソロアーティストとして世界的なスターになるまでを描きます。

一家を率いる父ジョーは、息子たちを成功させるために厳しい練習を課します。マイケルは家族を愛しながらも、次第に父の管理や兄弟との活動から離れ、自分だけの音楽とステージを求めるようになります。

やがてクインシー・ジョーンズらとの仕事を通じて、『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』へと進み、マイケルは誰かに育てられる子どもから、自分自身を演出するアーティストへ変わっていきます。

公開版が描くのは1988年までです。つまり本作は、マイケル・ジャクソンの生涯全体ではなく、「キング・オブ・ポップがどのように作られたのか」に焦点を絞った映画です。

テーマ|自由になることと、神話になること

本作の中心にあるのは、家族への愛と、自分の芸術を作りたいという欲求の衝突です。

マイケルは、家族の一員であると同時に、一家の成功を支える最大の商品でもあります。父の指導によって才能を伸ばした一方で、その指導から逃れなければ、自分自身の表現には到達できません。

その意味では、本作は抑圧された子どもが芸術によって自由を手に入れる物語として見ることができます。父の命令で踊っていた少年が、自分の意思で音楽や衣装、映像、ステージを決める人物へ変わっていくからです。

しかし、ここには別の読み方もあります。

マイケルは父の支配から離れる一方で、より巨大な「マイケル・ジャクソン」というイメージの中に入っていきます。軍服風の衣装、片手だけの手袋、帽子、ムーンウォーク。自由になったはずの人物が、今度は世界中が期待するスター像を演じ続けることになるのです。

つまり本作が描く自由は、完全な解放ではありません。家族が作ったスターから、自分で作ったスターへ移行しただけとも言えます。

映画はこの矛盾に触れてはいます。しかし、深く踏み込んではいません。

公開版はマイケルの「生成」を描きますが、そのイメージが後年どのように揺らぎ、崩れていったのかは描きません。制作途中には後年の出来事に関する場面も撮影されていたと報じられていますが、最終的な映画は1988年で区切られました。したがって、この時間設定は単なる省略ではなく、本作がどのマイケルを描き、どのマイケルを描かないのかを決める重要な選択です。

The New Yorkerのリチャード・ブロディは、本作を人物の複雑さよりもビジネス上の成功を優先する、消毒された伝記映画だと批判しました。一方で、制作側や出演者は、そもそも本作は後年の論争ではなく、スターが誕生するまでの物語なのだと説明しています。

どちらか一方だけが正しいとは思いません。

ただし、マイケルを一人の人間として描こうとするなら、語る時代を限定したことによって失われたものがある。その点は無視できません。

キャラクター造形|マイケルは誰に見つめられているのか

マイケル|自由を求める主人公であり、見られ続ける対象

ジャファー・ジャクソンは、マイケルの動きを単純にコピーするのではなく、動きの背後にある意味や本質を理解しようとしたと語っています。

Interview Magazineのインタビューでは、過去の映像を細かく研究し、マイケル本人の文章や言葉にも触れながら役を作ったと説明しています。

実際、ステージ上のジャファーは見事です。

姿勢を静止させたまま観客を待たせる時間、曲が始まる直前の緊張、足元から上半身へ動きが伝わる感覚。マイケルのダンスを特徴づける「動き」だけでなく、動かない時間まで再現しようとしています。

一方で、舞台を降りたマイケルの人物像は、それほど鮮明ではありません。

彼は傷つきやすく、孤独で、父を恐れています。しかし、何を考え、誰を愛し、何に怒っているのかが、画面の中で十分に掘り下げられているとは言いにくい。マイケル自身の視点よりも、父、母、兄弟、弁護士、警護担当者など、彼を見る人たちの視線によって人物像が作られているからです。

その結果、マイケルは物語の主人公でありながら、最後まで「見つめられるスター」であり続けます。

ジョー・ジャクソン|映画が用意した明確な対立者

コールマン・ドミンゴが演じる父ジョーは、テーマを最も分かりやすく体現する人物です。

ジョーは、家族を貧困から救い出すために息子たちを鍛えます。その厳しさが成功につながったことは、映画も否定しません。しかし、子どもを一人の人間としてではなく、成功のための資源として扱う姿勢は、マイケルが乗り越えるべき支配として描かれます。

ドミンゴの演技には圧力があります。声を荒らげなくても、部屋に入っただけで子どもたちの身体が硬くなる。父の存在そのものが、家庭を練習場へ変えてしまいます。

ただし、ジョーがあまりにも明確な対立者として描かれるため、物語の問題の多くが彼一人に集中しているとも感じました。

ジョーから離れればマイケルは自由になる。そう見せることで、映画はスターシステムやレコード会社、観客の期待といった、より複雑な支配を十分に描かずに済んでいます。

キャサリン・ジャクソン|愛の象徴にとどまる母

ニア・ロングが演じる母キャサリンは、父とは異なる家庭の原理を担います。彼女はマイケルを才能や収入ではなく、息子として受け止めます。

しかし、キャサリン自身が何を恐れ、夫に対してどう考え、なぜ行動できなかったのかは、あまり描かれません。

彼女はマイケルが戻ることのできる場所ではありますが、一人の人物として変化するわけではありません。愛情の象徴としては機能していても、ドラマを動かす人物にはなっていないのです。

ジョン・ブランカとクインシー・ジョーンズ|二つの独立への道

弁護士ジョン・ブランカとプロデューサーのクインシー・ジョーンズは、マイケルが家族の外へ出るための異なる道を示します。

ブランカは契約や権利、マネジメントを通じてマイケルを父の支配から切り離します。クインシーは音楽を通じて、少年スターだったマイケルを一人の成熟したアーティストへ導きます。

しかし、映画は契約や家族関係の変化には比較的多くの時間を使う一方で、クインシーとの創作がどのようにマイケルの音楽を変えたのかについては、十分に見せていません。

ここにも本作の特徴があります。

芸術が生まれる瞬間よりも、スターが独立し、巨大になっていく過程のほうが、映画の中では分かりやすく整理されているのです。

映画技法|再現されたのは本人ではなく、記憶の中のマイケル

本作の技術的な完成度は高いです。

撮影監督ディオン・ビーブは、異なる時代のコンサートを一つのサウンドステージで撮影するため、Unreal Engineを使って照明やカメラ位置を事前に設計しました。当時使用されていた照明器具やステージ構造も研究し、それぞれの時代に異なる光の質感を与えています。

American Cinematographerによると、コンサート場面では、単に史実を正確に再現するだけでなく、マイケルが持っていた巨大なスケールそのものを画面に戻すことが目指されました。

一方で、カメラはジャファーの呼吸や汗、集中が見えるほど身体に近づきます。

遠くから見れば、そこにいるのは観衆を支配する超人的なスターです。近くから見れば、激しく呼吸し、筋肉を使い、次の動きに備える一人の人間です。

この遠景と近景の差は、本作が最も成功している部分だと思います。

ジャファーはマイケル本人にはなれません。しかし、マイケルであり続けるために必要だった身体的な負荷を、映画は見せることができています。

衣装も同じです。

衣装デザイナーのマーシー・ロジャースは、800ページを超える資料を作り、アーカイブに残る衣装の布地、重さ、光沢、装飾まで調査したと説明しています。

Peopleの取材によれば、記録の残っている衣装については、創作的な変更を加えずに再現する方針が採られました。

その仕事によって見えてくるのは、マイケルが服を着ていたのではなく、衣装によって自分の身体を設計していたことです。

細い腰、長く見える脚、手袋をした片手、肩の張ったジャケット。衣装は身体を包むものではなく、観客の視線をどこへ向けるかを決める装置でした。

音声にも複数の層があります。

パフォーマンス場面では、ジャファー自身の声とマイケル本人の音源が組み合わされています。つまり、観客が聞いている声も、完全にジャファーのものでも、完全にマイケルのものでもありません。

この方法は合理的です。本物の歌声を残しながら、演じる身体との一体感も作れるからです。

しかし同時に、この音声設計は本作の限界を象徴しています。

ジャファーがマイケルになるのではありません。ジャファーの身体の上を、マイケルの声と映像の記憶が通過しているのです。

アントワーン・フークアのインタビューでは、制作上の重要な言葉として“authenticity”が繰り返されています。

しかし、本物らしさを追求すればするほど、本物が不在であることも強調されます。

衣装も照明も動きも正しい。それでも本人ではない。

ボクが感じた違和感は、ジャファーの演技が足りないからではありません。映画があまりにも正確にマイケルを再現しようとするため、正確さでは埋められない差が見えてしまったのです。

まとめ|評価が割れる理由は、作品の中にある

英語圏の批評でも、本作への評価は大きく割れました。

NMEは、本作を『ボヘミアン・ラプソディ』の設計に近い、安全で光沢のある音楽伝記映画と評しました。The GuardianやThe New Yorkerは、人物像が整理されすぎていることを厳しく批判しています。

一方で、ジャファーのパフォーマンスやコンサート場面の再現を高く評価する批評も少なくありません。Rotten Tomatoesの批評まとめが示すように、「華やかで懐かしく楽しめるが、安全で少し空虚」という評価が、本作の性格をよく表しています。

ボクも、この映画が好きな人の気持ちは理解できます。

大きなスクリーンと音響でマイケルの曲を体験し、過去のステージをもう一度見る。そのための映画としては、非常によくできています。ジャファー・ジャクソンの仕事を、単なるものまねとして片づけるつもりもありません。

しかし、一人の人間としてのマイケル・ジャクソンを知る映画としては、足りないと感じました。

再現できているのは、世界が記憶しているマイケルです。衣装、声、動き、ステージ、成功の物語。その一方で、矛盾し、変化し、理解しにくい一人の人間は、画面の外に残されています。

よくできているのに、どこか足りない。

本作への評価が割れるのは、観客の好みだけが理由ではありません。再現の喜びと、人物理解の不足が、同じ映画の中に存在しているからです。

だから、気になっている人は観たほうがいいと思います。

絶賛するかもしれないし、ボクと同じように違和感を抱くかもしれません。その違いまで含めて、『Michael/マイケル』は、マイケル・ジャクソンという存在が今もどれほど大きく、そして再現しにくいのかを示す映画になっています。

参考資料