2025年公開の『デッドマンズ・ワイヤー』(原題:Dead Man’s Wire)は、1977年にインディアナポリスで起きた人質立てこもり事件をもとにした、ガス・ヴァン・サント監督のクライムドラマです。住宅ローン会社に強い恨みを抱くトニー・キリシスが、会社側の人間であるディック・ホールを人質に取り、ショットガンとワイヤーを使った危険な装置で互いの生死を結びつける。事件は警察だけでなく、ラジオやテレビ、そして視聴者まで巻き込みながら拡大していきます。

私はガス・ヴァン・サントに、二つの顔を感じています。『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』や『小説家を見つけたら』のような、感情の着地点が比較的わかりやすい王道のヒューマンドラマを撮る顔。その一方で、『エレファント』などに見られる、観客を簡単には安心させないミニシアター的な顔です。
本作で前面に出ているのは、明らかに後者でしょう。実際の事件を題材にしながら、社会の不正を告発する英雄譚にも、異常な犯罪者を追うサスペンスにも寄せ切らない。トニーの怒りには理解できる部分がある。しかし、彼が行っているのは紛れもなく人質事件です。被害者に見えた人物が加害者になり、加害者に見えた側にも別の事情がある。その白黒つかないグレーな世界こそが、この映画の最も面白いところでした。
目次
ネタバレについて
この記事では、事件の展開や終盤の人物描写を含め、作品の核心まで扱います。
あらすじ|首に巻かれたワイヤーが社会までつないでいく
トニー・キリシスは、融資をめぐる問題によって生活の基盤を失い、自分は会社に踏みにじられたと考えています。彼はディック・ホールを人質に取り、切断や逃走の動きが引き金につながる「デッドマン・ワイヤー」を装着させます。自分と人質の距離を物理的に固定し、一方だけが安全に逃げることを不可能にする装置です。
トニーが求めているのは、金銭だけではありません。自分が何をされたのかを公に認めさせ、会社側に謝罪させることです。そのため彼は、警察との交渉だけでなく、ラジオやテレビを積極的に利用します。やがて事件は、一人の男と一社の争いではなくなります。トニーを「社会に追い詰められた庶民」と見る人と、「暴力で要求を通そうとする犯罪者」と見る人が現れ、世論そのものが事件の登場人物になっていきます。
この構造が巧みなのは、トニーの訴えが広く届くほど、彼の正しさが証明されるわけではない点です。声が大きくなり、共感者が増えたとしても、人質の首に巻かれたワイヤーは消えません。映画は、社会的な不満の正当性と、それを暴力で訴える行為の正当性を、最後まで同じものとして扱いません。
テーマ|被害者と加害者を分ける線が揺らぐ
本作の中心にあるのは、「誰が悪いのか」という単純な問いではありません。むしろ、「被害者であることは、加害を正当化するのか」という問いです。
トニーは、自分を巨大な仕組みに踏み潰された側だと考えています。住宅や融資の仕組みは、個人にとってあまりにも大きく、契約や数字の言葉で説明されても、失った生活は戻ってきません。彼の怒りには、企業や金融システムに対する庶民の不信が凝縮されています。だからこそ、彼の言葉は一部の市民に届きます。トニーは突拍子もない犯罪者であると同時に、「自分もいつか同じ目に遭うかもしれない」と思わせる人物でもあります。
しかし、理解できることと、許されることは別です。人質となったディックは、トニーの怒りを生み出した仕組みそのものではありません。少なくとも、その場で銃を向けられ、首にワイヤーを巻かれ、死の危険にさらされているのは彼です。トニーがどれほど雄弁に不正を訴えても、ディックの身体はその主張の道具にされています。
ここで映画は、「実はどちらも悪くない」という安易な相対化には逃げません。トニーには傷つけられた過去があり、ディックには現在進行形の恐怖がある。両方を同時に見せることで、一方の事情がもう一方の被害を消してくれない現実を突きつけます。
CINEMOREのガス・ヴァン・サント監督インタビューでは、トニーを善か悪かのどちらかに固定せず、観客の判断を揺らす人物として捉える監督の姿勢が紹介されています。本作が興味深いのは、まさにその判断を映画が肩代わりしてくれないことです。観客はトニーに同情した直後に、その危険さを見せつけられる。ディックを気の毒に思いながらも、会社側の冷たさには反発する。その揺れが、不快なまま残ります。
「白黒つかない」という言葉は、ときに責任を曖昧にするために使われます。しかし本作のグレーは、責任がないという意味ではありません。複数の責任が重なり、一つの判決だけでは人間の感情まで整理できないという意味です。トニーの行為は間違っている。それでも、彼をそこまで追い込んだ社会の仕組みまで無罪になるわけではない。この二つを同時に考えさせるところに、本作の強さがあります。
キャラクター造形|それぞれが別の「正しさ」を背負う
トニー・キリシス|共感した瞬間に怖くなる男
ビル・スカルスガルドが演じるトニーは、理路整然とした社会運動家ではありません。怒り、焦り、自己憐憫、ユーモア、承認欲求が入り混じり、その場その場で表情が変わります。彼が一貫しているのは、自分は被害者であり、自分の話は聞かれるべきだという確信です。
この確信があるからこそ、トニーはラジオやテレビの前で強くなります。閉じた部屋の中では追い詰められた男でも、マイクを持てば社会の代弁者になったように振る舞える。ところが、その言葉が観客の共感を集めるほど、人質を利用して発言権を得ている事実が重くなります。
スカルスガルドの演技は、トニーを単なる怪物にも、かわいそうな庶民にも固定しません。笑える瞬間さえあるのに、次の瞬間には何をするかわからない。親しみやすさと危険さが同じ身体に入っているため、観客は距離の取り方を何度も変えさせられます。トニーこそ、本作のグレーを最も直接的に体現する人物です。
ディック・ホール|主張ではなく身体で被害を示す
ディックは、トニーほど多くを語りません。しかし、彼が画面に存在するだけで、トニーの行為が抽象的な「抗議」では済まないことがわかります。首に巻かれたワイヤー、制限された動き、いつ爆発するかわからない緊張。ディックの身体は、トニーの正義が別の人間に押しつけている代償を可視化します。
一方で、映画はディックを完全に無垢な象徴として美化することにも慎重です。彼は会社側の人間であり、トニーから見れば、自分を追い詰めた権力の一部です。だから観客は、彼の恐怖には同情しつつも、会社と顧客の関係については別の疑問を抱き続けます。
重要なのは、ディック個人の人格と、彼が属する組織の責任を分けて考えることです。トニーはその二つを一つにまとめ、目の前の人間に企業全体の罪を負わせます。本作は、その乱暴な置き換えを批判しながら、企業側が個人の苦境を数字に置き換えてきた可能性も同時に示します。両者は反対側に立ちながら、相手を「一人の人間」として見失う点では似ています。
M・L・ホール|アル・パチーノの存在感が権力になる
私が最も圧倒されたのは、アル・パチーノの存在感でした。出番やセリフの量だけでいえば、物語の中心はトニーです。それでも、M・L・ホールが画面に現れると、作品の重心が動きます。
その理由は、パチーノが感情を大きく見せるからではありません。むしろ、簡単には動じないこと、すべてを説明しないこと、相手と同じ温度まで降りてこないことが、権力の距離として見えるからです。トニーが必死に言葉を重ねる一方、ホールは少ない言葉と姿勢だけで「持つ者」の側に立ち続けます。
ここでアル・パチーノのスターとしてのオーラが、役柄そのものと重なります。観客は彼が登場しただけで、その人物を軽く扱えなくなる。映画内のトニーにとってM・L・ホールが巨大な存在であるように、観客にとってもパチーノは画面を支配する存在です。俳優本人が積み上げてきた重みを、企業権力の象徴へ変えてしまう配役でした。
ただし、ホールを冷酷な悪役と決めつけるだけでは、本作の面白さは失われます。彼にもまた、自分の論理と守るべきものがある。パチーノの演技は、その内側をすべて明かさないからこそ、単純な悪役以上に不気味で、同時に人間的です。
フレッド・テンプル|声を届ける者は中立ではいられない
コールマン・ドミンゴが演じるラジオDJのフレッド・テンプルは、トニーと社会の間に立つ人物です。彼の声はトニーを落ち着かせる一方で、トニーの訴えをより遠くまで届けます。つまり、事件を鎮静化する役割と、事件を拡大する役割を同時に担っています。
ここにメディアの難しさがあります。報道しなければ、トニーの訴えは社会に届きません。しかし報道することで、彼を英雄に見せたり、さらなる演出を促したりする可能性も生まれます。フレッドは傍観者ではありません。声をつなぐ行為そのものが事件に作用してしまいます。
この構造は、テレビやラジオの時代だけの問題ではないでしょう。誰かの怒りが切り取られ、共有され、支持や反発を集める現代にもそのまま重なります。ただし本作は、安易に「SNS時代を予言した」と結論づけるより、メディアに載った瞬間、人間が物語の登場人物へ変えられていく怖さを描いているように感じました。
映画技法|3:2の画面が逃げ場を狭くする
本作の画面比率は3:2(1.5:1)に設定され、一般的なワイドスクリーンよりも正方形に近い画面になっています。撮影について扱ったAmerican Cinematographerの対談でも、1970年代の写真やテレビ映像を思わせる視覚設計が語られています。
この比率は、単なる時代再現以上の効果を生んでいました。横に広がるアクションの快感よりも、人間の身体が縦に収まる窮屈さが強調されます。トニーとディックがワイヤーでつながれた場面では、二人の距離が近く、画面の外へ逃げる余白も少ない。映画全体が、首に巻かれた装置と同じように、人物を狭い範囲へ閉じ込めているように見えます。
撮影はドキュメンタリーに近い手触りを持ち、ニュース映像、現場のカメラ、映画本編の視点が重なります。観客は事件を目撃しているつもりでも、実際には何度も誰かのカメラを通して見ています。トニー自身も、自分が撮られていることを意識しながら振る舞う。すると、どこまでが本音で、どこからがカメラに向けた演技なのかがわからなくなります。
この曖昧さは、作品のテーマと直結しています。映像が増えれば真実に近づくとは限りません。異なる角度から撮られた映像は、出来事を立体的にする一方で、それぞれ別の物語も生みます。トニーはある画面では追い詰められた庶民に見え、別の画面では人質を脅す犯罪者に見える。映画は視点を増やすことで答えを明確にするのではなく、判断の難しさを増幅させます。
資料によれば、本作は20日間という短い撮影期間に、複数カメラと360度方向から撮影できる照明設計を組み合わせて作られました。効率のための方法であると同時に、俳優の動きを細かく分断せず、場の緊張を持続させる方法でもあります。結果として、整えられた劇映画というより、その場で起きている事件を偶然記録したような生々しさが残ります。
一方、編集や演出は、クライム映画としての派手な見せ場を連続させません。交渉の停滞、言葉の間、人物の表情をじっくり見せる時間が長い。この抑制が、私の感じた「ミニシアター系のガス・ヴァン・サント」らしさにつながっています。観客を興奮させてトニー側へ乗せるのではなく、少し離れた場所から見続けさせる。だからこそ、共感した直後に居心地の悪さが戻ってきます。
音の使い方も重要です。ラジオから聞こえる声は、画面に映っていない人間同士をつなぎます。同時に、顔が見えないからこそ、言葉だけが一人歩きします。テレビが人物を「見世物」に変える装置だとすれば、ラジオは人物を「物語」に変える装置です。トニーはその両方を使って自分を社会に提示しますが、広く知られるほど、本当の彼が理解されるとは限りません。
まとめ|グレーであることは、考えることをやめる理由ではない
『デッドマンズ・ワイヤー』は、犯人と被害者の立場を入れ替えて驚かせる映画ではありません。もっと厄介なのは、誰かが被害者であることと、その人が加害者になることが、同時に成立してしまう現実を見せる点です。
トニーは社会に傷つけられたのかもしれない。しかし、その怒りによってディックを傷つけてよいわけではない。会社側には説明できる論理があるのかもしれない。しかし、その論理が一人の生活を壊した事実まで消えるわけではない。メディアは事件を伝える必要がある。しかし、伝えることで事件の形を変えてしまう。どの立場にも正しさがあり、どの立場にも無責任さがあります。
私は、この答えの出なさを面白いと感じました。ガス・ヴァン・サントは、トニーを断罪するだけの映画にも、庶民の英雄として持ち上げる映画にもしていません。3:2の狭い画面、複数のカメラ、ラジオとテレビの声、そして俳優たちの抑えた演技によって、観客を判断の揺れる場所へ留め続けます。
なかでもアル・パチーノは、限られた登場時間で、トニーが戦っている「巨大なもの」を一人の人間として成立させていました。あれほどのオーラを持つ俳優を置くことで、トニーの怒りが誇大妄想だけには見えなくなる。一方で、パチーノの存在感が強いほど、トニーが目の前の人間を勝手に象徴へ変えている危うさも際立ちます。
白黒つかないから、どちらも同じなのではありません。白黒つかないからこそ、どこにどの責任があるのかを細かく見なければならない。本作が描くグレーな世界は、判断を放棄するための霧ではなく、簡単な正義に逃げないための場所でした。
参考資料
- 映画『デッドマンズ・ワイヤー』公式情報(KADOKAWA)
- CINEMORE|ガス・ヴァン・サント監督インタビュー掲載媒体
- W Magazine|Gus Van Sant on Dead Man’s Wire and the New American Fringe
- American Cinematographer|Clubhouse Conversations — Dead Man’s Wire
- Encyclopedia of Indianapolis|Tony Kiritsis Case
- History|1977年の事件報道と生中継倫理に関する記事
- Pastrami Nation|Dead Man’s Wire Review
- シネマンドレイク|『デッドマンズ・ワイヤー』先行レビュー