映画『ロングウォーク』|国家と若者と友情の先にあるもの

2025年公開の『ロングウォーク』(The Long Walk)は、スティーヴン・キングの小説『死のロングウォーク』をフランシス・ローレンス監督が映画化した作品です。決められた速度で歩き続け、最後まで残った一人だけが生きて帰れる。設定だけを聞けば、いかにもキングらしい話です。日常にもありそうな行為に残酷な規則を一つ加え、人が追い詰められていく様子を描きます。

歩き続けられなくなればおしまい。その単純な規則は強い緊迫感を生みます。ただし、同じ歩行が長く続くため、正直なところ、私は途中で少し飽きました。観客には社会の成り立ちが分からないまま、参加者は国家が作り出した恐怖にさらされます。理不尽な規則から逃げられない人々を描くところには、スティーヴン・キングらしさを感じました。

舞台となるアメリカは、かつての繁栄を失い、戦争と経済不振を経験しています。しかし、なぜ国が衰退したのか、どうして軍事政権が成立したのかはほとんど説明されません。そうした状況で政府が始めたのが、若者を歩かせるロングウォークです。少佐は、この競技が国民の労働意欲を刺激し、生産力を高めると宣伝します。

若者を歩かせ、遅れた者を射殺する。それが経済の再建にどうつながるのか、私には分かりませんでした。おそらく筋の通った政策ではなく、国民に働くことを強いるための見せ物なのでしょう。そう考えても、この社会がロングウォークを受け入れるまでの経緯が見えないため、登場人物が命を懸けて参加する動機まで説得力に欠けるように感じます。説明しないことで恐怖を生むキングの作風が、本作では一部で裏目に出たと思います。

映画が詳しい社会背景の代わりに中心に置いたのは、レイ・ギャラティとピーター・マクヴリーズの友情、そして限界に近づいていく俳優の身体でした。しかし、長時間歩く映像が続くため、私は単調に感じました。二人が助け合う理由は分かります。それでも、なぜ歩きながら言葉を交わしただけで、どちらかが死ぬ規則の中で命を託せるほどの絆が生まれるのかは、よく分かりませんでした。この国で育った二人だからこそ短い時間で結びついたのかもしれませんが、国家の背景が見えなければ、その可能性も確かめられません。

ネタバレについて

この記事では物語の設定と中盤までの展開に触れます。最後に残る人物や結末には触れません。

あらすじ|50人の若者が歩き、最後に一人だけが残る

戦争と経済不振を経たアメリカでは、毎年ロングウォークと呼ばれる競技が開かれています。参加するのは、各州から選ばれた50人の若者です。彼らは決められた速度を保ちながら、昼も夜も歩き続けます。速度を落とすと警告を受け、警告が累積した状態でさらに速度を落とすと、同行する兵士にその場で射殺されます。

休憩もゴール地点もありません。最後まで歩き続けた一人だけが勝者となり、賞金と望みを一つだけかなえてもらう権利を得ます。参加者は自分で抽選に応募しており、強制的に連れてこられたわけではありません。しかし、貧しい家庭から抜け出すには賞金が必要であり、応募しない若者は臆病者と見られます。自由に参加したように見えても、実際には国と社会によって参加するよう仕向けられているのです。

主人公のレイも、胸の内に目的を秘めて参加しています。歩き始めた彼は、明るく他人を励ますピーターと親しくなります。ただし、競技の勝者は一人です。隣を歩く友人は、同時に最後まで生き残るための競争相手でもあります。

テーマ|国家は若者の死を勤勉さにすり替える

経済政策ではなく国民向けの宣伝

ロングウォークの目的について、少佐は国民の勤勉さを取り戻すためだと語ります。翌年には生産力も上がるという説明ですが、若者が死ぬまで歩くことと経済成長の間に、具体的な因果関係は示されません。国が衰退した理由を説明せず、その責任を国民の働き方に負わせています。

そのため、ロングウォークは経済政策というより、働き続けることを美徳として国民に示す宣伝に思えます。若者は足を痛めても止まれません。止まれば怠け者ではなく、死者になります。国家はその姿を希望や愛国心という言葉で包み、国民に見せています。労働意欲を刺激するための競技という説明は作中にありますが、それは政権が主張する目的であって、映画が政策の正当性を認めているわけではありません。

ここにも、私が感じた説明不足があります。国民がなぜこの宣伝を信じるのか。家族はなぜ息子を送り出せるのか。軍人はなぜ若者を迷わず撃てるのか。登場人物にとっては当たり前の社会なので、彼らは一から説明しません。しかし、観客に与えられる手掛かりが少ないため、異常な社会を実感する前に、設定として受け入れるしかありませんでした。

ベトナム戦争の時代に生まれた物語

この設定の背景には、スティーヴン・キングが原作を書いた時代があります。『死のロングウォーク』は、キングが最初に完成させた長編小説です。キングは19歳の頃、ベトナム戦争と徴兵への恐怖を身近に感じながら書きました。本人は明確な政治的寓話を作ろうとしたわけではないとしつつ、当時の社会が作品に入り込んだと説明しています。Vanity Fair

若者が国家の都合で集められ、命令に従う兵士に殺される。家にいる人々は、その様子を中継で見る。ロングウォークは戦場ではありませんが、若者だけが死地へ送られ、それを国家が正当化する点では徴兵の恐怖と重なります。原稿は新人小説家向けの懸賞に応募されたものの不採用となり、長く引き出しにしまわれた後、1979年にリチャード・バックマン名義で刊行されました。Vanity Fair

原作が生まれた事情を知ると、国家の成り立ちが説明されない理由も理解しやすくなります。キングが見ていたのは、架空の政権が成立するまでの歴史ではなく、国がもっともらしい言葉で若者を死へ向かわせる恐怖だったのでしょう。ただし、意図が分かれば映画への不満が消えるわけではありません。長編映画ではレイたちの参加理由が物語を支える重要な要素になるため、その背景をもう少し知りたかったです。

自分で応募したから自由とは限らない

ロングウォークの残酷さは、参加者が志願者である点にもあります。彼らは徴兵された兵士ではありません。自分で抽選に応募し、選ばれて歩き始めます。少佐にとっては、それだけで本人が参加を望んだと言えるのでしょう。

しかし、選択肢が用意されていることと、自由に選べることは同じではありません。貧困から抜け出す手段が賞金しかなく、参加しなければ臆病者と呼ばれる社会では、応募しない自由は形だけです。国家は若者に命令する代わりに、自分から死の競争へ入るよう仕向けています。ロングウォークは、強制を志願に見せかける制度でもあります。

キャラクター造形|国家の背景が見えないため二人の絆も見えにくい

レイ・ギャラティは自分の目的に縛られている

レイは穏やかで、苦しむ仲間を支える人物です。一方で、ロングウォークに参加した理由を最初から明かしません。物語が進むにつれて、彼が父の死に関わる目的を抱えていることが分かります。参加の動機はありますが、長く伏せられているため、序盤ではなぜ命を懸けるのか理解しにくくなっています。

レイの動機を具体的にしたことで、物語の焦点は国家全体の問題からレイ個人の目的へ移りました。彼は父のために歩いているつもりでも、ピーターたちと過ごすうちに、自分が何を選びたいのか考え始めます。決められた道を歩きながら、父の遺志に従うことと自分の人生を選ぶことの違いに向き合う人物です。

ピーター・マクヴリーズは他人のために歩く

ピーターは明るく、周囲を励まし続けます。最後の一人しか生き残れない競技では、他人を助ければ自分が不利になります。それでも彼は、転びそうな仲間に手を貸し、気持ちが折れそうな者に声を掛けます。勝つための体力を、他人を支えるためにも使う人物です。

レイとピーターの友情は、国家が押しつける競争への反論になっています。少佐は一人の勝者を作るため、若者同士を競わせます。二人はその規則の中で、相手を脱落させるのではなく、一緒に歩くことを選びます。ただし、友情が競技の仕組みを壊すわけではありません。助けるほど別れがつらくなり、最後には一人しか残れない事実も変わりません。

同じ苦痛に耐え、目の前で仲間が死ぬ経験を共有すれば、短い時間でも親しくなることは理解できます。それでも、映画は二人の関係が助け合う仲間から互いに命を託すほどの親友へ変わる過程を、十分に見せていません。二人はほとんど歩きながら話すだけです。しかも、競技が続く限り、どちらかは必ず死にます。

この謎の国家には、そのような絆が短期間で生まれる背景があるのかもしれません。戦争で家族を失った若者同士だから分かり合えるのか、国家に人間関係まで管理されてきたため、初めて出会った仲間を強く求めるのか。映画が社会と二人の過去を描かない以上、どれも推測にとどまります。国家が若者をどう育てたのか分からなければ、二人がなぜここまで深く結びついたのかも理解しにくいのです。

脇役の動機は短い会話に押し込まれている

レイとピーター以外の参加者にも、それぞれ望みがあります。賞金が必要な者もいれば、体験を本にしたい者もいます。しかし、その事情は歩きながら交わす短い会話で示されるだけです。人物を理解した頃には脱落が迫っているため、私には多くの参加者が役割だけを与えられたように見えました。

これは登場人物に動機がないというより、映画が二人の友情に焦点を絞った結果でしょう。限られた上映時間で多くの人物を描けば、一人ずつの過去を十分に描くのは難しくなります。それでも、誰がなぜ応募したのかがもっと見えれば、この社会の貧困や同調圧力も具体的に伝わったはずです。世界の説明不足と人物描写の薄さは、別々の問題ではありません。参加者の人生が見えないため、彼らをここまで追い込んだ社会も見えにくくなっています。

映画技法|俳優の身体が説明のない世界を支える

俳優が物語の順番どおりに疲れていく

映画は物語の順番どおりに撮影されました。登場人物が脱落すると、その俳優も撮影を終えて現場を去ったため、画面の中の別れと撮影現場の別れが重なっています(Filmmaker Magazine)。最初は大勢いた若者が少しずつ減り、俳優同士も実際に別れていく。その経験は、現場に残った俳優の疲れた表情にも表れています。

監督は、クーパー・ホフマンとデヴィッド・ジョンソンが撮影全体で約350マイルを歩いたと見積もっています(GQ)。歩くふりをしているのではなく、せりふを交わしながら本当に長い距離を歩いているのです。足取りが重くなり、姿勢が崩れ、会話の間が長くなる。この社会の成り立ちは言葉で詳しく説明されなくても、競技が身体を壊していく過程には説得力があります。

自然光が逃げ場のない明るい風景を映す

昼の屋外撮影では人工照明、反射板、拡散幕を使わず、東西に延びる道路で太陽の位置に合わせて撮影しました(Filmmaker Magazine)。人工照明で画面を整えるより、強い日差しや曇り空の変化をそのまま映すことが優先されています。若者の顔には汗や疲れがそのまま映り、歩行が長引くほど景色を見る余裕も失われます。

広い農地や空が映っても、開放感はありません。彼らが進めるのは一本の道路だけで、脇へ逃げれば兵士に撃たれます。国土はどこまでも広がっているのに、選べる方向は前しかない。横長の画面は風景の広さだけでなく、その中で自由を奪われた若者の姿を見せています。

足音の工夫でも歩行の単調さは消えない

歩き続ける映画では、同じ足音が繰り返されれば単調になりかねません。音響スタッフは主要人物ごとに足音を録り、集団全体の足音を7.0チャンネルの音場として別に作りました(A Sound Effect)。大勢の靴音が周囲を満たす場面と、一人の乱れた足音が聞こえる場面を分けることで、集団の中に脱落しそうな人物がいることが伝わります。音を変化させる工夫は伝わりますが、歩行の反復による単調さまでは消せていません。

背後を走る軍用車両や突然の銃声も、歩行のリズムを壊します。会話を聞いている間も続く足音が、歩けなくなればおしまいだと観客に思い出させます。この国の歴史を説明するせりふは少なくても、国家が若者を監視し続けていることは音で伝わります。

まとめ|説明不足が意図的でも人物の薄さは残る

『ロングウォーク』は、説明しないことで異常な社会を日常として見せる映画です。登場人物は、この国がなぜ衰退し、なぜロングウォークが必要とされたのかを語りません。彼らにとっては、生まれた時からある制度なのでしょう。映画は、歩けなくなれば殺されるという理不尽な状況だけを与え、人が恐怖にさらされる姿を追います。その不気味さは、確かにスティーヴン・キングらしいものです。一方で、歩行の反復が長く続くため、緊迫感だけでは単調さを拭えませんでした。

しかし、意図的に説明を省いたからといって、私が感じた不足まで解消されるわけではありません。国家の宣伝がなぜ国民に受け入れられたのか分からず、脇役の人生も短い会話で終わります。そのため、若者が参加する理由の切実さや、脱落したときの重みが十分に伝わらない場面がありました。キングの「説明しない」姿勢と、二人の友情に絞った映画版の脚色が重なり、世界設定と人物描写の両方が薄く見えています。

一方で、一人しか勝てない規則の中で、レイとピーターが互いを支える姿には意味があります。人を競争相手としてしか見ない制度に従わない選択だからです。しかし、映画が二人の友情を物語の中心に置くほど、なぜそこまで深い絆が生まれたのかという疑問も強くなります。歩き続ける俳優の身体には説得力があります。

この国がどんな若者を生み、なぜ二人が互いに命を託すまで結びついたのか。国家の背景が見えなければ、レイとピーターの絆も見えてきません。

参考資料