映画『開戦前夜』|結局誰が悪かったのか?

そもそも、なぜ日本はあれほど無謀な太平洋戦争を始めたのでしょうか。本当は誰に責任があったのか。特定の「誰か」だけに原因を求められないのなら、何が悪かったのか。その答えを知りたくて、石井裕也監督の『開戦前夜』を観ました。

映画が描くのは、開戦の八カ月前に日本の敗北を予測した総力戦研究所です。官僚、陸海軍、民間企業から集められた若者たちは、資源、輸送力、生産力、財政などの数字を持ち寄り、アメリカとの戦争を検討します。そして、長期戦になれば日本は耐えられないという結論へ近づいていきます。

これだけ明確な警告がありながら、なぜ止まらなかったのか。映画は、軍の面目、世論、これまでに使った金、すでに失われた命、天皇への忠誠など、開戦へ向かわせた事情を一つずつ示します。しかし、私が求めていた「結局、誰が悪かったのか」という答えは出ませんでした。

個人的には、やはり陸軍と海軍の首脳たちの責任が重いと思います。その筆頭は東條英機でしょう。本作は、東條を悩みも抱えた人物として描きます。そりゃ悩んでいたでしょうよ。問題は、悩んだかどうかではありません。止めるために何をしたのか、最後に何を決めたのかです。

ネタバレについて

この記事では、物語の中盤までと、史実として知られている1941年の日米開戦に触れます。映画の結末は伏せています。

あらすじ|若者たちが対米戦の敗北を予測する

1941年4月、官僚、軍人、民間企業の若手が、内閣直属の総力戦研究所へ集められます。彼らに課されたのは、模擬内閣を作り、アメリカを中心とする諸外国との戦争が始まった場合の行方を予測することでした。

産業組合中央金庫の調査課長・宇治田洋一は、模擬内閣の首相へ指名されます。当初は軍への反感もあり、研究に積極的ではありません。しかし、各分野の担当者が持ち寄る数字を知るうちに、開戦を避けなければならないと考え始めます。

海軍少佐の村井和正は、連合艦隊の力だけでなく、艦隊を動かし続ける燃料にも目を向けます。陸軍少佐の高城源一は、欧米の植民地支配に対抗するため、日本が先に動くべきだと主張します。そこへ船舶、工業力、財政、食料の現実が重なり、「緒戦で勝てるか」と「戦争そのものに勝てるか」が別の問題だと分かってきます。

総力戦研究所には、官僚や軍人だけが集められたわけではありません。日本銀行、産業組合中央金庫、日本製鐵、日本郵船、同盟通信社などからも人材が選ばれていました。戦争は軍隊だけでは続けられないからです。金、鉄、石油、船、報道まで含めて考えなければ、国全体がどこまで耐えられるかは分かりません。JOGMECの解説

彼らは勇ましい掛け声ではなく、数字を使って戦争を考えます。その数字が示すのは、日本がアメリカとの長期戦に耐えられないという、あまりにも明確な現実でした。

テーマ|「時代の空気」では責任者の名前を消せない

敗北を予測できても、開戦を止められない

『開戦前夜』の怖さは、日本の指導者が何も知らなかったことではありません。戦争が長引けば勝てないと考える材料があり、その結論を出す人々もいた。それでも政策は変わりませんでした。

総力戦研究所の昭和16年度講義録をはじめとする関係史料は、現在も防衛省防衛研究所に所蔵されています。若者たちの研究は、後世に作られた「実は敗北を予言していた」という伝説だけではなく、当時の国家機関が実際に行った仕事でした。防衛研究所の史料目録

しかし、正しい分析があれば、権力者が従うとは限りません。陸軍は中国から撤兵すれば、それまでに払った犠牲が無駄になると考える。海軍はアメリカとの国力差を理解していても、組織として「勝てない」と言い切れない。政府は世論や経済を理由に決断を先送りする。全員が自分の立場を守るうちに、国全体は開戦へ近づいていきます。

世論は軍部の外から突然現れたのか

作中では、開戦を避けられない理由として世論や国民感情が持ち出されます。すでに多くの金と命を使った以上、いまさら中国から引けないという理屈も出てきます。

しかし、世論も、それまでに使った国費も、軍部と無関係な外部条件ではありません。1938年の国家総動員法によって、政府は人的・物的資源を広く統制できるようになりました。1940年に設置された情報局は、新聞、出版、放送、映画、演劇を指導し、取り締まる権限を持っていました。国立公文書館アジア歴史資料センターには、その制度と権限が記録されています。

政府と軍部は、世論に押されただけではありません。人、物、情報を動員する側でもありました。もちろん、それだけで新聞、財界、官僚、国民の戦争支持をすべて説明できるわけではありません。それでも、「世論が許さなかった」という言葉だけで指導者の責任を薄めることには納得できません。

一人の独裁者はいなくても、責任者はいた

当時の日本は、東條英機が一人ですべてを命令する独裁国家ではありませんでした。首相、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、外相らが会議を重ね、閣議と御前会議を通して国策を決めていました。

だからといって、誰の責任でもないことにはなりません。1941年9月6日の御前会議では、外交によって日本の要求を通せない場合、対米英蘭戦を決意する方針が確認されました。11月5日には12月初旬の武力発動が定められ、12月1日の御前会議で開戦が最終決定されます。アジア歴史資料センターの御前会議資料国立国会図書館の解説からも、開戦が具体的な会議と決定の積み重ねだったことが分かります。

「時代の空気」という言葉は、なぜ多くの人が流れに逆らえなかったのかを考えるには有効です。ただし、その言葉で、決定した人の名前まで消してはいけません。

キャラクター造形|悩む東條英機をどう見るか

宇治田洋一は判断の責任を引き受ける

宇治田は、最初から正しい答えを知っている英雄ではありません。軍に反感を持ち、自分が模擬首相を務めることにも乗り気ではありません。それでも、村井、高城、峯岸草一らの報告を聞き、異なる分野の数字を一つの結論にまとめていきます。

宇治田が担うのは、情報を集めるだけでなく、集めた情報から判断する役割です。各省庁や陸海軍が自分の担当範囲に閉じこもる一方、彼は国全体にとって何が必要かを考えます。この対比によって、実際の政府がなぜ決断できなかったのかが、さらに厳しく見えてきます。

陸軍と海軍は互いに責任を押しつける

高城は、欧米の支配からアジアを守るという大義を語ります。しかし、数字を検討するうちに考えを変えていきます。軍人であっても、現実を知れば開戦反対へ転じられる。だからこそ、上層部が判断を変えなかった理由を「軍人だから仕方がない」では済ませられません。

村井は、海軍がアメリカの国力を理解しながら、明確な反対を貫けなかった矛盾を背負います。陸軍は対米戦を海軍の問題と考え、海軍は勝てないと明言することを避ける。どちらも最終判断を相手へ預ければ、誰も止めないまま準備だけが進みます。

人間らしい東條英機は免責の理由にならない

佐藤浩市は、東京裁判の映像や従来の戦争映画で定着した東條英機像とは異なる人物像を目指しました。石井監督と相談し、迷いや苦悩を抱える人物として演じています。ORICON NEWS

確かに、東條を単純な悪人にしないことには意味があります。怪物のような一人の軍人が日本を勝手に戦争へ引きずり込んだと描けば、私たちは安心できます。自分たちとは違う特殊な人間が起こした失敗だと思えるからです。本作が描くのは、家族を持ち、迷い、状況を理解しながらも、組織の論理に従って開戦を選ぶ人間の姿です。そのほうが、同じ失敗はどこでも起こり得ると分かります。

ただし、人間らしく描くことと、責任を軽くすることは別です。東條は近衛内閣の陸相として対米譲歩に強く反対しました。1941年10月18日からは首相、陸相、内相を兼ね、政治、軍事、警察を主導する立場に就きます。アジア歴史資料センター

私には、東條だけが開戦を止められたと言い切るのは難しいです。陸海軍首脳が方針を変える、東條内閣を倒す、昭和天皇が裁可しないなど、ほかの可能性も考えられます。しかし、東條が止められる立場にいた最も重要な一人だったことは間違いありません。

創作人物の描写をめぐる争い

本作では、総力戦研究所を束ねる軍人として板倉大道少将が登場します。この人物をめぐっては、初代所長・飯村穣の孫である飯村豊と製作側が争っています。飯村側は板倉が祖父をモデルにしながら人物像を歪めたと主張し、製作委員会は特定のモデルを持たない創作人物だと反論しています。

製作委員会によると、映画版では板倉を「所長」と呼ばず、冒頭にフィクションであることを示す表示を加えました。この問題を受け、プレミア上映会も中止されました。2026年8月時点で裁判は続いており、双方の主張の当否について、司法判断は示されていません。製作委員会の声明飯村豊の主張は内容が対立しているため、映画の人物描写をそのまま史実として受け取らないよう、注意が必要です。

この争いは、本作の主題とも無関係ではありません。映画が「責任は誰にあるのか」を問う以上、創作によって特定の人物へ責任を集中させていないかも問われます。作品が批判する責任の押しつけを、作品自身が繰り返していないか。映画を評価するときに避けられない問題です。

映画技法|戦闘に頼らず、開戦の恐怖を描く

会議の言葉が戦場の代わりになる

『開戦前夜』には、戦闘場面がほとんどありません。中心にあるのは、机の上の資料、黒板の数字、会議で交わされる言葉です。それでも、戦争映画としての緊張は途切れません。

数字が更新されるたび、研究生たちが選べる道は狭くなります。石油が足りない。船が失われる。生産力ではアメリカに届かない。そこで精神論を持ち出しても、足りない物資は増えません。戦場を直接映さないからこそ、「やむを得ない」という会議の言葉が、これから失われる命へつながっていることが伝わります。

長い芝居が、正論を言いにくい空気を作る

議論の場面では、俳優たちが議論の流れを途切れさせずに演じています。発言が終わるたびにカットを切り替えるのではなく、反論を待つ沈黙、相手の表情、周囲の視線まで続けて映す。そのため、研究生が正しいことを言っていても、場の圧力によって発言しにくくなる感覚が伝わります。

「空気」は映像に直接映せません。本作は、発言をためらう時間、上官の顔色をうかがう視線、数字を示しても受け入れられない沈黙によって、それを見せます。会議の参加者が露骨に命令されなくても、自分から言葉を引っ込めてしまう。映画が描く「分かっていても止められない」は、この時間の積み重ねから生まれます。

数字を生活へ戻す家族の場面

研究所の議論だけを追えば、本作は政策を扱う会議劇で終わります。しかし、宇治田たちの家族や日常を描くことで、国力や損害という言葉が、人の暮らしへ戻ってきます。

表に記された船舶損失は、数字だけの問題ではありません。そこには乗組員がいます。徴兵や物資不足の影響を受ける家族がいます。研究生が数字を重く受け止めるのは、その数字の向こうで生活している人々を想像できるからです。これに対して、作中の指導者たちは「国威」「国策」「自存自衛」といった大きな言葉を使い、個々の犠牲を見えにくくしていきます。

まとめ|責任は一人に限られないが、責任者はいる

『開戦前夜』を観ても、私が求めていた「誰が悪かったのか」という明快な答えは得られませんでした。映画は、東條英機だけを悪人にせず、陸軍、海軍、政府、宮中、官僚、報道、世論が絡み合って開戦へ向かう過程を描きます。

その描き方には意味があります。一人を断罪して終われば、組織の面目を守るために現実を無視することや、過去の犠牲を無駄にしたくないために損失を増やすこと、誰も最終判断を引き受けないことを見落としてしまいます。

それでも、私は「時代の空気が悪かった」で終わらせたくありません。国策を決めたのは空気ではありません。会議で開戦を決めることもありません。実際に国策を決めたのは、名前と役職を持つ人間です。

陸軍と海軍の首脳たちは、勝算が曖昧なまま戦争の準備を進めました。東條英機は陸相として対米譲歩に反対し、首相になってから開戦の決定を担いました。彼一人だけに全責任を負わせるのは正確ではありません。しかし、責任を分けることと、責任を薄めることは違います。

東條だって悩んでいた。それはそうでしょう。けれど、指導者に問われるのは、悩んだ事実ではなく、最後に何を決めたかです。『開戦前夜』が答えを示さないなら、観客が史料を確かめ、自分で責任者の名前を考えなければなりません。私の答えは、東條英機を筆頭とする陸海軍首脳です。ただし、その人々だけに責任を押しつけず、彼らの判断を支えた制度と社会も見なければならない。それが、この映画を観たあとに残った結論です。

参考資料