2025年公開の『左利きの少女』(左撇子女孩)は、台北の夜市で再出発しようとする母シューフェンと、二人の娘イーアン、イージンを描いた映画です。監督はツォウ・シーチン。夜市で麺の店を始めた母、家族から離れて自分の人生を選びたい姉、大人の決まりをまだ理解しきれない幼い妹。それぞれが別の問題と、家族に言えない事情を抱えています。

私がとくに感心したのは、母娘三人に、それぞれの物語が用意されていることです。誰か一人が主人公で、残る二人がその成長を支えるのではありません。三人の物語が並行して進み、何げない会話や行動が後から別の意味を持つ。そして、それぞれの秘密が一つの家族の物語へつながっていきます。ちりばめた手掛かりをきちんと拾っていく手腕は見事です。
本作を観て思い出したのが、ショーン・ベイカーとツォウ・シーチンの共同監督作『テイクアウト』です。ただし、二作は物語も映像もそれほど似ていません。共通しているのは、社会の片隅で今日一日をどうにか乗り切ろうとする人を主人公にする姿勢です。『左利きの少女』では、ツォウが台北の夜市に暮らす母娘を物語の中心に置いています。
本作の構想は2001年に生まれましたが、当時の二人には実現が難しい規模でした。そこでツォウとベイカーは、先に低予算映画『テイクアウト』を作ったといいます。公式プロダクションノートには、この経緯が記されています。
目次
ネタバレについて
この記事は物語の中盤までに触れます。終盤で明かされる家族の秘密と結末は伏せています。
あらすじ|台北の夜市で再出発する母娘
シューフェンは二人の娘を連れ、台北へ戻ってきます。夜市に麺の店を出し、家族三人で暮らしを立て直そうとしているのです。しかし、商売は簡単ではありません。仕入れと支払いは待ってくれず、店を開けているだけでも金が出ていきます。
年長の娘イーアンは母のやり方に反発しながら、自分の生活と仕事を持とうとします。幼いイージンは、忙しい母と姉のそばを離れ、一人で夜市を歩き回ります。色鮮やかな商品、食べ物、動物、人の流れ。イージンにとって夜市は遊び場ですが、母にとっては生活費を稼ぐ場所であり、姉にとっては抜け出したい暮らしの一部でもあります。
やがてイージンは、祖父から左手を「悪魔の手」だと言われます。悪いことをする手だから使ってはいけない。その言葉を、子どもであるイージンは大人が想像する以上に真剣に受け止めます。三人の生活は夜市の中で続きますが、それぞれが家族に言えないことを抱え始めます。
テーマ|左手を縛る古い風習
「悪魔の手」という迷信
左利きそのものは、善悪とは何の関係もありません。それでも祖父は、イージンの左手を「悪魔の手」と呼び、右手を使わせようとします。ここで怖いのは、古い風習が家族の日常に当たり前のものとして残っていることです。昔からそう決まっている。皆がそうしてきた。そんな言葉に縛られ、子どもは自分の身体の一部を悪いものだと思わされます。
監督はFan’s Voiceのインタビューで、左利きを、周囲から「違う」と見られ、不当に扱われる人の象徴だと説明しています。子どもの視点を選んだのは、古い風習をまだ当たり前だと思っていない子どもの目を通して、大人の世界を見るためでした。
イージンは「悪魔の手」という比喩を、ほとんど文字どおりに受け取ります。そのため、左手がしたことと自分がしたことを切り離そうとする。そこには子どもらしい可笑しさがありますが、古い風習が子どもの考え方まで縛る怖さもあります。大人は善悪を教えたつもりでも、子どもには自分を否定する言葉として残ってしまうのです。
言えない事情が家族の中で重なっていく
本作で束縛されるのは、イージンの左手だけではありません。シューフェンもイーアンも、家族から期待される母や娘の役割に合わせ、自分の事情を隠します。相手を心配させたくない。責められたくない。自分の居場所を失いたくない。二人が黙る理由は、それぞれ理解できます。
しかし、一人が黙ると、別の誰かは事情が分からないまま判断しなければなりません。相手を思って黙るほど、家族の中に誤解が増えていきます。本作の伏線がうまく働くのは、手掛かりが単なる謎解きの部品ではなく、人物が言えなかったことの痕跡になっているからです。
終盤に向けて三人の物語が重なるとき、急に別の話が始まるわけではありません。序盤から置かれていた会話、視線、金の問題が、それまでとは違う意味を持ち始めます。伏線が回収される気持ちよさはあります。一方で、すべてがきれいにつながりすぎていると感じる人もいるでしょう。私は作り込まれた構成以上に、三人それぞれを最後まで描き続ける粘り強さに惹かれました。
夜市は家族の生活を支え、休む暇を与えない
夜市は温かい共同体としてだけ描かれません。客が来れば金になりますが、店を開けるにも金がかかります。近所の人は助けになりますが、家族の事情を周囲に知られやすい場所でもあります。明るくにぎやかだからこそ、そこで暮らす人の苦しさは人混みに紛れ、見えにくくなります。
ツォウ監督は2010年、本作の舞台となった夜市で、イージンの原型となる5歳の少女と母親に出会いました。その後も夜市へ通い、人々の生活を聞き取ったといいます。Dazedのインタビューで語られるこの製作過程を知ると、夜市が観光用の飾りではないことが分かります。店を出す人、働く人、遊ぶ子どもが同じ通路を使い、生活と商売を分けられない場所なのです。
キャラクター造形|三人全員を主人公として描く
シューフェンは母である前に働く人
シューフェンは、家族を守る立派な母として理想化されません。金の工面に追われ、娘の行動を把握できず、感情をぶつけることもあります。それでも朝になれば店の準備をし、麺を出し、支払いを続ける。母親として背負っているものは、感動的な台詞ではなく、毎日の労働によって伝わります。
だからこそ、シューフェンの判断を簡単に責められません。娘に古い価値観を押しつけてしまう場面があっても、彼女自身もまた、その価値観に縛られながら生きてきた人です。古い価値観に傷つけられた人が、同じものを次の世代にも押しつけてしまう。本作はその繰り返しを、誰か一人を悪人にして片づけることなく描きます。
イーアンは自由と家計の間に立つ
イーアンは、母から離れて自分の人生を選びたいと考えています。母に相談せずに動き、恋愛や仕事も自分で決める。一見すると、三人の中でもっとも自分の意思で生きているように見えます。
ところが、彼女は家族から完全には離れられません。妹を気にかけ、金の問題にも巻き込まれます。母への反発と家族への責任を同時に抱えているため、イーアンは「反抗的な娘」だけでは終わりません。マー・シーユエンの鋭い視線や素早い動きには、若さだけでなく、立ち止まる余裕のなさも表れています。
イージンは大人の矛盾を見つける
イージンは幼く、家族の経済や過去を理解していません。しかし、理解していないからこそ、大人が当然だと思っている決まりの奇妙さを浮かび上がらせます。左手は悪いと言われた。では、左手がしたことは誰の責任なのか。子どもの理屈は単純ですが、単純だからこそ、大人の説明の穴をまっすぐ突きます。
ニーナ・イエは、物語上の意味を先取りするような演技をしません。夜市で目を輝かせ、怖くなれば顔を曇らせる。その反応が自然なので、観客も大人の事情をいったん離れ、イージンと同じ高さから街を見ることができます。
三人は年齢も立場も違います。それでも全員が、自分の生活を守るために何かを隠し、別の誰かを傷つける可能性を持っています。だから本作では、三人のうち一人だけを主人公と呼びにくい。三人全員が主人公なのです。それぞれの筋を同じ重さで保つことが、終盤の回収を単なる仕掛けではなく、家族全体の問題にしています。
映画技法|iPhoneが子どもの目線から夜市を捉える
子どもの目線までカメラを下げる
本作はiPhone 13で撮影されました。ただし、iPhoneを使ったこと自体を売りにする映画ではありません。iPhoneを選んだのは、実在の夜市へ入り込み、イージンの目線に近い高さから撮るためです。
撮影ではiPhoneをBeastgripのケージやZhiyunのジンバルと組み合わせ、車の窓や壁にも固定しました。Fan’s Voiceの監督インタビューによれば、大きな映画用カメラでは難しい位置から撮れただけでなく、街の中で目立たず、経験の少ない出演者の緊張も抑えられたそうです。
イージンが夜市を歩く場面では、大人の顔より先に腰や手、商品が画面へ入ります。人の波は、子どもにとって壁のようです。色彩と音は楽しいのに、少し目を離せば迷子になりそうな怖さがある。子どもの高さに置かれたカメラが、同じ夜市に楽しさと危うさを同居させています。
鮮やかな光が三人の孤独を隠す
夜市には看板の色、店の明かり、食べ物の湯気、人の声があふれています。画面はにぎやかですが、人物の問題が解決しているわけではありません。むしろ、周囲が明るく動き続けるため、映画は物語の流れを止めてまで、シューフェンの疲れやイーアンの焦り、イージンの不安を説明しません。
この映画では、画面の明るさと人物の感情を一致させないことが重要です。悲しい場面を暗い部屋だけで見せず、生活の光と音の中へ置く。社会の片隅にいる人を、寂しさの象徴として切り取るのではなく、仕事をし、恋をし、遊び、失敗する人として映しています。こうして、夜市で今日一日を乗り切ろうとする人々が画面の中心に置かれます。『テイクアウト』と共通するのは、この主人公の選び方です。
三本の筋を編集でつなぐ
シューフェン、イーアン、イージンの場面は、均等に交互に並べられているだけではありません。ある人物の場面で見えた物や言葉が、別の人物の場面で意味を持つように編集されています。観客は三人について少しずつ情報を得ますが、三人全員が同じことを知っているわけではありません。観客と登場人物が知っていることの差が、心配と可笑しさを同時に生みます。
三人の物語を収束させる編集も、伏線だけを優先しているわけではありません。長く観察して集めた生活の細部を、一本の家族史として結び直しています。そのため、よくできた脚本の快感と、夜市で暮らす人をそばから見守るような実感が共存しています。
まとめ|三人の人生を脇筋にしない
『左利きの少女』の巧さは、最後に秘密が明かされることだけではありません。シューフェン、イーアン、イージンの三人を、それぞれ自分の事情を持つ主人公として扱い続けることです。母の苦労を描くために娘を記号にせず、娘の成長を描くために母を障害物にしない。幼いイージンも、家族を和ませるだけの存在ではありません。
三人の物語が別々に進むからこそ、つながったときに家族の形が見えます。家族は、同じ事情を共有する人々ではない。むしろ、互いに知らないことを抱えたまま、生活費と食事と狭い部屋を共有する人々です。本作は、三人の言動のずれを伏線として使い、終盤へ向けてその意味を一つずつ変えていきます。
『テイクアウト』と『左利きの少女』は、それほど似た映画ではありません。それでも、社会の片隅で今日一日を乗り切ろうとする人を主人公にする姿勢は一貫しています。本作でツォウ・シーチンが描くのは、台湾の夜市で暮らす母娘です。三人の事情を脇筋にせず、それぞれの秘密を一つの家族の物語へ結び直していく。その構成を最後まで組み立て切ったことに、ツォウ・シーチン監督の確かな手腕を感じました。