2000年公開の『ブレイカウェイ』(Blinkende lygter)は、マッツ・ミケルセンとアナス・トマス・イェンセン監督による長年のタッグの出発点です。とはいえ、本作のマッツはまだ主役ではありません。4人組の一人として強い印象を残しますが、物語の中心にいるのは、40歳を迎えて犯罪生活に嫌気が差した男です。

強盗、拳銃、大金を持った逃走という導入からは、クライム・アクションが始まりそうに見えます。ところが、私が面白いと思ったのは、事件の行方よりも、人生をこじらせた大人たちが青春をやり直すような時間でした。逃走車が止まり、森の中にある荒れた宿へ入ってから、映画の関心は「どう逃げ切るか」から「この4人は一緒に暮らせるのか」へ移っていきます。
そこには、学生寮や秘密基地で過ごすような、ほのぼのとした可笑しさがあります。ただし、その温かさのすぐ隣には激しい暴力があります。笑っていたはずなのに、急に笑えなくなる。その落差を含めて、後のイェンセン監督作品へ続く個性が、すでに本作で形になっています。
目次
ネタバレについて
この記事では、物語の設定と中盤までの出来事に触れます。結末と終盤の展開は伏せています。
あらすじ|逃走車が止まり、4人の共同生活が始まります
4人の犯罪者は、ボスから命じられた強盗で大金を手にします。しかし、その金を届けずに持ち逃げし、国外へ向かうことにします。ところが車は森の中で故障します。仲間の一人が負傷していたため、近くにあった廃業した宿で休むことになります。
最初は短期間だけ身を隠すつもりです。ところが、主人公は宿を直し、ここで別の人生を始めることを考えます。仲間たちは犯罪以外の生き方を知らず、主人公自身も立派な計画を持っているわけではありません。それでも、壊れた建物を掃除し、必要な物を買い、食事をするうちに、一時的な隠れ家だった宿が、彼らの暮らしの場へ変わっていきます。
車が動かなくなったことで、逃走も止まります。同時に、事件が次々と起こる展開も止まります。強盗映画の登場人物たちが、田舎の宿で暮らすコメディーへ迷い込む。この切り替わりが、本作を単なるクライム・アクションでは終わらせません。
アナス・トマス・イェンセンは、本作で長編監督としてデビューしました。短編『Valgaften』でアカデミー賞を受賞した後、自ら脚本を書いた長編を初めて監督しています。本作で始まった残酷な出来事と可笑しな日常を同じ画面に置く作風は、その後の『フレッシュ・デリ』『アダムズ・アップル』にも続いていきます(デンマーク映画協会)。
テーマ|大人になれなかった4人が家族を選び直します
犯罪をやめるより、暮らしを始める方が難しいです
主人公は40歳の誕生日を迎えます。人生を変えたいと考える年齢になった男に、仲間たちが贈るのは銃です。この場面だけで、彼らがどれほど世間の「普通」から外れているか分かります。付き合いは長くても、相手が本当に必要としているものを考えられません。
その4人が宿で始めるのは、模範的な更生ではありません。反省を語り、過去を清算し、健全な市民になるわけではありません。まず一つの場所に留まり、毎日の作業を分け合います。修理や食事といった小さな行動が、犯罪仲間だった4人を生活の仲間へ変えていきます。
私には、この時間が大人の青春に見えました。彼らは若返るのではありません。子どもの頃に持てなかった安全な仲間関係を、大人になってから作り直しています。立派な家族になる必要はなく、互いの欠点を抱えたまま同じ場所にいられればいい。本作の温かさは、彼らが善人になることよりも、その不器用な試みにあります。
「普通」になっても、依存や暴力は消えません
森で出会う地元の人々も、4人を正しい道へ導く模範的な市民ではありません。酒に依存する医師や、差別的な発言をする狩人は、田舎の社会から少し外れた存在です。だからこそ、薬物に依存する仲間や、すぐに銃へ手を伸ばす仲間と関係を結べます。
薬物が酒へ、人を撃つ衝動が狩猟へ移れば、法律に触れない生活には近づきます。しかし、本人の問題がなくなったわけではありません。デンマーク映画協会の教材は、アメリカ映画のギャングとデンマークの国民的喜劇に登場する田舎者を本作が組み合わせていると分析しています。都会の犯罪と田舎の習慣は正反対に見えても、依存や暴力を別の形で抱えている点ではよく似ています。
だから本作は、4人が「普通の人」になる話ではありません。自分たちが何とか暮らせる普通を、周囲のはぐれ者たちと一緒に作る話です。犯罪生活から離れることよりも、毎日を共に過ごせる相手と場所を得ることが、彼らにとっては大きな変化になります。
穏やかな笑いのそばで、撮影中に牛が実際に撃たれます
本作の暴力は、あまりに唐突で極端なため、反射的に笑ってしまうことがあります。イェンセン監督も、極端な人物と極端な状況を笑いに使い、暴力はこの男たちが生きる世界の一部だと説明しています。一方で、すべてを誇張された冗談として受け取ることはできません。
とりわけ驚いたのが、マッツ・ミケルセンの演じる男が牛を撃つ場面です。妙にリアルだと思ったら、本当に牛を殺して撮影していました。監督によれば、獣医が規定に従って撃ち、その後は食肉処理場へ運ばれたそうです。それでも公開時には、娯楽映画の笑いのために実際の牛を殺す必要があったのかと批判されました(Filmcentralenの公開時資料)。
今なら、同じ方法で撮影するのは難しいでしょう。事情を知った後では、あの場面を荒唐無稽な暴力として笑うことも難しくなります。本作のほのぼのとした雰囲気は確かに魅力ですが、残酷さを忘れさせるためにあるのではありません。安心した瞬間に暴力が入り込み、観客がどこまで笑えるのかを試してきます。
キャラクター造形|マッツが演じる脇役は笑いと恐怖を生みます
主人公は40歳で自分の人生を選び始めます
主人公は4人組のリーダーですが、これまではボスに命じられた仕事をこなしてきました。仲間へ指示を出すことはできても、自分がどのように暮らしたいのかは決めてきませんでした。40歳の誕生日と恋人との別れをきっかけに、犯罪生活を終わらせたいと考えます。
ただし、宿で新しい生活を始めようとする態度にも、仲間を勝手に動かす癖が残っています。過去を捨てたいという気持ちは本物でも、すぐに別人になれるわけではありません。彼が学ぶ必要があるのは、宿の経営方法よりも、仲間と相談しながら一緒に暮らす方法です。
マッツ・ミケルセンは、話し合う前に暴力に走る男を演じます
マッツ・ミケルセンが演じるのは、不機嫌になると相手を殴り、銃を手にする粗暴な仲間です。物語を進める主役ではありませんが、彼が現れると場面の空気が変わります。黙って相手を見つめる時間が長く、その沈黙が何を引き起こすのか分かりません。爆発した後には、本人も感情を扱えないまま取り残されたような表情を見せます。
マッツ本人は、この人物にとって暴力は一つの言語だったと振り返っています。小さな問題でも徹底的に殴りつける。それが彼の知っている対処法だからです。また、本作はマッツが初めて出演したコメディーでもあり、彼は作品を「美しく詩的で、腹を抱えるほどおかしい」と評しています(Eurochannelのインタビュー)。
後のイェンセン監督作品では、マッツが物語の中心を担う機会が増えていきます。本作ではまだ脇役ですが、可笑しさと恐ろしさ、乱暴さと寂しさを一人の中に同居させる演技は、すでに完成しています。長年のタッグが始まる一作として見ると、監督がマッツのどこに魅力を感じたのかがよく分かります。
異なる弱さを抱える4人だから、一緒に暮らせます
ほかの二人も、薬物や食事に頼り、自分の感情を言葉にできません。映画は4人それぞれの子ども時代を短い回想で見せます。過去の傷が現在の行動を説明しますが、暴力や依存を許す理由にはしていません。むしろ、外から見れば可笑しな行動の奥に、育ちきれなかった子どもの部分が残っていることを示します。
4人は互いを治療しません。欠点を理解して、正しい言葉をかけることもありません。それでも、弱さの現れ方が違うため、同じ場所で役割を担えます。誰か一人が立派だから集団を救うのではなく、全員が不完全だから一緒にいられる。この関係が、宿を家へ変えていきます。
映画技法|冷たい森が少しずつ居場所に変わります
横長の画面が4人の距離を見せます
デンマーク映画協会の作品データによれば、本作は35mmフィルムのシネマスコープで撮影されました。横に広い画面は、犯罪アクションの迫力を出すだけでなく、食卓や荒れた宿にいる4人を一度に収めます。誰が誰の隣に座り、どれほど離れているのかが分かるため、共同生活の変化を台詞だけに頼らず伝えられます。
撮影を担当したエリック・クレスは、2001年のロバート賞で撮影賞を受賞しました。作品自体も、インターネット投票による観客賞を受賞しています(デンマーク映画協会の受賞記録)。森の風景を西部劇のように広く見せながら、画面の中では中年男性4人が生活に戸惑っている。広い画面と、4人が取り組む日常のささやかな作業との落差が、作品の可笑しさにもつながっています。
金色の宿と冷たい森が、4人の未来を予告します
映画は冒頭で、陽光に包まれた宿を見せます。その後に続くのは、雨に濡れた都会と、冷たく濃い色で撮られた冬の森です。最初に暖かな宿を見ているため、4人が入った荒れた建物にも、いつか人が集まる場所になるかもしれないと感じられます。
森は逃走を妨げる不便な場所であると同時に、犯罪生活から4人を隔てる場所でもあります。都会では大金や銃が行動の基準でした。森では、壁を直すことや食事を用意することが一日の仕事になります。画面の色と物語のテンポが変わることで、彼らの関心が逃亡から生活へ移ったと伝わります。
夢のような回想が、大人の中に残る子どもを見せます
子ども時代の回想は、現在の場面とは撮り方が異なります。出来事は誇張され、演技にも童話や悪夢のような不自然さがあります。4人の過去を現実的な心理劇として詳しく説明するのではなく、本人たちの記憶に焼き付いた感情だけを短く見せているようです。
この回想があることで、現在の4人が単なる乱暴な犯罪者には見えなくなります。ただし、映画は過去の傷を描いても、現在の加害を帳消しにはしません。回想の可笑しさと痛ましさを同時に残し、現在のほのぼのとした共同生活にも、子ども時代の傷が影を落としていることを伝えます。
まとめ|4人は帰る場所を自分たちで作ります
『ブレイカウェイ』は、強盗と逃走から始まります。しかし、私が惹かれたのはクライム・アクションの部分ではなく、人生をこじらせた大人たちが、遅れて青春を始めるような時間でした。彼らは正しい大人になれません。それでも、犯罪しかすることがなかった4人が、同じ建物を直し、食事をして、毎日を過ごすようになります。
ほのぼのとしたコメディーとして楽しめる一方、暴力の扱いには現在では受け入れにくい部分もあります。とりわけ牛の場面は、リアルに見えただけではなく、実際に牛が撃たれていました。その事実を知ると、イェンセン監督の笑いが、人を傷つける行為と冗談の境目にあったことも分かります。
マッツ・ミケルセンはまだ脇役です。それでも、観客が笑ってよいのか迷うような人物を身体全体で演じ、監督との長年のタッグを予感させます。壊れた人間を善人へ作り替えるのではなく、壊れたまま一緒にいられる場所を探す。本作の居心地のよさは、その不完全さを無理に直さないところにあります。