中国の現場で著者が見たもの
2021年の夏、上海で暮らしていたダン・ワンは、都市生活の閉塞感から離れるため、友人2人と自転車の旅に出ます。向かったのは、中国南西部の貴州省でした。貴州には昔からの言い回しがあります。雨の降らない日が3日と続かず、3尺として平らな土地はなく、3枚の銀貨を持つ家もない。それほど貧しい土地だったという意味です。著者によれば、中国で4番目に貧しい省です。
本書”Breakneck”は、この貴州への旅から始まります。

ところが5日間走ってみると、道路はよく整備され、自転車で移動するには申し分のない環境でした。世界の高い橋を高さ順に並べると、そのうち45本ほどが貴州にあります。大規模なデータセンターも建設され、高速鉄道も開通しました。かつて交通の便が悪かった地域から、市場や上海のような大都市へアクセスしやすくなっています。建設した時点では「どこにも通じていない橋」であっても、橋ができれば、その先に経済活動が生まれる。著者はそう説明します。
ただし、当然ながら代償もあります。貴州省と地方政府は、こうしたインフラ建設で生じた巨額の債務を抱えています。橋によって生まれる経済活動だけでは、その返済を十分に賄えていません。
著者が中国へ渡ったのは2017年初めです。調査会社ガベカル・ドラゴノミクスのテクノロジー・アナリストとして、香港に2年、北京に2年、上海に2年。2023年に中国を離れるまでの6年間を過ごしました。本書は、その間の見聞をもとに書かれています。
著者が最も気に入った都市は上海でした。地下鉄網が充実し、市内の多くの場所から駅へ容易にアクセスできる。旧フランス租界の並木道が残り、公園も増え続けている。公園の数は、2020年の約500か所から2025年には約1,000か所になりました。
著者は、こうした変化をサンフランシスコやロサンゼルスでの生活と対比します。米国の都市で目にする変化は、近所の店が入れ替わるといった程度にとどまる。一方、中国では過去40年、あるいは直近10年だけを見ても、都市の景観や交通網が目に見えて変化してきた。その環境で暮らしていると、「次も変わるだろう」という感覚を持つようになる。
著者が中国で強く感じたのは、経済統計だけでは捉えにくい、この変化への期待でした。
エンジニア国家と法律家社会
著者が中国での6年間から持ち帰ったのは、現地の印象だけではありません。中国と米国の違いを捉えるための、一つの仮説です。
米国のフーバー研究所での講演で、著者はその問題意識を次のように説明しています。今後数十年にわたって重要になる米中関係を、私たちは社会主義対資本主義、新自由主義対専制主義といった政治思想の言葉で捉えがちです。しかし、こうした概念の意味も歴史のなかで変化してきました。そこで、少し違う角度から両国を見てみようというわけです。
著者が提示するのが、中国は「エンジニア国家(engineering state)」であり、米国は「法律家社会(lawyerly society)」であるという対比です。エズラ・クラインとデレク・トンプソンによる共著『Abundance』で論じられているアメリカが競争力を失った理由がここに直結しています。
根拠の一つとして挙げるのが、政治指導者の経歴です。中国の最高意思決定機関である政治局常務委員会では、ある時期、9人の委員全員が工学の学位を持っていました。しかも、彼らが学んだのはソ連型の工学です。土木、機械、熱工学、水利など、ダムや発電所を実際に建設・運用するための分野でした。そうした教育を受けた人々が、国家の意思決定を担っていた。
一方の米国について、著者は「大統領を目指すなら、まずイェール・ロースクールへ行く必要があるように見える」と冗談めかして表現します。初代ジョージ・ワシントンからエイブラハム・リンカーンまで、最初の16人の大統領のうち13人が法律家でした。直近10人の大統領では5人がロースクールを卒業しています。上院にも法律家出身者が多くいます。
著者は、この違いを政策姿勢にも結びつけます。エンジニアは、社会の問題に対して何かを建設することで答えようとする。景気が悪化すれば橋や鉄道を建設し、新たな事業を立ち上げる。それに対して法律家は、権利、手続き、規制、訴訟を通じて事業に制約をかける役割を担います。著者によれば、米国で後者の力が強まったのは1960年代以降です。環境影響評価や訴訟といった制度が整備され、大規模な開発計画に対する制約が強まっていきました。
貴州の橋や上海の公園は、この見方に従えば、「まず建設する」ことを重視する政治体制から生まれたものとして理解できます。
ただし、著者自身も、この仮説だけで中国を説明できるとは考えていません。中国は専制国家として理解することもでき、その政治体制が決定的な影響を与えていることも認めています。「エンジニア国家」は、中国を見るための一つの視点にすぎない。著者自身、文字どおりの分類としてではなく、両国の違いを考えるための枠組みとして使ってほしいと説明しています。
そのうえで、著者はエンジニア国家の利点を評価します。インフラが整備され、都市が変化し続けること自体には大きな価値がある。
もちろん費用はかかります。コンクリートの生産には環境負荷があり、三峡ダムのような大規模事業では膨大な数の住民が移転を余儀なくされました。それでも、生活環境が継続的に改善される社会では、「未来は現在より良くなる」という期待を持ちやすい。著者は、とりわけカリフォルニアの人々が、その感覚をもう少し取り戻してもよいのではないかと語っています。
原子力発電所、橋、高速道路といったインフラを建設してきたことは、中国共産党が体制への支持を維持する基盤の一つにもなりました。政府が人々の求めるものを実際に提供してきた、と説明できるからです。
社会をエンジニアリングするとどうなるか
問題は、エンジニアリングの対象がインフラだけにとどまらないことです。同じ発想が社会そのものに向けられると、事態は大きく変わります。
フーバー研究所での講演で、著者はエンジニア国家の利点を説明したあと、こう続けています。
中国の問題は、社会のエンジニアもいることです。彼らはどうしても、人を建材の一つのように扱ってしまう。好きなように壊し、組み直してよいものとして扱ってしまうのです。
(引用の訳は本稿の書き手によるものです。以下も同じです)
著者が例として挙げるのは、少数民族への収容政策と宗教・文化への介入、戸籍制度、そして一人っ子政策とゼロコロナです。一人っ子政策とゼロコロナは、ともに政策目標そのものが数字で表現されています。
子どもは1人。感染者はゼロ。
数値目標が絶対化され、その達成過程で生じる個人への影響が後景に退いた。著者はそこに、社会を工学的な最適化の対象として扱う発想を見ています。
なかでも本書が詳しく扱うのが、一人っ子政策です。始まりは1970年代末でした。毛沢東の死後、中国の指導者となった鄧小平は、人口増加が経済発展を妨げることを懸念していました。
そこへ登場したのが、ミサイルの制御工学を専門とし、サイバネティクスにも詳しい軍事科学者の宋健です。宋健は、ミサイルの軌道を数学的に制御するのと同じように、人口の推移もモデル化して制御できると考えました。そこから導き出されたのが、夫婦1組につき子ども1人という解でした。著者は、この発想を「エレガントな解」と表現しています。
しかし、数式として簡潔であることと、社会政策として妥当であることは別です。中国の公式統計によれば、35年間で3億件を超える中絶が行われ、1億人の女性と2,500万人の男性が不妊手術を受けました。この数字には自発的なものも含まれ、強制された件数だけを示しているわけではありません。それでも、政策が極めて大規模に実施されたことは変わりません。著者は、取り締まりがとりわけ農村部の女性に集中したとして、これを人道上の惨事と呼んでいます。
著者の問題提起は、国家の能力そのものに向かいます。人口を数理的な最適化問題として捉える発想があり、その政策を社会全体へ強制できる行政能力があったからこそ、一人っ子政策は実行できた。国家の実行能力は、高ければ高いほどよいとは限らないのではないか。中国で6年間暮らした結果、著者は「国家能力が過剰になる場合もある」と考えるようになったと述べています。
中国政治と経済を扱うポッドキャストChinaTalkでは、さらに踏み込んでいます。中国共産党は、一人っ子政策によって「4億人の出生を回避した」と主張してきました。しかし著者によれば、この推計を受け入れない人口学者は少なくありません。中国の出生率は、一人っ子政策が始まる以前の1970年代からすでに急速に低下していました。そのため、一人っ子政策による出生率低下への追加的な効果は限定的だった一方、甚大な人権侵害を伴ったと評価する研究者もいる、と著者は紹介しています。
複数の書評も、本書がこうした人的犠牲を曖昧に扱っていない点を評価しています。これは重要です。
「エンジニア国家」という言葉は、中国のインフラ建設能力を説明するだけではありません。インフラを数値目標と最適化によって設計する発想と、人口や社会を同じような最適化の対象として扱う発想が、同じ政治体制のなかで共存しうることも示しています。著者は、中国の強さを説明するために提示した枠組みを、そのまま中国の危うさを説明するためにも使っています。
評価は割れている
本書の現地報告については、書評でも比較的高い評価がそろっています。議論が分かれるのは、「エンジニア国家と法律家社会」という枠組みです。中国の建設力と米国の停滞を、本当に指導層の職業的背景から説明できるのか。主な反論は三つあります。
第一は、歴史からの反論です。経済学者でブログ「Noahpinion」を書くノア・スミスは、法律家が政治の中心にいた19世紀から20世紀の米国が、実際には大量のインフラと産業を生み出したことを指摘します。大陸横断鉄道、フォード、GM、州間高速道路、郊外住宅。当時から政治指導層には法律家が多くいましたが、建設や工業化は止まりませんでした。
米国の政治評論誌The Republicのメアリー・ジュリア・コックも、同じ問題を歴史から指摘します。19世紀前半に米国を訪れ、『アメリカのデモクラシー』を書いたトクヴィルは、すでに法律家を米国で最も有力な階級の一つとして描いていました。その時期は、米国が急速に工業化していた時期でもあります。だとすれば、1960年代以降に米国の建設能力が変化したとしても、「法律家が政治の中心にいること」だけでは説明できません。
第二は、発展段階からの反論です。発展途上の国では、成長のために資源を動員し、インフラを整備する必要があります。一方、豊かになった国では、既存の資源をどう配分し、権利や環境をどう調整するかが重要になります。この変化は、政治家が工学部出身か法学部出身かとは関係なく起きるのではないか。スミスは、これは豊かな国に共通する現象かもしれないと指摘します。
英国の書評誌Literary Reviewに寄稿した経済学者リンダ・ユーも、本書が最も説得力を持つのは、現代中国を19世紀末の米国と比較する部分だと評価しています。主要国がサービス業中心の経済へ移行するにつれて建設や製造の比重が低下するのであれば、中国と米国の違いは国家の性格ではなく、経済発展の段階によるものかもしれません。
第三は、東アジアの反例です。これは「エンジニア国家」という仮説に、最も厳しい問いを突きつけます。
経済学者タイラー・コーエンは著者との対談で、製造業に強く、質の高い社会基盤を築いてきた他の東アジア諸国を挙げました。台湾、韓国、シンガポールです。これらの国や地域では、必ずしもエンジニア出身の政治家が統治してきたわけではありません。シンガポールのリー・クアンユーも法律家でした。
コーエンは、こう問いかけます。
シンガポールは、挙げた国の中でおそらく最もうまくやっています。中国よりはるかに豊かで、中国に手本を与えました。効いているのがエンジニアだと考えるべき理由は何でしょうか。東アジアであること、そしてこれらの地域に付随するいくつもの事実のほうではないのですか。
著者は、日本の指導層にも法律家が多いと応じ、香港を統治していた英国の官僚も例に挙げます。そのうえで、中国が近隣の東アジア諸国よりはるかに大規模な成果を上げてきたこと自体が、エンジニアという要因の重要性を示していると主張します。
これに対してコーエンは、一人あたりの指標を持ち出します。
中国ははるかに、はるかに貧しいのです。一人あたりの製造業生産では、これらの国のほうがずっとうまくいっています。
この論点では、コーエンの指摘には説得力があります。中国の人口は台湾のおよそ60倍、日本の11倍あります。国家の統治方法が経済的な成果につながっているかを見るのであれば、人口規模の影響を強く受ける総量だけでなく、一人あたりの成果を見る必要があります。
著者もその後、総量による比較を続けるのではなく、説明の軸を変えます。中国の特徴は、共産党が作り上げた官僚制度と、そのなかで働くインセンティブから理解したほうがよいのではないか、と議論を移すのです。
さらに、東アジア諸国との違いを「社会そのものをエンジニアリングする度合い」に求めます。出生数を抑制する政策は、日本、韓国、台湾にもありました。しかし、中国ほど強制的な政策を農村部まで徹底した国はありません。感染症対策も東アジア各国で行われましたが、中国のゼロコロナ政策ははるかに強力でした。
つまり著者は、中国を近隣諸国と分ける特徴を、単純な「建設能力」から、国家が社会へ介入する強度へと移して説明します。これは、前の章で見た一人っ子政策やゼロコロナの議論とつながっています。中国の特殊性は、インフラを建設する能力だけではなく、同じ工学的な発想を社会や人間にまで適用できる国家能力にある。そう考えれば、「エンジニア国家」という枠組みには、なお説明力が残ります。ただし、少なくとも「中国が近隣諸国より多くを成し遂げたのだから、エンジニア出身の指導者が原因だ」という論証は弱くなります。
重要なのは、こうした批判をしている評者たちも、本書そのものを低く評価しているわけではないことです。コーエンは本書をその年の最良の一冊に挙げてもよいと評価し、スミスも中心的な仮説には疑問を呈しながら、重要で刺激的な本として推薦しています。
仮説には疑問がある。しかし、本は読む価値がある。本書への評価は、この二つが両立しています。
もう一つの説明——プロセス・ナレッジ
ここまで見てきたように、「エンジニア国家と法律家社会」という仮説には有力な反論があります。ただし、著者は以前から、中国の製造業の強さについて別の説明も提示してきました。自身のサイトに掲載した長文「技術はどう育つか」(How Technology Grows)で論じている、プロセス・ナレッジ(process knowledge)です。この議論では、政治指導者の職業的背景は問題になりません。
著者は、技術的な知識を大きく三つに分けます。一つは、道具や機械そのものに組み込まれている技術です。料理なら、鍋、フライパン、コンロにあたります。二つ目は、文章として記録できる知識です。料理ならレシピです。そして三つ目が、文章だけでは十分に伝えられず、実際の作業を繰り返すことで身につく知識です。
設備の整った厨房と詳細なレシピを与えられても、料理経験のない人が熟練した料理人と同じものを作れるわけではありません。製造業でも同じです。半導体のウェハーをどう保管するか。クリーンルームへどう持ち込むか。工程ごとの微妙な条件をどう調整するか。こうした知識の多くは、実際に製造を続けるなかで蓄積されます。
これがプロセス・ナレッジです。マニュアルや設計図だけでは完全には記録できず、現場の技術者や労働者の経験として蓄積される知識や技能を指します。
そして、この知識は製造を続けることでしか維持できません。工場がなくなり、人が離れれば、設備や設計図だけでなく、そこに蓄積されていたプロセス・ナレッジも失われていく。
著者は、この見方を米国の製造業にも当てはめます。製造拠点を海外へ移転すると、単に工場や雇用が失われるだけではありません。量産時の問題を解決する経験や、生産規模を拡大する際の知識も失われます。自動化装置や工作機械の分野で強い国に、製造業を国内に維持してきた国が多いのは偶然ではない、と著者は考えます。製品を設計する技術者が、実際の製造工程と継続的に接することができるからです。
著者はこの考え方から、中国の今後についても比較的強気です。経済ニュース番組Odd Lotsでは、中国経済には多くの問題があり、成長も鈍化していると認めたうえで、それでも製造業と技術は進歩し続ける可能性が高いと述べています。理由は、すでに膨大なプロセス・ナレッジが蓄積され、それを維持するための投資も続いているからです。
中国の経済は減速していますし、経済にも政治にもあらゆる問題があります。それでも彼らは製造と技術では前に進み続けます。製造のプロセス・ナレッジを持っていて、それを押し進める投資も持っているからです。
著者がすでに起きている例として挙げるのが、自動車産業です。中国メーカーの競争力向上によって、ドイツをはじめとする欧州の自動車産業が圧力を受けている。今後、その影響は東アジアの他国や米国にも広がる可能性があると著者は予測します。
軍事や安全保障については専門外だと断ったうえで、より明確に見えているリスクとして、西側諸国の製造業への影響を挙げています。中国の技術力が高まり続ければ、米国中西部や欧州各地の製造業がさらに縮小し、それが政治的な問題にも発展する可能性がある、という見方です。
では米国はどうすべきなのか。著者が最初に挙げるのも、プロセス・ナレッジへの投資です。半導体だけでなく、EV用バッテリーや電子部品などについても、国内で実際に製造を続け、暗黙知を蓄積する能力を高める必要があると主張します。
ここで重要なのは、この説明には「国家がエンジニア的かどうか」という条件が出てこないことです。問われているのは、製造を続けているか。その経験が蓄積されているか。そして、そのための投資が継続しているかです。「エンジニア国家」という議論が統治者の属性に注目していたのに対し、プロセス・ナレッジの議論は、生産現場に蓄積される経験へ焦点を移しています。
ただし、これによって政治や制度の問題が消えるわけではありません。著者自身が重要な条件として挙げているのが、「投資が継続すること」です。中国では、国有銀行、地方政府、産業政策がその投資を支えています。何に長期的な資金を投入するかは、国家の制度や政策と切り離せません。
また、プロセス・ナレッジは台湾や韓国にも蓄積されています。したがって、この概念だけでは「なぜ中国が他の東アジア諸国と異なるのか」までは説明できません。
それでも、中国の製造業の強さを説明するという目的に限れば、プロセス・ナレッジのほうが「エンジニア国家」という大きな仮説より説得力があります。理由は、説明しようとする範囲が狭いからです。エンジニア国家という仮説は、橋、高速鉄道、都市開発、製造業、さらには社会政策まで、一つの枠組みで説明しようとします。一方、プロセス・ナレッジが説明するのは、製造業に強い国が、なぜその強さを維持しやすいのかという問題です。対象を限定しているぶん、歴史や他国の事例とも整合させやすい説明になっています。
結び
本書は、中国で何が起きているのかを知るための本として、高い価値があります。著者は2017年から2023年まで中国に住み、都市や工場を訪ねながら、その変化を自分の目で見てきました。貴州の山間部から上海まで、現地で見聞きしたことの記述が、本書の最も強い部分です。この点については、「エンジニア国家と法律家社会」という仮説に批判的な評者からも高く評価されています。
一方、その経験を説明するための中心的な仮説については、十分に実証されたとは言い難いでしょう。米国は歴史的に法律家が多い社会でありながら、大規模な工業化を実現しました。台湾、韓国、シンガポールは、エンジニア出身の政治指導者を必要とせず、強い製造業とインフラを築いています。そして、中国と米国の違いは、指導者の出身分野ではなく、経済発展の段階によるものだという説明も成り立ちます。
したがって、「エンジニア国家と法律家社会」は結論として受け入れるより、中国と米国の違いを考えるための仮説として読むほうがよいでしょう。本書に最も鋭い疑問を投げかけたコーエン自身が、同時に本書を強く推薦していることも、その読み方を象徴しています。
書評で繰り返し指摘されている弱点もあります。一つは、「では米国は何をすべきなのか」という処方箋が十分に具体化されていないことです。もう一つは、中国についての記述に比べ、米国側の分析が薄いことです。米国の停滞を説明する決定的な答えを求めると、物足りなさが残るかもしれません。
一方、プロセス・ナレッジという考え方には、本書を離れても応用できる価値があります。たとえば、自社について考えることもできます。
自社は現在も、重要な製品や工程を自ら作り続けているでしょうか。この10年で外部へ移した工程はないでしょうか。その工程を長年担ってきた人が退職したとき、設備や手順書には残らない知識まで一緒に失われていないでしょうか。設計図やマニュアルは残っているのに、以前と同じ品質や効率では作れなくなっていないでしょうか。
こうした問いへの答えは、企業ごとに異なります。外部から簡単に判断できるものでもありません。しかし、本書を読み終えたあとに残るものとしては、「中国はエンジニア国家なのか」という大きな命題より、こうした具体的な問いのほうが実用的かもしれません。
本稿執筆時点で邦訳は出ていません。英語版は米国のW. W. Nortonと英国のAllen Laneから2025年8月に刊行され、288ページです。
中国語を使いながら現地で6年間暮らした著者が、中国の都市、工場、政策をどう見たのか。その記録を読みたいのであれば、十分に面白い本です。一方、「米国はなぜ作れなくなったのか」という問いに明確な答えを求めるなら、期待には届かないかもしれません。本書の価値は、その答えそのものより、中国と米国を見るための新しい仮説を提示し、それを検証する材料を大量に与えてくれることにあると思います。
参考リンク
- Breakneck: China’s Quest to Engineer the Future(W. W. Norton)
- 著者による本書の紹介
- How Technology Grows (a Restatement of Definite Optimism)(Dan Wang)
- The Real China Model(Dan Wang and Arthur Kroeber、Foreign Affairs)
- Tyler Cowen との対談記録(Conversations with Tyler)
- Noah Smith による書評(Noahpinion)
- Mary Julia Koch による書評(The Republic)
- Linda Yueh による書評(Literary Review)
- Jordan McGillis による書評(City Journal)
- Dylan Gyauch-Lewis による書評(The Sling)
- Asian Review of Books による書評
- Brad DeLong による書評
- ChinaTalk での著者インタビュー
- Odd Lots での著者インタビュー
- フーバー研究所での講演